虚弱体質哲学少年

里中森燈

第1話『少年は”死”を抱く(そして何度も切り刻む)』


こころが、既にケロイドだらけ、なんだ。

今更、傷が増えた処で、痛くも痒くもない。


やり場のない怒りとか、明日への不安。

そんな陳腐な感情も、手持ちのメスが吸い取ってくれる。


そんな想いで以て、こうして躰を切り刻んでいる。ただの、「弱虫」だ。


そぼ降る雨のなか、旧びた線路の高架下。

イヤフォン越しに歌いかける、ピーター・マーフィー。

段ボール箱の猫もなんだか、所在なさげに泣いている。


……そうか、おまえも棄てられたのか。 この、欺瞞と寂寥に満ちた世界から……


幾ら泣いても、誰も見向きもされない。判ってる……そう、判ってた。小さな頃から。

人間って奴はいつでも、強くて弱くて莫迦で、そして遥かに「使えない」。こんな時。

使い捨ての、この小さなメスだけがやさしくて、「死にたきゃ死ね」と応えてくれるんだ。


今度こそ、さようならを、する時かもしれない。そう諦めかかった時……だった。


「血だっ! 血じゃないかっ! あぁ……なんて……なんてことだ!」


薄れゆく意識のなか、声なき声で見りゃ判んだろ、とツッコんでいた。

イヤフォンをしても聞こえる、おそらく年かさと思われる、男性の叫び声に。



そこで、眼を醒ました。夢、だったんだろうか。


しかし確かに、左手首に遺る疼痛と痺れ。夢じゃない。気づくと同時に、猛烈に悔しくなっていた。

なんでまた、のこのこと帰って来たんだろうか。こんな……こんな薄汚れた世界なんかに……くそっ。


「……悔しいかい?」


頭上へと降り注ぐ穏やかで、何処か神経質な響きを湛えた、年配男性の声。


「すっかり、眼が醒めたようだね。私は、神城塔一。君は?」


あまりの事に思考が追い付かず、すっかり黙りこくってしまった。

その間、彼「神城塔一(本名かどうかは怪しいが)」は、何も云わなかった。

乾いた血のこびりついた、あまり綺麗とは云えない手の爪に、そっと触れるのみに留まった。


「.......電話とか、するんですか? その……警察とか、病院とか」


やっとの事で口を開いたと思ったら、コレだ。 吾ながらこの慇懃無礼さには、まっこと嫌気が差す。

しかし彼は、苦言さえ呈さなかった。むしろ何も云わず、気味の悪いほど穏やかに微笑む。それだけ。

そこで改めて、彼の顔をきちんと見てみる事にした。こんな、何処か胡散臭くもある佇まいの男が、どんな見た目か。ただの好奇心だ。


日本人にしては、随分と彫りが深い顔立ち。面長で、少し頬がこけている。

いかにも神経質そうに、きりりと吊り上がった眉には、処々に白髪が混じっている。

くすんだ銀縁の眼鏡は、細い楕円のフレーム。なるほど、病的でよく似會っている。


ああ、似ている……さっきまで聴いていた、ピーター・マーフィーにも……もうひとりの、「好きな人」にも。


真綿のようなふわふわのロマンスグレーに、随分と華奢でか細い躰(人の事は云えないが)。身長は、すらっと高いようだ。

それらを包む白いスタンドカラーのシャツと、ワンピースのように着丈の長い、ざっくりと編み込まれた焦茶色のカーディガン。

膝元に、眼を落とす。思ったとおり仔鹿のように細い脚を包むのは、紫がかった昏いチョコレット色地の、シックなタータンチェック柄。

よくよく見るとそれは「アシンメトリーな切り返しの裾」をした、メンズ・スカートだった。一瞬「セルの袴」だろうか、と見紛うほどである。


……センス自体も寧ろ良すぎるくらいだが、何よりかなりの「富裕層」と見た……。

そこまで観察していたところ、はたと眼が合う。そこで彼が云い放ったのが、コレだ。


「まさか。みすみす未成年略取を疑われに、など行きたくはないさ」


なんて大人だ、と思わず心の中で毒づいてしまった。思わずついた溜息で、バレてるとは思うが。

と云っても、そんな偉そうに倫理観を振り翳せるほど、善良な子供じゃない。何よりリストカッターだし。


だけど、この世をすねたような物言いといい、もしかして。 ある「予感」が、惚けきったはずの脳裏を掠める。


「本名、なんですか?……その、神城塔一って」

「ああ、勿論。これで売文業もしている、気楽なモノさ」


なるほど、と得心し、Yシャツの懐に仕舞っていた1冊の文庫本を取り出して見せる。よかった、濡れていない。

取り出したその、黒地に金のアールヌーヴォー調の唐草模様がデザインされた装丁を前に、彼が眼を丸くする。


『そどみあ譚』 1964年、瑞祥舎より刊行。神城塔一の処女短編集。タイトルの通り、男性の同性愛を扱っている。

のちに後継のみずほ書房より、1992年に俺が持っている文庫版が出るまで長らく絶版だった、幻のデビュー作だ。

内容をよく読むとかなり過激でグロテスクだが、流麗な美文調の文体と、その根幹に通底する厭世観がとにかく美しい。


羅切や受動性器の製造、男性体が受胎するなど往々にしてぶっ飛んだ題材を、理由やその心の機微に至るまで綿密に書き込む筆致。

そして読みやすく平易な語り口で、それでいて品性を失わず総じて頽廃美を湛えた、まさに「文字で描かれた近代絵画」の名作と云える。


「『そどみあ譚』、俺にとっては聖書(ヴァイブル)です。特に『いづれ廻復する傷』と『縫會鷄環』……もう泣くほど好きです」


君、と云いかけてそれぎり黙ってしまった神城氏。さやさやと、雨音がに被さる。


「名乗っていませんでしたね、俺。葛城操って云います……あなたの作品を読んで、こんな事した訳じゃないんです」


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