第33話 錯乱

 暖簾をくぐると、白木の格子戸があった。

 確かに猫が一匹通った後のように、細く開いている。

 内側から漏れる明かりが眩く、しかし何処か懐かしいような不思議な気分にさせた。

 格子戸に手を掛けた時、ふとその上に据えられた大きな看板が目についた。


「不思議ごと 卍 万事相談承り処」。


 卍。寺か?

 だがよく見ると、それは風車を象った意匠だった。彫り出された絵なのに、くるくると回っている気がする。

(……なんだここ)

 ここは飲食店じゃないのだろうか。

 カラカラと音を立てて戸を引くと、草原のような涼やかな香りが溢れてくる。


 店の片隅に生竹が青々とそびえ、さやさやと葉が音を立てていた。

 濡れたように光る、黒い御影石の床。

 大きな白木のカウンターの上には、宝飾店のショーケースのように幾つかの和菓子が置いてある。

 やはり和菓子屋のようだ。

(こんな所に、こんな店があったのか)

 ぼんやりした頭で、そんなことを考えた。

「……ちまき、いるのか?」

 小さな声で呼び掛けた、その時だった。



「――お疲れ様です。深山直哉さん」



 花のような和菓子のような甘い香りと共に、突然自分の名前を呼び掛けられ、息が止まった。

 いつの間にかそこに立っていたのは、まるでちまきの首輪のように淡いピンクの髪をした、黒い着物の青年だった。

 襟元の襦袢は血のように赤い――あの「作品」の血のように。

 その何処か悲しげにも見える微笑を見た瞬間、なぜか俺の名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが炸裂した。


「おいてめえ何で俺の名前知ってるんだよ! お前か!? お前がDM送って来た犯人か!?」


 自制する間も無かった。

 青年に掴み掛かり、胸ぐらを掴み上げた自分を、もう一人の自分が何処か遠くから見ているような感覚。

 

「ちまき返せよ! 元通りにして返せ! 俺の家族返せよおおおおお! ちまきいいいいい!」


 自分の声とは思えない粗暴な怒号が遠くから聞こえる。まるで水の中から聞いているかのようだ。

 片手で青年の胸ぐらを掴んだまま、もう片手で無茶苦茶に殴り付ける。だが――感覚がない。

 俺より背の高い青年は、表情一つ変えることなく、驚くほど静かに俺を見下ろしている。

 胸ぐらを掴んでいる手も、まるで空気を掴んでいるかのようだ。

 真っ赤に染まった目の前に、またあの「作品」が浮かび上がり、自分が何をしているのか相手がどうなっているのか、もう何も分からない。


「うわああああああ!」


 地獄だ。俺は生きたまま地獄に堕ちたんだ。

 ちまき――ちまき――。

 真っ赤な意識の中で救いを求めるように叫んだ瞬間、頭の奥から「ウォン!」と短くたしなめるような、更に大きな犬の鳴き声がした。

 

(――ハナ?)


 懐かしいゴールデンレトリバーの大きな顔が、視界いっぱいに浮かび上がり――俺は意識を失った。

 くずおれていく背中に、細く大きな手が添えられ、そっと受け止めてくれた気がした。

 和菓子の甘い香りが、柔らかく包み込んでくる。





 目を覚ました時、最初に視界に入ったのは見慣れない白い漆喰の天井だった。

(あれ?)

 いつもの自分の部屋の天井じゃないことに一瞬だけ違和感を覚え、片手が無意識にちまきを探す。

 空を切った瞬間、一気に目が覚めた。

 慌てて跳ね起きてみれば、俺はさっきの和菓子屋の片隅に、椅子を並べて寝かされていた。

(やばい。いま何時だ? というか俺は何てことを……)

 見ず知らずの店にいきなり入り込んで、店員の人に暴行した。

 思わず両手を目の前で比べて見てみたが、しかし手の甲には痛みも熱もない。何かを殴ったような感覚がない。


「これはこれは、お目覚めですね。大丈夫ですか?」


 声を掛けられ、ビクンと全身が跳ねる。

 さっき俺が殴り付けた青年が、何事もなかったかのように店の奥から湯飲みを持って出てくる所だった。


「え、あ、あの、俺……」


「いやぁ、驚きましたよ。入ってこられた瞬間、いきなり倒れてしまわれるんですから。たちの悪い酔っ払いならまだしも、急病だったらどうしようかと。ここにもAEDとか置かせてもらうべきかと反省していた所だったんです。……でも何事もないようで良かった」


「は……、ええ……?」


 どういうことだ。

 さっきのは全部夢だったのか?

 ちまきの影を追ってこの店に入って――そのまま俺は倒れたのか? 本当に?

 しかし目の前の青年の顔は驚くほどきれいなまま、服装の乱れ一つない。和服の襟にも皺ひとつ無かった。


「どうぞ。冷茶です。少し薄荷とブレンドしているので、頭がすっきりしますよ」


 差し出された黒い湯飲みは、触れた途端に指先から頭の芯まで冷えるほどに冷たい。


「ど、どうも」


 ともかく喉が渇いていた。

 まるで叫んだ後のようにヒリつく喉を潤すように、一口飲み込む。

 快いミントの香りが喉から鼻に抜け、すうっと粘膜の痛みが引いた。

 その瞬間、胃の底からぞっとするほどの罪悪感が突き上げてくる。


「あの俺……ッ! やっぱりさっきあなたに酷いことしましたよね?」


 確かめるように問い掛けた俺に、青年は怪訝そうに小首を傾げる。


「……酷いこと」

「誤魔化さなくていいです、俺、あなたのこと殴りましたよね?」

「……はて?」

「いや、その前に俺の名前、どうして」

「すみませんが、何のお話ですか?」


 青年が怪訝そうに、遮ってきた。


「あなたがここにいらした時、僕は店の奥にいたんです。でもお客様がいらっしゃった気配がして店に出てみれば、あなたがそこの格子戸のところで倒れたんですよ。こう、ばたーんとね」

「……」

「それで僕は慌てて呼吸を確かめて脈を取って、どうやら大丈夫そうだったので様子を見ていたんです。ほんの五分ぐらい前のことですよ」


 五分ぐらい前。

 青年の言葉を心の中で繰り返し、嘘だと思った。

 さっきまで頭の中に靄が掛かっているようだったのに、今は嘘のようにそれが晴れている。数時間は眠らなければ、こうはならないはずだ。

 思わず店の中を見回したが、時計らしきものはないようだった。

 ポケットを探ってスマホを見てみたが、そもそもここに来た時刻も分からないだけに何も確かめようがない。


「それに――どうして僕があなたの名前を知っているんです? ここにいらしたのは、今日が初めてですよね?」


 もっともなことを言われ、俺は納得せざるを得なかった。

 青年の言う通り、やはり俺は夢を見ていたのだろうか。


「それよりご気分はどうですか? もし良くないようでしたら病院に……」

「あ、いや、大丈夫です」


 不可思議な気持ちで冷茶をもう一口飲んだ、その瞬間――きゅっと喉の奥が締まり、胸の奥にチリン、と鈴の音が聞こえた気がした。

(ちまき……)

 目の裏がぶわりと熱くなり、眼球を洗い流すような涙が溢れ出す。

 ちらちらと目の前に浮かび上がってくる、あの「作品」の残像を押し流そうとするかのように。

 それでもきつく瞼を閉じたその闇の中に、またしてもはっきりと浮かび上がってくる。

(なんでだよ……なんで……)

 なんでこんなことに。

 なんでちまきが。

 堪え切れない嗚咽を漏らす俺の背に、青年がそっと掌を置いたようだった。


「何か……とてつもないご事情がおありのようですね」


 頷く俺に、ふと青年が哀しげに呟いた。


「あなたは――ここじゃない」


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