第6章 消えた森
K大学法学部の面々
森川しおり……K大学法科大学院・今井研究室M2
その他の人物
リ・スビン……留学生・道玄酒場アルバイト
リ・スア……留学生・服飾専門学校
碑文谷警察署の面々
1
翌日、月曜日のK大学の授業は、すべて録画授業や休講になった。また、深沢ゼミは単位認定をしたのち、ゼミ自体が無くなることになった。ゼミ関係者や軽音サークルのメンバーは事情聴取を受けることになり、三度目の大学における聴取である。しかし、九十九海と、森川しおりを含む親族は、姿を現さなかった。太田の調べを以てしても、とうとう森川扇人の恋人の正体は分からなかった。嶋田たちも会話をすることはなく、メッセージでのやり取りもなかった。大学院でも事情聴取が行われ、森川しおりの所属する今井研究室のメンバーがそれを受けた。鹿沼は悩んだ末に、『未必の故意』のメッセージを太田に伝えた。太田はそれを筆跡鑑定に回し、三つの事件を関連づけて調べを続行した。ニュースでも大々的に報道されたが、これもまた、時間がたつごとに風化して、誰もが無かったことにしようとしている。そんな気がした。
二週間が経過した頃、道玄酒場のリ・スビンが被疑者として取り調べを受けた。理由として、森川扇人に思いを寄せていたこと、彼の自宅の場所を知っていたこと、中に入ったことがあること、押し入れに置いてあった八通もの手紙の筆跡が、リ・スビンの筆跡と照合され、同じ筆跡だと判明したためだ。リ・スビンについて、嶋田は湖山から話を聞いていた。夏が本番になり、暑さはより険しくなった。六月二十日、最初の事件から二ヵ月が経過し、森川扇人が亡くなってから十七日が経った。その間、九十九海は一度も大学に姿を現さなかった。否、来ているのかもしれないが、嶋田や空が海と一緒に取っている授業については、一度も姿を現していない。何度も電話をかけたが、一度も出なかった。それは疎か、自宅にも居なかった。一度は親に行った方がいいと嶋田や空は思い、学生課の職員に掛け合ったが、「まだ二週間でしょ?実家に帰っているのかもしれないよ」と一蹴され、結局無駄に終わった。
時間が経過しても、何も起らなかった。何も、生まれなかった。それどころか、流れなくてもいい時間が消費されているようだった。捜査の状況は、一昨日、扇人の姉、森川しおりから聞いていた。しかし、それは何かを調べています、といった、何の進展もない、後ろ向きなニュースばかりで、嶋田はため息をずっとついていた。海に何度も電話をした。家のインターホンも押した。しかし、一度だって、彼からの応答はなかった。
海のきえた夏、
それが嶋田が記憶するこの夏の姿だった。
松原にある森川のアパートは、いつの間にか規制が解除され、部屋の中も片付けられた。家具等は岩手の実家へ運ばれ、血のついたたたみや壁は、修復のために剥がされ、本格的に修繕が測られた。司法解剖が済むと、遺体が親族に引き渡された。下高井戸の葬儀屋で葬儀がとり行われたのは、それからすぐだった。葬儀は家族葬のようにこじんまりとしており、当然ながら、物々しい雰囲気を肌で感じた。参列者には、高校時代の友人だったという高野、吉村、守屋という大学生が三人に加えて、嶋田、五十風、香月、湖山、秋野、古賀、大橋、猪俣、深沢が参列し、親族を合わせて十五人程度だった。左斜め前の席には、森川しおりが座っていた。その隣に、両親と、その祖父母と見られる人物が座っている。嶋田は「ご愁傷様です」と小さな前で言ったが、その音は、彼女たちには聞こえない周波数だった。参列者に対してもこれといって話もなく、事を済ませると、嶋田たちはそそくさとその場を後にした。気温は二七度を超えていたが、誰もスーツのジャケットを脱がず、当たり障りのない会話をしていた。殺人、という言葉が禁句なように、一人もその話題を持ち出さなかった。そして、九十九海も姿を現さなかった。
「親御さんも、やるせないだろうね」五十風空は不愛想に言うと、美緒も嶋田も、小さく頷いた。
「うん」嶋田は煙草で目を細めながら言った。本日四本目の紙煙草である。
湖山は下を向いたまま、「そうだね」と聞こえるか微妙な音量で話した。
「なんか、実感ないよな」と、嶋田。
「うん、そりゃあね」湖山が言う。
他の誰も、口を開かなかった。下高井戸駅に向かって歩く道のりは、思うより遠く感じた。
やがて静寂。
「海、どうしてんのかな」嶋田は腕を組み、片手にアイスコーヒーを持っている。コンビニで買ったものだ。
「今はやめましょう。きっと、一人になりたいのよ」空は嶋田に目を合わせる。首を横に振った。
「でもよ、心配だろ?」
「気持ちは分かる。でも、もう少しだけ、待ってみない?」
「そうだな。分かった」
下高井戸駅に着くと、空が「ちょっと寄りたいところがあるの。男性陣は先に帰っていいよ」と言った。嶋田は気を使って「分かった。じゃあ、行こうか湖山」と言って改札をくぐった。電車に乗るまで、一度も振り向かなかった。
世田谷線に乗り込むと、二人は上着を脱いで腕にかけた。
「どうする。どこか寄っていくか」嶋田は湖山に言う。視線は電車の広告に向いていた。
「三茶で飲んで帰ろう。まだ十六時だけど、どこか開いてんだろ」
「ああ」電車に揺られている間、嶋田は今までの日々を思い出した。朝まで酒を呑んだこと、カラオケで飲み物をこぼして大笑いしたこと、当てもなく車で旅をしたことなどだ。
ふと、視界がぼやけた。
「嶋田?」湖山が言う。
どうやら、泣いているようだ。抑えることができない。いつから誤信してしまったのだろうと。
いつから安心してしまったのだろうと。そんなものはどこにもなかった。勘違いしているだけだった。しかしながら後悔は先に訪れない。決まって後から訪れることだ。どうしようもなく悲しくなった。
「大丈夫か?」湖山の声は、遠く感じた。ずっと遠くにいるみたいに、反響して聞こえた。
「大丈夫」
「疲れてるんだ。帰った方がいいか」
「なんで泣いてんだろうな」
「理由が無いとだめなのか?」
「さあな」
スマートフォンを取り出した。トークを選ぶ。海とのトークだ。しかしながら、返事は疎か、既読さえもついていなかった。
ため息を吐くと、ポケットにスマートフォンを仕舞って、視線を外に移した。
「嶋田」湖山は声を小さくして言った。平日の昼間という事もあり、人はあまりいない。
「なんだ?」
「正直、どう思う」
「どうって?事件のことか?」
「ああ、俺も森川からバイトのときに聞いただけだから、詳しくは知らない。でも、あんまり悠長にしてられないだろ」
「犯人像も、動機も、何も分からない。三人になんの関係があったんだ?それが判明しないと、ずっと不明だぜ」
「ああ……」
やがて大学が日常として再開しても、嶋田の知っている日常が戻ってくることはなかった。誰もが何かに抑圧されているように、沈み、堕ちていった。それを止める術は、嶋田には持っていなかった。後から分かったことだが、凶器に使用されたナイフは、森川の自宅に置いていた一五〇ミリ程度のペティナイフではないかと、傷口から推察された。母親の
2
事件のことは、たちまち道玄酒場で話題になった。大橋は何とか落ち着こうと、アルバイトの忙しさに神経を集中している。忘れる為でもあった。それも、時間の問題である。ゼミが無くなって以来、大学に行く用事が無くなってしまった。したがって、自宅とアルバイト先の往復の日々に、うんざりとしていた。スタッフは十六名いるが、そのうちの十二名はまだまだ新人といった状態で、大橋やリ・スビンと並ぶ敏腕スタッフに数えることは出来ない。三年生の筆頭が森川だったため、大橋は物足りなさを常に感じていた。否、働いている最中でなくとも、その感情が穏やかになることはあまりなく、精神が摩耗しているような感覚に陥った。大きな塊が壊れてばらばらに弾け飛んだみたいに、残念さと、無念さを痛感した。そして、レゴブロックの様に、踏んだ時の痛みをも感じている。それは、友人関係も同じだった。ゼミの仲間とも会わなくなり、メールの相手といえば、比嘉か、就職先の人事部の老人くらいだった。
今は十九時。
店が混む時間だ。頭の中のこんにゃくみたいなあやふやな感情を取り除いて、アルバイトをするための思考に瞬時に切り替えた。キッチンには、大橋とリ・スビンを含めて五人のスタッフが居る。客席を確認すると、湖山がホールスタッフとしてせかせかと動いている姿が見えた。アルバイトをしていると、不思議と時間が早く過ぎる。ちょうど、徹夜で麻雀をしている時みたいに、一時間の感覚が狂ってしまったみたいな状態だった。どうしてだろう?二時間も経つと、疲れてもいないのに休憩になった。事務所でスマートフォンを触っていると、リ・スビンが入ってきた。
「あれ、休憩?」
「いいえ、退勤です」
二十一時。そうか、こんな時間か。
大橋は、思ったことをそのまま口に出した。
「ええ、お疲れ様です」
「うん。お疲れ」
彼女の背中を見ている。細くて、小さかった。振り向きざまに「あの」と一言だけ言うと、大橋はスマートフォンを置いて「なんだい?」と返事をした。
「森川さんのお墓の場所、分かりますか」
「え?分かんないなあ。うーん、湖山なら知ってるかも」
「そうですよね、分かりました」
「行きたいの?」
「はい。最後の挨拶もしていませんし」
「そうだよね、ゼミに居た三年が確か仲良かったと思うから、訊いてみようか」
「あ、お願いします」
「あの、そのゼ二に古賀さんはいますか?」
「ゼミね。ゼミナール。うん、居るよ」
「ちょっとお聞きしたいことがあって」
「じゃあ、連絡先教えようか」
「お願いします」リ・スビンは笑わない。それは大橋もだった。
「ねえ、森川と付き合ってたの?」
「え?」
リ・スビンは驚いた顔をして、口に手を当てた。
「いや、迷惑なら謝るよ」
「いいえ、迷惑じゃありません」
「そうなの?」
「はい。付き合ってはいませんでした。そういうのは、ありましたけど」大橋は小さく頷いただけだった。
「森川って確か、恋人が居たよね?不倫かな」
「日本ではそうなります」
「韓国はならないの?」
「なる」リ・スビンは窓を開けて煙草に火を付けた。
「少し前まで、不倫したら捕まった」
「うーんと、姦通罪かな?」
「分からないけど、でも、廃止された」
「じゃあ、今は民事訴訟だけって事ね」
「みんじ?」
大橋はめんどくさかったのでそれ以上難しい話題は出さなかった。
「まあとにかく、彼には恋人が居たと聞いているよ。誰だったんだろうね」
「それを、古賀さんは知ってるかと思って」
「ああ、もしかしたらね。知ってるかもしれない」
「私、ダメな人」
何といえばいいのか分からなかった。女性経験がない大橋にとっては、宇宙くらい混沌としていて、霧のかかった森林くらいあやふやだった。
「どうして、不倫をしてしまうのかしら」
大橋にとって、どうして地球が出来たのかと同じくらい不明な問である。
「さあ、足りないとか?」それらしいことを言う。
「多分そう」
(当たってた……)
「家族はばらばらで、寂しいんだと思う。だから、埋められるものが欲しかった。それだけだと思う」
大橋は何とか話題を戻そうと試みる。こういった話は、湖山が適任だ。
「森川の恋人は、たぶんお葬式に来てない。だから、僕たちが知っている人じゃないんじゃないかな」
「たとえば?」
「たとえば、高校の人とか」
「高校の」
「うん。そしたら、遠距離恋愛で、お葬式にも来られないでしょ?」
「うん」
「あとは、別のバイトとか、サークルの人とか」
「そうか」
大橋は、少しだけこの話題に飽きていた。
「ちょっと、ご飯買いに行ってくる」
「分かった」
非常階段から外に出て、コンビニエンスストアに入った。特に買いたいものもなかったが、それとなくジュースと菓子パンを買って事務所に戻った。リ・スビンはもう居なくなっていた。
カウンターに戻ると、森川が書いたメモ書きを見つけた。それは、うどんスープの湯煎時間の変更を知らせるものだ。フライヤーは、もはや森川の持ち場と言っても過言ではなかった。
今となっては、江田がその場所を使っている。しかし、あまり効率が良い訳ではない。アルバイトは、速度が命である。ましてや、ここは渋谷の中心だ。大橋は洗い場のポジションに付くと、汚い食器たちに軽蔑の目を向けて手を動かし始めた。
(俺、何してんだろうな)
心で思ってみるも、解決策はこれといって思いつかない。思考を放棄すると、今度は不必要な不安が大橋を襲った。亡くなった三人の顔を思い出してみる。その顔は、笑っていない。どうしてだろうか?いつもは笑っている人たちだった。忘れてしまったということか?
ポケットに入れているスマートフォンが鳴ったのは、休憩から戻ってから十五分くらいだった。店長は不在。大橋は手を止めてペーパータオルで手を拭くと、スマートフォンを取り出す。鹿沼唯からの連絡だった。去年のゼミの先輩だ。頭がよく、いつも怖かった。あまり関係性は無いし、どうしてか、嫌な予感がした。
3
湖山が運転する車が東京駅のロータリーについたのは、新幹線が発車する二十五分前だった。
助手席には秋野琴葉が座っている。車高が低いため、後部座席は狭かった。
「間に合ってる?」湖山が訊く。
「ああ、ちょうどいい」嶋田は車から降りると、トランクを開けた。
「そりゃよかった。東京駅は迷路みたいになっているから、気を付けな」
「大丈夫」
「手伝う」琴葉が言う。
キャリーバックを取り出すと、狭すぎるトランクが幾分マシになった。
「駅弁でも買っていったら?」琴葉が言った。
「いや、そんなに腹が減ってない」
「まあ、二時間くらいだろ?」と湖山。
「ああ、ゆったり行くよ。課題でもやりながらね」
「じゃあ、二時間じゃ足りなそうだな」
「馬鹿か」
ありがとうと言って東京駅に歩き出した。一度振り向くと、二人が手を振っていた。
それを振り返して、中に入った。時計を見ると、十一時になろうとしていた。
新幹線改札に入り、乗車券と特急券を改札に通した。東北新幹線の乗り場まで行くと、そこで暇を潰せそうな食べ物を幾つか買って、到着を待った。
東京駅から新青森行きのはやぶさが発車したのは、十一時二十分ちょうどだった。七号車の九列、窓側E席に腰を下ろし、駅で買った缶ビールを開け、窓の外を見た。目的地の盛岡までは、上野、大宮、仙台と三つ停車した後、十三時三十二分に到着する。約二時間の電車旅だ。森川は、高校時代まで岩手県の盛岡に住んでいた。先日、松原の自宅にあった遺品は盛岡の実家に引き取られ、そのうち、いくつかの森川の遺品が嶋田たちに分配された。嶋田はピックとギターベルト、湖山は大学ノートとボールペンだった。他は分からない。森川の母親は森川が十二歳の時に離婚しており、二年前に再婚した夫と、母親が一人、それに姉が居た。それが、森川しおりである。母親は森川由希子といい、盛岡の市役所で働いていると森川から聞いたことがあった。女手一つで子供二人を大学に行かせるのは、余程の苦労があったのであろう。そのための結婚ではないか、と嶋田は考えたが、無意味な考察だったのでやめた。
森川由紀子と話したのは、今から一週間前である。特に理由もないが、生まれ育った町を見てみたいと思った。海も誘ってみたが、またしてもダメだった。新幹線は大宮に着き、短い停車をする。降りる人は少なく、今まで空いていた座席のほとんどが大宮で埋まった。外に目を向けると、さすがに高層ビルは減り、次第に市街化調整区域が広がった。幹線道路特有の過疎地、ともいえるだろう。すこし疲れている事に気が付き、目を瞑る。長い眠りは、すぐに訪れた。
嶋田は「まもなく仙台に到着します」という車内アナウンスで目を覚ました。時計を見る。十二時五十分だった。盛岡まではあと四十分ほどで到着するだろう。
さっきまで考えていたことを思い出そうとポケットを探してみたが煙草しか見つからなかった。喫煙室がある車両まで行き、煙草に火を付ける。少し頭がぼーっとした。電車の揺れが心地良く、窓の外には森と川が見える。大きな山々は、深い緑色だった。栗駒山だろうか。煙を深々と吸う。目が冴えたように思う。席に戻ると、ビールを飲み干し、また窓の外を見た。海が消息を絶ってから、三週間ほどが経過した。それでも時間は過ぎる。嶋田の両隣には誰もない。前の座席には、子連れの家族が座っていた。三人で仲良く話している。本来の幸せとは何かと、嶋田は考えた。きっと、何かがあるから幸せなのではないのだと。何もないからこそ、削ったり、磨いたり、形を整えたりして幸せの形を作っていくのだと、そう思った。嶋田にとって、無くてはならない存在が、森川だった。当たり前にあって、無いことが考えられないような存在が、彼だった。まるで本のページが抜け落ちたみたいに、今は空白の記憶だけが悲しく残っていた。人は、死んだら無くなってしまう。何も、無くなってしまう。まるで最初から存在しなかったみたいに、元あった体も、声も、匂いも、全て無くなる。それを現実に目の当たりにしたことが、嶋田にとって何よりもショックな事実だった。
忘れてしまいたい。
誰も思い出せないようにしたい。
そうだ……。
最初から、一人だったじゃないか。
人間なんて、一人じゃないことを自覚しないで死のうとする生き物。
大学だって、最初から一人だったのだ。
だから、何も心配することはない。
だから、何も考えることはない。
そうすれば、楽になれる。
違うか?
そうだ……。
きっと……。
盛岡駅に着いたのは、嶋田が二本の煙草を消費した頃、すなわち、神経が落ち着いてからすぐのことだった。
太田の携帯電話が振動した。
今は、勤務時間外だ。橙子は、まだ寝ている。
時計を見ると、昼の十二時だった。スマートフォンをノールックで探すと、電話の相手も見ずに応答した。
「今、大丈夫か?」この声は、潮見だ。いくつかある候補の中で、最悪手かもしれない。
「はい」
「休みの日にすまんな。実は報告したいことがあってね」
「なんでしょう」
「お前確か、柊の証言でグレーのパーカーの人物とか言ってたな。その人物を追ったところ、車に乗り込んでいた。K大学のFキャンパス近くの路上で待っていた車で、黒のセダンだ。三軒茶屋で起きた事故の被疑者が乗っていた車と、同じ車種だった。ナンバーを調べてみたところ、川崎にある中古自動車屋の代車に使っている車両らしい」
「なるほど」太田は眠い目を擦りながら言う。
「それで、だな」潮見は間を置いてから深呼吸をしたようだ。
「その自動車屋の経営者に当たってみたんだが、大橋の父親だった」
「え!」太田は目を見開く。ベッドに視線を向けたが、幸い橙子はまだ起きていなかった。
「つまり、大橋の父親が所有している車が、三軒茶屋の事故と、斎藤殺害で使用された車だったという事ですか」
「そうだ。今、
「そうですか、では、三軒茶屋の事故が大橋の可能性もあるという事ですね?」
「ああ。ただ、当時の捜査でもスモークガラスのせいで運転者の判別が出来なかった。今回も然りだ」
「ただ、大橋は斎藤殺害時にはアルバイトをしていた証言、津岡殺害時にはドライブをしていた証言がありますよね?」
「だから、大橋の起こした事件を誰かが隠ぺいしようとしている、というのは考えられないか?」
「それなら、森川扇人はどうして殺害したんでしょう?」
「それも、アルバイトのときに大橋に喋っちまって、それで誰かが殺害したんだろうよ」
「つまり、K大学とは全くの部外者という可能性もあるという事ですね」
「ああ」
「大橋に事情聴取は出来ますか?」
「今、溝端を向かわせたよ」潮見はそこで少し黙った。「それから……」
「はい」
「猪俣のボタンが落ちていた件だが、あれも大橋なら可能だった。事件の二日前にブラウスを着用したそうなんだが、ゼミ室に大橋と猪俣が残った時、猪俣はそのブラウスを椅子に掛けたまま、第二研究棟の文房具屋に行ったそうなんだ。黒いボールペンを買っている。その時に、大橋がボタンを一つ千切って持って帰ることは、出来ただろう?」
「なるほど」
「大橋が直接犯行に及んでいないにしても、その協力者が犯行を行い、指示を出すことが出来た。違うか?」
「ごもっともです」
「森川の遺体が見つかった日には、大黒PAに居たらしい」
「大黒って言うと、改造車の聖地ですね。でも、誰なんでしょう?」
「さあな。もっと視野を広げる必要がありそうだ」
「溝端からの連絡を待ちましょう」
「分かりました」
「捜査員が見つけたんですか?その車両は」
「いや、それがな」
太田は電話口で首を傾げた。「へ?」
「匿名通報ダイヤルに連絡があったんだよ。その話を元に捜査をしたら、今、この状況だ」
「仲間割れか、裏切りでしょうか」
「分からん。ただ、無関係とは思えない」
「そうなんですね、その人物に当たれたら、良かったですね」
「ただ、お前を指名して伝えたいことがあると言ったそうだぞ」
「私を、ですか?」
「ああ、そうだ。その人物はこう言ったらしい。オーシャン、そう伝えてくださいと。何のことだ?」
太田は胸の高鳴りを覚えた。それは、寝起きの精神を高揚させるドーパミンだ。
ニコチンと同等の効力かもしれない。オーシャン、その言葉一つで、太田の何かがはじけたように思えた。
「聞いてるか?」
彼は今どこで、何をしているのだろうか。きっと、大学にもいかず、ただひたすらに歩き回っているに違いない。あの日のことを、森川扇人が亡くなった日のことを思い出した。それは、遠い昔の記憶の様に思えたし、現実でないようにも思えた。あまりに悲惨で、あまりに遠く古びた感情だったからだ。ノスタルジーとも違う。でも、彼の眼だけは今でも覚えていた。彼の眼に宿る憎しみや悲しみは、森川を燃料に、どんどんと燃え上がっているように思えた。
「おい!」
死を無下にしてはいけない。死を忘れてはいけない。どこで習ったのかも分からない感情が、今になって彷彿とした。彼はそれを分かっている。だから、少しばかり自分の人生を犠牲にしてでも、友人の死に手向ける花を用意しているのだろう。
「大丈夫です」太田はそれだけ言う。
「は?」
「その人物は、私の協力者ですから」
4
森川しおりは自宅にいた。一人ぼっちで居ると、涙が出てしまいそうになった。かといって、誰かと居ても、楽しくない雰囲気を作ってしまいそうで、どうしたら良いのか分からなかった。スマートフォンで関のトークルームを選択すると、「今何してるの」と送信した。悩んだ挙句、スタンプは使わなかった。こういった感情のときに使用されることを見込んで作られたものではないだろうと考えたからだ。台所に行くと、コカ・コーラの缶を取り出して、それを飲んだ。スマートフォンに目を落としたが、何の音沙汰もなかった。少し散歩に出ようと考え、適当な服を引っ張り出した。外は暑い。太陽を見れば、一目瞭然だった。化粧をするか悩んだ挙句、マスクだけで出かけることにした。大した用事は無い。そうだ、公園のベンチにでも座ろう。そう思った。きっと、一人で居るのが辛いのだ。誰かが近くにいれば、それだけで違うと思った。スマートフォンが振動する。送信者を確認すると、母親の森川由紀子だった。
「そろそろ、扇人のお友達が見える」由希子の文章はこれだけだった。
「
「違う、嶋田さん」嶋田?あの、嶋田か?どうして岩手なんかに。
「そうなの」森川しおりはそれだけ送信して自宅を出た。気温は二十五度を超えているだろう。階段を降りると、少し汗ばんだ。その公園は、歩いて5ふんもかからずに到着した。遊具が申し訳程度にあり、広さはあまりない。砂場で子供が砂団子を作っていた。近くのベンチに腰掛けると、そっと目を閉じて弟の顔を想起した。
今は、笑っているのだろうか。
それとも、泣いているのだろうか。
今になって、また、話したくなった。
声が聴きたい。
あの、優しい声を。
どうして人は、失うことで悲しむのだろうか。
人生なんて、失ってばかりだ。
いちいち悲しんでいる事も出来ないのではないだろうか。
しかし、今、とにかく悲しかった。
目を開ける。太陽が眩しかった。
スマートフォンがまた振動する。
燈佳か。
しかし、電話をかけてきたのは鹿沼だった。
「燈佳さんと一緒に居ます。有楽町なんですが、良ければ夕食でもどうですか?」
「私は家の近く。下高井戸だから、時間かかるよ」
「ええ、構いません。四時間後くらいは如何でしょう?」
「分かった」
「また連絡します」
すると、関の声がする。
「ねえ」関は間をおいてから「無理してない?」と質問した。
「別に」森川しおりは答える。
「私は、気持ちは分かるよなんて恩着せがましいことは言わないし、何か励まそうだなんて、そうは思わない。でもね、友達が落ち込んでいる時に何もしない、何もできないなんて、それはおかしいと思うの。たとえ嫌がられたとしても、しおりが前の笑顔で笑えるまで、私は支え続けたい」
「そうね、うん。ありがとう」
それで会話は終わった。
そうか、一緒に居るのか。
なんだか、悪いことをしてしまったような気がした。
これも、ネガティブな感情が起因しているに違いない。
後悔。
あの二人は、付き合っているのだろうか?
森川しおりは違う事を考えた。
それは、分からない。
もし仮にそうだとしても、
だから、何だというのだ。
今はそう、犯人を捜すことが最優先だ。
見つけて、どうする?
果たして、平常心でいられるだろうか?
それは、分からない。
何も分からなかった。
いつもそうだ。
どっちつかず。
はあ。
それから、家の周りを一時間ばかり歩いた。別に当てがあったわけではないが、そうすることが、今は一番いいと思ったからだ。約束の時間まではあと二時間。家に戻ると、シャワーに入った。少しでも、嫌なものを洗い流したかった。Tシャツは乱暴に洗濯機に入れ、下着もそこらへんに投げ捨てた。冷たいシャワーに入っている時、鹿沼の言葉を思い出した。
「多分、扇人君は、死ぬはずじゃなかったんだと思います。彼は、誰かの為に必死に犯人を捜した、若しくは、この人が犯人じゃなければいいと、願ってしまったから、その勘違いを払しょくしようとした、そのいずれかでしょうね。だから、誰も責められません。誰もが、自らの意思を持って生きています。確かに、彼が死んでしまったことは、悔やみきれないような事実です。しかし、今は、事件の真相を知ることが、先決ではないですか?僕は、しおりさんが、燈佳さんが、また笑顔で暮らせるようにサポートしますから」
そう、死ぬはずではなかった。そう思えば、きっと楽だから。森川しおりはシャワーから出ると、自宅にあるウィンドウズを起動して三軒茶屋の事件を調べた。去年の十二月二十四日、考えてみたが、これといって思いつかなかった。次に、オリンピック公園の事件を検索する。一ヵ月以上も前の記事が、申し訳程度に掲載されているだけだった。もっとも大々的に掲載されているのは、K大学の第二研究棟で起きた、津岡殺害に関する記事だ。警察は、三つの事件の関連性を公表していない。もっとも、マスコミはオリンピック公園とK大学の事件を連続殺人ではないか、と嗅ぎつけていた。弟の扇人の事件に関しては、四行で簡潔にまとめられていた。森川しおりは少しばかり怒りを覚えたが、それをまたコカ・コーラの炭酸で消した。何か有力な手掛かりはないかと検索を続けたが、何も見つからない。静かにパソコンを閉じようとタブを消していたとき、三軒茶屋の事件の記事に、韓国人女性一人死亡、と書かれている。そういえば、扇人のアルバイト先に、韓国人が居て、姉が亡くなっていると、どこかで聞いたことがある。あれはたしか、三月に帰省した時の夜行バスだ。森川しおりは突然それを思い出した。よく考えると、おかしな話だ。
そんな話を、ただのアルバイト仲間にするだろうか?いつかの日に、片思いをされていると、扇人が言っていた。それは、その韓国人ではないだろうか?もしかしたら、何か知っているかもしれない。森川しおりは、その人物と話してみたいと思った。誰に言えばいいのだろう?
盛岡駅からIGRいわて銀河鉄道に乗り換えて、一時間ほど揺られたところに、森川の実家はあった。岩手沼宮内駅から少し歩き、笹相旅館という所でチェックインを済ませる。約束の十五時までは、まだ一時間ほどある。嶋田は荷物を置くと、近くを少し歩いた。人はあまりいない。駅から離れたところに石神の丘美術館という場所を見つけた。時計を見る。まだ時間があった。チケットを買い求め、中に入る。半分は屋外になっており、面白い形の彫刻がいくつも展示されている。芸術的センスのない嶋田にとっては、中途半端な感想しか持ち合わせていなかった。中を四十分ほど歩き時間を潰すと、近くを走るタクシーを拾って、御堂の奥まで、と告げた。そこが、森川の住んでいた場所である。千円を運転手に払い、記憶をたどりに歩き出す。黄色い外観の二階建て住宅を見つけたのは、五分ほど歩いてすぐの事だった。時計を見る。十四時五十三分だった。チャイムを押し、嶋田です、とインターホンのマイクに言う。
「まあ、遠いところありがとうございます」森川由紀子は、すぐに出てきた。薄手のベージュのカーディガンに細いチノパンツを履いている。
「いいえ、いい旅でした」
「そうなの。よかったわ。さあ、入って」森川の家に音はなかった。歩く音、息づかいそのすべてが音として家に響き渡る。一人で住むにはいささか大きすぎるほどの大きさである。
「コーヒーでいいかしら」キッチンにいる由希子が言う。
「ええ、恐縮です」嶋田は辺りを一瞥した。肩の荷が下りる感覚がある。
由希子が向かいに座ると、大学の話や、生活はどうか、という当たり障りのない話に終始した。嶋田にとって、森川の話を蒸し返すことは、何か触れてはいけない物に触れることであり、そもそもそんな度胸はなかった。しかし、意外にも由希子の方からその話を持ち出したために、安堵のため息を一つついた。
「やっぱり、あの時の事、気になってるのね」由希子はコーヒーを一口飲む。
「はい。遺品を見せてくれませんか」嶋田は訊いた。
「二階よ、行ってらっしゃい」そう言って、一度頷いた。嶋田も合わせて頷く。
嶋田が立ち上がったとき、由希子の顔が曇った。
二階に上がると、一番奥の部屋のドアノブを回す。少し緊張していた。
その部屋は、きちんと整理されていた。綺麗好きではなかったため、きっと由希子が片付けたのだろうと評価する。机の引き出しを開け、次に押し入れを見る。ベッドはきれいに畳まれていた。もちろん、誰も使ってはいない。本棚に目をやる。そこには、小説がびっしりと並んでいる。そのとき、一番下の段に手紙がいくつか重ねて置いてあるのが見えた。そのうち一番上にある封筒を手に取る。水色の淡白な封筒で、表面にも裏面にも何も書いてなかった。少し悩んだ挙句、中を見ることにした。
「昨日はありがとう。本当はもっと沢山遊びたかったけど、これも幸せで、楽しかったです。森川君って、お酒弱いんだね?ビールなんてかっこつけて飲んじゃってさ。でも、かっこよかったよ。会えてよかった!また来週会いましょう。では。。。」
なんのことだろうか?差出人の名前は書いておらず、簡潔な内容だった。感覚としては、彼女、若しくは森川に好意を持っている人間の誰かだろう。
二枚目の手紙を開く。その青い手紙には、はっきりと森川扇人くんへ、と書いてあった。
「箱根、すごく楽しかった。強羅駅って、結構標高あるんだね。気圧で耳がキーンってなったよ。旅館もきれいで沢山散歩したね。部屋は大きくて、夜にベランダから見えた星が煌めいて、星が流れてくれたらいいのにって、思いました。でも、時間は確かに流れたね。素敵な時間が、ゆっくりと。私は今、SEKAI NO OWARIのスターライトパレードを聴いています。森川君は、どんな歌を聴くの?良ければ、今度教えてください。来週、大学で待っているね。では」
どうやら、誰か旅行に行った時の手紙らしい。森川の記憶を辿ってみたが、知っている人間は誰も該当しなかった。誰と行ったのだろう?この手紙にも、差出人は書いていなかった。他にも部屋を探してみたが、レシートやノート、教科書類があるだけで、これといって目ぼしいものはなかった。あるフィルムカメラの写真を見つけたのは、それから十分くらい部屋を散策していた時だった。背景には、強羅公園の看板があり、右側に写る森川はソフトクリームを手に持っている。日付には、2015年 7月24日と書いてある。すなわち、森川が亡くなる一年前の写真だ。しかし、嶋田が違和感を覚えたのは日付ではなかった。二人で映った写真、その左側には、湖山の笑顔がくっきりと映し出されていた。森川は、カメラではなく、左側を見つめている。したがって、他に誰か居ることになる。それに、手ぶらだ。強羅に行くのに、何も持たずに行く人間はそうそう居ない。つまり、どこかの旅館に泊まり、荷物を預けたと考えるのが、やはり自然だろう。しかし、いつまで見ても、何も思いつかなかった。本棚に後ろには、紐で縛った教科書が置いてあった。民法の基礎、刑法学入門、憲法入門、家族法、裁判法、倒産処理法、労働法、それらが無秩序に並べられている。その一番下に、経済学の教科書が挟んであった。スマートフォンを取り出して、森川のトークルームから画像を探した。毎年送り合っていた、時間割の写真だ。一年生から三年生の時間割を見ても、経済学は取っていなかった。嶋田は、悩んだ末に紐を解き、経済学の教科書を取り出した。それをぱらぱらと捲った時、思わず「えっ」と声を出した。教科書には、全てのページにびっしりとラインマーカーやメモ書き、ポストイットはこれでもかと貼られていた。どんなデザインだったのか、判別できないほどのページもある。資料が何枚か挟んであり、重厚感があった。
大学生の教科書とは思えない。それも、授業を取っていないのだ。字体を見たが、森川の文字ではないように思った。嶋田はその教科書をポケットに忍ばせて、同じように教科書を紐で縛った。ベッドに腰を下ろす。疲れているように感じた。落ちている写真を拾い上げる。その笑顔には、何の悲しみも映っていなかった。七月二十四日。その日付を見つめたまま、嶋田はじっと押し黙っていた。
一階に降りると、「どうだった?」と由希子が訊いた。
「ええ、部屋を見れて、良かったです」と嶋田。
「そう、何か持って帰ったらいかが?あんなにあっても処分しきれないし、誰かが使った方がいいでしょう?」由希子が紅茶を飲みながら言う。
「では、そうですね、ペンか何かをいただいても構いませんか」
「ペン?ええ、いいわよ」
「それなら、これね」由希子は筆箱を取り出して、嶋田に渡した。
「どれでもいいのですか」
「ええ」
「じゃあ、シャープペンをいただきます」
「物も、少しは喜ぶんじゃないかしら」
嶋田はポケットにシャープペンを入れ、テーブルの上の紅茶を静かに飲んだ。
「その、扇人には恋人は居たのでしょうか?」嶋田は質問する。
「さあ、分からないわ。でも、お葬式に来ていないって事は、居ないんじゃないの?」
「でも例えば、内密に付き合っていた可能性もあります」
「尚更よ。誰も訪ねてこない、連絡すらよこしてこないって事は、いないんじゃないの?」
「そうですね……」
「大学ではどんな様子だった?扇人は」
「みんなから好かれる人でした。誰とでも打ち解けますし、優しい人でした」
「そう、それは良かった。安心したわ。扇人も嬉しいでしょうね」
「ええ、俺はもっと話したかったです。もっと優しくすればよかったって……、もっといろんなこと訊けばよかったって……、今さら後悔しています」
「何もできないのにね。皮肉なこと」
「ええ……」
沈黙。
「その、警察はどこまでわかってるのかしら……」由希子は言う。
「まだ、詳しいことは分かっていないみたいです。何しろ、連続殺人ですからね」
「そうなの。嶋田くんは?何か思いつかない?」
「例えば、四年生が殺害された理由についてはゼミで何かがあった……、と考えることが出来ますが、扇人となると、可能性は限定されますね」
「限定?」
「ええ。まず何かを知ってしまった場合、この場合は、犯人に何らかの理由で伝わってしまったのでしょう。もう一つは……」そこで言葉を切った。森川が直接的な犯人の場合です、とは到底言えまい。
「なに?」
「いえ、それが理由でしょうね。つまり、彼の周り犯人はいます」
「そう……、嶋田くんも気をつけてね……」
「はい、ありがとうございます」
世間話。
「では、そろそろ失礼します」嶋田は立ち上がる。
「ええ、来てくれて、ありがとう。夕食は決まっているの?」
「いいえ、どこかに食べられるところはありますか?」
「あんまりないのよね。盛岡まで出ればあるけれど、遠いでしょう?」
「コンビニがありますし、何とかなりますよ」
「じゃあ、うちで食べたらどう?そうね、今が十六時だから、十九時なんてどうかしら」
「そんな、願ってもないお話です。いいのですか?」
「もちろんよ」この時、由希子は初めて笑った。森川の笑顔に、よく似ている。
「じゃあ、十九時にまた来ます」
「そうして。一人で食べるより、楽しいわ」
5
森川の家を辞去した後、嶋田は何をするわけでもなく辺りを散策した。
町をひたすらに歩く。広大な畑、大きな山々、それらは、何を待つわけでもなくただ、佇んでいた。森川の家を出て以来、まだ通りがかる人を見ていなかった。それはまるで、世界に嶋田だけが取り残されてしまったような感覚に陥ったし、たとえ一人で取り残されてしまっても、それを受け入れることができるよう思えた。東に三百メートルほど行ったところに、野菜の無人販売があった。棚を見つめると、ピーマンやキャベツ、ニンジン、見たこともない野菜が四種類ほど並んでいる。そのうちのピーマンを手に取り、三百円を木製の箱に入れた。考えるべきことは、すでに山積みになっている。まず、森川へ書いた手紙の差出人が誰なのか、それを調べることからではないか。心を落ち着けて、畑の近くにある朽ちたベンチに腰を下ろした。煙草に火を付けて、目を瞑る。さてと。日が暮れるまでは、まだ三時間くらいあった。太陽は、冬に劣らず高い位置にあり、まだ一日が終わらないことを示していた。
旅館に戻ると、どっと疲れが押し寄せた。さっきの五倍はあるだろう。
煙草に火を付け、そっと吐き出す。その煙に、何かのおまじないを込めるみたいに、優しい吐息だった。ポケットから写真と経済学の教科書を取り出すと、意味もなくそれを見つめたり、覗き込んでみたりした。しかし、何も思い浮かばない。湖山に連絡をしてみようかとも思ったけれど、思いとどまった。煙草をフィルター近くまで消費すると、もう一本に火を付けて今度は横になった。ビジネスホテルのシングルくらいの大きさだろうか。それほど大きい部屋ではないが、嶋田にとっては心地のよい広さだった。ひと、写真の湖山に目を落とした。そうだ、秋野琴葉と交際してるんだっけ。そうなると、四人で出かけたと考えるのが妥当だろうか。では、もう一人は?嶋田は手紙の文章を思い出す。その時、経済学の教科書を乱暴に開いた。
そうか……。
同じ文字だ。
どうして気が付かなかったのか。
という事は、手紙の差出人は、経済学に明るい人物という事になる。この写真の同行者も、おそらくは秋野琴葉その人物だろう。しかし、誰なのだ?嶋田にとって、K大学の経済学部は未知の領域だった。かろうじて、湖山と琴葉が居るだけだ。嶋田は少し悩むと、スマートフォンで湖山のトークルームを開き、電話をかけた。五回のコール音の末、湖山の「ん?」という声が聞こえてきた。
「今、大丈夫か?」嶋田が質問する。
「ああ、大丈夫。琴葉が居るけど、内緒話か?」湖山は言った。
「いや、むしろ都合がいい。訊きたいことがあるんだ」嶋田は勿体付けて訊く。
「なんだよ」
「去年の七月二十四日、覚えてるか」嶋田は丁寧に質問をした。
「去年の?なんかあったっけな」
「忘れたのか?」
「ああ」
「随分劣化した脳だな。医者に診てもらったらどうだい」
「は?」
「冗談だよ。思い出してくれ」
静寂。永遠に感じた。嶋田は我慢できずに言った。
「じゃあこっちから教えるよ。強羅に行ったんだろ?森川と」
湖山は少しだけ黙ると、「あー、はいはい。行ったよ。暇だったし。男二人ってのも、味気なかったけどな」と言う。
「他にも居たんだろう?」
「なんだよ、急に」湖山は憤慨したような声で言った。
「今、森川の実家にいる。お前と、森川が二人で映っている写真も見つけた。それから、森川を名宛人にして手紙も出されている。どう見ても、女の文字だ。あ?それとも、同じ日の午前と午後に行ったんじゃないか、とでも言うのか?正直に教えてくれ。これは誰と行った?」
「なんだよお前。警察ごっこか?」
「ああ、趣味が悪いもんでね」
「九十九に似てきたな」
「そりゃどうも。森川の実家に居るんだ。お前の視線はカメラに向けられているが、森川違う所を見ている。他に人が居たんだろう?」
「友達が死んで落ち込んでるっていうのに、尋問とは、随分な事をしてくれるんだな」
「そりゃどうも」
「ふざけんな!なんだよお前。お遊びじゃねえんだ」
「どうしてそんなに隠す?もう、森川は死んだんだ。今さら、何を心配するんだ」
湖山は返事をしない。
「ちょっと、待っててくれ」そう言うと、携帯を保留にした音が聞こえた。嶋田は窓側で煙草を一本消費すると、湖山は「待たせた」と言って話しかけた。嶋田は急いで煙草を灰皿に置くと、スマートフォンを手に持って「ああ」と簡単に返事をした。
「どうした?」続けて嶋田が訊いた。
「外に出てきた。琴葉に聞かれたくないんだ」
嶋田の額に汗が流れる。
「聞かせてくれるのか?」
「ああ。さっきは言い過ぎた。琴葉とちょっとやり合っててな」
「そうか」
「それで、誰と行ったか、だったな」
「ああ。そうだ」
「青島先生とだよ」
「え?」嶋田は思わず聞き返す。
「青島菜々子先生」
「先生と行ったのか?」
「うん」
「じゃあ、森川が付き合っていた相手っていうのはまさか、その、青島先生?」
「そうだってば。付き合ってた」
「そうか……」嶋田は、湖山の言葉を頭で反芻した。
「でもな……ちょっと、ややこしい話があるんだ」
「ややこしい話?」嶋田は質問した。煙草の箱を手繰り寄せたが、中は空だった。
買っておけば良かった。そう思ったが、近くのコンビニですら十五分はかかる。
「なんだ?ややこしい話って」
「うん。あの時の話からしよう。当時、まだ俺は琴葉と付き合っていなかった。大学二年の時だな。森川も彼女はいなかった。それで、ふと酒を呑んだ時、どこかへ出かけようという話になったんだ。別に意味はない。俺はどこでもいいと言ったら、森川は箱根に行こうと言い出したんだ。二人ってのも味気ないと思って、誰か誘うかと相談した。そしたら、森川が連れて行きたい人がいるって、言ったんだ。つまり、俺と森川と、もう一人の三人って事になる。誰なのかは、あえて聞かなかった。当日になっても、
「待ってくれ、どういうことだ?別に先生が居ても、そんなに不自由はないだろ?それに、青島先生のゼミに入ってるじゃないか?何がそんなに嫌なんだ?」
「目の前であんなイチャイチャされたら、そりゃあ嫌な気持ちになる。それどころか、最悪だ」
「分からない」
「俺が、森川と付き合ってた」
嶋田は、その言葉を理解するのに、まばたきを八回要した。
俺が?しかし、慌てずに落ち着いて会話を続ける。
「湖山と森川が、付き合ってたって事か?」
「そう言ったはずだ。大学一年の九月から、二年の五月までだ。八ヶ月間だったな」
なるほど、嶋田は合点した。
「それのどこがややこしいんだ?」
「だから、まあ体裁があるだろ?世間体の。でも、他の人よりかは、森川のことをよく知っている。今回の事件のことも、色々聞いていたよ。青島先生と付き合い始めたのは二年の四月から今までだよ」
「先月まで、付き合ってたのか?」
「ああ、付き合ってたよ。だからその手紙も、おそらく青島先生が書いたものだろうよ」
嶋田は急に寒気を覚えた。別に、不謹慎な感情を抱いたわけではないし、何か軽蔑する意図があったわけでもない。ただ、体がそういう風に反応しただけである。
「お前が、森川を殺したのか?」
「お前は探偵にはなれない」
「どういうことだ?」
「そのままだよ、嶋田くん」
「古賀さんは?」
「ああ、あいつか。別にまあちょっと変な人だけど、普通のやつなんじゃないか?」
「もう一度訊く。お前は殺人に加担したのか?」
「さあね」
「そうか、ありがとう」
「ああ」
そう言って電話を切ると、畳の上に寝転がった。
同性愛か……。
それは確かに考えていなかった。正確には、バイセクシャルだろうか。あまりに複雑で、あまりに関係している人間が多く、情報をまとめるのに苦労した。しかし、事件に関係があるとは思えない。あくまで、森川が知ってしまったことは何なのか、それを解明するのが先だった。警察に訊く手もあるが、あまり有力ではない。断られる可能性があるからだ。青島も、湖山も、間違いなく森川殺害の実行犯ではない。そもそも、斎藤や津岡を殺害する動機が無いだろう。時計を見ると、十八時になる少し前だった。嶋田は立ち上がり、Tシャツを着る。煙草を買うついでに、散歩でもしよう、そう思った。
嶋田が東京に戻るまでに、大した出来事はなかった。強いて言うなら、森川の実家で食べたハンバーグと、消費した七本の煙草である。由紀子とも、これといって重要な会話はしなかった。本当に、話し相手が欲しかったのだろう。そう感じさせる態度だった。しかし、この事件は三つの事件が重なっていると考えるべきだろう。
嶋田は状況を整理しようと考えた。しかし、鹿沼が作成した相関図と、事実をまとめたノートを見ながらになるが……。
この事件は、いわば二つの事件が重なりなっていると考えることが出来る。一つ目に、クリスマスに起きた三軒茶屋での交通事故、リ・スアが死亡した。この事故が、今回の事件の鍵を握っているといっても、過言ではない。リ・スアの関係者は、大橋、湖山、森川である。リ・スアの関係者は太田が調べたそうだが、そもそも国内に滞在していないか、関係者と呼べる程の人物はいなかった。すると、当然、恋人の存在が重要という事になる。しかし、その可能性は淘汰された。すなわち、五ヵ月前(事件の前)に起きた埼京線の人身事故で、恋人の男は死んでいる。したがって、捜査線上に浮上しなかった。更にその男の周辺を調べたところ、何と友人と呼べる人さえいなかった。両親は父親の不倫で離婚をしているし、母親は新潟のスーパーで店員をしている。したがって、リ・スアを殺害されたことによる怨恨の可能性は否定された。残るは大橋と湖山、しかし、そうなるとどうして斎藤と津岡は殺害されたのか?こうして、二つ目の事件、K大殺人に繋がる。もしも斎藤と津岡のいずれかがドライバーで、リ・スビンの関係者が殺人を犯したとしたら、それは大橋か湖山しかいない。すると、どうして森川は殺害されたのか、どうして津岡は未必の故意という証拠を残したのかという問題が残る。ちなみに、津岡の残した証拠については、鹿沼から一切を聞いた。では他の選択肢はどうだろうか?すなわち、リ・スビンが一切関与していないと考える場合だ。すると、道玄酒場も無関係という事になる。考えられるのは、ドライバー自身が事実を隠蔽するために、殺人を犯した可能性だ。そして、最初の濡れ衣を古賀に着せた。こういった考え方だ。実にガキっぽい。
そうなると、運転手が誰なのか、という事実の一点に絞られる。いや、運転手が全ての主犯と言ってもいいだろう。しかし、現段階で容疑者足りうる人物はいない。しかし、一つだけ解せない点があった。最初の現場に置いてあった、美少女物のフィギュアである。他の散乱したものは、まず斎藤の遺留品で間違いないであろう。しかしながら、フィギュアに関しては、どう見ても異質で、斎藤の所持品とは考えられない。考えようによっては、犯人が置いていった可能性がある。しかし、それにしては随分と幼稚なやり方であろう。運転手を突き止めるよりも、まずは事件の関係者をもう一度調べることが先決である。
日々にヒビが入るように。
摩耗した記憶に、拍車をかけるために。
6
森川しおりが有楽町に着くと、駅前に鹿沼と関の姿があった。時間があったので、髪を三つ編みにしている。女の子らしい格好をしたのは、二年ぶりだった。
「あ!髪の毛!可愛いっ」関が言う。鹿沼は首を縦に振っていた。共感の表現だろうと、森川しおりは考える。関は、ノースリーブのワンピースを着ている。大学には着てこない服装だった。鹿沼は、いつもと変わらず、バンドTシャツに、大きめのデニムを着ている。カラビナが腰で揺れた。
「ありがとう」
ついいつもの口調で口走ったが、とても機嫌が良かった。この二人には、不思議な力がある。どうしてか、ネガティブな気持ちになれないのだ。
「ご飯、何食べる?」関は言う。唇に人差し指を当てている。首の角度は五十度くらいだろうか。
「私!食べたいものある!」関がまたしても喋った。
「なに?」森川しおりは訊く。
「もんじゃ!近くに月島あるよね?もんじゃストリート行こうよ」
「いいですね」鹿沼がポケットに手を突っ込んで言った。
「燈佳、その格好でもんじゃ食べるの?汚れるわよ」
「ぶー」
「だからだめ」
「やだやだ!いきたい!」関が言う。
「じゃあ、三十分で燈佳さんのもんじゃ用の洋服を探すってのはどうです?」鹿沼が言った。
「えええー……、それじゃあ、私の洋服見てもらえない」
「もう、見ました」と、鹿沼。
「じゃあ、私たち二人で探しましょう。鹿沼くん」
「なんか、楽しくなってきましたね」鹿沼は関を見つめて言った。森川しおりは先を歩いている。
「え?今までは?」
関に選んだ洋服は、黒いTシャツにロングスカートだった。少々不満そうだったものの、鹿沼が「よく似合ってます」と言ってからすぐに、今までの不満が嘘のように無くなったような顔になった。
東京メトロ有楽町線の新木場行きで月島駅まで行くと、もんじゃストリートの中間にある適当なもんじゃ屋に入った。中は広く、客もそう多くはない。三人は生ビールを注文すると、会話の続きを始めた。さっき、電車で怪訝な顔をされたような気がしたが、それに気が付いたのは森川しおりただ一人だった。
ビールが運ばれてくると、三人は黙ってそれを半分飲んだ。
適当に料理を注文すると、森川しおりは「論文は?どう?」と言った。
「ほぼ、終わってます」鹿沼が言うと、「私も、ほぼ……」と関はばつが悪そうにした。
「燈佳、大丈夫なの?今井先生に提出するの、来週だよ」
「えーん」
「僕が手伝うよ。燈佳さん」
「本当に?嬉しい!」
「やっぱり、私邪魔かな」
森川しおりはビールを豪快に流し込むと、店主にもう一杯と声をかけた。
男性店主も七十代くらいだろうか?白い割烹着を着ている。カウンターに清潔感があり、その見た目が味を助長させた。
しばらくした頃、森川しおりの携帯電話が鳴った。それに気が付いたのは鹿沼だった。電話に出ると、その相手が警察であることが分かった。
「あ、森川さんですか?どうも、太田です。今、大丈夫ですか?」
「ええ」
「あのですね、ナイフが見つかりました。凶器の。ルミノール反応も見ましたし、間違いありません」
「どこにあったんですか」
「ええ、K大学の軽音楽防音室のロッカーです」
「軽音楽?」
鹿沼は、森川しおりの方に顔を向けた。
「自宅のペティナイフだと思われていたんですけど、押し入れに置いてあったのを捜査員が見つけました。そのナイフには、ルミノール反応が出ていませんから、凶器じゃないですね」
「自宅にあったナイフをわざわざ隠してから、違うナイフで犯行をしたって言うの?」
「そうです」
「そのナイフの所在は?軽音楽サークルで料理をするのかしら」
「それについては、調べが付いています。道玄酒場の、厨房で使うものみたいです」
「扇人の、バイト先だわ」
「ええ。道玄酒場でペティナイフを盗み出し、それで犯行、その後大学の防音室のロッカーに隠したってことですね」
「どうしてそんな事するの?」
「僕も、そこが腑に落ちません。ちなみに、K大学と道玄酒場に関係している人物は二人ですね。大橋竜之介と、湖山琥太郎です」
「その二人は、あの日何をしていたの?」
「大橋は高校時代の友人と、静岡県浜松市に出かけています。前日の夜からなので、犯行は不可能でしょう。湖山については、恋人の秋野琴葉と、渋谷のレストランに行ってますね。夕方なので、午前中の足取りは不明です。ですが、防犯カメラには十六時に自宅を出る姿が映っています」
「そもそも、何時に犯行が行われたの?」
「夜の二十二時頃です。
「食事中です」
「え!それはすいません、本当に……」
「とにかく、状況はわかりました。また、連絡してください」
「ええ、そういえば、九十九さん、会ってますか?」
「いいえ、会ってません」
「あれえ、もう二週間も連絡がないや」
「え?そうなんですか?」
「まあ、連絡来たら教えてくださいよ」
森川しおりは分かりましたと言って電話を切った。
「なんだって?」関は小鉢の煮つけを口に運んだ。
「扇人のことで。太田さんからだよ」
「そうなの」
「もしかして、何か分かったんですか?」
「うーん、微妙だね。分かったってほどでもないのかもしれない」
それから三杯目のビールまで、事件の話も、大学の話も出なかった
「じゃあ、事件のことを考えましょう」
鹿沼がそう言って話を持ち出した事で、自然に三人は、時間の話題に思考をシフトしたのである。
「皆さん、各自意見はありますか?無ければ僕から・・・・・・」
彼はどうやら、こっそりと事件のことを調べているらしい。それは、関が前に言っていた。
しおりのためだよ、きっと。確かそう言っていたか。
「ええ、解決するまでは、死ねないわ」森川しおりが言う。
「じゃあ、もうやめときますか?」
「続けて」
「僕が思うに、この事件の発端、斉藤慎也殺しを考える事が、解決の一途になると考えています。すなわち、あの事件が、もう二つの事件を誘発したんです」
「誘発??」関がきょとんとした表情で質問した。
「ええ、そうです。例えばA,B,C,D,Eの五名が居るとしましょう。AとBが実行犯です。Cはひょんなことから、AないしはBの隠している秘密を知ってしまった。もちろんAとBは焦ります。それが、三軒茶屋の事件だとしましょう。斉藤がもし誰かに喋ってしまったらまずいと、AとBが考えました。そして、Cを殺害する計画を立て、オリンピック公園で実行した。それで全てが終わったと、AとBは思いました。しかし、斉藤はさらにDにも話していました。Dは、AとBが実行犯であることを知らずに尋ねてしまった。AとBは焦ります。そして、二度目の殺人を行うことを決めました。すなわちK大学の津岡殺しです。おそらく、扇人くんも同様でしょう。そして、三人の被害者が出てしまった。犯人としては、もう後戻りが出来なくなってしまった・・・・・・。そういうわけです」
関と森川しおりは、ただ黙って鹿沼の話を聞いていた。やがて首を縦に振ると、森川しおりは「正直、私もそう思う。でも、交通事故一つでそこまでするかしら、とは思ったわ」と言った。
「相手の名誉のため、だったらどうですか?」また鹿沼が尋ねた。
「名誉?」
「ええ。自分のためではなく、相手が社会的に悪名を得ないように必死になって守ったんです。だからこんな結果になってしまった。今も犯人はきっと、罪悪感と恐怖に支配されているでしょうね。それに、僕だって事件の真相は、おおかた分かってますし」
「えっ?分かってるの?」関が久しぶりに口を開いた。
「はい、何となく、ですけど」
「教えて」
「もう少し、待って貰えませんか」
森川しおりは関を見つめると、「私も、まだ何もかもを開けっぴろげに話す段階ではないと思う」 と言ってビールを飲み干した。
「でも、未必の故意、だったら分かりますよ。ねぇ?しおりさん」
「うん」
「ねぇね、さっきから二人で解決しないでくれない?私、全然分からないよう」
「あれは・・・・・・」鹿沼が言葉を切る。そして森川しおりの方を見据えた。
「仲間割れね」
「そうです」
「仲間割れ??」関が質問した。
「ええ。猪俣さんのボタンをオリンピック公園の現場に置いた人物も、大橋さんの私物のキーホルダーを落とした人物も、津岡さんの判例集に紙を挟んだのも、同じ人物です。そしてその人物は、何らかの理由で脅されていたんだと思います。若しくは金を貰って仕事をしたか、そのどちらかですね」
「待って待って?犯人は三人居るってこと?」関はビールを残したまま話を聞いている。
「いや、四人です」
「四人!?」
「はい。まぁ、一人は亡くなってますし、一人は計画の内容なんて全く知らないでしょうけど」
「実質二人ということ?」
「そうなります。しおりさんはどう思います?」
森川しおりは面食らった顔をして、またビールを口に運んだ。続けてもんじゃときゅうりの漬物も口に運ぶ。
「私は、おおよそ鹿沼くんと同じよ。でも、一つだけ引っかかるの」
「何でしょう?」
「こんな事、学生が成し遂げられるかしら」
「つまり、バックに大人が関わっていると?」
「そう。その可能性はない?」
「ありますけど、現段階では情報不足ですね」
「そうね」
「なんか私、置いてけぼり」関が話した。それ以上、事件の話は出なかった。鹿沼にしても、森川しおりにしても、話半分で頭はごちゃごちゃに絡み合っている。それを解いていく作業は容易でないと、そう思った。店を出ると、月を見つけた。正円の月だ。妖艶な光を発して、三人の影を染めていく。水面にぽつりと水滴が落ちるみたいに、ゆったりとしたリズムの風が吹いた。風には匂いがあった。優しくて、心地の良い匂いだった。
鹿沼はその匂いが何か考えたけれど、草原にある三つ葉のクローバーと四葉のクローバーの両方が揺れる時みたいに、判別が付かないような感情が彷彿とした。記憶を辿ってみても、確かにその匂いの記憶はなかった。ということは、思い出にも包含されない。月の光を浴びながら、三人は風に身を預けるようにゆっくりと歩いた。両足を点検するように、一歩一歩、踏みしめて歩いた。
振り向いてはいけないよ。
こっちは来てはだめ。
前にしか、君の道は無いんだ。
誰かの声が聞こえる。それも、風に流れて来たのかもしれない。
大江戸線の乗り場で森川しおりと別れると、関と二人で有楽町線のホームまで歩いた。地下に風はない。生ぬるい風が、申し訳程度に吹いてるだけだった。
「しおりさん、元気になりますかね」
「え?うーん、今はこうするしかないんじゃないかなあ」
「そうですね」
「なんか鹿沼くん、元気ない?」
「いいえ、元気ですよ。余りまくってます」
「そうなの、ならよかった」
「あの、燈佳さん」
「なに?」
また沈黙。今度は長かった。
「また、出かけましょう」
「うん!いいよ」
鹿沼がいる場所は、空が見えない。でも、今この瞬間に月を見たような気がした。
「月、綺麗ですよ。空の方。ほら、今日は満月だって、ニュースで・・・・・・」
「へ?」
※
鹿沼は関を送り届けると、スマートフォンを取り出して電話をかけた。
「はい」
「今、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「そうか。実は、訊いてほしいことがあるんだ」
「なんでしょう」
「えっとね……明後日は大学に来るか?」
「行く予定は無いけど、何時でも構いません」と端的なに言う。
「じゃあ、十六時に図書館の三階談話スペースで」
「はい」
※
「古賀さんですか?」と流暢な日本語で質問してきた女性を、古賀は誰なのか分からなかった。短すぎるショートパンツに、肩のところがずれたシャツ(その服は何だ?)を羽織っている。服装に気を取られていたので、返事をするのに時間を要した。ワンテンポ遅れて「そうです」と返事をしたためか、相手は怪訝そうな顔をしている。K大の最寄り駅の近くにドトールがあるのだが、そこの二階の席でアイスコーヒーを飲んでいた。彼女が現れたのは、古賀が腰を落ち着けてから一五分も経った頃だ。しかし、待ち合わせの時間まではまだ三分もあるので、どちらも遅刻ではない。リ・スビンは古賀の向かいに座ると、「あの、急にお呼びしてすみません。手短に話しますので……」と言って申し訳なさそうな顔を作った。
「別に、今日は他に予定はないから良いよ」古賀はアイスコーヒーを飲みながら言う。
「古賀さんに、お話があるんです。K大で起きた事件について、クリスマスの事故が関係しているかもしれないと伺いました。そのことについて教えてください」
「クリスマス?事故?待って、何のこと?」
「三軒茶屋で交通事故があったんです。去年のクリスマスイブですね。その事故で、私の姉が死にました。今でも犯人は捕まっていません。でも、K大の事件に関係しているんじゃないんですか?」
「ああ、いや分からないよ。そんなのは。でも確かに、K大からも近い場所での事件だし、何かしら関係しているかも……」
「そうじゃなくてその、ゼミ、に、運転してた人がいるんじゃないかと」
「は?」
「ただの想像です。でも、証拠の中から、日付が書かれたメモがあったって、聞きました」
古賀は狼狽した。
「聞いてないね。ただ、ゼミに居るとすると、俺と、猪俣さんと、あとは大橋くんしかいないよ」
「ええ、わかってます。でもその、何かあったら教えてほしいなって……」
「うん、いいけど」
「そうですか。ありがとうございます、じゃあ、これで」
「もういいの?」
「はい。本当にお呼びしてすいません」
「いいけどさ……」
7
翌日の昼下がり、鹿沼は図書館でそれとなく手に取った小説を読んでいた。十五時二十分、大橋との約束の時間までは、あと四十分だ。小説のページが百頁も進みそうだが、あまり面白くないので、そっと本を閉じた。栞は挟んでいないため、どこがどこなのか分からなくなった。
辺りを見渡しても、人はそんなに居ない。奥のテーブルには、いかにもやる気が無さそうな三人の学生が、モニター付きの部屋でゲームをしていた。モニターは使っていないし、声は外に丸聞こえだ。したがって、なんの意味も為さない、無駄な時間だと、嶋田は推察した。これも、九十九海の癖だった。右斜め前にはメインカウンターがあり、その奥にはテレビとリクライニングできる椅子が置いてある。壁側の本棚には、映画やドラマやアニメのDVDが並べてあった。そのうちのハリーポッターを見ているのだろう。見たことがない嶋田にとっては、意味不明な映像だった。
十五時四十分になると、近くの自販機でコーラを買ってそれを飲んだ。それで
鹿沼は大橋を見つけると、その場所まで歩き、反対側の椅子に座った。グレーのTシャツにデニム、サンダルという姿で、髪の毛はボサボサだった。背は高いが、スタイルは悪い。それをデニムがより鮮明にしていた。知的な顔立ちをしていて、どこか研究者のような風貌も散見される。鹿沼は関によく、「なにそれ?だぼだぼじゃん」と容姿について言われていた事を思い出した。きっと、鹿沼と大橋の二人が並んで歩くとめっぽう似合わないのだろう。身長は同じくらいか、一七六センチの鹿沼は考える。鹿沼よりも二〇センチは身長が高いようだった。
大橋は嶋田を一瞥すると、「それで、何ですか」と単刀直入に尋ねた。
「うん。聞いたいことがあってね」
「はい」
「大橋、このキャラクター知ってるか」
嶋田はスマートフォンでキーホルダーの写真を見せる。それは、大橋が好きなゲームのキャラクターで、ヨドバシカメラのガシャで手に入れたキャラクターの写真だった。
「はい、知ってます」
「実は、このキャラクターのキーホルダーが、最初の現場に落ちてたんだ。それが、これ」
「えっ、なんで鹿沼さんが?」
「話を聞け。このキーホルダーは、どこに付けていた?」
「バイトの制服を入れる袋です」
「無くなったと気がついたのは?」
「確か、事件があってから二日くらいだったと思います」
「つまり、五月の頭ということ?」
「ええ」
「これ、おかしいと思わないかい?」
もう一度現物を見る。金具が無くなっていて、本体だけが残っている。頭の部分は、金具が入っていた場所に五ミリ幅の穴が空いていた。
「何がでしょう?」
「チェーンが外れた訳じゃなくて、金具ごと壊れてる。余程強い力じゃないと、壊れない」
「ええ、たしかに、千切れたような跡がありますね」
大橋はつまらなそうな顔をした。「何が言いたいんですか?」
「つまりね、これは壊れたものじゃなくて、壊したものだと思う」
大橋は面食らった。「壊したもの?」
「ええ、君が」
沈黙が呼応した。少しだけ、気温が下がったかもしれない。
「違います」
「あの日、オリンピック公園の事件の日に、現場に行ったね?」
「行ってません」
「バイト後に」
「行ってません」
「君はこれを現場に置いたんだろう?誰かに脅されたんでしょう?」
大橋はまた言葉を失う。
「どうしてそんな事……」
「トートバッグの中身が散乱してたそうだけど、その中身は見た?」
「見てません」
「斉藤慎也さんはマメな人だったんだろうね。小型のハサミやティッシュ、ハンカチ、薬などをまとめたポーチが入っていたそう。教科書はきちんと並べ、資料はずれないように丁寧に穴がパンチされてファイルに閉じてあった。そんな人が、壊れたキーホルダーをトートバッグに放り込むかい?また、電子タバコは吸ってたそうだけど、携帯吸い殻入れがパンパンになってたよ。普段は道路に捨てない人だね」
「だから、なんですか」
「誰かに脅迫されていた、若しくは、何かしらの手紙やメールを受け取ったんだろ?そこには、四月十六日の二十三時半頃にオリンピック公園の陸上競技場ピロティに来る事、何かしら大橋の持ち物と断定できるものを持ってくる事、黒い服に着替える事などが書いてあったはず。なんのことかわからなかった君は、とにかく指示通りに行動した。そこで見たのが、斉藤慎也さんの遺体だった。どういう脅しがあったのかは分からないけど、こんなところでは?」
「はあ、怖いなあ……あなたは。捕まるのが怖かったんです……、だから……、言えなかったんです。ほとんど合ってるます。そう、机に紙が入っててね、開いてみたら、今きみが言った内容が書いてありました。焦りましたよ。誰の仕業だろうってね。穏便に済ませたかったけれど、誰が書いたのかも知りたいと思いました。怖かったですけど……行きました。そこには、斉藤が倒れていました。焦らないように、キーホルダーを落として、辺りの砂を荒らした。それからなるべく見つからないところまで引きずって隠したんです」
「誰か見た?」
「見てません。凄く暗かったし、パニックになってましたから」
「森川殺しの時、包丁を用意したのも君だね?」
「はい。そうです」
「それは、いくら命令でもやっていいことだと思ったのかい?」
「そんなの判別がつくほど、頭が良いわけじゃありませんから……。そうでしょう?」
「ふざけるな。犯罪に加担した身分で、偉そうな口利くんじゃねえよ」
「すいません」
「筆跡に心当たりは」
「ないです、大学なんてみんなパソコンですし」
「殺害には、関与していないのか?」
「してないですよ」
「ふうん……」
大橋は大きくため息をつく。鹿沼はそれに応じず、「脅迫内容は?」と冷静に質問した。
「さあ……」
「忘れた?」
「言いたくありません」
「じゃあ俺から言おう、大橋。君はリ・スアのストーカーだ」
「……」
「だとしたら?」
「別に。それで犯人から弱みを握られたんだろ?」
「そうです。もう、怖かった」
「そうかい、でも、君は犯人じゃない。それに、君の知り合いだよ。犯人は」
それを聞いた大橋の顔は、みるみる青白くなった。血の気が引くのがわかる。嶋田はそれを見ていて、異常な事を感じ取った。視界が定まってないのか?焦点が合わない。血色は、もっと悪くなった。大橋は机に手を付いたが、そのまま床に倒れ込んだ。
気がつくと、医務室のベッドに居た。近くのパイプ椅子には鹿沼が座っている。
「あ、気がついた!大丈夫?」
「倒れた?」
「うん。だいぶ。長くなってたよ」
「だいぶ?たまにあるんです、貧血気味で」
「見かけによらず繊細なんだね」鹿沼は腕を組んで話した。
「見かけによればどう見えているんですか?」
「それはノーコメント。血は見れる?」
「いや、多分ダメです」
「じゃあ、殺人は無理だね」
「ええ」
「とにかく無事ならいい」
「心配かけました」
「かかった」
大橋はにっこり笑うと、「正直な人だ」と呟いた。
「何かあれば呼んでって、ばあさんが言ってたんだけど、あの人どこ行ったんだろう」
「鹿沼さん」
「へ?」
「さっきの話、全部本当です。でも俺は、犯人が誰なのかは分からないし、その動機も知りません。したがって、これ以上役に立てる気がしません」
「そう」
「鹿沼さんのこと、みんな怖がってますよ」
「なんで?」
「ズバズバものを言うからね、怖いんですとにかく……」
「君は優しい人だ」
「俺は、間違った事をした」
「でも、その時に正しいと思ったんでしょう?だったら、正しいも間違いもない」
大橋はにやりと笑う。「そうかそうか」
なんとも不気味な二人だった。医務室から出ると、大橋は「第二の事件、第三の事件については、俺にはよく分かりません。ただ、同じ人間の犯行だとは思っていました」
「海もそう言ってた。彼は頭が良い」
大橋はうんと頷くと、「大して頭のいい犯人じゃないですよ。ガキ、子供の頭脳です」と言って正門の方向に歩いて行った。大橋は一度も振り返らなかった。
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