背徳症状-伊織の果断-
アトナナクマ
第1話。伊織と瑠夏
「はぁ……」
仕事の終わった帰り道。何度目かのため息を吐きながら、エレベーターが来るのを待っていた。既に日が暮れ、外はすっかり暗くなっており、気分が沈んでいくようだった。
手に持ったコンビニの袋。中には弁当が入っているが、ここ最近は食欲はなかった。それならおにぎりでも買えばよかったが、無理やりでも胃に詰め込まないと倒れたらおしまいだ。
「鍵は……」
マンションの一室。今はそこを借りて暮らしているが家に帰ったところで自分を迎えてくれる人間やペットはいない。
このまま一生独身で終わるのだろうと。既に結婚は諦めていたが、運命的な出逢いみたいなものを頭の片隅で考えていたかもしれない。
マンションのエレベーターから降りて通路に出ると、先の方で何かが見えた。それはちょうど自分の部屋がある辺りで、最初は深く注視したわけじゃなかった。
「……っ」
しかし、ある程度近づいたところで気づいた。
それは膝を抱えて座り込んでいる人間だと。
「お前は……」
声をかけるとその人物は顔を上げた。
「おかえりなさい」
短い髪と中性的な顔立ち。声と格好も合わされば女の子に見える。だが、すぐに彼女が彼であることに気づいた。
「そうだ。お前、やっぱり……」
彼と最後に会ったのはいつだったか。
「おじさん。ボクのこと覚えてますか?」
「ああ……確か、
昔、親戚が集まった時のことだ。数人の女の子が集まって遊んでいる中で一人だけ印象に残るような子供がいた。その子供は可愛らしい格好をして、今よりももう少し髪が長かった。
後から瑠夏が男だと聞かされるまで、自分も勘違いをしていた。今でさえも、そんな過去があったからこそ瑠夏の性別が判断出来ただけだで、相変わらず瑠夏には可愛いという言葉の方が似合っている。
「どうして、俺の家に居るんだ?」
「……家出をしたからですね」
なるほど。家出をして頼れる相手として選ばれたの自分というわけか。瑠夏とは何度か話したこともあったし、格好についても何か言ったわけじゃない。
ここに来たのは信頼してというよりも、残された選択肢の一つだったのだろう。
「とりあえず、家に入れ」
「いいんですか?」
「他人ならともかく、瑠夏は知ってる相手だからな」
もし、ここに居たのが瑠夏ではなく自分がまったく知らない人間だったとしたら。自分は声もかけずに元の日常に戻っていた。
「少し散らかってるが気にするな」
「少し……?」
扉を開けると、廊下には大量のゴミ袋とダンボールが積まれている。分別が面倒でそのままにしているゴミがほとんどだ。
「うわっ……!」
廊下を歩いている時、瑠夏が足をとられ転びそうになっていた。咄嗟に瑠夏の体を支えるが、気づいてしまった。
細い体だ。こうして支えても重いと感じることもない。それに瑠夏の体から香る匂いは以前と違って、より魅力的なものになっている気がした。
「大丈夫か?」
「おじさん。本当にここに住んでるですか……」
「まあ、慣れってやつだな」
本来、リビングであった空間も脱ぎ捨てた服やゴミで散らかっている。幸い、無趣味なおかげで余計な荷物は増えなかった。
「ソファーに座っていいぞ」
「ソファーどこですか?」
置いていた邪魔な物をどけて、瑠夏を座らせる。
「さてと」
瑠夏の前に立ったのは、話をする為だ。
「瑠夏は家出をしたと言っていたな。それはつまり、黙って家を出てきたということで間違いないか?」
「……そうですね」
「俺の家は誰から聞いた?」
「おじさんの……お姉さんに」
アイツか。もし、こっちの方に姉貴が住んでいたら、先に瑠夏を保護したのは姉貴の方だろう。それが出来ないからこそ、弟である俺の方に瑠夏を向かわせたのか。
「それじゃあ、ご両親には瑠夏の行き先は伝わってるはずだ。姉貴と瑠夏のご両親は仲がいいからな」
瑠夏が行方不明ということになり警察に通報されて、大事になっても困る。姉貴なら瑠夏に事情を聞いた上で向こうに説明もしているはずだ。
「ボク、家に帰りたくないです……」
「自分の家よりもこんなゴミ屋敷の方がいいのか?」
瑠夏は小さくうなずいていた。
「……しばらく、お前を預かってもいい。ただ、身の回りの世話は出来ないと思ってくれ」
「それで十分です。おじさん……ありがとうございます……」
瑠夏は下を向いたまま、涙を流し始めた。よほど辛いことがあったのか、瑠夏の抱えているものは簡単には想像出来なかった。
「少し、部屋を片付けてくる」
リビングの隣にある部屋に移動をした。そこは寝室でベッドもある。睡眠を取る以外に着替えもにも使っている部屋で、他の部屋と比べても片付いている。
カバンに入れていたケータイを取り出すと、すぐに姉貴に電話をかけることにした。時間的にはまだ起きているはずだ。
「なにかようかしら?」
「姉貴。瑠夏が家に来たぞ」
「知っているわ。あの子に
昔から姉貴が苦手だったが、このやり取りがその理由だ。あらかじめ、こちらの対応を予測して行動をする。姉貴と連絡を取ったところで、瑠夏を追い返す選択なんて初めから無かった。
「俺が瑠夏を預かっても問題はないんだよな?」
「問題ないわ。私の方から向こうに話は通しているし、あの子が行方不明になっても困るもの」
「いったい何があった?」
電話が切れかと思えるほど長い沈黙。
「本人に聞きなさい」
自分なりに予想はしているが、本人の口からはあまり聞きたくはなかった。それが事実だとして受け入れられるか、わからなかったからだ。
「あ、そうそう。お金に困ったら私に連絡してちょうだい。伊織ちゃんがあの子を預かっている間のお金は払うようにお願いしているから」
「子供一人くらい俺でも養える」
「自分のお金使うと、余計な情がわくわよ」
姉貴の言葉が正しいと思った。瑠夏は自分の子供でなければ、人間として向き合うべき相手なのかもわからない。
もし、何かあった時。簡単に割り切りたいなら瑠夏に優しくするのはやめたほうがいい。頭ではわかってはいても、実際にやるのは難しそうだ。
「貴重な意見として受け取っておく」
「ふーん。まあ伊織ちゃんの自由だけど」
瑠夏の話が終われば、姉貴と話すこともなかった。それは向こうも気づいたようだ。
「それじゃあ、おやすみなさい。いい夢を」
そこで通話は終了した。
「姉貴は相変わらずだな」
ベッド周りを片付けてから、リビングに戻ることにした。すると、瑠夏がソファーに横になっていた。
「寝たのか……」
回り込んでみると、瑠夏が眠っていることがわかった。最後まで泣いていたのか、顔には涙が付いていた。
「瑠夏。本当に俺でよかったのか?」
瑠夏の顔についた涙を拭う。やはり、こうして寝顔を見ても瑠夏は女にしか見えなかった。
このまま瑠夏をソファーに眠らせるわけにはいなかった。体を抱き上げ、寝室に連れて行くことにしたが、人間を運んでいるとは思えないほど瑠夏は軽かった。
瑠夏をベッドに下ろして、布団をかける。後は寝室から出て、もう一度リビングに戻ることになった。
「弁当、食べないとな」
テーブルに置いていたコンビニの袋。弁当と一緒に飲み物も買っていた。それは時々飲んでいる酒だった。
たばこは吸わないが、酒は飲む。ただ、他に飲みたいものが無いという理由だけで口にしていただけで好き好んでいるというわけでもなかった。
「これから、二人暮しをすることになるのか」
明日になれば瑠夏が家を出て行く可能性もあった。もしも、瑠夏がここに残ると決めた場合、瑠夏と二人で暮らさなくてはならない。
男同士なら気も使わないと思っていたが、そう簡単な話ではなさそうだ。むしろ、扱いに困ることはわかっている。
それでも、見捨てるという選択肢は無かった。
自分を頼って来た人間の手をすべて掴むわけではない。だが、子供が苦しんでいる姿を見て何も思わないほど心は荒んではいなかった。
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