第35話


今日も数学。昼休み前の授業で、みんな集中力が切れていた。そんな中、俺はまた黒板に夢中だった。すらっとした後ろ姿、美しい姿勢で書かれていくこれまた美しい文字。目で追う度に高鳴る鼓動、この気持ちは尊敬じゃない――絶対に。

そうして見蕩れていると、夏莉がシャーペンの後ろで強く続いてきた。


「春希って……文字綺麗だね」

「あ、ほんとだ。すげえ」

「いつも黒板で解いてたの春希だったんだねぇ、数学興味無さすぎて知らんかった」

「……そんなこと言ってると当てられるよ」

「いやマジ無理ー!!」

「てか秋也、ほんとに真面目に数学勉強してたんだね。てっきり文字見てるだけだと思ってたよ」


―――そうだよ。

文字を、見てるだけだったんだ。


「誰も答えられない時、春希くんは必ず式まで丁寧に書いてくれるから助かってるよ」


おじいちゃん先生が微笑むと、春希は照れくさそうに「いつでも書きますよ」と笑った。春希のメガネのレンズには、俺は映らない。目線の先は隣の席のふゆちゃんで、席に戻って座って、また真面目にノートを書き出す。それが、圭原 春希という人間だ。


「秋也、春希の事見すぎ」

「え!?」

「スマブラのことで気になってんでしょ、後で話しかけなよ」

「お、おう……」


心臓が飛び出しそうになって、息を飲んだ。

このままだとバレるのも時間の問題だと本気で思って、これは拳を握って、この気持ちをずっと押し込めることにした。ペン先が刺さっていたかった。

この日から、数学の成績が少しずつ下がるようになった。その姿を見るためだけに受けてたが、モチベーションになっていたらしい。


「秋也、教えてやろうか?」

「えっ」

「俺、数学得意だからさ」


夏莉が職員室に行ってる放課後の事だった。なんだか焦って、理由もなくちらっと美咲さんのいる方を見た。目が合って、「がんばれ」と口パクで伝えられた。


「じゃあ、お願いしようかな」

「夏莉も確か数学苦手だったよな?どうせなら全員でやるか!」


少しだけ浮いた気持ちが地面に叩きつけられて、机の模様と目が合う。


「そうだね、夏莉も喜ぶよ!」

「っしゃー、決まりだな!」

「……俺はいいや」


笑う春希の隣で、ふゆちゃんは淡々と言った。


「夏莉も、しばらくバイトあるらしいから誘うのやめといた方がいいよ」

「バイト…?」


夏莉がバイトなんて、そんな話聞いたことない。

なんで俺が知らないことをふゆちゃんが知ってるんだ?

俺の知らないところで、夏莉と――――。


「…んじゃ、俺とふたりでやるか」

「そう…だね」


俺の知らない夏莉を、ふゆちゃんは知っている。

夏莉を……。


「じゃ、俺先帰る」

「おう、また明日ね」

「また明日」


夕焼けに照らされたふゆちゃんはそのまま背を向けて、教室から出ていく。


「意外とふゆちゃんって、夏莉のこと詳しいよな……」


ふゆちゃんが閉めた扉を見ながらそう呟いた春希の目の理由は、俺には理解できなかった。

そうだね、なんて話して、ぼーっとしているうちにその扉がガッと開く。


「マジでタナセン話し長すぎ…ってあれぇ!?ふゆちゃんは!?」


ダッシュで戻ってきたであろう夏莉は、夏らしく汗をかく。品もなく袖で拭きあげて、胸元をパタパタと仰いだ。珍しく第2ボタンまで開けられた胸元を、俺は咳払いをしながら目を逸らした。

春希はどうだろうか。その目線を確かめたくはなかった。


「先帰ったよ」

「えー!!!話があったのに」

「なんの話?」

「秋也には関係ない話!」

「へぇ……」

「夏莉、今日はラーメン行くの?」

「あーー……ちょっとこの後用事あるから帰る」


バイトだろうか。

夏莉の用事なんて、滅多に……。


「先帰るわ!またね!!」

「おう……」


嵐のようにまた走って去っていく夏莉の背中を見て、春希は「品がないな」と笑った。

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