後編
ガニメデの昼は
人工太陽によって太陽光が増光されているとはいえ、太陽から木星までの距離は地球の十一倍もあるので、その分だけ光は弱くなる。人工太陽なんて大層な名前がついてはいても、その正体は巨大な反射鏡の集合体にすぎないからだ。
淡い光の中を進む氷海巡視艇のキャノピーから望む景色は、濃い紫色と水色と白のグラデーションだ。双眼鏡で良く見てみれば、あちこちに起伏があり、クレバスが走っているのがわかる。
巡視艇はクレバスを遠巻きにするように、凍てついた氷上を走る。僕達の進むルートは、あらかじめ展開しているドローン群によって安全が確認されていた。周囲を見張っているのはもちろん僕だけではなく、艇載AIが全周を望遠観察している。
だったら僕が目視で見張るは必要ないのでは?
その疑問をアルフに投げかけてみると、思ってもいない言葉が返ってきた。
「AIは違和感に気づけない」
僕は意図を汲みかねて、双眼鏡を下ろし前席のほうを見た。アルフはペンギン用に調整された座席について、ハンドルを片手にキャノピーの外に広がる氷海をにらんでいた。
「最初に言ったろう。君の仕事は違和感を見付けることだってさ。機械の目はわずかな変化や過去との差異をとらえる性能を持っているが、その根拠は過去のデータとの比較によるものだ。データの差異から今後発生しうる危険の有無を判別している」
アルフが首をひねって僕のほうを見た。右手で自分の目を指さす。
「対して我々は、まず自分の目で見た情景を観察して危険の有無を見つけ出そうとする。もちろん過去の記憶と照合させることもするが、以前の状態と比べてどうかと考える前に、おかしなところがあったらその違和感に気づくだろう?」
「なんとなく変な感じがする、というやつですか?」
「そう。実際これまでも、AIチェックで異常なしとされたところに違和感を覚えた観測員がチェックを付けておいたら、後日になって崩落が起きたなんて事例もある。だから、目の届く範囲はきっちり確認しておきたいというのがここでの基本方針になってる」
アルフはくちばしの端を持ち上げた。
「退屈はまぎれたかい?」
「いえ、退屈だなんてそんな——」
コンソールが短く警告音を鳴らした。僕はハッとしてモニターに表示された位置情報を読み、斜め右に双眼鏡を向ける。
「十七番確認。あ、十六番も一緒のようです」
「わかった。データを受領する。〝こっち向け〟をいま送った。こっち向いたか?」
双眼鏡には二頭のペンギンが映っている。ぱっと見にはコウテイペンギンに似ているが、それよりも大きくいくらかシュッとしたシルエットを持つガニメデペンギンである。見た目だけなら前席に座っているアルフとそっくりだ。
「こっち向きました」
僕は双眼鏡を下ろし、コンソールを操作してデータ受信画面を呼び出した。
「用意よしです」
「うん、やってくれ」
巡視艇とペンギン達との間にレーザー通信が確立され、彼らが背負っている観測機器から観測データがダウンロードされる。通信中の間、二頭は静かに氷上に立っている。
まず受信したのは二頭の健康状態で、これは二頭とも良好だった。接続されている観測機器や生命維持装置も正常に働いている。
「元気そうだな」
いつの間にか双眼鏡を手にしていたアルフがぽつりともらした。彼はさすが手慣れたもので、二頭の様子を確認するやコンソールを操作して次の目標を探している。
「連中から特に気になるデータはあるか?」
「チェックリストに引っかかったのはありません。フラグのついたものもなしです」
「よし。じゃあ、西にあと一キロほど移動しよう。大体その辺がここらにいるグループと等間隔の距離になる。あの二頭はちょっと外れたところにいたようだな」
「ですね。歩かせますか?」
「ああ、連中にとっては散歩みたいなものだ」
アルフはハンドルを右手で掴むと、アイドリングにしてあった巡視艇のシフトレバーを第一船速に切り替えた。
氷海巡視艇がモーター音を高鳴らせ、二頭のペンギンに舳先を振るようにして回頭した。合わせて、ペンギン達には〝着いてこい〟の信号を送る。
双眼鏡を下げる間際、ちらっと映った二頭が首をかしげたように見えた。
ガニメデペンギンは、もともと火星における環境適正試験体として生み出された遺伝子操作を受けたペンギンの通称だ。火星での試験が極めて良好だったため、木星圏開拓計画においては当初から計画に織り込まれたのだ。
火星では試験が終わった後も継続的に観察が続けられており、火星ペンギンとして北極と南極のひそかな名物になっているが、将来ガニメデペンギンがそうした存在になれるかはわからない。
人工太陽の投入により、大気改造と海の造成をはじめとするテラフォーミングが始まったとはいえ、ガニメデの環境は過酷である。
そのため、ガニメデペンギンは生まれながらのサイボーグとして誕生した。水から酸素を生成する機構は体内に備わっていたし、海水中のプランクトンを食糧として活動できるようになっていた。体は観測機器とセットで構成されており、強化された五感と連携した各種センサーに加えて、磁気・磁場・放射線・電波を感知する感覚器さえ持っていた。
ところで、この誕生話には続きが話がある。
ガニメデペンギンは火星ペンギンの卵からではなくクローンとして生まれたのだが、その七十二頭のクローンのうち七頭が他と違った特性をしめした。その七頭はペンギンの枠には収まらないほどの高い知性を示し、言語による(最初は筆談だったらしい)コミュニケーションが行えるほどだった。
この突然変異種の登場に統合宇宙開発機構は、昨今権限と勢力を伸ばしつつある生命倫理局をはじめとする各種組織から追及を受け、一時は全頭が接収(彼らの言い方に沿えば保護)されそうになった。冗談ではない。彼・彼女らはすでにいくつかの機密事項に触れていたし、彼・彼女らはそれがどう言った意味を持つことなのか理解してすらいた。そこで、統合宇宙開発機構は一計を案じた。七頭全てを職員として雇用し、その上で生命倫理局に彼・彼女らに人間と同等の生存の権利の保証を求めたのだ。
アルフはその騒動を経て人権ならぬ人鳥権を得た世界で
ガニメデペンギンは毎朝海洋開発基地から出発して、ほぼ一日掛けて二頭ごとに割り当てられた巡回コースを歩いて帰ってくる。氷海の監視にはAIを搭載した完全自律飛行ドローンが展開されているが、ペンギン達は実際に歩いて現在の海の状態を確かめる。前者がいわゆるAIチェック、後者はそのままペンギンチェックと呼ばれていた。
僕達が乗る氷海巡視艇の任務は、氷海の監視ということになっているが、実のところ一番重要なのはこのペンギン達との連携だった。ペンギン達が歩いて集めた調査データを適宜受領し、氷海の情報を更新していく。長い距離を移動させるので、健康データもランデブーの際にチェックしている。
そして、必要があれば支援をする。
いまもキャリアに満載したペンギン用の食糧をおろして、ガニメデペンギン達の集合を待っているところだった。さっき接触した二頭の健康データから午前中の間に結構な距離を動き回っていたので、比較的近くに展開しているグループと合流させて食事を摂らせることになったのだった。
「……来ないな」
「来ませんね」
僕は双眼鏡を構えながら、アルフはモニター上のマップを見ながらペンギンの姿を探していた。
氷海巡視艇は小高い丘の上に停止していた。周囲にクレバスやクラックはなく、厚い氷が深く沈んでいそうな場所だ。
集合信号に答えたのは八頭四組で、そのうち何組かは少し離れたところに来ている。これは位置データからわかる(いまアルフが見ているのがそれだ)。しかし、その辺りで立ち止まっているらしく、なかなかこちらに来ようとしないのだ。
僕はそのうちの一番近い組に双眼鏡を向けていた。すると、黒と白の小さな影が右の翼を振って、体の横で左の翼と打ち鳴らすような動作をした。隣にいたもう一頭も、その動作を繰り返した。踊っているみたいで可愛い。しばらくそのまま見ていたが、アルフに伝えるべきことだと気づいた。
「アルフ、ちょっと見てください。面白——」
「っ、こいつはまずいぞ。武田、つかまれ!」
のんきな僕の声は、切羽詰まった様子のアルフの声にかき消された。黒いアルフの翼がひるがえり、シフトレバーをアイドリングから第一船速に切り替えた。氷海巡視艇が丘を降りはじめる。複合軽金属のタイヤが氷を削り、大電力を与えられたモーターがうなる音が車内に響く。
「一体どうしたんですか?」
「連中から異様な緊張をとらえた。それから十三番が〝あぶない〟と言ってきた。たぶん足場だ。連中だから寄ってこなかったんだ」
せわしなくシフトレバーを第二船速から第三船速へ切り替えながら、アルフは言う。
「じゃあ、さっき……ええっと、七番と八番が変な踊りみたいな動きをしていたのは……」
「なんだって? どんな風に?」
口では上手く伝えきれる自信がなかったので、揺れる車内でその動きを真似すると、アルフはつぶらな瞳を見開いた。
「連中は体のどっちで手を叩いてた?」
「左です」
「くそっ、間に合ってくれよ」
アルフがハンドルを大きく左に切った。その時、突き上げるような震動が巡視艇を襲った。なにか重たい物が水面に落ちる音が断続的に続いたかと思うと、ひときわ大きな衝撃がやってきてキャノピーを水が洗う。
氷の大地が裂け、巡視艇は海面に投げ出されたのだ。
だしぬけに、子供の頃湯船におもちゃのボートを浮かべて波を起こして遊んだ光景が思い出された。僕達の乗る氷海巡視艇は、いまあの時のボートのように波に翻弄されているだろう。
僕は四点式のシートベルトを握り締めて、襲い来る揺れに耐えることしかできなかった。研修で身に着けたはずの〝非常事態対処〟は、なにひとつ出てこない。
「武田、バイザー下ろせ!」
鋭く響いたアルフの声に、僕の手が反応して、
氷海巡視艇は水陸両用だ。アルフが操作をしなくても水につかれば艇のほうが自動的に対応する。潜水機能も備えているから、いざとなれば海中に逃げればいい。僕は突き動かされるように叫んだ。
「潜行して回避しましょう!」
「ダメだ」
落ち着いたアルフの声。
「この状況で潜ったら氷に閉じ込められるかもしれない。それより、オレの賭けに乗ってみる気ないか?」
こんなときなのにアルフは笑っていた。ペンギンでも人を安心させる笑みを浮かべられるのだな、と僕は思い、はっとして問い返す。
「どういうことですか?」
「正面にデカい氷が見えるだろ」
アルフが左手でキャノピーの外を指した。空へ昇る坂のように、長方形の
「あれに乗り上げて切り抜ける」
「でも、止まりきれないかもしれませんよ」
「だから、賭けなんだよ」
アルフはシフトレバーに手を掛けている。目が合う。つぶらな瞳が僕を見つめていた。揺れる艇内で頼れるのは、このペンギンの上司だけなのだ、
僕は大きく息を吸うと、シートベルトを握り締めた。
「やってください。アルフに全部ベットします」
「いい覚悟だ」
アルフはニヤリと笑うと、シフトレバーを一気に最大船速まで押し上げた。モーター音が高く鳴り響き、推進器を全開にした巡視艇がうねる海上を突き進む。
時折氷の欠片とぶつかるが、アルフはそのうち小さい物は無視して艇首を氷床に向けて突っ込ませた。
白い長方形がぐんぐんと迫り、やがて目の前一杯に広がる。
シートごと放り出されると思うほどの衝撃が走り、体が後ろに引っ張られた。氷海巡視艇の六つタイヤが氷床に食いつき、空に向かって突進する。ほの明るいガニメデの空が目一杯に広がって、濃い紫色の輝きが増して、視界の全てに光が、
*
いまでもときどき夢に見る。
あの体験は、仮想空間における研修中にシステムの誤作動によって誘発された有り得ない想定をシミュレートしたものだった。仮想空間の中での僕がそれを現実だと信じて疑わなかったのは、学習知識定着措置のエラーによるもので、要するに誤った知識が脳に書き込まれた事故のせいだとわかっても、ペンギンの上司がどこかにいるような気がしてならない。
火星ペンギンに言語を介する突然変異種などいなかった。
ただ事実として、火星での環境適正試験体として目覚ましい成果を上げた火星ペンギンからガニメデペンギンが生まれ、木星の衛星に息づいている。
木星第三衛星ガニメデ。
人類が到達した最も遠い星、最果ての地で、僕はペンギンの成育状況を観察し、彼らが息づく世界にわずかな違和感を見つけるたびに報告を上げ、ゆっくりと変化し始めた星の姿を記録し続けている。
それが僕の仕事だ。
好ましいことばかりではないけれど、自ら望んで就いた仕事だし、僕なりにやりがいは感じている。
でも、ときどき思ってしまうのだ。
あのペンギンの上司が本当にいたら、いまの僕にどんな言葉をかけてくれるのだろうか、などと。
ほの明るい空の下、氷海巡視艇のキャノピーの向こうに遠く、ガニメデペンギンが右手を振っているのを見て僕は思い出す。
てのひらに感じた彼の暖かな体温を。
ほの明るい空の下で 蒼桐大紀 @aogiritaiki
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