田中伊知子⑩

 夫には姉がいたが、義理の母同様すでに亡くなっていて、他に身内はおらず、葬儀には私の親族のみが集まった。私の親も二人ともに他界していて、きょうだいやいとこ家族、遠い親戚といった顔ぶれだ。

 彼らは誰一人うちの家の近くに住んでいないし、普段会ったり連絡を取り合うこともないけれど、こうした冠婚葬祭では困らないくらい人数はたくさんいる。

「私の夫も突然死だったからねー。うちのは心筋梗塞だったけど」

「手続きやら、急にいろいろやらなきゃいけなくて大変だったでしょ?」

「でも、介護しないで済んだからよかったじゃない」

「そうだよ。それも、ろくでもない亭主だったんだからさ。せいせいしたろ?」

「ほんと、おめでとうだよ。罰が当たったのさ。独りになって寂しいなんて思わないで、友達と旅行したり、今からでも新しいことにチャレンジしたり、残りの人生、悠々自適、好きなことを満喫するといいよ」

「あーあ。向こうの親でもいたら、おたくのバカ息子のせいで、うちの大切ないっちゃんがどれほど苦労させられたかって、嫌味の一つも言ってやれたのになー」

「嫌味じゃ物足らんだろう。俺だったら、顔面にパンチをお見舞いしてやったぜ。ガハハハハ」

 ……もう!

「いいかげんにして!」

「え?」

「はあ?」

「どうしたんだよ? 伊知子」

「何にも知らないくせに、そんなに悪口言わないでよ。そりゃあ、世間に誇れるような立派な人間じゃなかったかもしれないけど、そこまで言われるような悪い人でもなかったんだから。何十年も一緒に暮らしてきた、私の夫よ! あんたたちよりもいいところだっていっぱいあったんだからね!」

 ……って、私、なに興奮してんだろ。

 はっとして周りを見ると、みんなシラケたような表情をしていた。

「ね? だから言ったじゃん」

 え?

「まったくさ。なに、かばってんだよ」

「実際ろくでもない奴だったじゃない」

「お前だって、たまに会えば、悪口言ってたよな?」

「よくある、自分はいいけど他人が悪く言うのは腹が立つってやつか。漫画みたいなことをほんとにやっちゃってよ」

「それにしても、まるで私たちがあの男より駄目みたいに口にするなんて、あり得ないし、失礼じゃない?」

「あーあ。これから生活が大変だろうから、せっかくいくらか援助してやろうかって、みんなで話してたのによ。一気に気持ちが冷めちゃったよなー」

「だから言った通り、そんなことする必要なかったでしょ。夫がバカなら、その妻もだいたいバカなのよ。類は友を呼ぶってね」

「今の時代、女だって仕事をするのは普通なのに、自分もちょこっとパートをする程度だったんだから、自業自得だよな」

「せいぜい頑張って独りで生きていきな。もし生活保護が必要になって、頼れる人たちがいるからって役所に追い払われて、泣きついてきたって、知らないからね」

 そう言うと、みんなあっという間に帰っていった。


 あー。なんであの日、みんなにあんな態度をとっちゃたんだろう?

 でも、思ったよりは後悔の気持ちがわかないな。言葉だけで、本当に援助してくれる気があったのか定かじゃない。ああなるのを狙って散々夫の悪口を言ったのかもしれないし、援助してくれてもネチネチ嫌味なことを口にされ続けるかもしれないんで、関係が絶たれてもいいかという心理があるのかな?

 私自身、あのときあんなに腹を立てるとは、今でも驚きだ。そりゃ、まったく愛情がなかったら、さすがに結婚をOKなんてしないわけで、忘れかけてたその感情を思いだしたんだけど。

 そうだ。しょうがないか。本当に生活に行き詰まったら、野垂れ死にするだけだ。元々私の人生にはそういう最期がお似合いだとも思うし。

 遺影のあなた。結局私にはあなたしかいなかったのか。もうちょっと大事にしてあげればよかった。どうしようもない私が少しでも誰かや何かの役に立てるとしたら、あなたの話を聴くことくらいだったんだろうから。

 ん?

 家のチャイムが鳴った。誰だ? 私は友達などいないし、どうせセールスか回覧板ってところだろうけど。

「はい」

 返事をしながら開けた玄関の前に立っていたのは、三十代の半ばほどと見える真面目そうな女性だった。

「すみません。太郎先生がお亡くなりになられたという話を聞いたのですが、本当でしょうか?」

「え? はい、本当ですけど……あなたは?」

 ま、まさか愛人? ドラマなんかでありがちな展開だけれど。

「私、目城と申します。先生の教え子です」

「はあ……」

 初めに太郎「先生」と口にしたのはちゃんと耳に入っていたが、本当にそれだけの関係? だいたい……。

「どうぞ。線香でもあげてやってください」

 とりあえず、そう言うくらいしかないもんな。

「よろしいですか? いきなり訪れて申し訳ございませんでした。動揺したのと、一刻も早く先生にお会いしたかったものですから。それでは失礼いたします」

 ……。


「先生……」

 夫の仏壇を前にして、目城さんと名乗った女性は大粒の涙を流した。紛れもなく心の底から悲しんでいた。

 夫は、中学校の国語の教員だった。だから安定した生活が約束されるはずというのが大いにあり、私は結婚を受け入れたのだ。

 ところが、夫は授業中に、教えるべきこととは関係がない話を頻繁にしたらしい。そんな先生なら私が生徒だったときにもいたけれど、よっぽどだったんじゃないだろうか。保護者からの苦情がたくさん来て、校長たちに再三注意され、それでもまったく態度を改めなかったようで、詳しい経緯や本当のところは私にはわからないが、事実上クビになって教員を辞めたのである。

 そのため学習塾に勤めたものの、そこでも同じだったらしく、今度ははっきりクビになり、雇われるかたちは無理だと判断したのか、個人で家庭教師を始めるけれど、依頼など多分ほぼゼロで、生計が成り立たないので仕方なくフリーターのようにアルバイトやパートをずっとしていたのだった。

 そんなんだから、生徒に慕われてはいなかったであろう。この目の前の女性の悲しみようは、本当に教え子という関係だけでのものなのか、もちろん情が深いとか性格もあるだろうが、にしてもやはり違和感は残る。

 どうしよう。この後普通に帰っていくようなら、たとえ他に関係があったとしても、今さら別にいいか。

 でも、ちょっと気になるしな……。

「あ、あの」

 ひとまず差し障りのない会話でもしてみようと声を出したところ、自宅のベルがまた鳴った。

「はい」

 再び玄関に行ってドアを開けると、今度は男の人が立っていた。目城さんより少し若い感じだ。

「私、練武と申します。田中太郎先生が亡くなられたとうかがったのですが……」

「あ、はい。仏壇がありますので、どうぞ」

「……。では失礼いたします」

 その男性は仏壇のある居間に入った直後、ピタッと足を止めた。

 どうしたのかと思い私が凝視すると、崩れ落ちるようにしてしゃがんだ。

「先生! 先生っ! うわーっ!」

 誠実そうな印象で、それまですごく礼儀正しかったのに、まるで子どものように泣きだした。

 何なの? いったいどういうこと?

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