俺の高校生活が白髪碧眼の女神のせいで崩壊寸前の件について
キサラギミツキ
第1話 プロローグ
特段話すようなことでもないのだが、つい一月前まで俺が神を信じるか、と聞かれた時の答えはイエスでもノーでもなかった。
初詣などという人がこたつでぬくぬくと人生を謳歌し、瞼の意向を最大限尊重せねばならない時間にわざわざ白い息を吐いて神社に行った時や、公立に進学しろという親からの無言の圧を受けつつ入試直前に合格祈願に行って絵馬とかを書いたりしていた時なんかは神様を信じ祈った。
俺の願いをかなえてください、と。
しかし普段の生活から神様を信じているかと言われると必ずしもそうとは言えない。
理由は単純だ。
だって見たことがないから。
そもそも俺は普通の家のもとに生まれた至って普通の人間であり、特別秀でた才能や特殊な能力を持ち合わせているわけでもないので、何か超自然的なものを見たことはおろか聞いたことももちろんないわけである。
だからいくら視力0.8(最近ちょっと悪くなってきた)の目を使い何もない場所を凝視したところで、目を閉じ体の力を抜き俺の持ちうる全神経を耳に注ぎ一ヘルツにも満たない音でも聞き漏らすまいと決意したところで神様の姿が見えたりお告げが聞こえたりするなんてことは今の今まで一度もなかった。
つまり俺は時と場合によっては信じてはいるものの、姿を見たことも声を聞いたこともないので、神を信じているかと言われてもイエスともノーともいえない立場に立たされている、という結論に達する。
だが別にこれは何もおかしい考え方ではないと思う。
見えないし、聞こえない。
自分の五感センサーに引っかからない何かを信じるか信じないかなんてものは各個人が自分の頭で信じるに値するかを吟味しそれに則って判断すべきものであると俺は考えているから、自分の五感センサーに引っかからないものを信じなくても俺の勝手というわけだ。
ん?
しかし改めてその自分の考えに則って考えてみると、俺はどちらかというとノーの方に近い立場なのではないだろうか?
思い返してみれば神様を信じている時間よりも信じていない時間の方が長いからな。
おー、新発見。こういうこともあるからたまには自分の考え方ってものを手入れするのもいいかもな。
というわけで改めて質問に答えてみるとするなら、俺の答えはイエスでもノーでもないが若干ノー寄りなのではないかと思われるという答えを返しただろう。
つい一月前までは、な。
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