三杯目
梵が口をきいてくれなくなってから、三日が経った。
俺は日が沈むまで、いつもの様に山の世話をし、飯を食い、申し訳程度の修行をして過ごしていた。
ただし、偶然出くわした五色米には「魂が抜けたような顔をしている」と言われ、叱責しに来た花筏には「話を聞け腑抜けが」と怒鳴られ、見回り中の苺雲には「いつもと気が違いすぎて、ただの獣かと思った」と言い放たれた。
傍から見ると、心ここに在らず、といった様子だったのだろう。
それもその筈、俺の頭の中はいま、梵のことで埋め尽くされているのだ。
しかし、その心持ちは消して重いものではなかった。
いや、寧ろ、期待に満ち溢れていると言っても過言では無い。
二日連続であんな夜が続いたということは、きっと今宵も、梵は来てくれるだろう。
そして、あの甘美な拷問を、再び俺に与えてくれるはずだ。そう、確信していた。
いつもならば地獄と相違ない苦行のような時間でさえも、現状を思えば、梵と少しでも触れ合うことのできる掛け替えのない一時なのだ。
もはや俺はその罰を、ご褒美として待ち望む忠実な犬に成り果てていたのだ。
今宵は空を駆けゆく雲が、いつもより急いている。まるで、心逸り浮き足立つ俺のようだった。
湯浴みを済ませ、相も変わらず一揃えの布団に横たわると、いつものように梵を待つ。一昨日や昨日のような不安混じりの期待ではない。確信をもって、梵をこの布団に迎え入れる心積りをしていた。
────そして、その時が来た。
襖が静かに開かれ、梵が現れる。
今日は正面切って会いに来てくれたのか、と、少しの希望を胸に抱き、梵に話しかける。
「お、応、梵!……今日は一体……。」
「……。」
梵は何も応えない。
その、いつもより冷えた眼光が俺を穿いた。
「そ、梵……?入るか?」
言いながら、布団を片手でもちあげ、梵の入る場所をつくってやる。
「…………。」
しかし梵は俺の布団には入ってこなかった。
それどころか、俺の身体に触れてさえくれない。
梵は俺の枕元に静かに座ると、その腕に抱えていた何かを俺の目の前に差し出した。
それは、梵が日中着ていたであろう着物だった。
まだ、梵の温もりと香りが微かに残っている。
そして、梵は氷のように冷たい声で、言ったのだ。
「…すきに、使え」
──────…は?
…なんだ、それは。
俺の頭は混乱によって一瞬思考を止めた。
しかし、すぐにその言葉の意味を、悟ることになる。
これを使って、一人で、しろ、と…?
今宵はお前に、触れることも許さないというのか。
度重なる絶望。万事尽く休す。
今夜は泪に濡れることを覚悟し、梵のためにあげた布団を下ろした。
しかし、その絶望は、すぐに別の感情へと変わる。
「……?」
梵が部屋を出ていこうとしない。
それどころか、俺のことをじっと、値踏みするような目で見つめている。
──────まさか。
「…………まさか、梵、お前…………。
ずっと、そこに居るつもりか。」
「…………。」
梵は依然として応えない。しかし、その微動だにしない様子が、口ほどに物語っている。
「見せてみろ。その、反省し一人寂しく己を慰める、情けない姿を。」と。
背筋が粟立つ。浅はかな期待で熱をもった俺の中心が、強く脈打った。
これは、時間をおいてもおさまりそうにはない。鎮めなければ、きっとこの苦しさからは解放されないだろう。そして何より、目の前には梵が身に付けていた着物。
観念、するしか無い。
俺は下を向いたまま上体を起こし、布団から這い出でると、震える手で梵の着物を掴んだ。
それを、梵の目の前でゆっくりと顔に持ってゆく。
見られていることなど、気にしなければよい。そうだ、目を閉じて忘れてしまおう。いつも通り、自慰に耽れば良い話だ。
俺は、眼を固く瞑って胸いっぱいに梵の香りを吸い込む。そして、その昂りきった欲望の塊を落ち着かせようと、緊張で冷えた指で俺自身を包んだ。
ゆるゆると扱きはじめると、いつもより少し敏感になったそれがびくりと震える。
「はぁっ……梵ッ……♡///」
不意にいつもの癖で、梵の名が唇からこぼれた。
「……何だ、七宝柑。」
その、透き通った冷たい声が、脳髄に刺さる。
返事をしてくれた。だが、今ではない。今は、お前に見られていることなど忘れて、ただ集中し、早く終わらせたいのだ。
この、惨めな時間を。
だのに梵は、わざとらしく返事をしてみせた。
まるで「お前がいくら目を瞑っても、私はしっかり見ているぞ。」と言わんばかりに。
顔が熱くなる。角先から足の指まで、感覚が研ぎ澄まされ、梵の視線を受けとってしまう。
「ハッ……♡ぁ"ッ♡やめ、やめろっ……♡梵……ッ♡♡見るな、っ……///♡こんなところをッ……!///♡♡」
興奮と、衝撃と、屈辱とで、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「見られたくないのならば、何もせずに寝れば良い。」
「こ、酷なことを言うなッ……///こんなもの、そのままにして寝られるわけがっ……!///」
「……ならば、仕方がないな。」
「ッッッ٨ـﮩﮩ٨ﮩ෴ﮩ_______!////」
俺にはもう拒否権などない。それを悟った時にはもう、俺の箍は外れていた。
梵の香りが染み付いた滑らかな絹の感触を確かめ、襟元の香りを嗅ぐ。梵と交わいながら首元に口付けをした記憶が鮮明に思い起こされた。
「…はぁ…っ……♡そよぎ…ッ…♡♡///お前に、触れたい……ッッ♡♡///交合いたい……ッ♡♡」
梵は例のごとく応えず、ただその冷たい瞳で俺の全てを監視している。
その、視線が針のように、俺の肌に突き刺さった。
恥ずかしい。
死んでしまいたい。
だが、興奮と共に激しくなる手が止まらない。
「…あっ……ぁぁあ"ッ♡♡///梵の、…におい、で…っ///♡ぅ"ッッぁッ♡♡///梵が見てるのに"ッッッ♡♡///」
もう理性などどこにもなかった。ただひたすらに、梵の視線と香りだけを頼りに、快感の頂へと駆け上がっていく。
「イクッ……♡いくっ、いくぅ"♡♡♡♡///そよぎぃ"ッ♡♡あああぁぁ"ッ♡♡み…っみるなぁ"ッッッ♡♡///イッ……くぅ"ッ…♡♡♡♡////」
俺の全てが解放されていく、その白い光の中で、俺は確かに見た。
俺のその、最も無様で、最も惨めな絶頂を、梵が少しだけ満足そうに見下ろしている姿を。
その夜、俺は知ったのだ。
今は俺のこの身も心も、快感さえも、全ては梵を満足させるための、道具でしかないのだ、と。
そして、その絶対的な事実に、どうしようもない幸福感を感じている自分がいた。
鬼宴 王水 @pinnsetto87653
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