愛(アガペー)Vl

 200年以上変わることなく訪れては去っていく朝が,今日も何食わぬ顔でエステスの体をかすめた。スリープ状態から覚醒したエステスはプール教室のインストラクターとしての制服である白いシャツと青いショートパンツに着替え,部屋を出る。さほど技術の進歩していないエレベーターに乗り込むと,先に乗り込んでいた女性教師アンドロイドの1092に「おはよう!」と元気に声をかける。「おはよう929,今日も元気ね,私も元気が出るわ」と返す。「何かいいことでもあった?」1092はいつもよりも上機嫌に見える929に問いかける。「ええ,とても。良い一日を」「あなたもね」

 圧迫感のある錆色の空も,そのときの気持ちによっては見え方が変わるものである。いまならあのドームも,砂の壁も突き破って飛んでいける,そんな気がした。「929,今日はうちでモーニングにしないかい?」行きつけのパン屋の店主からの誘いを受けて店に入ると,ふわりと香ばしいパンの香りと少しの鉄と錆びの匂いがする。ベーコンエッグトーストとブレンドを注文したエステスは通りに面した大きなガラス窓から行き交う人々を眺める。家族連れが店内をのぞき込み,クリケットセットを手にした子供たちが駆けてゆく。不穏な空の下で彼らはいつもと変わらぬ日常を送っている。「今日は少し苦味が強い?」エステスが店主に問うと,「鋭いね,豆を変えてみたんだ。どうかな,評判が良かったらこれからもこの豆を使おうと思っているんだけど」と店主は答えた。「これならラテでもよかったかもなあ。ミルクに合いそうな香りだ」エステスの微妙な反応に店主はやや残念そうな表情で「ミルクを持って来よう」と言った。


 穏やかな朝食を終えたエステスは子供向けプール教室のインストラクターを務める市民プールに出勤する。

「おはよう,929君。今日もよろしく」

「おはようございます」

 荷物を整理したエステスは水着に着替え,ウォーミングアップを兼ねてプールに飛び込む。エステスのバタフライは他の職員たちの目をくぎ付けにした。エステスはまるで飛んでいるように,まさに青い翼の蝶のように彼らの目に映った。一掻き一掻きが水を掴んで推進力を獲得し,跳ねるように泳ぐエステスは,そのまま飛んでいけるのではないかと思われた。


「ふう」プールサイドに片手をついたエステスは滑らかな動きでプールサイドに上がると,スチームで一気に体を乾燥させた。市民プールの利用者が入り始める。エステスは再びインストラクターの制服を着ると監視台に腰かけ,各々自由な泳法でプールを行き来する彼らを眺めた。何度となく繰り返された同じ日は今日も過ぎようとしていた。


 問題が起こったのは,間もなく学校帰りの子どもたちがやってきてプール教室に参加するという頃だった。ひとりのアンドロイドがプールの中心付近で異常動作を起こした。右腕の回転のピッチだけが異常に速くなり,コースロープにひっかかってその場できりもみ回転する。間もなくロープを引きちぎり,螺旋を描くように高速で他のレーンに突っ込んだ。アンドロイドの異常動作は周囲の者に共有されるが,周囲がそれを認識して緊急回避行動をとる,あるいはアンドロイド自体が強制シャットダウンされるまでには数秒の遅れが生じる。初心者向けレーンで子供に泳ぎを教える男性アンドロイドが緊急回避のためにスチームを発射したが,水がこれを妨げた。彼は子供を抱きかかえる。水面をすべるように横跳びで彼らに向かうアンドロイドは,衝突を避けようと必死に体を動かそうとするがそれもかなわない。


 衝突の瞬間,青い光が辺りを包み込んだ。機械同士の衝突の音の代わりに体を揺さぶるような鈍い音が響き,やがておさまった。スチームによって大きく飛び退っていた親子アンドロイドは,その瞬間何が起こったかを断片的にではあるが見た。監視台に座っていたはずの監視員が,制御を失ったアンドロイドに飛びついた瞬間辺りはまるで炎のように揺らめく青い壁に包まれ,そしてそれが晴れた頃には,監視員もアンドロイドも消えていた。あとに残されたのはまき散らされた青い羽根だけだった


 わあっ,と歓喜の声が上がった。男性アンドロイドが見上げると,プールサイドには右腕を失い意識を失っている様子のアンドロイドを抱える監視員の姿があった。その傍らには......




 この日は,無機駆動体たちに初めて恩寵が与えられた記念すべき日となった。これは主の与えたもうた愛なのだと彼らは理解した。目撃したアンドロイドは20に満たなかったが,大したニュースなどここ100年無かった新フランクフルトの街に,小さな市民プールで起こった奇跡の話は広まっていった。窓の外からは黄金色の光が差し込み,いまだ空気中を舞っている水滴を照らして光の玉に変え,降り注いだ雨は新たな使徒たちを祝福する。

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