もしも私の日記を見せるなら
あおなゆみ
遠くから眺めていたい、が本音だった〜多良奈央子と千崎靖人〜1
「靖人!」
そう呼ぶ声は、もちろん私が発したものではない。そう呼ぶ声は、学校にいる間によく聞く。そう呼ばれる名前は、私にとって特別で、その名前の人は私の憧れだ。
千崎靖人を憧れとしたのは、廊下での出来事がきっかけだった。高校一年、八月。夏休み明けの放課後。廊下や玄関の騒がしさが苦手で、その日は図書室に寄っていた。一時間くらい読書をして、図書室を出ると、廊下の先に千崎靖人がいた。
もちろんその時は、彼の名前さえ知らない。千崎靖人は、廊下の窓のところで屈んでいて、私はてっきり具合が悪くなってしまったと思った。周りには誰もいない。
だから私は彼の元へ駆けて行った。そろそろ声を掛けようかな、という距離。二メートル程に差し掛かったところで、彼は急に立ち上がる。私は驚き、急停止する。
そして、千崎靖人がこっちを見た。目が合う。彼も驚いているようだった。
「あっ、その⋯⋯」
私が発言しなければならない空気。
「今、屈んでいたので、具合が悪いのかと思って」
その時私は、千崎靖人が、一枚のポスターを両手で大切そうに持っているのを見つける。
「俺が心配かけちゃったんですね。すみません。実は、てんとう虫が⋯⋯」
そう言って、手に持っていたポスターをそっと私に見せようとする。私は彼に近づきそれをよく見ると、ポスターの上に小さなてんとう虫がいた。ポスターの裏の白い面だからすぐに気づいたけれど、表面だったら、てんとう虫を見つけるのには物凄く時間がかかったと思う。
彼は私がてんとう虫を確認したのを確認すると、窓の外側にポスターを出した。
私もそれを見る。千崎靖人は真剣にそれを見つめ続ける。少しして、てんとう虫は心を決めたのか、羽を広げ、飛んで行った。そして、彼は微笑んだ。
「俺が助けてやったこと、分かってるのかな。自分の力で脱出できたって勘違いしてるのかな」
「なんとなく、分かってるような飛び立ち方だった気がします」
私がそう言うと、彼はこっちを見て笑った。
「そうかな?」
「はい、そうです」
千崎靖人は、また笑う。
「同じ学年だよね」
自分の名札をつまみながら彼は言った。名札には1ーB千崎と書かれている。私は彼が先輩だと思っていたから、少しだけホッとする。千崎靖人は私がなにも言わないのを確認すると、さっきのポスターを持って、廊下の掲示板のところまで歩いて行った。そして、画びょうで止める。
「このポスターが剥がされない限りさ」
私は、何? と視線だけで返す。
「このポスターを見るたび、てんとう虫の役に立てた日のことを思い出してみるよ」
さっきより離れたところにいる千崎靖人に、さっきよりも少し大きな声で、私は伝えようと思った。
「じゃあ私はてんとう虫を救った、そんなヒーローのことを思い出すね」
千崎靖人は微笑む。
「じゃあ俺も。ヒーローだって言ってくれた多良さんのことを思い出すよ」
名前を覚えられ、自分には似合わない会話をして、何度も笑顔を見せられ、千崎靖人はすぐに私の特別になった。遠くから見ていたい憧れになった。
その日の日記は、千崎靖人との記録でいっぱいになる。ただし、彼への好意的な感情は隠し、あくまで記録として残したつもりだった。私はこれまで、日記にすら本音を書けないでいたから。でも、いつもの簡潔な日記と雰囲気が違ったのも事実だ。それにその記録は、普段の短い日記に比べると倍以上の量だった。
日記にさえも本音を書けない私は、それでも間違いなく恋をした。
言えなくても、書けなくても、それくらいは分かっていた。
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