第13話

☆☆☆


夢の中で尚美は尚美の姿だった。

隣には健一がいて、ふたりは手をつないで歩いている。


なにか楽しそうに会話しているのだけれど、その会話の内容までは尚美の耳に入ってこなかった。


だけど胸の辺りがとてもあたたかくて優しい気持ちになっているから、きっと楽しい内容の会話なんだろうと思う。


そうしてしばらく歩いていると、突然健一が尚美の体を抱き上げた。

そのまま尚美に頬ずりして嬉しそうに微笑む。


そして『ミーコ』と呼ばれた瞬間、驚いて目を覚ました。


ハッと息を飲んで周囲を見回してみるとそこは健一の部屋で、窓から差し込む日差しはオレンジ色になっている。


いつの間にか夕方になっている。


昨日散々遊んだせいか、すっかり疲れていたみたいで熟睡していた。

クッションから下りてうーんと猫の伸びをして、ぶるぶるっと震える。


こうすることで気分がスッとすることがわかった。

人間のストレッチと同じ効果があるみたいだ。


こうして猫として順応してゆくと、猫の人生もなかなか悪くないかもしれないと思えているから時々本気で怖くなる。


このまま尚美に戻ることができなくなるんじゃないかとか、戻らなくてもいいやとか。


そんなことは絶対に考えちゃいけないのに、好きな人から愛されている時間が幸せすぎて人間でなくてもいいと感じてしまう。


尚美は自分の気を引き締めるようにしてスッと背筋を伸ばす。

今のところ猫として順応してきてしまっているけれど、問題は山積みだ。


尚美の体は事故に遭った後どうなったのか。


猫の魂がもし尚美の体に入っていたとしたら、自分は猫みたいな態度を取っているんじゃないか?


いや、それ以前にあの事故で生きているのかどうかすら怪しい。


健一が喪服を用意したりしていないからひとまず安心しているけれど、考えてみれば同じ会社の人間全員が葬儀に出席することはない。


健一は上司だけれどわけあって別の人が尚美の葬儀に出ている可能性だって否定できない。


だとすれば、尚美はもう……。

そう考えただけゾッとする。


私はここにいるのに、もう死んでいるなんて信じられないし信じたくない。

だから今は自分はまだ生きているのだと信じて行動するしかない。


「ただいま」

そんな声が聞こえてきた瞬間尚美は犬のように駆け出して健一の足にすり寄っていた。


さっきまで考えていた真剣な悩みが一瞬にして頭の中から抜け落ちていく。

健一に会えたことが嬉しくて嬉しくてたまらない。


「今日は早く帰るって約束しただろ?」

健一がミーコの体を抱き上げて頬ずりしてくる。



最初は恥ずかしくて仕方のなかったこの行為も今では慣れっこだ。

互いに頬を擦り寄せて体温を分かち合う。


大好き。

愛してる。


言葉は通じなくてもそんな気持ちが存分に伝わってくる。

それから健一はミーコの大好きなねこじゃらしのオモチャを取り出して遊び始めた。


自分は仕事で疲れているはずなのに、それを感じさせないくらい熱心に遊んでくれる。

ミーコは健一のあやつるねこじゃらしを捕まえたくて必死に追いかける。


あぁ、これじゃ明日も昼間ぐっすり眠ってしまう。

夜眠れなくなったらどうしよう。


そんなふうに考えることはできるのに、はやり本能には抗えない。

「喉が乾いただろう。ホットミルクはいるか?」


そう聞かれて尚美は「ミャア」と返事をした。

走り回ったおかげで喉はカラカラだ。



健一がすぐにミルクをレンジで温めてくれてそれを舐めようとした、そのときだった。


クンッと香って来たミルクの匂いがいつもと違うことに気がついて舌を引っ込めた。


そして慎重に匂いをかぐ。

やっぱりなにか違う気がする。


少し酸っぱいような匂いがしている。

尚美は健一を見上げて「ミャア」と一言鳴いた。


いつもは勢いよく飲み干していくミルクを前にして少しも飲もうとしないミーコを見て、健一も不思議に思ったのだろう。


「どうした?」

と言いながら指先でミルクの温度を確かめている。


違うよ。

温度じゃなくて匂いが変なの!



異変を知らせるために「ミャアミャア」と立て続けに鳴いて、ミルクの皿を足先でつつく。


すると健一はなにかを思い出したように「あっ」と声をあげて冷蔵庫を開けた。


そしてさっきの牛乳のパックを取り出すと顔をしかめた。

「しまった。昨日で賞味期限が切れてたんだ。朝は大丈夫だったのにな」


1日くらい賞味期限が切れていても大丈夫だと思うが、今の尚美の鼻は敏感だ。

少しの変化も気がついてしまう。


「教えてくれてありがとうなミーコ。牛乳買ってこないとな」

頭をなでてそう言われて尚美はハッと気がついた。


猫の姿ではなにもお礼ができないと思っていた。

せめて迷惑をかけないように、いい子でいることが最善なのだと。


でも、この姿だからこそできることがあるかもしれない!

そう気がついたのだった。

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