領域外の演奏
それは両耳から金槌で思い切りぶっ叩かれた様な、足元にいきなり掴まれ一気に水中へと引きずり込まれる様な、或いはその両方だった。
彼女が弾いた曲名はチャイコフスキーの『四季』より『舟歌』だ。
寄せては繰り返す波を連想させるような悲しい旋律から始まる曲であり、元々水辺の情景を描いた詩が添えられているとされている曲だからか、俺はこの曲を聴くと決まって湖を思い出す。ト短調の主和音による伴奏と、チャイコフスキーが得意とする、音階上の順次進行を基盤とした旋律が奏でられる美しい曲だ。
聴いていて気持ちの良い音楽というのは皆、構造が美しいのだ。
元々舟歌という曲名自体ありふれたもので、ショパンやメンデルスゾーンなどの有名作曲家が曲にしている。舟歌は、6/8拍子や9/8拍子といった複合拍子を基調とし、波のような動きを模倣した伴奏と、感傷的なメロディーが特徴的だが、チャイコフスキーの『舟歌』は4/4拍子を選択している。
前半は4分の4拍子、ト短調、『
全体的にそう難しめの曲ではないが、表現を付けると途端に難しくなる曲だ。
これをこの場で弾く事の意味を、この目の前でただ漠然と聴いている客達はどれほど理解しているだろうか。
いや理解なんてするはずもない。知識を持っている俺でさえ彼女の演奏、その根底にあるものを掴めないでいるのだから。
――フィオナさんは一瞬にして観客を魅了せしめた。
異常の一言だった。あれだけ煩かったホールが今や呼吸の一つや聞こえないほどの静寂になるとは思わなかった。全員が吸い付くように彼女を見ていた。彼女の奏でる音を聴いていた。料理を口に運ぶ者もスマホなどを操作する人もいなかった。
誰もが全員、目の前から零れる雫のような音を聞き逃さんとばかりに構えていた。
そんな俺も例に漏れず、ただただ圧巻するばかりだった。
ぶっ壊された。それはもう徹底的に壊された。
意識しなければ呼吸するのを忘れてしまいそうだった。
次元が違う。この曲に対する感想が何一つだって思いつかない。
昔、何度も聴いてきた曲だった。実際に弾いた過去がある。
だがどうしてだろう。この違和感は――何か別の異質なものを聴いているような。
アレンジも何もない純正なはずなのに、真新しさを受けてしまう。
俺はこの曲を初めて聴いたのか?
それともなんだ、俺が今まで聴いてきた『舟歌』は全て偽物だったのか?
分からない――分からなくて怖い。
ああもう考えることはよそう。というかこの考えるという時間が勿体ない。
思考する時間すら惜しい。今はただこの衝動に身を任せたい。
湖の中にいたと思ったら水中へと引きずり込まれる感覚に酔いしれていたい。
水中には無数の光があった。辺りは真っ暗で――まるでその光が星に見えて。
圧倒的で壮大な規模の違う何かに取り込まれたような。
これが——領域外の演奏。
これが【最高のピアニスト】
◆
興奮冷めやらぬレストランを背に、俺はフィオナさんと歩いていた。
因みに料金はフィオナさんの演奏代ということで無料となってしまった。
それを当然かの様に『そう。ありがとう』で済ませるフィオナさんにも驚いたが。
「どうして『舟歌』を弾いたんですか?」
「だって君の演奏がふらふらしていたから。何だか波みたいだったから」
それで、それだけの理由であれだけの演奏が出来てしまうのか。
俺は昔この人と同じステージに立っていた。昔の頃の俺はフィオナさんを少し侮っていた。俺よりかは下だとそう思っていたが――今じゃ比べ物にならない。俺が停止していた六年間、あの人は休むことなく歩き続けていたのだ。
勝てるわけがないと痛感した。
「どうだった? 私の演奏は」
「……凄かったです」
「それだけ?」
「逆に何を言えば良いんですか。貴女の演奏に」
「ふうん残念。君ならばと期待していたのに」
フィオナさんはさほど気にしない素振りで横を通りすぎていく車たちを見送っていた。
暫くして、レストランの前の黒塗りの大型タクシーが到着した。支配人が手配したであろうそのタクシーに乗り込んだフィオナさんは、助手席へと乗ろうとする僕の手を流れる様な手つきで引っ張り寄せ、無理やり横に座らされた。
「今から私の言う住所に向かってください」
タクシーの運転手は静かに頷いて、フィオナさんが口頭で伝えた住所を入力している。やがて黒塗りの高級車は緩やかに発進した。
「未成年を連れ込んでどうするつもりですか」
「そんな生意気な台詞を言うと、本当に食べちゃうよ?」
「……冗談です」
以前と比べるとかなり棘がなくなってはいるが、相変わらず要領を掴めない人だ。
まあ俺の方も夏休みが始まったこともあって予定は空けている。フィオナさんが俺をどこに連れて行くのかは分からないが、ピアノ関係であることはまず間違いない。
窓の向こうからは雲に隠れて完全には見えないが星空があった。
「着いて行きますよ。どこだろうと、例え地獄であろうと」
あの時誓った覚悟はまだ熱を秘めている。
良いだろう――それでピアノが上手くなるのならば、彼女の隣に辿り着けるのであれば、俺はなんだってやってやる。何にだってなってやる。
そう固く拳を握りしめて行く先を見つめていた。
だが俺はまだ理解していなかった。
「ここは日本での住まいでね。一室まるごと購入したんだ。ここなら幾らピアノを弾いていても怒られることもないよ」
フィオナさんという存在を。彼女のミステリアスさを。
そして彼女が――本当に何を考えているか分からない所を。
「それじゃあ私はそこでシャワー浴びているから。きみ一人暮らしでしょ? なら暫くは家に戻らなくても良いよね」
都内でも有数の高層マンションの最上階。リビングダイニングからの眺望は美しく、その黒塗りの星空を背景に、月光が彼女を優しく照らし出していた。
フィオナさんの瞳が怪しげに光ったような気がした。そのしなやかに伸びる白指がこの部屋でひときわ存在感を放つグランドピアノの蓋をなぞる。
「だってピアノ無いんでしょ? 良かったね。ここなら幾らでも好きなだけ弾けるよ」
「何が目的なんですか」
「いつまでも私一人じゃつまらないから。ライバルすらいないんだよ? 私の周りに」
嘘かもどうか分からない言葉。だけどフィオナさんは相変わらずの様相だった。
上着を脱いだと思えば近くの大きなソファに投げ捨てている。自分の家に男性を上げたとは思えないような行動。
この人に俺の姿は映っていない。
「天音が……神坂天音がいるじゃないですか。彼女は、俺よりピアノ上手いですよ」
「そうだね。確かに才能の面に関しては君以上の素質がある。だけど私は後ろを見てばっかの女の子に興味はないの。ピアノは他人に一番優しくて、同業者に一番厳しい世界だから」
「天音はもう弱くないですよ。あいつはちゃんと前を向いて走っています。見くびっていたら、追い抜かれてしまいますよ。勿論、それはこの俺もですけど」
そう……在りし日の俺の様に。神坂天音は追い抜いていく。
少し躍起になっていたか、俺のその口調にフィオナさんは不敵に笑った。
いつものような微笑ではなく、それはまるで恐ろしささえ感じる程の。
「なら頑張ってね。私はいつもどおりゆっくり歩いていくからさ」
フィオナさんはそれだけを言って俺から離れた。
どうやら本当にシャワーを浴びてくるらしい。警戒心が無いというか、俺にはそんな心配はいらないと思っているのか。
どちらにせよこっちも暇ではない。せっかく与えられた機会だ。俺はピアノ台に座り位置を調整していると、浴室へとつなぐ扉から声が聞こえた。
「これで良いんだね……
◆
コメントやレビュー等よろしくお願いします。
また今回から更新頻度を変更させていただきました。
詳しくは近況ノートをご確認ください。
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