ともしび照らす

 水溜まりから溢れた水に襲われて呑み込まれた、と思ったが、いつまで経っても造像していたような衝撃はなく、呼吸も何故か問題なく出来る。

「あかり、痛い」

「ごめん……」

 腕に込めていた力を緩め、恐る恐る目を開く。

「すまぬ、驚かせたの」

 あかりの頭上に、今にもあかりを呑み込みそうな波のドームが覆い被さっている。背後から聞こえた声に合わせるように、波のドームが震えて揺らぎ、するすると退いていった。まるで逆再生の動画を見ているように。

 退いていく波の動きを追い掛けるように、あかりは水溜まりを振り向いた。

 泉から流れ落ちる水と幾つもの宙に浮かぶ水滴に彩られた巨大な水溜まり。その中心、水面に浮かぶようにして半透明の巨大な蛇がゆるりととぐろを巻き、こちらに鎌首をもたげていた。

「人の子に名を呼ばれるのは何時以来であったか。礼を申そう」

 いや、蛇、ではない。半透明の胴に浮かび上がる鱗の文様は小葵のそれよりずっと大きく、よく見れば背中や尻尾の先、顔の付近に毛の揺らぎがあるのが分かる。そしてなんと言ってもその頭部に生えた二本の角。

 今あかりの目の前に佇んでいるのは蛇ではなく龍だ。

「小葵」

 目の前の龍――白樂が目蓋を持ち上げ、金色に輝く瞳を小葵に向け、優しい声音で囁いた。小葵はその目からはらはらと涙を流しながら身を伸び上がらせ白樂に頭を寄せた。

「お久しゅうございます。白樂様……ずっと、ずっとお会いしとうございました……」

「おやおや、すっかり大きくなって。ほほ。最後に見た折には我の髭程であったと言うに」

「白樂様、白樂様。申し訳がありませぬ。白樂様のお留守を預かった身であるというのに我はお役目を果たせず、挙げ句世が乱れ気が淀みし時勢には山の荒れるを留めること叶わず、真神共に介入され、それを退しりぞける力もありませんでした。ああ、白樂様。この小葵めをお叱りになってくださいませ」

「何を申すか。そなたはようやってくれた。この場を守り、我の目覚めをずっと待っておってくれたのじゃ。それだけで十分よ」

 白樂は顔を小葵に擦り寄せ、優しく微笑んだ。……人に近しいところなど何一つとして無い顔で、しかも半透明で見え難いというのに、確かに白樂が慈愛に満ちた笑みを浮かべたのがあかりには分かった。

「あかり」

 白樂は言うとあかりに向き直り、すいと首を下げて目線をあかりの高さに合わせた。金の瞳があかりを包み込むように見つめる。

「そなたのおかげで我は不完全なれどこうして目覚めることが出来た。改めて、深く感謝の意を示そうぞ」

「い、いえ、そんな。恐れ多い事でございます」

 白樂と目を合わせ、その姿を見た瞬間、脳内にふわりと記録の一節が漂う。

「お初お目にかかります。わたしは、燈火でこそありませんが、燈火の末席に連なるものです」

「燈火、か。人の身でありながら幽世の調停に関わる希有なモノ達よの。覚えておるぞ。遙か昔、我を訪ねてきておったな」

「そうした。……あの時から、ずっと白樂様は」

「あの時我は度重なる天災により力を失い、眠りにつこうとしていた。その時、我の山を代わりに守ると言うたモノの言を退けてくれたのであったか」

 水神守りし山、火神が守るは相応しからず。

「はい。白樂様のお力であれば眠りについたとて、その力を山に巡らせ、守り治めることは出来るからと。……しかし」

「あれほど急激に気が乱れ、穢される時が来ようとは夢にも思わなんだ。ここも澱み穢れ、我は力を失った」

 丁度新しい技術が入り、産業が爆発的に成長した時期だ。そしてその少し後にはこの国全体が戦争に巻き込まれている。この山もその波に呑まれ、ただでさえ弱体化して眠っていた白樂は穢れ澱みを弾く事も清めることも出来なかった。そして微睡み程度だったその眠りは深く、言うなれば仮死状態にも近いようなものにまでなり、この山は治める神の居ない山になってしまったのだ。

「……あの時代、我ら燈火も断絶しており、過去携わった調停について今一度問い直すということも出来ずにおりました。不手際を、お許しください」

 詳しくはあかりには分からない。けれど記録は戦争が起きた時代付近で断絶してしまっている。記録が再度紡がれるようになるのは、灯子――おばあちゃんになってからだ。

「主がおらず荒れた山に真神が遣わされ、その真神と神格を纏い長年この山に住まう小葵とが並び立ち、そして対立するようになったのは、燈火の不手際故でございます。灯子が一度彼らの調停に入った際には、未だ白樂様の力が戻っておらず……」

 真神が白樂の眠るを知れば、彼らは穢れに侵され力を失った神を排除したことだろう。真神のやり方が特別冷酷な訳ではない。穢れて墜ちた神はいずれ荒神や禍神となり災厄をもたらす。そして一度墜ち切り荒神や禍神になった神を殺すのは並大抵の事ではないのだ。力を失い眠っている内に排除するのは当然の道理である。

 小葵は生きた年月こそ長く強い力と神格を持つものの、山を治める『神』となるだけの力は持ち合わせていなかった。しかし白樂が死ねば、小葵はそれこそ恨みや怒りに取り込まれ荒神に成り果て、暴れ狂うだろう。

 この状況を灯子は全て把握していた。そして灯子は白樂が決して墜ちず、いずれ力を取り戻し目覚めるという確信もあった。小葵が未だ強く白樂を慕い崇めており、また白樂の力により湧き出でた水が未だ枯れず、清く澄み続けていたからだ。

 力を失い深い眠りにつけど、白樂はこの山を守る水神としての性格を未だ失っていない。

 今霧館の山では、水を司る小葵がこの山を巡る水を清め続け、真神は山を巡り澱みや歪みを正す役割を担っている。蛇神と真神の並び立つこの霧館は完全な調和が巡り、守られていた。この状況であれば地の底の穢れも自然と清まり、白樂が目覚める日もそう遠くないと、そう灯子は判断したのだ。

 そのため灯子はこの泉に、正確にはこの泉の下に隠された神域に、何者も干渉出来ぬようにした。真神だけを遠ざけてはバランスが保てないからと何も知らない振りをして、真神も小葵も遠ざけ、宙ぶらりんでどっちつかずの状態が保たれるように取り計らったのだ。白樂が力を取り戻し、目覚めるその日まで。

「よいよい。全ては我の至らなさ故のこと。我にもっと力があれば、このようなことにはならなんだ」

「白樂様の所為などではございませぬ! 白樂様はずっとこの霧館を守るために心身を砕いていらっしゃった!」

「ほほ、小葵。どれだけ言い繕おうと非は非である。しかしそなたのその気持ちは快いの。我が力を取り戻し、こうして目覚めることが出来たのは小葵、そなたのおかげじゃ」

「そんな、白樂様。勿体なきお言葉にございます……!」

 実際白樂が霧館を守る水神の性格を失わず、こうして力を取り戻すことが出来たのはひとえに小葵の白樂に対する強い気持ちが一番の要因であると言える。神の力の源として、その一つに信仰心が挙げられる。この時に言う信仰心とは人からの信仰がメインで語られがちだが、実際の所これは人からの信仰に限った話ではない、らしい。

「あかり、いや、今話しているのは燈火かの。穢れ清まり澱みは流れ、我はこうして目を覚ました。なれど……」

 言葉を切り、白樂は自身の身体を悲しそうに見下ろす。

「まことに苦惜しいが、我の力は十全ではない」

「……そのようですね」

「我が全力でお支えいたしまする! 我は最早守られるだけのか弱き子蛇ではございません!」

「小葵、そなただけでは力不足ぞ」

 柔らかい口調ながら、きっぱりと白樂は言い切る。

「外に真神の眷属とそなたの眷属が控えておるな。真神に我の事と、こなたの泉に来るよう伝えよ」

「白樂様! しかし……!」

「小葵、早う。そなたはそのまま上の泉へと上がり、真神を迎えよ。我も直に上へと上がる故」

「……畏まりましてございます」

 有無を言わせぬ白樂の言葉に、うなだれた小葵は体を返してしゅるりと這っていく。

「あかり、燈火としてではなくそなた個人へ、改めて礼を申そう」

「あっ、いえ! そんな。わ、わたしは、何もしてないです」

 白樂に声をかけられた瞬間、あかりを取り巻いていた気配がふっと薄れ、消えていくのが分かった。必要な記録はもう全て見たから、箱が閉じるのだ、と感覚的に理解する。最後に懐かしい気配があかりの頬のあたりをするりと撫で、消えていった。

「何を申す。そなたが来ねば我の目覚めはもっと遅れていた。霧館に何が起こっておったか、今の我には大方分かっておる。真神と小葵の対立が決定的になる前にと、時期を見て先代がそなたを遣わしてくれたのであろう?」

「それが、……今回わたしがこのことに関わったのは本当に偶然で」

 あかりは目の前の白樂にあかりが風鈴を壊したところから物の怪道に連れ込まれ、ここに至るまでの経緯を掻い摘まんで語る。それを聞いた白樂は金の目を丸くして、

「おや、なんという……しかし、計ったような偶然じゃ」

 と呟いた。

「そこな子狐、子狸」

「へっ?」

 白樂が目覚めてからこっち、ずっと蚊帳の外で所在なさげに隅っこで座っていた朽葉と檜皮は、急に白樂から声をかけられて頓狂な声を上げた。

「聞けばそなたらがこのあかりをずっと守り、ここまで導き付き添ったというではないか。あかりだけでなくそなたらにも礼を言わねばならぬ。感謝するぞ」

「そんな、ええと、恐れ多いこと、です」

「えへへ、と、当然のことしたまで!」

 二者二様に照れる二匹を微笑ましそうに優しい目つきで見つめると、白樂はもう一度あかりに向き直った。

「あかり、それでは我も地上へと向かう。ついては最後の調停をお願いしたく思うが、よいかの?」

「……はい」

 じっとあかりを見据える金の瞳を見つめ返して、ゆっくりと頷く。白樂は満足げに頷き、

「では、上で会おうぞ」

 と言うなり身を躍らせて水溜まりに飛び込んだ。水飛沫があかりの顔に跳ねかかる。

「うわっ!」

 思わず腕で顔を覆って目を閉じ、開いたときにはもう目の前に白樂の姿は無く、水面に静かな波紋が揺れているだけだった。

「白樂様、行っちゃったね」

 とことこと歩み寄ってきた朽葉が水溜まりを覗き込んだ。水溜まりの底は相変わらず澄み切った藍色で満ちている。

「あ~、緊張した……」

 後ろからの声に振り向けば、檜皮が四肢を投げ出してへたり込んでいた。

「朽葉も檜皮もありがとうね」

「ううん、ぼくたちただあかりさんについてきただけだよ」

「そんな事無いよ。最初に助けてくれたときから、二人の助けがなかったらわたしここまで来られなかったよ。本当にありがとう」

「オレ達、役に立ったろ?」

 ニッと得意げに笑う朽葉の頭を力一杯撫で、檜皮の頭も同じようにわしゃわしゃと撫で繰り回す。洞窟に二匹の笑い声がこだました。

「……さて、わたし達も早いところ戻らないと」

「だな! どうする? あかり、乗る?」

「ううん、自分で歩くから大丈夫」

「朽葉ー、暗い道通るときに狐火だけお願い」

「ん、多分オレの狐火、要らないよ。ほら見てこれ」

 一足先に道へと戻った朽葉が目を輝かせてあかり達を呼ぶ。言われたとおり歩いてきた道を振り返ると、来るときは真っ暗でほとんど光の無かった洞窟の細い道が、淡い水色の光で満たされていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る