第55話 戦略的撤退、からの作戦会議



「あーくそ、痛ってえ」

 東屋に入るなり、戦う神主は悪態をついた。ちくしょう口切れた、などとぶつぶつ言いながら、左手の甲でぐいと口の端を拭う。伝っていた血が頬に延びて、余計にワイルドさが増した。

「慶次さん、それ……」

「あ、触んない方がいいよ。汚れるから」

 手を伸ばしかけたが、触れる直前で躊躇いやめる。慶次の言う「汚れる」ことを気にしたわけではなく、あまりにも痛そうで、不用意に触れて不快な思いをさせたらと心配になり思い留まったのだ。

 左の頬が酷く腫れ上がっている。

 拳で殴られたようだ。目が開けづらそうだし、口の端が切れているのもこの所為だろう。

 見るからに痛そうであるし、彼の呟きを鑑みるに真実痛い筈だ。

 通った鼻筋の下にも乱雑に拭われた血の跡が残っている。胸を赤く染めたのはおそらく、この鼻血であろうことが窺い知れた。もしも内側からの出血が滲んでいるのだとしたら、こんなに呑気に喋ってはいられないだろう。

「どうした」

 衝撃のあまり言葉を失くしている幸とは対照的に、まったく動揺を見せずに氷室が問うた。

 ベンチにどかりと座るなり、慶次が渋い顔を作る。

「油断したわ」

「それは見れば分かる」

「報告したいのは山々だけど、痛くて口が回らねえ」

「……だろうな」

 ため息を一つ落とし、氷室が立ちあがった。ベンチに座る慶次の前に立ち位置を替え、右手をそっと腫れ上がった頬にかざす。

 息を詰めて幸は見守る。

 傍目には何の変化も見えないが、少ししてから気持ち良さそうに慶次が瞳を閉じた。

「あ゛ー……」

 沁みるわあ、と温泉さながらの声が漏れている。気持ちは非常に分かる。温かさが伝わりながら徐々に痛みが引いているはずだ。それは幸が経験者であるから想像が及ぶだけであって、何も知らない人間が見れば「何をやっているのだろう」と不可思議な光景になるのだろうが。

 しばらく経つと徐々に赤みが薄くなり、やがて腫れも引いた。

 慶次がゆっくりと目蓋を持ち上げる。先ほどまで視界がまったく確保できていなさそうだった左目は、しっかりと開いていた。ところどころに掠れた血が頬や顎に残ってはいるが、水で洗うかウェットシートで拭けば綺麗にとれるだろう。

「痛みは? まだ残っているか?」

「顔はおっけー。あとこっちもやって」

 と、無造作に慶次が左の袖を捲りあげた。洋服とは違い、着物は袖口が広い。抵抗なく肩口までが露わになり、幸はまたしても息を飲んだ。

 今回ばかりは氷室も僅か目を見開く。次いで、眉間が寄せられた。

「ミドリは何をしていたんだ」

 珍しく氷室の口調に非難の色が滲んだ。

 その視線の先には、肩から二の腕にかけて大きな痣がある。巨人に殴られたのかと見紛うほどうっ血の色と範囲の広さが凄絶で、ある意味腫れ上がった頬より余程インパクトが大きい。

「うーん……逆にミドリが頑張ってくれなかったら、もうちょい痛い目見てたかも」

 兄弟の口から耳慣れない名前が登場したが、敢えて幸は尋ねなかった。

 話の流れから推察するに、多分そのミドリとやらは慶次の背中の守り人だろう。昨夜も少し話題に上ったが、神格級三匹の一角を為す存在と思われる。

 件の守り人は仕事に手を抜いたどころか、百パー出し切ってこの結果らしい。まったくもって物騒な話だ。

 納得したのかそれ以上を追求するでもなく、氷室がまた右手を慶次の二の腕にかざした。

「噛みつかれたのか。よく折れなかったな」

 つぶさに痣を見ながら氷室が言う。露骨な感想といえばいいか、軽い口調だが内容は結構えげつない。

 幸が知っている噛み傷――半円形の歯形が残るそれとは随分と様相が異なるが、まあ世界が違う話なので常識は通用しないのだろう。見た目はむしろ広範囲に渡る打撲のようだが、確かに目を凝らせば痣の縁が僅かに濃い。そこが歯形に当たる部分か。

「だからそこがミドリのお陰ってやつね。まあヒビくらい入ってるだろうけど」

「若いなりの精一杯だったということか、つまり」

「そう。クラスチェンジしたばっかでまだ修行中なんだから、おたくの化け物級二匹と比べないでね」

 同じ神格級つったってあんた、ピンからキリまであるんだからさあ。

 痛みが薄れてきたのか、いつものひょうきんな話しぶりに慶次が戻る。そのまま見ていると、濃い赤紫のうっ血が徐々に薄くなり始めた。

 分かってはいたことだが目の当たりにするとやはり舌を巻く。

 ここは剣と魔法の世界などでは勿論ない。にもかかわらず、目の前にいるこの人は奇跡と呼ぶべき所業を普通の顔でこなすのだ。

「んー、いい感じ」

 慶次が右手を添えつつ左肩をゆっくりと回した。

 今や痣はほとんど消えかけていて、日常生活で少しぶつけた程度の大きさのものが幾つか残っているのみだ。

 動きを確かめるように慶次が左手を握ったり開いたり、それを数度繰り返す。違和感がないことを確信したか、「よし」と呟いてやおら慶次が立ち上がった。

 そして、

「とりあえず、撤収!」

「ええ!?」

 始まるかと思われた解説はおろか、雑談さえも無しときた。

 よこしまな輩を退治しにきた筈だったのだが撤収とはこれ如何に。余力はあるとも聞こえた筈だが、聞き間違えたか。

 しかし言うが早いか、慶次はさっさと東屋を出て車に向かって歩き始めている。状況が今一飲み込めず幸が首を捻っていると、氷室が幸の手を取った。

 一瞬だけ視線が寄越される。

「話は後だ」

「……でしょうね」

 急展開についていけないまま、どうにかこうにか幸は頷いた。

 多分、理由は後からついてくるのだろう。この兄弟が無意味に人を混乱させることなどない。信じて幸は氷室の導きに従った。


*     *     *     *


 車に戻って走り出してからも、車中は言葉少なだった。

 氷室はそもそも運転中は基本的に口数が少ない方であるし、慶次は慶次で後部座席でずっと目を瞑っている。走り回って心身共に疲れているであろうことを考えると、寝ているかどうかは不明ながらも声をかけるのは憚られた。

 どうでもいい雑談をするほど、ご機嫌な道中ではない。

 氷室の持つ特殊技能があったが故に大事には至らなかったものの、普通であれば救急車を呼びたくなるレベルの怪我だった。尋ねたいことは次から次へと脳裏に浮かんでは消える。だが結局一度も声には出せなかった。

 そして深く考えている内に、幸までも眠ってしまった。

 目が覚めたのは、氷室の「着いたぞ」という柔らかな呼びかけがきっかけとなった。幸と慶次は同時に意識を取り戻し、とりあえず同時に「寝入ってしまってすいません」と頭を下げた。


 そして所変わって、今は昨夜と同じホテルの部屋に戻っている。

 乱雑に狩衣を脱ぎ捨てた慶次が「汗を流したい」と言ったので、幸も氷室も止める理由なく頷いた。

 慶次が浴室に入るのを見届けてから、おもむろに氷室が抜け殻となった狩衣を手に取る。肩口を摘まんでゆるりと身ごろを広げると、胸の部分に手のひらより少し大きい範囲で赤茶けた染みがついていた。

 その部分を暫時検めた後、次いで氷室は背や裾周りを同じように確認する。他に目立った血痕は特になさそうだったが、氷室はその狩衣を大雑把に畳み風呂敷で包んだ。

 幸自身は和服に縁があったのは七五三と成人式くらいだが、それでも本来の着物の畳み方とは違うと気付く。

「狩衣って、そんなに適当でいいんですか?」

「ん? ……ああ」

 一瞬氷室は考え込んだが、幸の視線を辿り、合点がいったように頷いた。

「これはもう着られない。どうせ捨てるものだ、畳み方はどうでもいい」

「えー……高そうなのに勿体ない」

 思わず本音が出た。

 その狩衣はどう見ても正絹の、モノホン和服なのだ。まして狩衣という需要が著しく限られる装束。幾らなんでも一万円やそこらでほいほいと替えが手に入るとは到底思えない。あるいは桁がもう一つ違う可能性も否定できず、庶民の幸としては身震いする。

「しみ抜き、やってみましょうか? 最後はお店にお願いすべきでしょうけど、今の内に少しでもやっておけば大分マシだと思います」

「ああ、いや。しみ抜きができるできないという問題じゃなくて」

「え?」

「一度でもこうして穢れを受けた衣は、二度と身に付けないことになっている。だから気持ちだけ有難く受け取っておく」

 言われて幸はピンと来た。

 到着した直後の空港ロビーで、斎戒の何たるかを慶次から教えてもらった。その時に、氷室家では特に「斎衣」を重要視すると聞いた。今の氷室の説明は簡単ではあるが、つまりそういうことなのだろう。

 納得できたもののしかし、俄かに気になる点が浮かぶ。

「どれも一回しか着られないって、斎衣ってお金かかる……じゃなくて、大変なんですね」

 と、氷室が驚いた顔をする。

「斎衣なんて言葉、良く知ってたな」

 普通は業界関係者しか知らんぞ、と続く。

 幸としては常日頃から語彙力の無さを指摘されているので、今回ばかりは多少胸を張ることができた。

「慶次さんに教えてもらいました」

「そうか」

 氷室の頬が緩んだ。

「一つ訂正すると、必ずしも一回で駄目になるわけじゃない。むしろ今回のが珍しいケースだ」

「そうなんですか?」

「基本的には相手にかすりもさせずに片付ける場合がほとんどだ。親父なんかは特にそうで、ここしばらく……おそらく年単位で駄目にした衣はない筈だ」

「やっぱりお父さんて凄いんですね……」

 あんなに穏やかそうな顔をしているのに、剛毅なことだ。

「まあ規格外ではあるな。いずれにせよ相手に触らせなければ穢れも受けない訳で、その衣は当然次も使える。勿論、使う前には大樹の君に清めてもらわなければならんが」

「あ、そうだ。それ聞きたかったんですけど、大樹の君に清めてもらうってどうやるんですか?」

 斎戒の話をした時に、慶次も同じことをさらっと言っていた。その時は訊けず仕舞いだったが、ここにきて丁度良いタイミングだ。

「簡単に言うと、晴れた日の夜明けと同時に、大樹の君の根元に衣を奉る。そのまま次の夜明けまで風にはためかせればそれでいい」

 厳しくやろうと思えば、日柄を選び天気も吟味するらしいが、実際にはそこまで気にしていないというのが実情らしい。

 それもこれも偏に大樹の君が些事を気にしない性質だからだそうだ。大らかな彼は、薄曇りの日であっても特段文句をつけるわけでもなく力を貸してくれるのだという。

 同じ自然神であったとしても、気難しいタイプだとこうはいかない。

 そういう意味で氷室の家は恵まれているのだと氷室が言った。


 そうやってとりとめもないことを二人で話していると、浴室のドアが開いた。ラフなTシャツハーフパンツ姿になった慶次が、頭をがしがしとタオルでこすりながら出てくる。

「ふいーさっぱりした」

 言いながら流れるような動作で冷蔵庫に手を伸ばし、冷やしていたペットボトルの水を取り出す。腰に手を当てたかと思うと、慶次はそれをそのままラッパ飲みしだした。

 見る間に中身が減っていく。

 唖然と幸が凝視していると、500ミリリットルは一分と経たずに消えてなくなった。

「兄貴、ベッド貸りるよ」

 是非の返事を待たずに、巨躯がスプリングを軋ませた。

 窓際に置かれている簡素なテーブルセットにかけていた幸と氷室は、同時にその動きを目で追う。勢い余ってばいんばいんと慶次が揺れている。

 それが収まってから、大の字になった慶次が口を開いた。

「思った以上に厄介な相手だったわ」

「……それだけしたたか殴られればな」

 氷室が冷静な相槌を打つ。

「それで? 正体は見えたのか」

「あー、うん。シシだった」

「え、ライオンですか?」

 日本の山奥に何故ライオン――獅子が。

 驚きのあまり幸が声を上げると、違う違う、と慶次が手を横に振った。

「シシはシシでも猪の方ね」

 なるほど、それなら理解できる。幸がふむふむ頷くと、にこりと慶次が笑ってくれた。

「あの辺り一帯に昔から住み着いてるらしい。もう少しで地の神になりそうだったけど、結局なれなかったっぽい。神様のなり損ないだから力だけは無駄にあるし、ましてあの猪が牛耳ってるホームグラウンドだから、すげえ面倒」

「なり損なったとはどういうことだ」

「さっちゃんに懸想して連れて行こうとしたから。それが分不相応だっつって、大元締めの逆鱗に触れたみたいよ」

 その大元締めとやらは、本家の山を含む一帯より更に広い範囲を統括している自然神だというのが慶次の見立てだ。

 直接話をしたわけでもなく、今回の所業を訴えてみたところで気まぐれな自然神のこと、どう転ぶかはそれこそ神のみぞ知る状況であるらしい。

 前回は雷を落としたが、今回は面倒になって逆に幸を与えようとさえするかもしれない。

 そんな危ない橋を渡るわけにもいかない故、大元締めにコンタクトを取るのは得策ではないという結論が述べられる。

「ふうん。で、慶次の感触は?」

「親父ならまだしも、俺だとここから引きずり出さない限り勝負にならなそうってのが正直なところ」

「そんなに強いのか」

 意外そうに兄が尋ねる。弟は寝転がったまま首を傾げた。

「ただでさえ猪って力押し型なのに、地の神に近いもの。油断してたってのもあるけどさ、鼻血噴いた挙句に骨折られそうになるとか何年ぶりかって話よ」

 びっくりしたわ、と軽く慶次が言うが、氷室の方は押し黙った。

 部屋の中に沈黙が降りる。

 色々と考え事は頭の中をぐるぐると廻ってはいたが、とりあえず幸は声を出すことにした。

「どうしようもないってことでしょうか」

 氷室神社の跡取りである慶次が手を出せないのなら、何もできないことになりはしないか。事態は急を要している。だが真は別の仕事で捉まらない。この状況は、進退窮まっていると同義だ。

 嫌な予感が幸を蝕む。

 だがこれ以上慶次が怪我を負ってしまうのも本意ではない。諦めるべきならば、深追いはしない心づもりは出来ている。何もかもが氷室家の厚意の上に成り立っている話であって、幸の我を通すのは筋違いだ。

 ぐ、と幸は手を握る。

「難しければ言って下さい。無理をお願いしたくはありません」

 幸の呟きに返事はせず、代わりに考えていた風情の慶次が上半身を起こして氷室に向き直った。 

「なあ兄貴。颯真を使っていいか」

 氷室の眉が上がった。真意を量るように僅かに小首を傾げる。

 颯真と言えば氷室家の三男坊、末弟の名前だ。確か学生をやっているとかで、幸はまだ会ったことがない。

「強さでいえばシロとキンの方が上だ。白金山まで引きずり出すことができれば、俺でも充分事足りる」

 顎に手を当て考えつつ、慶次が持ち掛ける。氷室が腕組みをして長考の姿勢に入ったので、幸は気になったことを慶次に訊いてみた。

「あの。シロとキンって親分ですよね? 氷室さんの背中にいるんじゃないんですか?」

「目の付け所がいいねえ。その通りなんだけど、背中にいるのはいわゆる分身みたいなもんで、本家本元は山にいるのさ」

「その白金山に、ですか? それどこに、まさか青森とか?」

 引きずり出すの出さんのという話が持ち上がったくらいだ。近場に本拠地があるものだとばかり思って幸は疑問を重ねた。

 しかし慶次からは思いがけない回答が示される。

「白金山? 氷室の実家があるあそこよ?」

「えっ」

 衝撃の事実発覚。

「本体のシロとキンだったら俺達がここから戻るまで抑えておけるだろうし、万が一取り逃がしたとしてもどうせ神社には一歩も入り込めないから大丈夫」

 その場合はもう一回やり直せばいいだけ、と慶次は涼しい顔だ。

「神社ってやっぱりそういう、結界みたいなものが張られてるから大丈夫なんですか? いえあの、素人なので表現がこれで合ってるか心配ですけど、そういうイメージでして」

「広義ではそうなるかな。氷室神社の場合は明確に俺達が何かの術を施したとかじゃなくて、大樹の君が守ってくれてるからちょっと特殊っちゃ特殊」

 そういえば、見た目に反してかなり剛毅な力を誇ると言っていたか。

「でも、その猪も力が強いって」

 恵体の慶次があれだけの怪我を負わされた相手だ。絶対はないのではないか、そう幸が危惧すると、慶次が笑った。

 大樹の君はシロやキンと違い動き回ることはできないが、その力の及ぶ一定範囲内は、彼の人が許さなければ絶対に入れないらしい。少なくとも無理やり押し入ろうとした躾の悪いものはこれまでにもいたらしいが、そのどれもが尻尾を巻いて退散したという。尚、どんな仕置きをされたかは定かでない、とも。

 無理を通そうとするものには相応の制裁が下るのだそうだ。

「前に今回の猪と同じようなのが大樹の君に喧嘩売ったことがあったけど、あっさり返り討ち。だから少なくともその点だけは間違いなく大丈夫。あくまでも比較対象としての表現だけど、鬼神や魔神みたいな格持ちじゃないとまともな勝負にならんだろうね」

「へ、へえ……」

 駄目だ。

 見た目は優しいお兄さんだと習ったが、どうしても武蔵坊弁慶とかそっち系のイメージ画像が脳裏に再生されて、もうどうしようもない。

 やがて、氷室が組んでいた腕を解いた。雑談をしている内に結論が出たらしい。

「颯真のことは、まあいいだろう。俺が連絡を入れる。だがそんなにすぐ片を付けられるか?」

「ご両親のことだろ? そこは姉貴に頼むってことでどう?」

「檀か……この際仕方ないか」

「あのう。何がどうなるんでしょうか」

 何が何やらさっぱり話が見えない。

 幸が説明を所望すると、面倒くさがらずに慶次が解説を買って出てくれた。この人は最早、氷室家専属の解説員だ。


 やろうとしているのは大雑把に言うと、颯真の力で猪を引きずりだして白金山まで連行し、氷室の守り人であり白金山の主であるシロとキンの助力を得つつ、慶次が成敗するという筋書きらしい。

 そうなると当然、氷室家の三兄弟はそちらの対応にかかりきりになってしまう。

 その間は幸の両親が無防備になってしまう為、守れる誰か、もしくは何かを傍に置いておく必要があって、それができるのが長女の檀なのだという。


「姉貴にそれなりの石を見極めてもらってご両親の傍に置いておけば、まあ安心」

 そもそも本体を捕獲しようとしているから、猪の方も両親側に何かを仕掛けるような余裕は無くなる筈で、こちらについてはおそらく杞憂に終わるだろうというのが慶次の予想だった。

 それにしても、事が徐々に大きくなっている。

 気が付けば父だけでなく母も倒れ、対処する為に次から次へと――慶次だけに留まらず、檀と颯真まで巻き込んでしまうことになり、心苦しいばかりだ。

「……親父の勘が当たったな」

 スマホを取り出しつつ氷室がぼそりと呟いた。

 え、それどういう。

 幸が視線を投げると、当の本人がため息をついた。

「出掛けに『遠慮なく頼れ』と言っていたからな。早晩こうなるだろうとは思っていた」

 一瞬考え込んで、「出掛け」というキーワードが幸の記憶を呼び起こした。

 そうだ、あの日。

 結との結婚騒動が勃発したあの朝、真が出発間際にかけてくれた言葉に違和感を抱いたことを思い出す。氷室家当主は確かに言った、「何かあれば稜と慶次、それに檀と颯真も力になれるから、遠慮なく頼っていい」と。

 あの時は、婚約者である氷室のみならず他の弟妹まで頼っていいと言われたのが不思議だった。それは体裁上義理の父になる立場から気がけてくれたのだとも思えるが、それにしても会ったことさえない末弟の名前まで出されて首を捻ったのも事実だ。

 ただ、深くは考えずにそのまま忘れてしまっていた。

 今になって氷室に指摘され、ようやく腑に落ちた。

「えーそんなこと言ってたっけ?」

 しかし慶次には記憶がないらしい。これはさもありなん、慶次が一番後ろから見送っていたから声が届いていなかっただけだろう。

「ああ。ついでに『式までは会えないが安心して過ごすように』とも言っていた。幸に」

「へー。全然気付いてなかったわ」

「お前に言われた訳じゃないからな」

「兄貴に言われた訳でもないのに、むしろ良く覚えてたねえ」

「気になったから覚えていただけだ。まあ『式までは』と言っていたから、多分、何とかなるんだろう」

 そして氷室は「颯真と檀に電話する」と言い、画面の操作を始めたのだった。


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