始まりの日

 朝の8時半。横になったおかげでようやく体調が回復した私は、布団から起きてすぐ身だしなみを整える。

 

 頑張っても朝のホームルームには間に合わないと思うけど、最初の授業には出席できそうだ。

 玄関先の上がりかまちに腰を下ろし、ローファーの踵を中指で押さえて足を入れる。そうしていると、キッチンのほうから私を呼ぶお母さんの声が耳に届いた。


「いのりー! お弁当忘れてるわよ」

「あ! ご、ごめんお母さん……!」

「相変わらずおっちょこちょいね。お弁当、無理して全部食べなくていいからね。ゼリー飲料も入れてるから」

「ありがとう。じゃあ、そろそろ行ってくるね」


 そう言って、私はドアノブに手をかける。

 その直後、さっき起きてきたお父さんが姿を見せる。


「時間ないだろ? よかったら車で送るよ」

「いーから。お父さんは足怪我してるんだし、私より無理しないでよ」

「……車の運転程度なら余裕だぞ?」

「あなた虚勢張らないの。この前だって気晴らしにドライブ行ってきた挙句、足痛めてたじゃない」

「…………。記憶にないな」

「あはは、気持ちは嬉しいけど、本当に大丈夫だから! ゆっくり休んだおかけでもう走れるよ」


 私はにこっと笑いながらその場で足踏みをする。

 これ以上、心配させるわけにはいかなかった。


「ならいいんだ。行ってらっしゃい、いのり」

「うんっ、行ってきます!」

「途中、体調が悪くなったら電話をかけなさい。その時は鞭を打ってお父さんに迎えに行かせるわ」

「よ、よしてくれよ綾子……」


 そんな会話に、笑いながら私は家を出る。


 あれは夢だ。

 どれほど現実に近しく見えても、お母さんとお父さんが信者になるはずがない。そう思うと心がふわっと軽くなって、私は学校までの道のりを駆け出した。







 玉響たまゆら学園は、神奈川県横浜市内の共学校だ。

 幼稚園から小学校、中学高校までもが隣接して建てられており、そのため膨大な敷地を誇るここは、いわゆるお金持ちのご子息ご令嬢が集う学校でもある。

 そこに通う私は、一般家庭の出身。

 将来のため、そして安全のためにと、お母さんとお父さんが高い学費を払ってくれたおかげで今がある。


 だから授業に遅れるだなんてもっての外。

 私は息切れしながら、教室後方のドアを開ける。

 

「遅れてしまってごめんなさいっ」


 その声に集まる視線と、飛んでくる挨拶。

 私は呼吸を整えつつ着席する。

 よかった。1時間目にはギリギリ間に合ったみたいだ。それから素早く必要な教材を鞄の中から取り出していると、私の右肩がちょんちょんとつつかれた。


「珍しいね。いのりが遅刻するなんて」

「あはは……なんか、昨夜は寝つきが悪くってさ。起きたらもう8時前でびっくりしちゃった」

「寝坊なんて、もっと珍しい。具合悪いの?」

 

 そう言って微笑む隣の子は、石崎美嘉ちゃん。

 私の親友だ。幼稚園からエスカレーター式でここまで上がっている本物のお嬢様なんだけど、高校から入学してきた一般家庭の私にも、優しく接してくれる。

 

「ううん、全然。寝すぎてすごい元気だよ!」

「ならよかった。実は数学の宿題で分からない問題があったんだ。それをいのりに教えて欲しくって」

「もちろんだよっ」

 

 そんなわけで意気揚々と宿題を見直し始める私。

 その様子を、美嘉ちゃんは横でじっと見つめる。


「―――さて、そろそろ授業を始めるよ」


 時刻は9時ちょうど。

 1時間目の歴史の授業を担当する先生が教壇に立つと同時に、私は数学の宿題プリントを仕舞う。

 それから目を輝かせて前を向いた。


 この先生の授業は、聞いてて楽しい。

 歴史を物語みたいに噛み砕いて説明してくれるから、話が頭の中にすっと入ってくる。

 それに今日これから学ぶのは、近代史だ。


 これは1人の魔女のお話。第三次世界大戦を1人で終わらせた、1000年を生きる魔女の伝説だった。







 放課後になると、私は習い事のある美嘉ちゃんと別れて、運動着に着替えて体育館へと急ぐ。

 ご子息とご令嬢の集う学校だから運動面は控えめかと思いきや、そうした部活動も活発なのがこの学校の特徴だ。本当に、文武両道を体現する人が多い。


 私もみんなに遅れをとりたくない。

 そんな思いで、私は鉄扉を押し開ける。


「おはようございま〜す!」


 大きな挨拶は、この体育館によく響く。

 今日は一番乗りができただろうか―――。そんな期待は、目の前の光景にすぐ裏切られることになる。

 

 キュキュッと、シューズが床を擦る。と同時に先輩の体が弾かれるように飛び上がり、しなやかに振り抜かれた手に、ボールは吸い込まれるように当たる。


 それから間髪入れずにもう一球。もう一球。

 床板に転がったボール数々を見るに、どうやら先輩は、もう長い時間サーブの練習をしているみたいだ。

 なお現在の時刻、15時20分。帰りのホームルームが終わってから10分しか経っていないはずだから、床にここまでボールが転がってるのは何かがおかしい。

 

「おはようございますっ、双葉先輩」

「ああ、おはよう。今日も早いな」

「……先輩は早すぎますね。どんな裏技を使ったんですか?」

「6限目の授業を抜けてきただけだよ」

「当たり前のように授業抜けないでくださいよ……」


 私はこれ見よがしにため息をつく。

 こんなお調子者の先輩が、アルカディアの隊員なわけがない。起きた直後はあの夢について真面目に考えていたのが、先輩を前にすると馬鹿馬鹿しかった。


「ん? 僕の髪に芋けんぴでもついてる?」

「いや、どんな状況ですかそれは」

「あれ知らない? 少女漫画で有名なシーンらしいよ。僕の友達が興奮して見せてくれたことがある」

「……すごい友達ですね」

「まあね。ところで、話は全然変わるけど―――」


 途端に、先輩の視線が鋭さを帯びる。

 

「今日、何か変わったことはあった?」

「っ……?!」

「やっぱり。目の下に隈ができてるから、あまり寝れなかったのかな? 今日は無理をしてはいけないよ」


 私の体を見透かすように、先輩は言う。


「心配をおかけしてしまってごめんなさい。でも、大丈夫です。お昼ご飯もたくさん食べましたし」

「ああ、それはいいことだね」


 その後、これから部員が集まってくるのに備えて、私は先輩と一緒に床に散らばったボールを片付ける。

 それから少しの間、私は技術指導を受ける。

 授業だけじゃなく部活もすぐに抜け出しちゃうから、先輩は男子バレー部の主将じゃない。だけどその実力に関しては抜きん出ていて、教えるのも上手だ。


 そうしている内に、続々と集まる部員。

 その全員と挨拶を交わしていると、今やって来た1人の男子生徒が、ニヤニヤとしながら近づいくる。

 

「よっ、葵。それからいのりちゃんも。まさか2人で会うために葵は授業を抜け出したのか?」

「僕といのりはそういう関係じゃないよ」

「そうか? いのりちゃんもそういう認識か?」

「えっ、と……」


 お調子者第2号がやって来た。

 いや、さすがにそれは双葉先輩に失礼かもしれない。授業もすぐに抜け出すし学校もすぐ休む不真面目な先輩だけど、根っこはほんとに優しい人だ。

 

「晴人。後輩を脅かすんじゃないよ」

「ははは! 悪い悪い。人の色恋沙汰にすぐ首を突っ込みたがるのは俺の悪い癖だぜ」

「自覚があるなら直してよ、まったく……」


 悪びれもせず、豪快に笑う渡辺晴人先輩。

 そんな彼を冷めた目で双葉先輩が見る。


「それで、バレー部員でもない晴人が体育館になんの用? まさか冷やかしに来ただけじゃないよね」

「……あーそうだそうだ。先生から葵を連れ戻してこいって言われたんだよ。6時間目の授業を堂々とすっぽかした罪で反省文3枚だそうだ。レッツゴー職員室」

「なるほど、分かった。行かないと伝えといて」

「いや早まるな?! 葵を連れ戻せなかったら俺が怒られるんだよ! ほらいのりちゃん何か言って!」


 これはどう考えても双葉先輩が悪い。

 けれど先輩はこの場を離れることなく、むしろ体育館の長椅子に寝そべったそのときだった。


『あー、あー、高校2年6組の双葉葵。至急職員室の岡崎のところまで来なさい。繰り返す。高校―――』


 突如として流れ出した校内放送。

 私と渡辺先輩は顔を見合わせ、それから頷いた。


「とりあえず行きましょう! 双葉先輩! 大丈夫です、私たちも最後まで付き添いますよ」

「ええ俺もぉ?!」

「待って欲しいこれには大事な理由があって―――」

「知りません! ほら、早く行きますよ!」


 私は渡辺先輩と協力し、双葉先輩の手を無理矢理引っ張る。前言撤回。やっぱり先輩はお調子者だ。

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