episode.2 猫

 シドウは自分のことを神と言った。

 どうでもいいことだが、嘘をつくなら、もっとそれらしい嘘をつけばいいものを、とさすがに呆れてしまう。


 胡散臭い嘘をついてまで旅立たせたい理由はなんなのか。

 そんなことが頭をよぎったが、動くことをやめた体と心には、どうでもいい。


 どうでもいいが、シドウを拒否する理由が愛梨にはない。かと言って、旅をする気もない愛梨は好きにすれば、とシドウに言い放った。

 その返事がなぜかシドウを喜ばせ、彼は満面の笑みで嬉しそうに首を縦に振る。


 それからシドウは黙って愛梨のそばにいるが、これと言って何もしないし、何も言わない。ただ愛梨の隣で一緒にボーっとしているだけだ。


「ねえ……」


 人と一緒にいることに慣れていない愛梨。ましてや、男と二人きりなんて慣れていないどころではない。

 なんともいえない、居心地の悪い空間に耐えられず口を開く。


「これ……高校の制服だよね……」


 愛梨の服は白のワイシャツに青いチェックのプリーツスカート、黒いスニーカーだ。

 制服の上からは乾いた土の色をした、私物では持っていないコートを羽織っている。  

 32歳の愛梨には、少し無理がある格好にも思える。

 だがシドウはそうは思っていないのか、きょとんとした顔で愛梨を見る。


「何かおかしいのか?」

「おかしいよ。それにこの髪……。私はショートカットなのに、なんで茶髪ロングなの?これじゃあまるで……」


 愛梨は口をつぐむ。スカートをぎゅっと握り、眉間に皺を寄せている。


「高校生だな」


 愛梨が言いにくそうにしていた言葉を、シドウはさらりと言った。高校生という言葉が、愛梨の表情を一瞬にして暗くする。


「わかってるんだ……さすが神様……最悪だよ……」

「僕からのプレゼントはコートだけだ。それは待ち人の証でね。ここの住人が待ち人だと気付けるようにしている。待ち人の格好というのは……聞いてないな」


 淡々と説明するシドウの話しをシャットアウトするように、両膝を抱えて顔を埋める。長い茶髪が壁のように愛梨の顔を全て隠す。

 困ったような笑みを浮かべながら、やれやれとシドウは愛梨の隣で、芝生に体を預けるように寝転がった。


 真っ青な絵具で塗ったような青い空。絵に描いたような緑色の芝生。太陽の光は包み込むようにぽかぽかと降り注ぎ、風は春風のように柔らかく、秋風のように心地よい。

 吹く風の音に混じって、木の葉が擦れる音が遠くに聞こえる。


 ここでは排気ガスの匂いも、ラーメン屋の匂いも、香水やたばこの匂いもない。

 車のクラクションも、選挙演説の声も、電車の走る音も、人を罵倒する声も、嘲笑う声も、馬鹿にする汚い言葉もない。

 膝を抱えて俯いていると、自然の一部になったような、世界から取り残された感じがして気分がいい。

 死ねないなら、ずっとこうしていたい。



「神様?」



 静音のなか、鈴のような可愛らしい声がシドウの頭上、愛梨の丸まった背中から聞こえる。

 振り向くと真っ白な体に、真っ黒な耳。靴下を履いているように足先が黒い。

 白い体に映えるさくら色の首輪、土色のベストを着て、ビー玉のようにきらきらと輝くエメラルドグリーンの瞳をした可愛い顔の猫がこちらを見ている。


「やっぱり神様だわ」


 猫は可愛い声で話しながら、ゆっくりとシドウに近づく。

 シドウは起き上がると、寄って来た猫の頭を撫でる。


「久しぶりだな。順調か?」

「そんなに順調じゃないわ。どんなに依頼をこなしても何も分からない。それに聖女って職業は戦いには不向きみたいね。討伐依頼が受けられないの」


 シドウと知り合いなのか、猫は親しそうに話している。


「……猫が……話してる……」


 愛梨は目の前の光景を疑った。今まで何にも関心を示さなかった愛梨が、初めて関心というか興味をもった瞬間だ。


「あら?」


 愛梨の視線に気付いた猫は、くるりを体を返す。


「土色を着ているってことは、あなたも待ち人ね?」


 猫は愛梨に近寄ると、足を揃え座った。

 しっかりとブラッシングされた艶のある毛並みに、背筋を伸ばして座る猫。

 座り姿だけで品の良さが伝わってくる。


「……愛されてるんだね」

「え?」


 思わず出た言葉を口に戻すように、愛梨は勢いよく両手で口を押えた。思わぬことを言われた猫は驚いて目を見開く。


(うっわ……馬鹿……なに言ってんだろう……)


 恥ずかしくなったのか、愛梨は口を両手で押えたまま俯いた。

 愛梨の心を察したかのように、茶髪が愛梨の顔を隠す。


「ありがとう」


 猫は静かに歩き、体育座りで露出している愛梨の太ももに、何度も顔を摺り寄せる。

 滑らかでふわふわの毛並みが心地よくて、思わず笑ってしまいそうだったが、それを見られるのも恥ずかしい愛梨は、両手で顔を隠す。


「ところで、あずきは何をしているんだい?」


 シドウが口を開く。摺り寄せるのをやめた『あずき』と呼ばれた猫は、くるりと体を翻してシドウと向き合うように座る。


「もっと依頼を受けたくても、できないでしょ?どうしようかと考えて、ふらふらしてたの」

「聖女は依頼が限られるか」

「そうなの。もっと色んな依頼を受けないと、何も分からないと思うのよね」


 親し気に話すシドウとあずき。

 顔から両手を離して、少しだけ顔を上げた愛梨はその様子を黙ってみる。さっきまで笑いそうになっていた口角は下がり、熱くなりそうな顔の温度は下がっていく。


 顔を隠している茶髪が愛梨と彼らを隔てる壁のようで、それが愛梨の表情を暗く、冷たく戻していく。

 壁の向こうから見えないものを見るように、愛梨は親し気に話す彼らをじっと見る。

 そんな冷たく熱い視線に気付いたあずきが、くるりと振り向く。


「そういえば自己紹介してなかったわね。あたしはあずき。あなたと同じ待ち人で、職業は聖女よ。よろしくね」


 茶髪の壁の向こうで、あずきは明るく自己紹介する。

 その明るさが、愛梨の静かな心に、辛く響く。


「あずきは君より一か月早くこの世界に来た先輩だ」


 シドウが付け加えるようにあずきを紹介するが、それでも愛梨は何も言わない。


「どうしたの?あなたのお名前は?」


 聞かれて、ようやく愛梨は隔てている茶髪の隙間から、生気も覇気もない目であずきと目を合わせる。

 静かになった心の奥がざわざわと動いている。それは愛梨に恐怖と焦りを思い出させる。


深山みやま……愛梨。職、業は……」


 震える声が止まる。職業は選んだ。シドウが職業の名前を言っていたが、覚えていないし、仮に覚えていても、愛梨はそれがどんな職業なのか分からないので、答えることができない。

 言葉を止める愛梨を見たシドウは、仕方ないなとつぶやき、助け船をだす。


「彼女の職業はチートな魔法使いだ」


 シドウの言葉を聞いたあずきは、ぴんっと耳を立てる。


「魔法使い?魔法使いってことは、戦えるのかしら?」


 何を期待しているのか、ビー玉の瞳をきらきらと輝かせて、あずきはわくわくした顔で茶髪の隙間から愛梨を見る。

 その視線から逃れるように愛梨は目を反らし、体育座りをしている膝をさらに曲げて、身を小さくする。


「わからない」


 思わぬ答えに、ぴんっと立っていた耳が、落ち着きを取り戻すように元に戻っていく。

 ああ、失望させた。元に戻る耳を見て、愛梨はそう感じた。恐怖と焦りの心から、ざわざわとした音が消え、寝静まる、深夜のような静寂が満たしていく。


「あら?討伐依頼とか受けてないのかしら?」


 受けていない。そう答えたら、さらに失望させてしまう。愛梨は答えることを拒否して、ぎゅっと口を結ぶ。


「彼女は一度も依頼をこなしていないよ」


 愛梨の拒否を拒否するように、シドウがさらりと答える。

 一瞬にして、顔がカッと熱くなる。


 自己紹介もまともにできず、職業もわからない。これだけでも、人として恥ずかしいことだ。その上、今まで何もしていないということが知られたら、恥以外のなにものでもない。


 恥ずかしさで、愛梨はこの場から逃げたかった。同時に、あずきが何を言うのか気になり。体が動かない。


 だが、あずきは何も言わない。聞えこえるのは、風の音と木の葉が擦れる音だけ。

 この無言の時間で愛梨の顔は冷え、何も言われない緊張と恐怖から、今度は体の熱が奪われていく。


 「そういう時もあるわよね」


 一瞬だった。憑き物が落ちたように、心と体が軽くなり、ぶわっと体に熱が戻ってくる。

 愛梨はゆっくりと顔を――。


「じゃあ、あたしの手伝いをしてみない?」

「は?」


 思わぬ言葉に勢いよく顔を上げ、隔てた茶髪から顔を出すと同時に、気の抜けた声が漏れる。


「そういう時があってもいいと思うわ。でも、だらだら過ごすなら、あたしの手伝いをするのはどうかしら?」

「……あの」


 声を弾ませ、あずきはいたずらっぽく笑っている。

 きらきらとしたエメラルドグリーンの瞳が鬱陶しくて、目を反らしたくなるが、なぜか目を反らすことができなかった。

 





 


 




 




 

 







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