episode.5 愛梨ちゃん

 「落とすわよー」


 両手を伸ばせば届きそうなくらい、低い木から落とされるリンゴ。

 少し目線を上げると、細い木の枝を器用にバランスを取りながら、すいすいと歩くあずきの姿。

 あずきが声を掛けると、愛梨はのろのろと歩き、枝の下に立って籠を構える。


(なんでこんな依頼を受けたんだろう……)


 果物が籠に落ちる重みと揺れを、両手に感じながら、ぼーっと空を見上げる――。



 数時間前――。

 ハトからの依頼は果物の収穫。村の近くにある森から、すべて収穫してきてほしいということだった。


 果物は重いし面倒だという気持ちはあったが、これくらいならと愛梨は依頼を受けた。だが、すぐに依頼を受けたことを後悔する。

 

 森にあるというので探さなければいけないと思っていたが、入ってすぐに果物の生る木は見つかった。見つかったのは良いが、問題はその本数だ。


 二本、三本どころではない。愛梨たちの目の前には、百本ほどはあると思わる果物を実らせた木が生えている。

 すべて収穫してきてほしい、という依頼内容を思い出す。これを全部?収穫してるだけで、寿命が終わりそうだと、愛梨はため息をつく。


(死にたいけど、死因が果物収穫による過労はさすがに……)


 呆然とする愛梨とは対照的に、あずきは俄然やる気を出していた。

 準備運動だろうか、あずきは走り回ったり、近くの木の幹で爪とぎをしている。


「これはすごいな。終わるのか?」

「さあ」

「やる気あるのか?」

「さあ」


 元々やる気はなかったが、簡単だからと受けた依頼。だが、現実を見てやる気はマイナスだ。

 しかし、やる気はマイナスだなんて、口が裂けても言えない。シドウという人間が、どんな人間か分からないから。適当で飄々とした感じを見せているだけで、腹の底では何を考えているか読めない。

 「さあ」と答えるのも何を思われているのか分からないが、これが愛梨の精一杯の答えだ。

 この返事の何が面白いのか、シドウはふふっと笑う。


「よーし!!やるわよー!!」


 やる気満々のあずきを見て、仕方ないと息を吐き愛梨は籠を手にした――。





「愛梨ちゃーん!!ぼーっとしてないでー!!」


 可愛い声に呼ばれて愛梨はハッとする。手と腕にずっしりとした重さを感じる。いつの間にか、籠の半分が果物で埋まっていた。

 これ以上増えたら持てないと、愛梨は新しい籠に取り換える。


 籠を取り換えるのを見て、あずきは再び果物を枝から切って籠に落としていく。

 全ての果物を切り終わると、枝から飛び降りて地面に下り、たたたっと新しい木の幹を駆け上り、また収穫を始める。


 あずきはこの作業を、文句一つ言わず楽しんでいる。何がそんなに楽しいのか、愛梨には理解ができないが、あずきを手伝うと言ってしまった以上、何もやらないわけにはいかず、愛梨は落とされる果物を器用にキャッチしていく。


 二十本ほど収穫が終わり、あずきが地上に降りて来た。


「ふー……。疲れたわぁ。愛梨ちゃんも疲れたでしょ。果物重いもんね」


 いつの間にか、愛梨ちゃんと呼ぶあずき。

 愛梨はあずきと視線が合わないように顔を背けて、右腕で口元を隠している。右腕の奥から、もごもごと何か言っているが、よく聞こえない。


「愛梨ちゃん?よく聞こえないわ?」

「あの、うん……大丈夫。疲れてないから」


 良かった、とあずきは前足を手前について、ぐーっと伸びをすると、休めそうな場所を探してくると、どこかへ行ってしまった。


 あずきの姿が見えなくなったのを確認して、愛梨は腕を下ろす。


(……愛梨、ちゃん……)

 

 思い出し、口元が緩む。


「嬉しいか?」

「!?」


 シドウがいたことをすっかり忘れていたのか、愛梨は凄い勢いで振り向いた。

 その驚きように、声を掛けたシドウも驚いたのか、体をびくっと震わせる。


「そんなに驚かなくてもいいだろ」


 シドウは目を細めてくつくつと笑う。


(……あれ?)


 いつもならすぐに顔を伏せる愛梨だが、目を細めて笑うシドウを、不思議なものを見る目でじっと見る。


「ん?なんだ?」

「あ……いや、神様も……普通に、笑うんだなって……」


 目を泳がせ下を向く愛梨に、失敬だな、と言いながらもシドウは楽しそうに笑う。


(……なんか……まあいいや)


「で?嬉しかったのか?」

 

 再び同じことを愛梨に聞く。

 名前で呼ばれるたびに、体と心がむずむずと痒いのに、心地よい。

 これを嬉しいというのだろうか。心地よい感覚なんて、随分前に忘れてしまった。

 だから愛梨は、この感覚をどう言葉にしていいのか分からない。


「わかんないけど……なんか、かゆい……」


 愛梨なりの精一杯の言葉。

 ぽつりぽつりと答えながら、下を向く愛梨は左右に垂れ下がった茶髪をぎゅっと握る。

 落ち着かないのか、体をゆらゆら左右に揺らしたり、踵で意味もなく森の地面を掘っている。



「!!」



 突然、頭が重くなり、そこから冷たさが全体に広がる。シドウが愛梨の頭に手を置いている。

 どうしてシドウが頭に手を置いているのか分からない。異性に頭を触れられたことがない愛梨は、こういう時にどんな反応するのが正しいのかも分からない。


 逃げようとか、触られて気持ち悪いとも思わない。

 愛梨はシドウの手を振り払うこともなく、顔を伏せたまま動かなかった――。




「こっちに休めるところがあるわよー」


 休める所を探しに行っていたあずきが、走って戻って来た。

 ぱっと顔を上げた愛梨は、頭に乗ったシドウの手から逃れるように、さっと歩き出す。


「あっちに芝生がふわふわの場所があるの。そこで丸くなりましょう」


 丸くなる、というのは恐らく横になろうという意味だろう。猫らしい表現に、愛梨は気付かれないようにふっと笑う。



 あずきが探してきたふわふわの芝生で、三人は丸くなった。

 そんなに疲れていないと思っていたが、愛梨が思っている以上に疲労が蓄積されていたらしく、横になった途端にどっと疲れが押し寄せる。


 体が重く、怠い。このままずっと寝ていたいと思うくらいだ。

一週間も怠惰に過ごしていたせいで体力が落ちたのか、それとも年齢のせいなのか。愛梨は少しだけ、本当に少しだけ怠惰に過ごしたことを後悔した。


 隣を見るとあずきが体を丸めている。あんなに走り回っていたのだから疲れているだろうと、愛梨はそっとあずきの体に触れる。


「あら?撫でてくれるの?」

「え?……あ」


 無意識だった。愛梨はあずきを撫でる右手をさっと引っ込める。そんな愛梨を見て、あずきがくすくすと笑う。


「撫でてほしいわ」


 そう言われて、愛梨はおずおずと、右手をあずきの体に伸ばして触れる。

 ふわふわな猫毛の柔らかさと、艶のある毛並みの滑らかさが手の平に伝わって気持ちがいい。


「どう?」

「……気持ちいい」

「この毛並みはあたしの自慢なのよ」


 誇らしげにあずきは言う。

 そんな自慢な毛を撫でてもらえるのがよほど嬉しいのか、あずきはふんふんと鼻歌を歌う。


「……愛されてるね」

「それ初めて会った時も言ってたわね。どうしてそう思うの?」


 答えに困ったのか、愛梨は言葉に詰まる。

 正直、理由なんてない。ただ初めてあずきを見た時に、直感でそう思った。

 理由があるとすれば毛並みが綺麗なのは愛されて、大切にされているから、というペットを飼ったことがない素人の考えだけだ。

 

 そんな特別な理由もない、なんとなくが理由でいいのか。

 愛梨の頭はあずきが納得する答えを出そうと、たくさんの言葉がぐるぐると回る。

 それが余計に愛梨の言葉を詰まらせる。

 

 ふと、あずきと目が合う。


(あ……)


 あずきは真っ直ぐに愛梨を見る。

 エメラルドグリーンの瞳には、焦燥感、圧迫感、恐怖、プレッシャー。愛梨の心を乱し、押さえつけるようなものは何もない。


 一つだけ感じるものがあるとするなら「純粋」という言葉が似合うだろう。ただ理由が知りたい。そこには特別な意味なんて無い。そんなあずきの思いが伝わる瞳。

 そんなあずきの純粋な目が、愛梨の頭を落ち着かせ、詰まっていた本音が喉をするりと通る。


「なんとなく」


 愛梨の答えを聞いたあずきは、にこっと笑う。


「ありがとう」


 理由を聞いて満足したのか、撫でられて気持ちいいのか、あずきはゆっくりと目を閉じる。


(曖昧でも……いいんだ……)


 あずきを撫でる手から優しい温かさが伝わる。

 目の奥が熱くなり、視界がぼやける。愛梨はあずきを真似るように体を丸める。

 体を丸めても、撫でる手が止まることはなかった。



 


 

 

 






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