遠くから眺めていたい、が本音だった〜多良奈央子と千崎靖人〜2
千崎靖人は、格好良い。それは廊下で屈んでいた彼が立ち上がって、私の方を見た時から分かっていた。
あの日以来、廊下や玄関で千崎靖人を見つけると、私はどうしようもなく、恋の音を聞いた。胸の高鳴り、ときめきなど、恋を表現する為の言葉は沢山ある。でも、それらに当てはめるのは私の中で違った。彼を見ると、恋の音が聞こえる。本音が目覚める。
千崎靖人の名前を呼ぶ声を幾度となく聞いた。それは、彼が人気者であることを表す。自分が呼ばれたわけではないのに、彼の名前を聞けば、私も声の方を見た。千崎靖人を見たくて、廊下に出る回数が増えた。
すれ違った時には、千崎靖人も私の方を見た。あの時はどうも、みたいな感じに。でも決して、彼も私も話し掛けることはしなかった。あくまで視線での合図にとどまった。
高校に通いだしてこれまで、私は千崎靖人とすれ違ったことがあったのだろうか。今でこそ、彼を知っているからすぐに見つけられる。私は、あんなに格好良い人を見逃していたのか。遠くから見つめる彼は、誰かと一緒にいればいつだって笑顔だった。一人でいる時でも、私に気づきさえすれば、笑顔になった。
少しして、千崎靖人がサッカー部に所属していることが判明する。それを知った時の心境は、少し複雑だった。私の中でのサッカー部は、イケイケ男子の集まりというイメージだったからだ。校内でサッカー部の男子が集まって話していたり、すれ違ったりする時、私はいつも緊張していた。絶対に目を合わせないようにしていた。それにうちの学校は、グランドの横を通らないと校内に入れない造りになっていて、登下校時は必ずグランドの横を通ることになる。特に下校時は、運動部の生徒の視線を気にしながら横を通っていた。自分のことなんか見ていないと分かりながらも、笑い声が聞こえると、どこか怯えたりもした。だからなのかもしれない。
私が千崎靖人の存在に気づけなかったのは。
ある日の放課後、図書室から出た私は、あの日のポスターが貼ってある掲示板の前に立っていた。誰もいない廊下で一人。もちろん理由は千崎靖人という、てんとう虫を救ったヒーローとの思い出に浸る為だ。私は最初、眺めているだけだったものの、どうしてもそのポスターに触れてみたくなった。別に触れることくらい悪いことじゃないのに、悪いことをするみたいでドキドキする。私はそっと、手を伸ばした。
すると、廊下の先の階段の方から話し声と笑い声が聞こえた。私の手はポスターに届かず、何かを誤魔化すみたいに自分の頭に触れる。廊下の先を横目で見ると、サッカー部の格好をした五、六人の男子が、角から現れ、こちらに向かって歩いてきた。黄色いユニフォームが眩しい。私目掛けて来ているわけではないことは分かる。五人は楽しそうにお喋りに夢中だ。その中に、千崎靖人もいた。目立つ千崎靖人。やっぱり笑顔が良い。楽しそうだ。
私は、彼らが廊下に立つ私に気づく前に、図書室に逃げた。図書室で顔馴染になり、その後仲良くなっていった、図書委員の河辺ちゃんは、帰ったはずの私が戻ってきたので、おや?という感じで見てくる。ちなみに河辺ちゃんは、この高校で私が唯一心を許せる相手だった。残念なことにクラスは違う。
「忘れ物?」
図書委員以外に人のいない図書室で、河辺ちゃんが声を掛けてくる。
「あっ、いや⋯⋯まだ帰るのは早いかなって思って」
「そう。ゆっくりしていって」
河辺ちゃんは一年生だけれど、まるで図書委員長のように振る舞う。でも確かに河辺ちゃんは、委員長と言っても良いほど、図書委員に欠かせない存在らしかった。少し前までは、実際の委員長である溝口先輩は名ばかりで、すぐにサボっていた。最近は図書室でよく見かけるけれど、今日は見当たらない。
河辺ちゃんが私のところに来ることを予想して、一人用の席ではなく、四人掛けのテーブルの場所に座った。すると予想通り河辺ちゃんがやって来て、向かいに座る。
「何かあった?」
河辺ちゃんは鋭くそう訊くと、私の様子を伺う。きっと私が焦って図書室に入ってきたからだろう。
「えっ何が?」
うまく誤魔化せていないとは思いながらも、誤魔化そうとする私。
「なんでもないよ」
優しく言った河辺ちゃんは、気にしているようにも見えたし、何もないなら別にいいや、と思っているようにも見えた。
「読書タイムにする?」
誰かが真剣に読書している空間で、読書をするのが好きな河辺ちゃんが、かなり年季の入った分厚い本を持ちながら言う。難しい本を読む時ほど、一人だと集中できないと前に言っていた。その本はとても難しそうだった。
「そうしますか」
私は答えると、リュックから今読んでいる恋愛小説を取り出す。焦げ茶色の布素材のブックカバーをかけている。ブックカバーをかけている本について、河辺ちゃんは内容を訊いてきたりしない。そもそも、ブックカバーをかけていなくても、私達はお互いの読んでいる本について干渉しなかった。それには読書好きの私なりの理由があるのだった。
私達はそれぞれ本を読み進める。聞こえるのはお互いがページを捲る音や、図書委員の人が奥の部屋で作業を行っている紙の音や、パソコンのキーボードの音、何を話しているかまでは聞こえない話し声。そして、グランドから聞こえる部活中の生徒の声くらいだ。私は外からの声が聞こえるたび、脳裏に千崎靖人を思い浮かべてしまった。
その時、図書室のドアが開く。私は本から視線を外さず、ただ、誰か来たんだな、くらいに思った。でも河辺ちゃんが、私が目で追う文章を手で遮るものだから顔を上げた。
「こっち見てるよ」
河辺ちゃんが小声で言う。
「えっ?」
ドアの方を見ると、そこには千崎靖人が立っていた。私と目が合うと、彼は笑顔になった。そして、私達に届くように、それでいて最小限小さな声で言う。
「図書室ってユニフォーム禁止とかルールある?」
意外な入室者に戸惑う河辺ちゃんだったけれど、
「そんなルールはありません」
と呆気に取られたまま答えるのだった。それを聞くと千崎靖人は、私のところまで歩いてきた。迷いなく、真っ直ぐに、私の元へ。
「読書好きなの?」
いきなりの質問に驚きながらも、私は頷く。図書室で見る黄色のユニフォームは、目がチカチカするほどに眩しい。
「そっか。好きなのか」
「うん」
河辺ちゃんは私と千崎靖人を交互に見ている。
「何読んでるの?」
その質問は、私の苦手な類の質問だった。だから、彼ばかりに質問させるのが悪い気がするという理由を言い訳にして、
「部活は?」
と話を逸らし、訊いてみた。
「あー、えっと。まあ、サボりだよ。サボり」
「いいの?」
「良くはない。でも、サボりの理由が図書室なら悪くないと思う」
「なるほど」
一度納得はしてみたけれど、よく分からなかった。河辺ちゃんはさっきから少しずつ椅子を後ろに下げ、ここから離れようとしている。
「多良さん」
名前を呼ばれた。名前を呼んでもらうのは、二度目だった。
「はい」
その頃に河辺ちゃんは、勢いをつけ図書カウンターの方に逃げていった。気を遣ったのかもしれない。
「図書室はお喋りダメだもんね」
さっきより小声の千崎靖人が言う。
「そうだね。まあ今は奥にいる図書委員の人しかいないから、少しは良いのかもしれないけど⋯⋯」
「お喋りしてもいいところに行かない?」
「えっ」
「多良さんと話したい」
私はいつの間にか、開いていた本のページを閉じてしまっていた。そんなことはどうでもいいのに、どこまで読んでいたのかを探す。彼は私の返事がないから、困っているに違いない。私はページを探す間、必死に考えた。なんと答えるのかを。
読んでいたページを見つけると、栞を挟む。そして、私はついに言った。
「ごめんね」
言ってから間違えたと思った。千崎靖人からの誘いを断ったわけではない。返事を待たせてごめんという意味の謝罪だった。
「話してみたい!」
さっきのごめんねを取り消したくて、つい大きな声で言ってしまう。千崎靖人はちょっと驚いた顔をしていた。それから、優しく微笑んで言った。
「良かった」
「返事を待たせてごめんって意味でのごめんだったの。その、私、緊張しちゃって⋯⋯」
「廊下で会うたび話しかけたかったんだけど、多良さん、なんとなく話しかけないでほしいっていう雰囲気があったから。でも、アイコンタクトはしてくれるし」
「緊張しちゃって。それで⋯⋯」
千崎靖人は、また微笑んだ。
「行こっか」
「うん」
私は頷き、サッカー部のユニフォーム姿の彼について行く。図書室を出る時に、カウンターにいる河辺ちゃんと目が合った。彼女は私よりも楽しそうにしていた。
私はといえば、とにかく緊張して、何かを考えたいのに、うまく考えられない状態だ。千崎靖人は、自分の教室に入るまで一言も喋らなかった。私は誰にも見られていないことを確認すると、教室に足を踏み入れた。
「ここでいい?」
ようやく喋った千崎靖人に、私はふたたび頷く。
「うん。お邪魔します」
二人きりの空間は本当に緊張でしかなかった。廊下で遠くから千崎靖人を眺めているのが本当に良かった。今は近すぎて、どうしたら良いのか分からない。恋の音は聞こえている。でも緊張のせいか籠もっているし、恋の音を楽しむ余裕なんてない。本音がうまく、自分を表現できないでいる。廊下で、あのボスターに触れようとした時みたいな興奮も冷めている。緊張以外の感情が、目の前の千崎靖人に奪われる。
千崎靖人は、ここどうぞ、という感じで一番後ろ列の真ん中の席の椅子を引いた。 私は、黒板の方を真っ直ぐと見て座る。彼は、その隣の席の机に腰を掛ける。私の方を向いていた。
「ここ俺の席で、隣は藤沢っていう剣道部のやつ。モテてるから知ってるかもね」
私は彼が引いた椅子、藤沢というモテてるらしい人の席に座った。
「多良さん、帰宅部?」
「うん」
「多良さん、下の名前は?」
「なおこ」
「漢字は?」
「奈良の奈に、中央の央に、子供の子」
「俺の下の名前知ってる?」
ちゃんと目を合わせない私の顔を、千崎靖人が覗き込んでくる。嘘はつけないかも、と思う。
「知ってる。靖人くん。千崎靖人くん」
「へぇー。知ってくれてるんだ」
含み笑いをするので、私は、嘘をつけば良かったなと思った。下の名前なんて知らないと言えば良かったと。
「俺って、わりと嘘つかない方なんだ、普段」
急に、私の心を読んだみたいな話をし始めた。
「へえ」
「俺が嘘ついたって言ったら嫌いになる?」
千崎靖人は自分の机から腰を離し、私の真正面に来た。私の座る席の机に腕と顔を乗せる形で、しゃがむ。近い。上目遣いで見つめられ、緊張の次に、照れる以外どうすることもできない。
「嫌いになる?」
再度そう訊いてくるから
「どんな嘘かにもよる」
と答える。
「例えばどんな嘘なら嫌?」
彼の着ているユニフォームに入っている白い線を目で追う。そうする間に考える。
「あの日、てんとう虫を救ってたのが嘘だったら嫌だ」
そこで白い線から千崎靖人の目に視線を移す。
「あれは本当で、俺がついた嘘は、今」
彼は顔を腕から離した。
「多良さんが帰宅部ってことも知ってたし、多良さんの下の名前も知ってた。それなのに、知らないフリして訊いた」
「え?」
「ねえ。多良さんはなんで俺の下の名前知ってたの?」
「それは⋯⋯」
それは、気になったから。あの日から、千崎靖人が気になって仕方がなかったから。
その時、廊下からこっちに向かってくる足音が聞こえてくる。走って向かって来る。
「おい!」
教室のドアに姿を現したのは、千崎靖人と同じユニフォームを着た男子だった。
息を切らしながら、言う。
「千崎。グランドから見えちゃったんだけど、ユニフォーム。視力良すぎる真面目すぎる先輩がチクった。こんなに派手なユニフォームを着せる理由は、逃げれなくする為なのかもな。あ、どうも」
私に気づき、その男子は少しおどおどする。
「多良さん、行かなくちゃ。また話そうね」
そう言い残し、千崎靖人は教室から去って行った。
「何? 彼女?」
楽しそうに千崎靖人に訊く声と、二人の足音だけが聞こえていた。足音が遠ざかり聞こえなくなると、自分の心臓の音が、それも速い心臓の音が聞こえてきた。
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