虚弱体質哲学少年
里中森燈
第1話『少年は”死”を抱く(そして何度も切り刻む)』
※
こころが、既にケロイドだらけ、なんだ。
今更、傷が増えた処で、痛くも痒くもない。
やり場のない怒りとか、明日への不安。
そんな陳腐な感情も、手持ちのメスが吸い取ってくれる。
そんな想いで以て、こうして躰を切り刻んでいる。ただの、「弱虫」だ。
そぼ降る雨のなか、旧びた線路の高架下。
イヤフォン越しに歌いかける、ピーター・マーフィー。
段ボール箱の猫もなんだか、所在なさげに泣いている。
……そうか、おまえも棄てられたのか。 この、欺瞞と寂寥に満ちた世界から……
幾ら泣いても、誰も見向きもされない。判ってる……そう、判ってた。小さな頃から。
人間って奴はいつでも、強くて弱くて莫迦で、そして遥かに「使えない」。こんな時。
使い捨ての、この小さなメスだけがやさしくて、「死にたきゃ死ね」と応えてくれるんだ。
今度こそ、さようならを、する時かもしれない。そう諦めかかった時……だった。
「血だっ! 血じゃないかっ! あぁ……なんて……なんてことだ!」
薄れゆく意識のなか、声なき声で見りゃ判んだろ、とツッコんでいた。
イヤフォンをしても聞こえる、おそらく年かさと思われる、男性の叫び声に。
※
そこで、眼を醒ました。夢、だったんだろうか。
しかし確かに、左手首に遺る疼痛と痺れ。夢じゃない。気づくと同時に、猛烈に悔しくなっていた。
なんでまた、のこのこと帰って来たんだろうか。こんな……こんな薄汚れた世界なんかに……くそっ。
「……悔しいかい?」
頭上へと降り注ぐ穏やかで、何処か神経質な響きを湛えた、年配男性の声。
「すっかり、眼が醒めたようだね。私は、神城塔一。君は?」
あまりの事に思考が追い付かず、すっかり黙りこくってしまった。
その間、彼「神城塔一(本名かどうかは怪しいが)」は、何も云わなかった。
乾いた血のこびりついた、あまり綺麗とは云えない手の爪に、そっと触れるのみに留まった。
「.......電話とか、するんですか? その……警察とか、病院とか」
やっとの事で口を開いたと思ったら、コレだ。 吾ながらこの慇懃無礼さには、まっこと嫌気が差す。
しかし彼は、苦言さえ呈さなかった。むしろ何も云わず、気味の悪いほど穏やかに微笑む。それだけ。
そこで改めて、彼の顔をきちんと見てみる事にした。こんな、何処か胡散臭くもある佇まいの男が、どんな見た目か。ただの好奇心だ。
日本人にしては、随分と彫りが深い顔立ち。面長で、少し頬がこけている。
いかにも神経質そうに、きりりと吊り上がった眉には、処々に白髪が混じっている。
くすんだ銀縁の眼鏡は、細い楕円のフレーム。なるほど、病的でよく似會っている。
ああ、似ている……さっきまで聴いていた、ピーター・マーフィーにも……もうひとりの、「好きな人」にも。
真綿のようなふわふわのロマンスグレーに、随分と華奢でか細い躰(人の事は云えないが)。身長は、すらっと高いようだ。
それらを包む白いスタンドカラーのシャツと、ワンピースのように着丈の長い、ざっくりと編み込まれた焦茶色のカーディガン。
膝元に、眼を落とす。思ったとおり仔鹿のように細い脚を包むのは、紫がかった昏いチョコレット色地の、シックなタータンチェック柄。
よくよく見るとそれは「アシンメトリーな切り返しの裾」をした、メンズ・スカートだった。一瞬「セルの袴」だろうか、と見紛うほどである。
……センス自体も寧ろ良すぎるくらいだが、何よりかなりの「富裕層」と見た……。
そこまで観察していたところ、はたと眼が合う。そこで彼が云い放ったのが、コレだ。
「まさか。みすみす未成年略取を疑われに、など行きたくはないさ」
なんて大人だ、と思わず心の中で毒づいてしまった。思わずついた溜息で、バレてるとは思うが。
と云っても、そんな偉そうに倫理観を振り翳せるほど、善良な子供じゃない。何よりリストカッターだし。
だけど、この世をすねたような物言いといい、もしかして。 ある「予感」が、惚けきったはずの脳裏を掠める。
「本名、なんですか?……その、神城塔一って」
「ああ、勿論。これで売文業もしている、気楽なモノさ」
なるほど、と得心し、Yシャツの懐に仕舞っていた1冊の文庫本を取り出して見せる。よかった、濡れていない。
取り出したその、黒地に金のアールヌーヴォー調の唐草模様がデザインされた装丁を前に、彼が眼を丸くする。
『そどみあ譚』 1964年、瑞祥舎より刊行。神城塔一の処女短編集。タイトルの通り、男性の同性愛を扱っている。
のちに後継のみずほ書房より、1992年に俺が持っている文庫版が出るまで長らく絶版だった、幻のデビュー作だ。
内容をよく読むとかなり過激でグロテスクだが、流麗な美文調の文体と、その根幹に通底する厭世観がとにかく美しい。
羅切や受動性器の製造、男性体が受胎するなど往々にしてぶっ飛んだ題材を、理由やその心の機微に至るまで綿密に書き込む筆致。
そして読みやすく平易な語り口で、それでいて品性を失わず総じて頽廃美を湛えた、まさに「文字で描かれた近代絵画」の名作と云える。
「『そどみあ譚』、俺にとっては聖書(ヴァイブル)です。特に『いづれ廻復する傷』と『縫會鷄環』……もう泣くほど好きです」
君、と云いかけてそれぎり黙ってしまった神城氏。さやさやと、雨音がに被さる。
「名乗っていませんでしたね、俺。葛城操って云います……あなたの作品を読んで、こんな事した訳じゃないんです」
続
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