「人間中心主義」について(害獣駆除をめぐる諸問題)

 人々の関心を惹きつけるニュースというのはいくつもあるものだが、その大半は政治やスキャンダルなど半ば退屈なものばかりだと思う。しかし近ごろ、それらとは一線を画すような話題が世間を騒がせている。

 そう、熊である。

 古来から日本に存在し、まさかりを担いだ少年に跨がれていたそいつが、現在人里に降りてきて人間を食い殺す事案が多発している。

 そうなると、そのクマを当然『駆除』する必要性が生じるわけだが、そこにはいくつかの議論が存在する。

 例えば、人命のことを考えれば殺す他ないというものや、あるいは人間の都合で熊の命を奪うのはよろしくないというものだ。

 人間の都合。なるほど、興味深い概念である。

 人間が都市開発を進めて、熊のすみかや食料を奪う。飢えた熊が人里へと降りてくる。それを撃ち殺してしまう。確かにこれは熊の都合を一切考慮していない、いわば人間中心主義的な考え方なのかもしれない。

 では熊を殺さずに山へと返すにはどうしたら良いのだろう。駆除反対派の主張は麻酔弾を打ち込み眠らせるというものである。それがどれほど難しいことであるかをさておくと、これは一見妥当な意見に思える。

 ここではあらゆる犠牲は生まれない。問題は一旦の解決を見せる。無論、その後その同じ熊が再び人里に降りてくる可能性はかなり高いであろうが、こちらも同じことを繰り返せばいずれ寿命を迎えた熊はやってこなくなることだろう。

 さて、私がここで考えたいことは、こうして殺さずに熊を追い返し続けることと熊を撃ち殺してしまうこと、一体どちらが人間中心主義的であるかということである。

 一方は熊を殺して手を合わせる。一方は熊の命の儚さ、人類の愚かさに涙を流す。私はそれらどちらをも偽善だというつもりは毛頭ない、。ただ、果たしてどちらが熊という存在に敬意を抱いているかということを疑問に感じただけである。

 その重く冷たい引き金を熊に向けて引く。放たれた鉛玉は熊を貫いて、鮮やかな血がそこから引き出す。そいつはぐったりと倒れて冷たくなっていく。

 軽く無機質なレンズを熊に向けてシャッターを切る。それを大衆に見せつけ、熊がこうして人里まで降りてきてしまったのは誰のせいかと問いかける。

 現代社会に生きていると、人間というものが特殊な存在であることを忘れてしまう。スーパーに行けばすでに肉片となった死骸が食べやすい形となって並び、私たちはそれらの生前の姿に思い馳せることはない。

 かのパスカルは『人間とは考える葦である』と言った。これは人間とは自然の中では足のように弱い存在であるということである。しかし人間に与えられた思考はこれを誤解する。他の獣たちとは一線を画すが、人間を尊大にさせる。

 つまり、私たち人間が思考という偉大な力を持ってしても、自然の前ではどうすることもできないということを忘れてはならないということをパスカルは言ったのだ。

 それを鑑みれば、私たちがいわゆる弱肉強食のこの世界で頂点に立つ生物種だとしても、自然への畏怖を忘れてはならないのである。

 とすれば、我々が持つべきものが銃であるかカメラであるかは考えるまでもないはずだ。

 銃を撃つものが熊の命を蔑ろにしているのではない、カメラを向けるものが熊の命に対する尊敬を失っているのである。

 自分勝手な人間とは一体どちらであろう。もう私がその答えを言う必要はあるまい。

 無論人間も熊も必死に日々を生きているだけである。だがその結果として、双方が殺し合うことがある。それはどちらにとっても、いわゆる罪と呼ぶべきことだろう。

 そしてその罪から逃げ、命を大事にと声高に叫ぶのは容易なことである。一方で罪を背負い、日々を歩み続けることは辛く苦しいことだろう。

 しかし、この世界の本質は後者である。現代社会においては、それを役割分担で一部の人々に肩代わりさせているのに過ぎない。我々は常に何者かの犠牲の上に生かされている。

 であれば、我々にできることは奪ってしまった命に対して手を合わせ、自分たちの身勝手さを自覚し罪の意識を持ち続けることではないだろうか。

 この後味の悪さが生きるということならば、むしろ我々はこれを噛み締めなければならないのだ。

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世界の微分係数 音愛 ろき @Roki_0127

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