第5話。伊織と兼島

 瑠夏るかと一緒に暮らし始めて一週間が過ぎた頃。


鳴澤なるさわ先輩。それって、もしかして……」


 会社の休み時間に飯を食ってると、小林こばやしに声をかけられた。


「愛妻弁当ってやつですか?」


「どうしてそうなるんだ」


「だって、これどう見ても手作りですよね!」


 確かに今食ってるのは瑠夏が早起きをして作ってくれた弁当だ。今まではコンビニで弁当を買っていたが、瑠夏が作ってくれるというので、今日は持ってきていた。


「お前、弁当一つでよく騒げるな」


「だって!鳴澤先輩、これまでまったく女性の気配がなかったじゃないですか!」


「別に女の手作りってわけでもないぞ」


 説明する手間を考えれば、適当に答えるべきか。


「小林君。うるさい」


 兼島かねしまが小林の頭を紙の束で殴っていた。


「兼島先輩!それ!パワハラですよ!」


「じゃあ、通報する?そしたら私の仕事全部、アナタ達に割り振られると思うけど、ちゃんと出来るのかしら」


「ひ、卑怯だ……」


「だったら、細かいこと一々気にしない」


 実際、小林も兼島からパワハラを受けたとは本気で思ってはいないだろう。よほどの馬鹿でもない限り、兼島の態度に苛立ちを覚える人間もいないはずだ。


「で、鳴澤君」


 兼島が小林を手で追い払っていた。


「そのお弁当。誰が作ったの?」


「俺の弟ですよ」


「弟……?」


 自分の家族のことを話した覚えはないが、兼島は納得していないようだった。


「今、弟と二人で暮らしてるんで」


「へー弟君か」


 実際は姉貴が一人いるだけで、弟も妹もいなかった。しかし、瑠夏が他人であることを兼島に伝えてもややこしくなるだけだ。


「じゃあ、この前一緒に居た子は違う子だね」


「この前……?」


「鳴澤君の用事って、ショッピングモールで女の子とデートすることだったんだよね」


 瑠夏と出かけたところを兼島に見られていたのか。瑠夏の姿は遠目で見れば、見破られることはほぼないだろう。


 それを兼島は勘違いしているようだが、正体が瑠夏であることを話すつもりはない。自分は心のどこかで兼島を信じることが出来なかった。


「あれは姉貴の知り合いてすよ」


「はいはい、そうですか」


「じゃあ、彼女って言えば信じるんですか?」


「いや、それは絶対ありえないでしょ」


 なら、ただの知り合いと答えるしかない。用事があったことは事実で、後ろめたいことなんて何も無いのだから。


「すんすん」


 いきなり兼島が匂いを嗅いできたせいで、咄嗟に椅子ごと離れてしまう。


「鳴澤君。なんかいい匂いする」


「匂い……?」


 袖を匂ってみると、確かに香りがあった。


「ねえ、鳴澤君。本当に弟と暮らしてるの?」


「兼島先輩。しつこいですよ」


「でも、ほら……」


「すみません。飯食う時間が無くなるんで」


 会話を強引に切ったのは、兼島に対して感情的になってしまいそうだったからだ。何故、ここまで人のプライベートに踏み込んでくるのか。話したくないことくらい誰にだってあるというのに。




「飲み会か」


 仕事の合間に小林から飲み会の話を聞かされた。


 今度会社でやる飲み会。自分だけ不参加というわけにもいかないが。上司に気を使うせいで、参加しても楽しくはなかった。


「鳴澤先輩。自分、初めてなんですけど」


「そうか。まあ、頑張れよ」


「何を頑張ればいいんですか?」


 酒癖の悪い上司の対応をするのはだいたい新人の仕事だ。酒が飲み放題と思って、軽い気持ちで参加した新人が何人トラウマを植え付けられたことやら。


 それでも最近は兼島が上司の対応をして、被害者も減っている。飲み会では兼島の重要性をあらためて理解することになるだろう。


「お前、酒は平気か?」


「そんなに強くはないですね」


「あまり無理はするなよ」


「え、もしかして、鳴澤先輩。自分のこと心配してくれてますか?」


 そんなつもりはなかったが。


「二日酔いなんかで会社休んだら、後で兼島先輩からネチネチ言われるぞ」


「あーそれはヤバいですね」


 話が済んだのか小林が離れて行った。また話の途中で兼島が現れると思ったのか、小林は先に逃げたのだろう。


 しかし、小林の行動は無駄だ。兼島なら会議に出ていて、しばらく現れることはない。最近、周りの人間が兼島に仕事を任せることも増えたらしく、忙しそうだった。


 残業が減ったのも兼島のおかげ。とは思わないが、それなりに影響はあった。ただ、それがいい影響だけとは限らないが。




「これ重いな……」


 それは備品倉庫から帰る途中のことだ。


「兼島の奴。最近、調子に乗ってますよね」


 そんな声が聞こえてきた。


「お前、声が大きいぞ」


「平気ですよ。あの人、タバコ嫌いだから、こっちに来ないですし」


 喫煙所で話し合っている男二人。別の部署の人間なのか、見覚えはないが、兼島の話は向こうにも伝わっているようだ。


 盗み聞きをするつもりはなかったが、兼島の話が聞こえた時。足を止めてしまった。


「いくら仕事が出来たって、女なんていつ結婚するかもわからないじゃないですか。たぶん、上の人間もそれがわかって、この前の企画を……」


「くだらない妄想で何かを語るのはやめておけ。既に兼島が抱えている仕事の量を考えれば、当然の結果だ」


 どうやら、片方はまともなようだ。不満を漏らしている人間も日頃のストレス発散みたいなものだろう。ただ、少なからず兼島に似たような感情を抱いている人間が会社内にいるはずだ。


 兼島は若く、仕事が出来る。それだけで十分に他人から嫉妬される対象になってしまう。本人からしてみれば理不尽なことだが、世の中なんてそんなものだ。


「そういえば、兼島ともめた奴がいたって聞きましたけど。そいつまだ働いてるんですか?」


「去年、会社で大騒ぎをした奴なら、既に辞めている。軽傷ではあったが、兼島も怪我をしたからな」


 その事件ならよく覚えている。新人の奴が兼島にあれこれ言われて、周りの目も気にせず激怒したことがあった。


 手当り次第、兼島に物を投げつけて暴れた。周りが止めに入ってようやく鎮圧した。だが、あの事件は兼島に非が無いことを誰もが知っており、そのうち誰も話題に出さなくなっていた。


「いくらキレても流石にそこまで出来ないですね」


「あれはハッキリ言って異常だったと聞いている。もう、あんな事件が二度と起きないことを祈るばかりだ」


 結局、それなりに話を聞いてしまった。


 そろそろ戻ろうとしたが、気づいてしまった。


「……」


 近くで兼島が立っていた。


 兼島は指先を口元に当てる。そのまま何も言葉を交わそうとせずに、立ち去る兼島。姿が見えなくなったところで、俺は駆け出して兼島を追いかけた。


「兼島先輩」


 兼島は自販機の前に立っていた。


「鳴澤君。どうしたの?」


 いつも変わらない兼島が不気味に見えた。


「アイツらの話。聞いてましたよね」


 だから、ハッキリと言葉にした。


「……今日は売り切れだった」


 兼島が自販機のボタンを押していたが、それは売り切れになっていた。もし、ここの自販機が売り切れだった場合、喫煙所の近くにある自販機で買うことになる。


「別に他人から、どう言われようとも気にしないけどさ。会社の中であれこれ言うのは、どうかなって思うよね」


「兼島先輩……」


 どんな言葉を伝えるべきか。


 慰めの言葉を兼島は求めていない。むしろ、兼島を怒らせるだけだろう。初めから兼島を追いかけるべきではなかった。


「鳴澤君。ごめんね」


「どうして、兼島先輩が謝るんですか」


「なんか、あの時のこと思い出しちゃった」


 あの時のこと。あの会話から引き出される過去の話なんて一つしかない。


「鳴澤君。まだ傷跡残ってる?」


 俺は前髪を上げて、ひたいを見せた。


「もう残ってないですよ」


 去年。新人の奴が暴れた時に俺は兼島を庇って前に出た。その際に飛んできた物騒なモノが俺の頭に直撃。顔から大量の血を流したことを覚えている。


「ほんとだ」


 兼島が近づいてきて、顔に触れた。


「兼島先輩の方こそ、大丈夫ですか?」


「私の方が軽傷だったでしょ」


 兼島は優しく微笑みながらも、隠せない苦しみを見せていた。俺はそれに気づきながらも、何も答えることが出来なかった。

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