第19話。伊織と結末
「
「ああ。大丈夫だ」
目の前にある建物。住宅街にある家の中でも新築なのか随分と綺麗に見えた。自分の隣には瑠夏が立っており、今日は約束を果たす日だった。
ただ、
それに瑠夏が一人で説得をしても無駄だとわかっている。父親が聞く耳を持たないのなら、無理やり聞かせる状況を作り出せばいい。
「どうぞ、上がってください」
瑠夏に案内されたリビング。扉を開けた時から既に席に座っている人物が目に入っていた。
「お父さん、ただいま」
瑠夏の父親。隣の席には
「伊織くん。そこに座るといい」
向かいの席に座ると、隣の席に瑠夏が座った。
まるで、あの日の再現をしているようだ。唯一違っているのは、今日は千冬も席に着いているということだった。
この場の空気を察して、席を外すことくらいは出来たはずだ。それをしないということは、千冬なりに覚悟があって座っているのだろう。
「私がお茶を出します」
千冬が席から離れたのは、三人が誰も話を始めなかったからか。先に電話で伝えた内容は瑠夏の今後をどうするかという話だけだ。
まだ決定的なことは何も言っていない。
「お父さん」
最初に会話を切り出したのは瑠夏だった。
「ボクは伊織さんと付き合ってます」
しかし、瑠夏の発言はキッチンに立っていた千冬が物を落とすくらいには衝撃的なものだ。千冬が心配だが、瑠夏の言葉は今日の戦いの開戦合図と言ってもいい。
「そういう冗談は好きではないかな」
父親が瑠夏の言葉を冗談と受け取った様子はない。
冗談であることを願っているのか、それとも呆れているのか。どちらにしても父親の態度は以前とは変わらないようだ。
「伊織くん。わたしはキミを信頼して瑠夏を預けたつもりだった。なのに、どうして、瑠夏がこんな考え方をするようになっているのかな?」
冷静であり、怒りも感じる。自分の子供に余計な考えを植え付けたと思われても仕方ないだろう。瑠夏の持っている信念とは別に、自分の意思で瑠夏との関係を進めたのは紛れもない事実だった。
「瑠夏は何も変わっていませんよ。ずっと瑠夏は自分の意思に従って生きてきました。それを否定し続けてきたのは、アナタ達ですよ」
千冬が運んできたお茶を並べる。それが終われば千冬が再び父親の隣に座るが、ここから先は千冬にも辛いものを見せてしまうかもしれない。
「瑠夏は生まれた時から男だよ。男として育てることが何が間違ってるのかな」
「男や女なんて話をしているんじゃないです。瑠夏は瑠夏として生きているんです。それを男らしくないと、何故、否定するんですか?」
「それを世間が許さないからだよ」
また瑠夏の母親の話を出されたら返す言葉が無くなる気がした。実際に瑠夏の行動によって、母親が追い込まれた過去がある。だからこそ、瑠夏が強く出れない理由でもあった。
「伊織くん。キミは女性経験が少ないのだろ。でなければ、男を好きになることなんて絶対にありえないはずだ」
確かに女性経験はほとんど無いと言ってもいいのだろう。匂いも、体つきも、何もかも女性と瑠夏では違いがある。しかし、体の関係を瑠夏に求めているわけではない。
「俺は瑠夏のことが好きです」
その気持ちだけは揺らいだりしない。
「……伊織くん。わたしは話し合いで解決するならそれでよかった。しかし、キミが考えを変えないというのなら、強引な手段を取るしかない」
「何をするつもりですか?」
父親が手元にあったケータイに手を伸ばす。
「キミを誘拐犯として警察に突き出す」
「……っ」
父親の許可を得て瑠夏を預かっていた証明を警察にすることは出来ない。それはつまり、瑠夏を預かっていたのではなく、誘拐していたと警察に伝えることも出来る。
父親は既にケータイを耳に当て、連絡を取り始めている。瑠夏が立ち上がり止めようとしたが、先に動いた人物がいた。
「……っ!」
「ごめんなさい。手が滑りました」
千冬が手に持ったコップの中身を父親に向けてかけていた。ケータイからは液体が垂れており、千冬の行動が電話を止めるためだとわかった。
一瞬、場が静寂に包まれた。しかし、すぐに父親が腕を動かして千冬の顔を殴った。千冬は殴られた反動で飛ばされ、地面に倒れてしまう。
「千冬!」
瑠夏が千冬の元に駆け寄った。
「……よく、自分の子供が殴れますね」
ここで自分も冷静さを失えば、止める人間がいなくなってしまう。自分が父親のやったことを責めたのは千冬を殴った事実に腹を立ているからだ。
「わたしは間違っていない」
この人間は冷静なふりをして、自分の気に入らないことは暴力的に正そうとする。千冬が本能的に恐れていたのは、この本性に気づいていたからか。
頑固な人間の考えを変えるのは、想像以上に難しい。だとしたら、初めから話し合いなんて無駄でしかなかったのか。
「いいえ。アナタは間違っています」
例え、すべてを失う結果になったとしても、この人間だけは否定しなくてはならない。言葉と暴力で自分の子供を抑えつける。それが親だからと許されるわけではない。
「瑠夏と千冬の顔を見てください」
二人が父親に向ける表情。怒りや恐怖、とてもじゃないが子が親に向ける顔ではなかった。いずれその強い感情は人を殺す恐怖すら忘れさせるだろう。
それに気づけない人間が父親を名乗っていることが腹ただしくて。本当に残念だった。しかし、自分は二人の父親の代わりにはなれない。
「わたしは……」
父親の言葉を遮るようにリビングの扉が開いた。
部屋に入ってきたのは一人の女性。少しやつれた様子で髪も乱れている。今は全員の視線が彼女に向けられていた。
だが、すぐに父親が立ち上がり彼女の元に駆け寄った。その姿は病人に気を使うような、そんな動きをしていた。
「どうして、起きているんだ」
「もう。いいじゃないですか」
それは誰に向けられた言葉だったのか。
「何を言って……」
瑠夏の足元に何かが投げ捨てられた。
それはハサミのようなものだ。
「私をアナタを言い訳に使わないでください」
誰に言われなくても、彼女の正体が瑠夏と千冬の母親であることはわかった。
「瑠夏に謝ってください」
彼女の言葉で父親が瑠夏に視線を向けた。両親の会話が気になったのか、瑠夏は既に父親の傍まで近づいていた。
だが、次の瞬間、父親は膝を着き、瑠夏に向かって頭を下げた。その姿は先程までの態度からは想像も出来ないものだ。
「すまなかった」
「何を謝ってるか、ボクにはわからない」
「……瑠夏の髪を切ったのはわたしだ」
瑠夏が最初に家を飛び出した原因。父親が瑠夏の髪を勝手に切り落とし、それに瑠夏が耐えられなかった。
すべての真実を確定させる父親の発言。突然の出来事で自分は何も言えなかったが、瑠夏は違う。瑠夏は地面に落ちていたハサミを拾って、強く握った。
「どうして、ボクの髪を切ったの?」
「……これ以上、母さんを苦しませないためだ」
母親が周りから責められ体調を崩したという話は本当なのだろう。それを少しでも良くする為に父親が瑠夏の髪を切り、元の生活を取り戻そうとした。
「っ!自分が苦しかっただけでしょ!」
瑠夏がハサミを持った手を振り上げたが、急いで自分が止めに入った。千冬も瑠夏の体を掴んで止めている。
「ずっと……お前が怖かった……」
その言葉で、瑠夏の手からハサミが抜け落ちた。
「ボクが……怖い……?」
瑠夏が自らの顔に触れる。
一瞬だったが、瑠夏の顔は目を背けたくなるような表情をしていた。父親は瑠夏の本性に恐れを感じて自分のやったことを言い出せなかったのか。
「ボクは認めてくれるだけでよかったのに……」
瑠夏の体から力が抜けていく。瑠夏が抱いた感情も父親の吐き出した感情も。行き場を無くして、誰にも届くことはなかった。
「ごめんなさい」
この日、瑠夏と父親の繋がりは断たれた。
お互いがお互いに抱くべきではない感情を心に孕んでいる。そんな人間同士が一緒に居ることは難しい話だった。
世の中、何もかも上手くいくなんてありえない。
そう思える結果で終わってしまった。
本当に残念な話だ。
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