第5話 氷解への一手、そして招きの手。

 ジローとアンナの空中戦は、ローカルニュースで話題となっていた。羽を生やした男と、針に包まれた女の対決。ネットに上がった記事は、あまりにも他人事で、スポーツ記事のような、「そこに人格がない」ような文章であった。

 ギフテッドが能力を発現させ、お互いに戦うといった事象は、あまり大きく取り沙汰されることはない。そもそも、身体が変化するほどの能力を持つギフテッドは稀有な存在である。そして、ギフテッドの間では、お互いに戦う意味はないということを、長い歴史の中で知っている。回復能力も高く、相手を打ち負かす前に、相手の傷も自分の傷も引いていき、戦いに終わりが無くなるからである。

 しかし、ギフテッドの中にも、暴力を用いなければ物事を解決できない、と考える人々がいる。そのような人たちは、「試合」や「決闘」のような手加減ではない、本気の殺し合いを行う。自らの持てる能力を用い、一撃必中で相手の頭部を破壊する、と言うものである。


 ジローは、「殺し合い」をする側の人間であった。


 いや、「せざるを得なかった」と言うべきか。


 ジローは、事務所でアンナとの空中戦を思い出していた。言葉に表せない、しかしはっきりとした言葉のようなものが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。アンナが成長していたこと、未だ針の姿をコントロールできていなかったこと。そして。

「……殺してやれなかった」

 小声で漏らしたが、漏らすべきではなかった言葉。言ってしまったその言葉が、余計なことに、頭の中を駆け巡り、離れなくなってしまった。

 何もない一点を見つめていると、次第に焦点が合わなくなる。ぼんやりとしているのに、はっきりと、はっきりと。言わなければよかった言葉が駆け巡る。

「ジローってば」

 声の主に振り向くと、そこにはカサネがいた。

「またボーッとして。大丈夫なの?」

「……お節介は嫌いだ。放っておいてくれ」

と、事務所を後にしようと、玄関に向かった。

 しかし、カサネが先回りし、大手を広げてジローを止めた。ジローは眉間に皺を寄せ、額に手を置いた。

「子供っぽいぞ」

「どこ行くつもりなのさ」

「……外の空気を吸いたいだけだ」

 カサネの眉間に皺がよる。当然である。ついこの間、突然事務所を出ていったあとに針のむしろにされたばかりである。

「……そりゃあ、まだ知り合って少ししか経ってないよ。でもさ、少なくとも、アタシはジローくんのこと友達だと思ってる。ダメかな」

「友達って、息苦しくなってるヤツを止める人間のことなのか」

 カサネはその言葉に一瞬目を細め、歯を食いしばったが、すぐに毅然とした顔になった。

「そうだよ」

 ジローの死んだ目が、カサネの凛とした目を見つめ返す。しばらくの睨み合いが続いた末、ジローはカサネを押し退け、玄関を後にした。カサネは目を伏せ、つまらなさそうに溢した。


「協力してくれって言ったの、ジローの方じゃん」


 実際、カサネの言葉は間違っていなかった。イチロウとの一件のあと、密かに行動を始めた「カマキリの仮面の男」の動向を追跡しようと考えたジローは、二人に再度接近し、協力を仰いだ。ジローはイチロウの一件で、カサネたちの考えに同調した。助けられる人を目の前にして、拳を握るのではなく、その手を開き助けを求める人の手を取る。きっと、彼女たちならそれができる。ジローはそう確信していた。

 しかし、ある意味で彼女らを利用しているという自覚もあった。彼女たちは、必ず何かしらのトラブルに首を突っ込む。そしてそれが「霧島の誰かが関わっている」ならば、それ以上、ジローにとって好都合なことはない。麻薬探知犬の代わりとして、二人を使っている。その自覚が時折、ジローの胸をチクリと刺すのだった。


 G3フォースの事務所である安アパートは、川縁に立っている。フェンスを隔てた向こう側には、桜並木と土手があり、ランニングをしているスタイリッシュな中年男性、無茶な自転車運転をしている小学生、球技に興じる人たちで賑わっている。しかし、季節は冬。景色自体はこれといって美しくはない。桜は葉を落とし、冷たい風が肌を撫でていく。

 ただ。真赤な太陽が全てを橙に染め、眩い川面を生み出しているのだけは、ひどく体に染み入ってきた。ジローは夕日と川面の煌めきにやられた。ゆっくりと、瞬きを繰り返すたびに。郷愁と、己の無力さが襲いかかる。しかし、それは今のジローにとっては安らぎとなった。


「なーに黄昏てんのさ」

振り向くと、ニット帽を被り、黄色のダウンジャケットを着たトーコが立っていた。手には、お菓子が詰まったレジ袋。

「着込みすぎやしねーか?」

「私、寒がりなの」

トーコが近寄ると、離れるように歩き始めるジロー。トーコは微笑みを湛えて、ジローを追いかける。ジローは、背中からトーコの様子を感じ取り、ため息混じりに歩き続けた。

「お前もカサネに負けず劣らずだな」

「まー、あの子の友達やってるくらいだからね。ジローくんにとっちゃウザいかもねー」

「……ウザいとは言ってない。ただ」

振り返り、トーコを見つめたジローは、トーコの微笑みに口をつぐんだ。それは、トーコの怪訝な表情を引き出しただけだった。そこから言葉はひとつも出てくることはなかった。

 突然、トーコが大口を開けて笑い出した。いつもどこか斜に構えたような、ともすれば冷たい雰囲気を纏った彼女が、そのように笑うのを、ジローは初めて見た。数秒呆気に取られたあと、ようやく「笑われている」ことに気づいた。ジローはその場をさっさと立ち去ろうとしたが。

「ちょっと待ってよ!そんな怒らなくていいじゃん」

と、トーコが微笑みながら、またも追いかけてきた。

「やっぱりお節介だお前ら。俺は君たちと友達になった覚えはない。利害が一致した、そうじゃないのか」

 ジローには、カサネとトーコの感情がわからなかった。志を理解できても、心の底までは読めなかった。彼女らがジローに向ける柔らかな目線も、ジローにとっては違和感でしかなかった。

「やっぱ、そう思ってたんだ」

トーコは微笑みを崩さずにジローを見つめ返した。悲しみや、疑いの感情は一切見えない。寧ろ、確信を得て安堵の表情を浮かべているようであった。今度は、ジローの表情が疑問に歪んだ。

「やりづらいなら、そう言ってくれていいよ。なーんかぎこちないなあって思う時あったし」

「だから、そうは」

「友達だって、いろんな距離があるんだよ」

 ジローは目を丸くした。トーコからも、自分に対して「友達である」という認識でいたことを、今、気づいたのだ。

「今まで友達いなかったわけじゃないでしょ?イチロウさんとか……あ、あの人はお兄さんか」

「……いない」

「へ?」


「俺に……『友達』と呼べるやつはいない。『仲間』も」


 鋭い眼光でトーコを睨みつけるジロー。事実、彼に友人などはいなかった。彼の中の明るい記憶は、イチロウ、そしてアンナと出会った幼少期までであった。霧島の思惑に振り回され、誰が味方で、誰が敵かわからない環境に20年近く置かれていたことを思えば、彼が良好な関係を築くことができる人物は極々わずかであった。どのような環境にいても、霧島の影響力は大きなものである。ギフテッドに関わる医療設備に置いて、霧島と関わりのないものは殆どなく、つまりジローの動向は微細なことでも漏れる可能性がある。

 心を閉ざすことが、ジローにとって、そしてアンナやイチロウにとっても安全を確保するための最も簡便な手段であった。だからこそ、アンナとイチロウに強い執着心を抱くのも、当然のことであった。


 だがそこへ。カサネとトーコである。彼女たちは、ジローの心へするりと飛び込んできた。全く何の関係もなかったところから、イチロウの起こした事件に共に関わるようになり、最後には、共闘することとなった。ジローにとっては、全く予想になかったことであった。まったく無防備で戦う女子二人。自分とはまったく違う、遠回りに思える方法で、「事件を起こした人」を救おうとする。ジローは呆れつつ、自分が、自分たちがなし得なかったことを、苦しみながら成し遂げようとする姿に、次第に惹かれる自分がいることに、気づいていた。


「いるじゃん、ここに」


 言葉に釣られ、顔を上げると、ニコリと笑っているトーコ。その笑顔はとても柔らかく、しかし、どこか悪戯っぽい。次第に、トーコの頬が桃色に染まっていく。

「……ほんと朴念仁だよねジローくんって。言わせっぱなしかよ」と、照れくさそうに頭を掻くトーコ。

「ほら、事務所行こうよ。お菓子買ってきたよ」

手に持っていた、レジ袋を見せ、また微笑むトーコ。戸惑いつつ、トーコと足並みを揃えて歩いていく、ジロー。トーコがぶら下げているレジ袋を、ヒョイ、と取り上げた。

 トーコは何も言わなかったが、その微笑みが、笑みへと変わっていった。


 その頃、霧島一族ではジローとアンナの交戦で話題が持ちきりだった。カマキリの仮面をつけた男が、カブトムシ、クワガタ、トンボの仮面がかかった部屋の中に立っている。そして、カマキリの手元で、ジローとアンナの交戦時の主観映像が流れている。

「ま、見ての通り、ジローは弱体化してると言っていいな。これはチャンスじゃねえか?オヤジ」

カブトムシの仮面から、深いため息の音が漏れる。

「イチロウだけでなく、ジローをも失えと言うのか」

「当然だろ?奴らは俺たちの大事な『家』を壊そうとしてんだよ。そう易々と生きてもらっちゃあ困るだろ?」

「あなたの言うとおりだけれど……ジローを殺すのは惜しいわ。彼は霧島にとって有望株なのよ」

と、クワガタの仮面の目が光る。

「あんなバケモンの何が有望株なんだか。実験を実験と割り切れねーようなヤツが、霧島で生きていけるはずがねえんだ。実際、割り切れねえって、俺の部下を何人も殺しやがったんだぞ、あいつは」

「貴様よりは優秀だ」

と、カブトムシの目が光る。カマキリは、大声で顔を不気味に歪ませながら笑った。その笑い声は、「ギチギチ」とカミキリムシのような音だった。

「言ってくれるじゃねえかよクソオヤジ。じゃあこうしようぜ。あのクソガキを殺したら、さっさと俺に総裁の席を譲れ。その後殺してやるからよ」

「ゲンイチ!」

「適当な口実つけたら、ヤツは絶対にくるぜ。そうだな……アンナをダシにするか」

 カマキリ……霧島ゲンイチの顔が歪んだ笑顔を見せたその時、アンナは、こんこんと眠り続けていた。無意識下で操られ、弄ばれることに気づかないまま。

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