除夜の等価交換

真摯夜紳士

除夜の等価交換

 人類が金銭に価値を見出すようになって、約5000年。

 貝殻や穀物から金属貨幣に変わり、紙幣が普及し、今やデジタル通貨の時代へ。

 金は、あればあるだけ良い――とされる。

 無くて困ることがあっても、ありすぎて困る人は珍しいだろう。

 本来は、金そのものが目的ではなく、欲しい物や価値ある体験を得るための道具であったはずだ。

 それが、人によっては預金通帳に書かれた数字が心を安定させ、生きる指針となっていた。

 変わり続ける金という物に、人は怒り、喜び――また、狂わされていく。

 今宵、二人の男のように。



 薄暗い事務所の蛍光灯は、まるで命が尽きかけているかのようにチカチカと瞬いていた。

 壁には角が折れたカレンダーが無造作に貼られ、12月31日のらんに赤いマジックで『仕事納め』と殴り書きされている。

 時計の針は夜の7時を回り、冷え切った室内はタバコの匂いが漂っていた。ブラインドの隙間から深々と雪が降り始めている。


 来客用テーブルを挟んで、二人の男が向かい合い座っていた。

 一人は黒シャツにサングラスを首に引っ掛けた男、げん。つい先日40歳を過ぎたばかりで、彫りの深い顔に無精ひげが目立つ。左手の薬指には銀のリングが光り、口元の古い傷が彼の過去を物語る。

 もう一人は、そんな玄を慕う達治たつじ。30代半ば、角刈りの頭に安物のスーツを着崩し、冬にもかかわらず汗で湿ったシャツが背中に張り付いていた。


 玄はテーブルの上にスーツケースを置き、カチリと錠を外した。中には、バラバラと一万円札が敷かれている。おそらく200枚以上は入っているだろう。


「玄のアニキ、これ……マジですか? こんな大金、どこから」


 達治の声は震え、その視線はスーツケースの中に釘付けだった。自然と指に力が入り、爪先を白くさせる。

 玄はニヤリと笑い、タバコを取り出して火をつけた。ライターの炎が一瞬、彼の強面こわもてを照らし、古傷を浮かび上がらせる。


「心配するな達治。こいつは汚ねぇ金じゃねぇよ。俺が何年もかけて貯めたもんだ。どこにでもある、ただの万札――だがな、これから面白いことになるぜ」


 玄の声は低く、楽しげだったが、その笑顔には裏の世界を知る者特有の冷たさが潜んでいた。

 金、一万円、札束。

 達治は人生で見たことのない大金を目の当たりにし、魅せられるように唾を飲み込んだ。


$$$


 事の始まりは大晦日の朝。

 世間が年末商戦や特番で賑わう中、玄と達治は事務所に呼び出されていた。

 社長から押し付けられた急ぎの仕事――顧客帳簿の整理と発注依頼――は、零細企業らしい雑多な業務だ。けれども降って湧いた案件だろうと、納期は絶対で、ミスは許されない。ましてや、お得意様たっての要望とあらば尚更だ。


 ベテラン社員である玄は、午前中で帳簿を片付け、夕方には各所への発注依頼も済ましていった。達治は玄の指示に従い、書類をコピーしたり、電卓で数字を叩いたりしていたが、どこか上の空である。


「やっと終わりっすね。こんな年末まで働いて、ここんところマジで貧乏くじっすよ。競馬で負けたばっかだし……」


 達治がボヤくと、玄は白い煙を吐きながら鼻で笑った。


「お前、まだギャンブルしてんのか? いくら趣味だからって生活費まで使うなよ」


 達治は図星を突かれ、言葉に詰まる。

 学生の時分から無類のギャンブル中毒。だが勢い任せな浪費癖は直ることを知らず、一時は借金まで作り自己破産寸前に追い込まれた。そんな達治を拾い、丸富商事で一人前まで育てあげたのが玄だ。


「玄のアニキ。なんか美味い話とか転がってないですかね」

「……仕方ねぇな。そんなにふところが寂しいってんなら、俺が小遣い稼ぎさせてやるよ」


 玄は立ち上がり、胸ポケットからナイロン製の白い手袋を取り出し、指に通した。まるで医者か泥棒だ。不思議がっている達治を他所に、事務所の奥に置かれた古い金庫に近づいていく。


「まさか……マジっすか?」


 玄は慣れた手つきでダイヤルを回し、黒く重い金庫の扉を開けてしまった。

 何年も会社に尽くし、すきうかがってきたのは、今日この時の為。社長が手癖で金庫を開けていたのを見逃さず、頭の中で繰り返し暗証番号を覚えていたのだ。


「い、いやいやアニキ! さすがに会社の金に手を付けるのはヤバいですって! バレたら首が飛ぶどころじゃ――」


 狙い通り。金庫の中には、現金と権利関係の書類が詰まっていた。

 額にして一千万は下らない。それは銀行帯封のある新札ではなく、継ぎ足し増えていった金だった。玄は一束を取り出し、口角を上げながら眺める。


「今さら遅い。お前も共犯になってもらうぜ」


 そうして玄は、テーブルの上に百万の束を乗せ、自身のスーツケースも取り出した。

 玄が用意した大金と、金庫の札束。


 ややあって、はてと達治は首を傾げる。

 どうして玄は金を持ってきたのだろう。金庫から盗むだけなら、スーツケースだけで良かっただろうに。

 疑問符を浮かべている間にも、玄は金庫内の札束をテーブルに並べていく。


「これから俺らがやるのは、鑑定と入れ替えだ」

「……は?」

「どの業界にもマニアってのはいるもんでな。当然、一万円札にも希少価値のある古紙幣や、プレミア紙幣なんて物があんのさ。達治も『ギザ十』くらいは知ってんだろ」

「あ~! 子供の頃に集めてましたよ、俺」

「そうか。ちなみに昭和28年に発行されたギザ十の最高買取価格は――6万円だ」

「6万!? 10円が?」

「いいか達治。世の中にはな、価値を求める人間もいるってこった」


 達治はのどを鳴らした。たった10円に6000倍の価値がつくのなら――はたして一万円札は、いくらになってしまうのか。


「俺にはな、この金庫にあった札束が『当選不明の宝くじ』に見えるのさ」


 玄がシニカルに笑う。なるほど言い得て妙だと達治は思った。これ以上の美味い話はないだろう。

 達治の好きなギャンブルと決定的に違うのは、元手が掛からないという点だ。つまりノーリスク、ハイリターン。またの名を完全犯罪とも言う。


 玄の巧みな言葉に、達治の目は一瞬で貪欲な光を宿した。仕事の時ですらしない真剣な眼差しに。


「アニキ。でも俺、鑑定とかやったことないっすよ?」

「なぁに簡単な話だ」


 玄はスーツケースから、四つ折りにされた一枚のメモ用紙を取り出した。それをテーブルの上、達治の手元へと滑らせる。


「ほらよ。お前専用のカンニングペーパーだ。この札束の中から、価値のある紙幣――例えば、珍しい製造番号や、発行年のレアな物を見つけ出す。それを俺のスーツケースに入ってる『普通の万札』と入れ替える。そうすりゃ誰にもバレやしねぇよ。いちいちチェックなんざしないだろ」


 達治は自分の財布に入っている紙幣を思い浮かべた。確かに、わざわざ製造番号を見たりはしていない。銀行から引き落とす、おつりとして金を受け取る。そこに価値を見出したりなど、するはずもなかった。

 まるで競馬やパチンコの奥深さを知った時のように、新しい扉が開かれていく。


 達治が慌ててメモを見ると、そこには玄の達筆な文字で、探索すべき番号のパターンが箇条書きにされていた。


『ゾロ目(例:777777)』

『キリ番(例:100000)』

『サンドイッチ(例:122221)』

『階段(例:123456)』

『AA券(記号の頭と末尾が同じアルファベット。AやZだと希少)』


 まるで宝探しの地図だ。あるいは、スロットマシンのリーチ目表にも似ている。


「お前はメモにある通りの『数字の並び』だけを探せ。頭を使う必要はねぇ。ただひたすらに、絵合わせパズルだと思って枚数をこなすんだ」

「へへっ、これなら俺でも出来そうだ。アニキは何を?」

「俺は達治が見終わった物から『エラー品』を探す」


 玄は懐から愛用のブラックライトを取り出し、その場で青く光らせた。その姿は宝石商のような、はたまた裏家業の職人にも見えた。


「エラー?」

「印刷ズレ、インクのにじみ、裁断ミス、あるいは紙そのものの欠損。こいつらは素人の目じゃ見逃す微細な違和感だ。だがな、見つけりゃデカいぞ。番号なんて目じゃねぇ値がつくこともある」

「へぇ……印刷ミスなんてあるんすか。天下の銀行が」

「人間や機械が作るもんに完璧はねぇよ。一億枚に一枚、神様の気まぐれが混ざる。俺達は、その気まぐれを金に変えるんだ」


 玄は手元の一万円を取り上げ、頼りない蛍光灯の明かりに透かせた。


「さっさと始めるぞ。俺達以外に誰もいない、今夜が勝負だ」


 部屋には、紙幣をこすり合わせる乾いた音だけが響き始めた。シュッ、シュッ、シュッ。外の雪は激しさを増し、窓ガラスを叩く風の音が、時たま唸り声のように聞こえる。だが、今の二人にはそんなものは耳に入らなかった。世界には今、このテーブルと、千枚の紙幣しか存在していないかのようだった。


 達治の視界は、福沢諭吉の肖像と、右下に印字された褐色の記号だけに絞られている。最初の一束目。百万円分、百枚。

 達治は集中を切らさないよう、丹念たんねんに番号を確認していく。

 LB482910RA――ハズレ。

 CY850224DD――ハズレ。

 FC193857VC――ハズレ。

 単調な作業だ。だが、不思議と飽きはこない。めくるたびに『次こそは』という期待が脳を刺激する。それはスロットマシンのレバーを叩く感覚に酷似こくじしていた。どれだけ外れても、次の一回転でジャックポットが出るかもしれないという幻想。


 一方、玄の作業は精密で、静謐せいひつだった。彼は一枚の紙幣を数分かけて凝視する。鑑定士の見る世界では、一万円札は金ではなく、インクの盛り上がりや紙の繊維が織りなす『工芸品』となる。肖像画の瞳の光沢、透かしの鮮明さ、余白のバランス。玄は息を止め、微細なノイズを探す。彼の指先は、まるで外科医のように繊細に紙を扱っていた。


 三十分ほどが経過した頃だろうか。事務所の暖房は効きが悪く、足元から冷気が這い上がってくる。だが二人の額には脂汗が滲んでいた。

 金に触れ続けることへの興奮と、罪悪感、そして欲望。それらがない交ぜになり、体温を異常なまでに上昇させているのだ。

 指先の水分が紙幣に奪われ、カサカサになっていく。インク独特の酸っぱいような匂いが鼻孔から離れない。


 その時だった。


 突如として、事務所の電話が鳴り響く。


 静寂が、鋭利な刃物で切り裂かれたようだった。二人の手が、同時に凍りつく。心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がり、達治は持っていた一万円を取り落としそうになった。年末、それも深夜の事務所に掛かってくる電話など、ろくな用件であるはずがない。


「……アニキ」


 達治が掠れた声でささやく。顔面からは血の気が失せ、土気色になっていた。


「静かにしろ」


 玄は達治を片手で制し、にらみつけるように電話機を見据えた。

 コール音は執拗しつように続く。留守電に切り替わる気配はない。

 警察か? 警備会社か? まさか、金庫を開けたことがセンサーでバレたのか?  いや、この金庫はアナログだ。警報装置などついていない。

 だとしたら――


 玄は意を決し、ゆっくりと受話器へと手を伸ばした。

 深呼吸を一つ。腹に力を込め、普段通りの声を絞り出す。


「……はい、丸富商事です」

『おお、玄か! こんな遅くまで、ご苦労さん』


 受話器から漏れてきたのは、予想に反して間延びした、野太い声だった。


「社、長」


 玄の背筋に、氷柱を突っ込まれたような寒気が走った。


「……ええ、帳簿の整理に少々手間取ってまして」

『いやぁ悪いね、大晦日まで働かせてしまって。実はな、今近くまで来てるんだよ』

「近く、と言いますと……?」

『ビルの通りだよ。妻が頑張ってる社員二人に差し入れを持って行けと、うるさくてな。年越し蕎麦そばを買ってきたんだ』


 玄の顔色が変わった。驚きに見開かれる目。

 ビルの下。一刻の猶予ゆうよもない。数分後には、ここへ着いてしまう。


「ありがとうございます。それでは後ほど」


 玄は努めて冷静に答え、受話器を置いた。その瞬間、彼の動きは弾丸のように加速した。


「やべぇぞ達治、社長が来た! もうエレベーターに乗ってる!」

「ええっ!? オヤジが!? ど、どうすんすか、これぇ!」


 達治がパニックを起こし、椅子から転げ落ちそうになる。

 無理もない。テーブルの上には、金庫から出した一千万と、玄が持ち込んだ二百万が、選別作業の途中で無惨に散乱している。

 どう見ても通常の業務風景ではない。見られれば一巻の終わりだ。横領未遂、あるいは窃盗の現行犯。


「隠せ! 全部だ。テーブルの下に放り込め!」

「は、はいっ!」


 二人は獣のように動いた。一万円の山を両手で押し流し、玄のスーツケースへと手当たり次第に放り込む。綺麗に並べる余裕などない。雪崩なだれのように押し込み、札が折れるのも構わず詰め込む。一枚でも床に落ちていれば命取りだ。

 達治は這いつくばり、机の下、椅子の影、部屋の隅々に目を光らせた。

 玄はスーツケースを閉じ、その上に読み終えた新聞紙や古いカタログを積み上げ、カモフラージュする。


「達治、帳簿だ。お得意の仕事してる振りでもしとけ!」


 玄が叫び、自分も席に着く。達治は震える手で帳簿を広げ、パソコンの電源を入れた。


 ガチャリ。

 ドアノブの回る音が、慌ただしい二人の耳まで届く。


「いやぁ、降るねぇ今日は。ホワイトアウトしそうだ」


 社長は雪を被った厚手のコートを叩きながら、両手に提げたコンビニの袋を揺らして入ってきた。恰幅の良い威厳いげんのある姿。玄以上の強面が赤らんでさえいなければ、恐怖の対象として映ったかもしれない。いつになく上機嫌な素振りは、どこかで一杯引っ掛けてきた後だからか。


「お疲れ様です、社長」


 玄が立ち上がり、引きつりそうになる頬を抑えて迎える。

 達治は立ち上がることもできず、座ったまま強張った笑顔で会釈するのが精一杯だ。膝が笑っているのを悟られないように、机の脚に押し付けている。


「二人とも、本当に良くやってくれるよ。これで我が社も安泰だな。ほら、年越し蕎麦と、あと熱い缶コーヒーだ。少し休憩しようじゃないか」


 社長がドサリと袋をテーブルに置く。そのテーブルクロスの直下、スーツケースの中には、大量の現金が無造作に隠されている。

 社長の視線が、ふとテーブルの下に向けられた気がした。

 達治の喉がヒュッと鳴る。


「社長。レンジで蕎麦を温めてきますので、ゆっくりしていてください」

「おお、すまんね。ところで玄、その手……」


 他のことに気を取られ、すっかり忘れていた。

 普段はしていない、ナイロン製の白い手袋をしたまま。

 しかし玄は努めて冷静にポーカーフェイスを崩さなかった。


「ここのところ末端冷え性でしてね。乾燥対策も兼ねて手袋をしているんです」

「そうか、特に今日は冷えるものな」


 そこからの時間は、玄と達治にとって永遠ともいえるような拷問だった。

 来客用テーブルで、湯気の立つカップ蕎麦をすする三人。

 出汁の香りが漂うものの、ほとんど達治は味を感じなかった。


 社長はズルズルと音を立てて麺を啜りながら、来年の展望や、孫が生まれた話、最近の健康診断の結果などを延々と語り続ける。


 玄は相槌あいづちを打ちながらも、その視線は鋭く社長の挙動を監視していた。

 もし社長が立ち上がり、金庫の方へ歩き出したら――もし、スーツケースの端から一万円札が見えてしまったら。

 玄の右手は、ポケットの中のブラックライトを固く握りしめていた。そんな最悪の未来は避けたい。だが、追い詰められれば、人間は何をするか分からない。


「ふぅ、温まった。ん……おや?」


 不意に、社長が視線を床に向けた。


「あの、椅子の下に落ちてる紙、なんだね?」


 社長が指差したのは、先ほど玄が渡した、鑑定用のメモ用紙だった。

 パニックのあまり、隠し損ねていたのだ。

 あそこには『ゾロ目』だの『エラー』だの、業務とは無関係な単語が並んでいる。見られれば怪しまれる。社長が腰を浮かせ、それを拾おうと手を伸ばす。

 まずい。

 達治が動こうとするより早く、玄の手が動いた。


「ああ、これは……発注書の書き損じです。すみません」


 社長の指がメモに触れようとした瞬間、横から玄がメモを拾い上げ、くしゃりと握り潰した。


「そうか。まあ、あまり根を詰めすぎるなよ。ミスも出やすくなるからな。さて私は帰るから、事務所の戸締りだけ、しっかりな」

「はい、お気をつけて。良いお年を」

「オヤジ、良いお年を」

「……あのな達治、ここでは社長と呼ぶように言っとるだろう。仕方のない奴め。玄、引き続き息子の世話を頼むよ」

「任せてください。きっちり教育しときますよ」


 社長は満足げに頷き、コートを羽織って出て行った。

 パタン、とドアが閉まる。足音が廊下に響き、やがてエレベーターの稼働音が遠ざかっていく。完全な静寂が戻ってくるまで、二人は石像のように動かなかった。


「……死ぬかと思った」


 達治が崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。全身から力が抜け、指先が震えている。


「全くだ。寿命が縮んだぜ」


 玄も大きく息を吐き、額の冷や汗を手の甲で拭った。だが、その瞳には再び、獲物を狙う獣のような鋭い光が宿り始めていた。


「邪魔が入っちまったが、再開だ。今ので厄落としは済んだと思え」

「アニキ、まだやるんすか……? もう心臓持たないっすよ」

「馬鹿野郎。ここまで来て引けるか。社長が帰ったってことは、もう朝まで誰も来ねぇって保証書をもらったようなもんだ。ここからはノンストップで行くぞ」


 スーツケースを開け、再び一千万の山を作る。

 先ほどの恐怖というスパイスが効いたのか、二人の集中力は研ぎ澄まされ、異様な高まりを見せていた。

 もはや、ただの金勘定ではない。運命との戦いだ。


 夜の11時。

 作業は佳境かきょうに入った。達治の目つきが変わっていった。最初は玄の手伝いという意識だったが、次第に『俺が見つけてやる』という狩人の目に変貌へんぼうしていく。紙をめくるリズムが加速する。


「あった……!」


 達治の声が弾んだ。震える指先が掴んだその札には、『123456』と印字されている。


「アニキ! これ、どうっすか!?」


 玄が目を細める。


「これは『階段』だな。しかも昇り龍だ。状態も良いし値はつくだろうな」

「っしゃあ!」


 達治は拳を握りしめた。脳内でファンファーレが鳴り響く。

 さらに一時間後、今度は玄が低く唸った。


「……見ろ、達治」


 玄がピンセットで摘まみ上げた一枚。パッと見は普通の一万円札だ。だが、玄がライトの角度を変えると、違和感が浮かび上がった。


「福耳だ」

「福耳?」

「紙の四隅の一角、裁断されずに余分な紙片が残ってるエラーだ。折り込まれていて気づきにくいが、広げると耳みたいになってるだろ?」


 確かに、右上の角に小さな紙の出っ張りがある。


「こいつは高いぞ。コレクターが血眼になって探すやつだ」


 玄はその一枚を、まるで骨董品でも扱うかのように丁寧にフィルムへと収めた。

 それからも、二人は憑かれたように作業を続けた。時折、遠くの寺から除夜の鐘が聞こえてくる。百八つの煩悩を払う鐘の音。だが、この部屋に渦巻く煩悩は、鐘の音ごときでは払拭できそうになかった。むしろ、鐘の音がカウントダウンのように聞こえ、彼らを急き立てる。


$$$


 気がつけば、窓の外が白み始めていた。

 ブラインドの隙間から、青白い光が差し込み、室内の埃をキラキラと照らし出す。

 雪はいつの間にか止み、澄み渡った空気が朝を告げていた。初日の出だ。ビルの谷間から昇る太陽が、雪化粧した街を黄金色に染め上げていく。その光は、薄汚れた事務所の奥まで届き、テーブルの上の札束を神々しく輝かせた。


「終わったな……」


 達治が大きく伸びをして、首をポキリと鳴らす。全ての札束の確認が終わった。達治が見つけた『階段』や『キリ番』が数枚。玄が見つけた『福耳』などのエラー紙幣が二枚。そして『777777』のゾロ目も一枚含まれていた。これは豪運といっても差し支えない成果だ。たった一晩の、それも元手ゼロの労働対価としては、破格すぎる額になるだろう。


 玄は手早く、しかし正確に、元の札束を作り直した。抜き取った枚数分だけ、あらかじめ用意した普通の紙幣を補充し、金庫へと戻す。ダイヤルを回し、重い扉を閉める。金属音が響き、完全犯罪の成立を告げた。


「さて、配当の時間といこうか」


 玄はスーツケースを開け、抜き出した『お宝』が収められたファイルとは別に、何枚か一万円を取り出した。レア紙幣の売却はネットオークションで行うため、即金ではない。そのため、達治にはその推定売却額の半分相当を、玄が立て替えて現金で渡す手はずになっていた。


「ほらよ。お前の取り分だ」


 達治は万札を受け取り、おうぎのように開いてみせた。何人もの福沢諭吉と渋沢栄一が達治を覗いている。昨日の朝までは、財布に千円札が数枚入っているだけだった自分が、金持ちになった気分だ。


「い、いいんすか? こんなに」

「約束だ。お前が手伝ってくれなければ、社長が来た時も対応できなかったしな。ありゃあ危ない橋だった。お年玉だと思って受け取ってくれ」


 玄は首に下げたサングラスを掛け直し、ニヤリと笑った。


「仕事は終わりだ。帰って寝るなり、好きにしろ」

「あ、ありがとうございます! 玄のアニキ、一生ついていきます!」


 達治は深々と頭を下げた。

 事務所を出ると、外はりんとした冷気に包まれている。新年の朝日が眩しい。吸い込む空気は冷たく、肺を浄化してくれるようだ。達治は厚くなった財布を握りしめた。

 これがあれば、何でもできる。

 ふと、通りの向こうを見ると、駅前のパチンコ店の前に長蛇の列ができているのが見えた。  


 新装開店、新春初売り、全台高設定。派手な赤と金ののぼりが風にはためき、開店を待つ男たちの熱気が湯気のように立ち昇っている。

 達治の足が、自然とそちらへ向いた。パブロフの犬のような条件反射だ。自分には金がある。目と鼻の先にはパチンコ屋がある。なら、行くしかない。この金を元手にすれば、もっと増やせるかもしれない。今の達治には間違いなくツキがある。社長にもバレず、レア紙幣も引き当てた。この流れに乗れば、倍に、いや三倍に――


 その時。 昔、玄に拾ってもらった時の言葉が、達治の脳裏に蘇った。


『金は使ってこそだが、あくまでも欲しい物や価値ある体験を得るための道具だってことを、忘れんなよ』


 いつだったか、仕事終わりの居酒屋で、酔った玄が呟いていた言葉だ。そして、別れ際の玄の背中。彼は金を大量に持ちながらも、それに執着していなかった。ただ淡々と、道具として扱い、対価を支払う。彼は金に振り回されるのではなく、金を支配していた。


 達治は立ち止まる。

 パチンコ店から流れてくる軍艦マーチの音が、急に色せて、虚しく聞こえた。

 もし今、この店に入れば、また『金そのもの』を追いかけることになる。増えるか減るか、ただのデジタルの数字の変動に一喜一憂し、脳汁を垂れ流し、結局は何も残らない時間を過ごす。

 それは、あの薄暗い事務所で、必死に紙切れをめくっていた数時間と何が違うというのか。


 俺は、何のために金を手に入れたんだ?  不安を消すためか? 快楽のためか?  違う。

 もっと他の、何かを得るために金はあるはずだ。


 達治はパチンコ店から背を向けた。逆の方向へ、一歩を踏み出す。

 腹が減っていた。昨日の昼から、まともな物を食べていない。社長の蕎麦は味もしなかった。


「……たまには高くて美味いもん、食いに行くかな」


 独り言が白い息となって、朝の光に溶けていく。

 老舗のすき焼き屋か、それとも回らない寿司屋か。あるいは、少し遠出して温泉旅館に泊まるのもいいかもしれない。

 懐の重みは変わらない。だが、達治の中での価値は、無機質な数字の羅列られつから、確かな温もりが感じられる切符へと変化していた。


 達治は新雪を踏みしめ、朝日に向かって歩き出した。

 キュッ、キュッ、と鳴る新雪の音が心地よい。

 その足取りは、ここ数年で一番軽やかで、どこか誇らしげだった。

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