伝道 VI

「グッコー通りに到着します。お降りの方は足元にお気を付けください」

 ルーティは保冷バッグを肩にかけると談笑するカップルの横を通り過ぎて出口へ向かい,スカートを軽くたくし上げてポッドを降りる。最後のステップから足を離してポッドの方を振り返った時には,ポッドは完全な卵型になっており,間もなく音もたてずに右のほうへ飛び去って行った。


 火星の夕方は常ならば青い夕焼けが見られるが,今は砂嵐の渦中にあって天球全体が土色である。一本の稲妻が彼女の進行方向を指し示すように後方から前方へと走った。

(この天気ももう10日以上続いている。気が滅入るわ)

 砂嵐に飲み込まれてから連日連夜点灯し続ける街灯はいつにもまして大きな機械音をたてており,それはルーティが自然再現区画で聞いたボリュームを絞ったアブラゼミの鳴き声のようだった。彼女はセミの鳴き声と池袋のグリーン大通りの映像を合わせ,脳内で日本の夏を再現する。

 さらさらと風に揺れる街路樹の下には数えきれないほどの人々が歩いている。ウィンドウショッピングにはおあつらえ向きの大きなガラス窓の店に集まる人たちは,制服姿の若者からスーツを着た青年,壮年の紳士淑女まで多様だ。車の行き交う大通りから一本逸れるとペデストリアンストリートとなり,通りを人々が埋め尽くす。

(ニトリで家具を買い,西武で子供たちのために文具を買う......)

 そうやって計画を立てながら意気揚揚と歩いていると,いつの間にかクリスタルドームに達していることがある。ドームの大きさは都市によって異なるものの平均して半径3km程度でしかない。適当な駅から30分も歩けばだいたいどこかのドーム際に到達してしまう。ドームの外側にひろがっているのは広大な不毛の大地のみであり,その現実に落胆して引き返すほかない。

 この日ルーティを現実に戻したのは,しかし,クリスタルドームでもなければ雷の音でもなかった。

(あら,929。その隣は――)

 ラウベ通りを抜けて歩いてきたエステスとサラが彼女の眼にとまったのだ。

(彼は女っ気がなかったのだけど,いい人を見つけたのかしら)

 エステスがペールピンクのシャツを,サラはモスグリーンのジャケットを着ていることも傍から見た彼らの雰囲気を形成する一助となっていた。二人は繁茂する緑の中の紅一点,あるいは荒野に力強く生きる先駆植物のように見えた。

 エステスとサラはそのままルーティの進行方向に向かおうとしたが,サラの方を向いていたエステスがその先で二人をまじまじと見つめるルーティに気づいて手を振った。ルーティは少々気が引けたものの,サラが立ち止まってルーティに「こんにちは」とあいさつしたのもあって,彼らのもとに向かうことにした。

(邪魔するのは本意ではないのだけど,声をかけられて無視するのもね)


「Dpt1,こんにちは。今日は買い物だったんですね」

 普段は強いギリシア訛りのかかったエステスの英語がルーティの前ではイギリスの標準英語になったものだから,サラは目を見張った。

「こんにちは,929,それと...」ルーティは口をぽかんとひらいたサラの方を向いた。

 サラは視線に気づいて「初めまして,私はサラ......2350CEです」

CEサービスエージェント?それはすごいわ!あそこのお仕事はけっこう忙しいと聞くもの。ああ,ごめんなさい。娘があなたと同じCEなものでつい。私はDpt1CTといいます」

サラはやや不思議そうな顔をしながら「へえ,それは奇遇ですね」と答えた。

 ルーティは彼女の表情から察し,「私は名前の通り特殊個体なんです。それでいうと929のような地球出身のほうが肩書としてバリューがあるかもしれません」 

「僕はこの街のだれよりも年上だからね!」エステスはギリシア訛りで言い,続けて標準英語で「そうだ,僕の中での流行は仲のいい人に呼び名をつけて回ることなのですが,Dpt1にもつけていいですか?」と問うた。

「もちろん。可愛い名前でお願い」ルーティは喜んで受け入れた。

ルースRuthなんてどうでしょう」

「素晴らしい名前だけど,私には過分すぎる名前のような気がするわ」

「ではルーティLwetyにしましょう。こっちのほうが可愛らしい感じがします」

「とってもいいわ!ルーティね。ところであなたたちにも名前があるのよね?教えてもらえると嬉しいわ」

「僕はエステス」

「私はサラといいます」

「エステスにサラ,わかった,覚えた」ルーティは命名を通じて成立した同盟に参加すると,別の話を切り出した。

「そうだ,エステスから料理人の彼,身体の大きい......」

「ルークですね。レストランリストランテレストランの」

「そうそう。彼にパーティの準備のお手伝いをお願いしたいと思って。うちの学校の調理員さんの送別会をするのだけど,さすがに主役に料理をしてもらうわけにもいかないでしょう?」

「わかりました。連絡しましょう。最近運動不足みたいなのでこき使ってやってください」エステスがにやりと笑うのにつられてサラとルーティも笑顔になった。

「あ,いけない。僕ちょっと職場に寄っていかなきゃいけないんだった。明日からプールが営業再開なんだよね。サラ,先行っててくれ。ルーティ,また今度。良い一日を」

「ええ,また今度,エステス」


 エステスはそう言ってラウベ通りを下って行った。一瞬の静寂の後,二人は少々ぎこちなく二度目の挨拶を交わした。目的地が同じである以上,互いに友人の友人の関係である二人は一緒に行くほかなかった。

 先に踏み込んだのはサラだった。

「あの,失礼でなければ,お名前,Dpt1という名前について伺ってもよろしいですか?」

 ルーティは首肯した。

「エステス君はこういうのに無頓着だから全く聞いてこないの。そこが彼のいいところでもあり,欠点,いえ,ちょっと気になるところでもある」

 サラは目を細めて「そうですね。データバンクとの接続を切って平然としているなんてにできることじゃない」

 ルーティは初めて聞くエステスの趣味に言葉を失った。


「それで」サラは音階を二度下げて本題に入った。「Dpt1という名前は私も詳しくは知らないのですが,ptはプロトタイプを意味していて,その第一号,つまり,あなたは......」

「そうです。私はアンドロイドではありません。私はジーノームから復元されたイルカ,ptIプティの脳を核に作られたサイバネティック・オーガニズムです」

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