第2話。伊織と会社

「朝か……」


 目を覚ますと、テーブルに置いていたケータイが鳴っていた。いつもならアラームよりも先に目を覚ますことが多いが、今日はずっと寝ていたようだ。


 ケータイに手を伸ばそうとした時、寝室側の扉が開く音が聞こえた。突然の出来事で驚きそうになったが、すぐに昨日の自分が何をしたのか思い出した。


「おじさん。おはようございます」


 明るい笑顔を見せる瑠夏るか。昨日、死にそうな顔をしていた瑠夏とは別人のように見えた。


「ああ、おはよう……」


 ここから急に自宅に帰りたいと瑠夏が言い出しても驚きはしない。それくらい今の瑠夏には思い詰めた様子が見られなかった。


「おじさん?どうかしましたか?」


 俺は体を起こして、瑠夏の前に立った。


「これはただの確認だと思ってくれ。瑠夏は本当に俺と暮らすつもりなのか?」


「おじさんが許してくれるのであれば」


「わかった」


 近くの棚に置いてあった物を手に取った。それを瑠夏に差し出して、受け取られせた。


「うちの鍵だ。無いと困るだろ」


「ありがとうございます」


「それで……瑠夏は学校には通うのか?」


 瑠夏の体が小さく跳ねたように見えた。


「いや、無理をして行かなくてもいいんだ」


 瑠夏の頭を撫でようとしたが、寸前で止めた。綺麗な髪だ。俺が触ったら、汚れるような気がしてやめておいた。


「い、いえ、学校には行きます」


「そうか……ここから行き方はわかるか?」


「はい。わかります」


 本人の意思を尊重するなら、あれこれ言うのはよくないだろう。もし、瑠夏が事情を話す気になったら真面目に聞いてやればいい。


「さてと、そろそろ準備しないとな」


「準備ですか?」


「俺は仕事があるからな」


 本当ならもっと瑠夏と話をするべきだろう。しかし、仕事を休むわけにもいかず、寝室の方で着替えることにした。


「そういえば、瑠夏」


「なんですか?」


 今、瑠夏はリビングの方にいるが声は届く。


「着替えとか必要なものはあるのか?」


「たぶん、あるとは思いますけど……」


「俺の仕事終わったら足りない物を買いに行くか」


 最近、残業続きだったが、それも自分で仕事を増やしたようなものだ。瑠夏の買い物に付き合うというのなら、時間は作れるだろう。


「でも、ボク、あまり手持ちが……」


「心配しなくていい。お前の生活費は両親が払ってくれるそうだ」


 ここで両親の支援を断るようなら、俺が代わりに払うことになる。それを瑠夏は理解しているのか何も答えなかった。


 着替えを終えて、リビングに戻ると瑠夏はソファーの上で膝を抱えていた。顔を伏せ、何を考えているかわからない。


「瑠夏。ケータイは持ってるか?」


「はい。ありますよ」


 瑠夏と連絡先を交換した。これなら、万が一仕事が長引いても連絡を入れられる。


「それじゃあ、俺は行くからな。何処か出かける時は鍵をかけるの忘れないでくれ」


「わかりました」


 あまり構い過ぎるのもよくないだろう。瑠夏を残して、仕事に行くことにした。玄関で靴をはこうとしていると、背後から足音が近づいてきた。


「おじさん。行ってらっしゃい」


「……ああ、行ってくる」


 瑠夏の顔は見ないまま、家を出た。




「すみませんでした!」


 それは仕事の休憩中。自販機で買ったコーヒーを飲んでいる時に始まった。突然、やってきた後輩の小林こばやしが頭を下げて、謝罪の言葉を口にした。


「お前、また同じミスしたよな」


「昨日、確認したはずなんですけど……」


「確認出来てたら、ミスは起きてないだろ」


 人間、誰だって失敗をする。だが、仕事での失敗は取り返しのつかない場合もある。何度も繰り返せば無能だと言われ、嫌われる。そんな人間にはなりたくないから自分は必死に頑張っていてる。


「自分、この仕事向いてないんですかね……」


「俺に言われてもな。お前のことよく知らないし」


 説教する気が起きないのは、他人に興味がわかないからだ。コイツも何か間違いが起きれば、すぐに辞めるのだろうと。勝手に決めつけていた。


鳴澤なるさわ 伊織いおり。その言い方は酷くない?」


 二人の会話に割り込んできた若い女性。


「別に普通だと思いますよ。兼島かねしま 先輩」


 兼島が現れたことで、小林が居心地が悪そうな顔を始めた。無関係な彼はさっさと解放にして、楽にしてやることにした。


 兼島先輩。若いながらも、上の立場で働いてる仕事人間だ。新人が彼女に対して苦手意識を持つのは、気軽に話しかけて、後で痛い目を見ることが多いからだ。


「こんな時期に辞めれたら困るんだけど」


「そりゃ、あいつ次第でしょ」


「鳴澤君に教育係を任せてるわけじゃないけど。結局のところ、鳴澤君に頼ってるところも多いからね」


「わかってるなら、改善してくださいよ」


 それは無理だと答えるように、兼島は諦めの笑顔を見せる。


「昨日。遅くまで仕事したんだって?」


「まあ、そうですね」


「後輩君の尻拭いご苦労さま」


 兼島が嫌味を口にする。それは自分のやったことが間違っていると知らしめる為か。それとも単純に嫌味を言える機会があったから言っているだけか。


 どちらにしても、自分は兼島の実力の認めているし。兼島は仕事もキッチリやってくれている。そんな人間から何を言われても、気分が悪くなることはなかった。


「ね、鳴澤君。仕事が終わったら、たまには二人で飲みに行かない?」


「兼島先輩から酒に誘うなんて珍しいですね」


「それは、ほら。私なりに後輩君を気遣って」


 行きます。と返事をする前に大事なことを思い出した。


「あーすみません。今日は用事あるので」


 仕事が終わったら瑠夏と買い物に行く約束を思い出した。ただ、こんな断り方をすれば自分が嫌がっているように思われないだろうか。


「ふーん。別にいいんだけど、さ」


「うわぁ……」


 露骨にめんどくさい女を出してくる辺り、本人もわかってやってるだろう。これは兼島の勘違いを正しておくべきだろう。


「いや、真面目に用事があるんで。また今度誘ってくださいよ」


「今度っていつ?」


「それは……」


 まだ瑠夏との生活に不慣れな日々が続く可能性もある。明日、明後日と適当に答えて、また行けなくなった。なんて言えば、兼島の機嫌を損ねてしまう。


 兼島も悪意を持って接しているわけじゃない。それが伝わってくるせいで、余計に断りづらい。ただうやむやにするくらいなら、キッパリ断っておくべきか。


「あ、ごめんなさい。電話が……」


「俺のことは気にしないでください」


 離れる時に少し聞こえた会話の内容から仕事の電話だとわかった。それが長引きそうなので、先に仕事に戻ることにした。


「鳴澤先輩」


 戻る途中で小林が声をかけてきた。


「どうした?」


「もしかして、兼島先輩と付き合ってるんですか?」


 時々、そんな噂をする奴がいるせいか、あまり驚かなかった。何度聞かれたところで、答えは変わらない。


「付き合ってない」


「でも、兼島先輩。鳴澤先輩と話してる時、すっごく優しい顔してましたよ」


 自分からは兼島が不機嫌に見えたが。


「お前達が兼島先輩を怒らせるからだろ」


「あれは……その……」


「新人の子と勘違いして、ナンパ紛いのことしたんだろ。兼島先輩から嫌われて当然だ」


「だって、あんな若い人が上司だとは思わないじゃないですか」


 兼島は年齢もそうたが、見た目に問題がある。格好さえ変えれば、高校生でも通りそうな雰囲気があった。


 そのことで兼島に舐めた態度を取る人間も時々いるが。だいたいは兼島に言い負ける。中身がそれだけ他の人間とは出来が違うということだ。


「この会社で上手くやっていくなら、兼島先輩は怒らせるなよ」


「それは入社した時に言ってほしかったです……」


「いい勉強になったと思え。小林」


 兼島に怒られて辞めなかっただけでも十分だ。後はこれから、どれだけ続けられるか。それは小林次第だ。


「今度はちゃんと確認してからにします」


 正直、小林にはあまり期待は出来ないが。

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