不在の在
──チャイムが鳴る。
長きにわたる夏休みにより、昼夜がひっくり返った私の睡眠を邪魔したのは、予期しない来客であった。
インターフォンの画面には、私よりも二回りは歳上であろう男女が立っている。
「聖書をお読みになったことはありますか?」
女性の方が画面越しに私に問いかけてきた。
……ああ、またか。その幾度となく聞いた文言に苛立ちを覚える。一体、何度断ればこの手の人たちは懲りるというのだろう。
そう思って、ぶっきらぼうに結構である旨を伝えた。我ながら語尾が荒くなったと思ったのだが、彼らは先ほどと何も変わらない微笑みとともにその場を立ち去った。
それを見て、私は何だかこんな些事にイライラとした自分を恥ずかしく思った。
神に祈り、教義に従い、信心深く生きている彼らの方が私よりよっぽど幸せであるように見えたのだ。
それで私は、ここで神だとか宗教だとか、そういうものについて一度考えてみようと思い立ってこれを書いている。
ただ、それらに関わる諸問題は大変デリケートであるため事前に断っておくが、私はここでいかなる神や教えを否定しようという意図はない。それだけはくれぐれもわかってもらいたい。
さて、前述したくだりからもはやいうまでもないと思うが一応言っておくと、私はいかなる宗教にも属していない。
というと、人間とは誰も彼も信仰を持っている等々の議論が湧き上がるが、私が話したいのはそういった諸問題ではない。
私はただ、彼らが信じる神というものについて少し興味を持っただけなのだ。
言うまでもなく、この世界には多種多様な教義が存在し、何を信仰するかによって神というのはその姿を如何様にも変える。
特定の信仰を持っていない私には、それらの宗教が八百万の神を容認しているのかどうかを知らないが、日本に住んでいる身からすると絶対神というものを理解するのは大変難しい。
けれどそんな私にも比較的容易に理解できることもある。それは神が存在するということである。
信仰を持たぬ者がこういうことを言うと決まってオカルトか何かに染まったかと言われることがあるが、決してそんなことはない。神はいるのである。なぜ断固としてそう言い切れるかと言うと、神がどこにもいないからである。
はて、これは一体どういうことだろう。一見すると矛盾を孕んでいるように思えるが、私は紛れもない真実を語っているのに過ぎない。
例えば、この世界で最も信仰する人の多いキリスト教を見てみると、イエス・キリストというのはその母マリアが天使ガブリエルによって神の子を孕んだことを知らされている。またイスラム教においても、ムハンマドは天使ガブリエルを介して神の啓示を受けている。
私は各宗教の対立を煽りたいわけではないのでこれらの話の真偽については置いておくとして、これらの史実を辿れば、なるほど確かに天使ガブリエルというのはマリアやムハンマドの元に姿を現したらしい。
つまりその瞬間、天使ガブリエルは東京には存在しなかったということである。
なに、難しく考えることはない。私は当たり前のことを言っているのに過ぎないのだから。ある時刻にイギリスにいたものが同時刻に日本にいるのがあり得ないと言っているだけだ。
一方神はその姿をどこにも見せない。今だってそうだ。神はイギリスにいるかもしれないし、日本にいるかもしれない。ひょっとすると私の隣に、あるいは諸君の眼前に存在しているのかもしれない。
だが当然、その姿を私たちが捉えることはできない。なんと見事なことだろう。まさに神業である。
だから神はどこにもいないのだ。そしてだからこそ、神はいつどこへでも現れる。
彼らの祈りはいかなる場合でも神へ届くし、我々は例外なく神の視界の中でしか生きることを許されない。
神が存在しないと考えるのは勝手だが、その根拠が科学によるものだとすれば私は君に勉強不足だと言わざるを得ない。存在を証明できないから存在しないというのは取るに足らない論理である。何故なら君は存在しないと言うこと自体を証明したわけではないからである。
存在と非存在とは相反する二つのことではない。ただ君が重なり合ったそれを観測できないだけなのだ。
やや抽象的な話になってしまったかもしれないが、神が存在するということを諸君らに了解してもらったところで、今度は神が人々にもたらすものについて話を進めたいと思う。
宗教とは、何らかの神を信仰することで幸せになれるというようなサービスではあるまい。では人々は何のために信仰を持つのか。
そうではないのだ。この考え方自体が誤りである。
彼らにとって信仰とはもはや目的であって手段ではないのだ。
彼らにとって、信仰とは幸せを得るための手段ではなく、信仰自体が幸せであり喜びなのである。彼らはその行為に対して見返りを求めるような、浅ましく卑しい考え方はしていないのである。
これが信仰を持たぬ私と、彼らとの絶対的な違いである。
彼らは日々の生活に確かな幸せのかたちを持っているのだ。一方私といえば大した人生を送っているわけでもなく、夢や野望を抱くような気力もない。まして幸せなどどんなものなのかピンともこないわけである。
ここに私は自身の無意識の羨望の正体を見た。
つまり私が初詣などで健康で入れますようになど、見返りを求めてわずかな金銭と共に祈りを捧げてもそれを信仰とは呼ばないのだ。
きっと、彼らの精神状態とは私のような捻くれ者には辿り着けない境地であろう。よもや、彼らのような者が悟りを開くのかもしれない。
何にせよ、信仰を持たぬともああして穏やかに日々を過ごしたいと思うばかりである。
どこからかこちらを静かに捉える神の存在に想い馳せつつ、そっと筆を置く。
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