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「マキちゃん、マキちゃん」

 誰かの呼ぶ声がする。とても聞き慣れた声のような気がするけれど、体がふわふわ浮かんでいるような気持ちがしてよく分からない。

「マキちゃん、ほら、マキちゃん」

 今度は体をゆさゆさと揺すられて、体がぐにゃぐにゃと揺れ動く。

 あったかくて気持ちいいんだから、もうちょっとこのままでいさせてよ。

「いけません、もう朝ですから」

 そう言われてマキは、朝なら仕方ないかと思いながら目を覚ました。寝ぼけまなこを擦ると、目の前におばあちゃんの顔があった。

「マキちゃん、起きた? もう学校に行く時間よ」

 それを聞いたマキはしばらくぼんやりとしていたが、その言葉の意味を理解すると、体に電気が走ったように、がばっとベッドから飛び起きた。

「学校!」

 心臓が跳ねる感覚とともに、血液が一瞬にして体の隅々まで行き渡った。

 どたどたと音を立てながら廊下を走り抜けて洗面所に向かい、大急ぎで顔を洗ってぼさぼさの髪に櫛を通すと、セミロングの髪を慣れた手つきで整える。そのまま素早く学校指定の制服に着替えてから、姿見で自分の身だしなみを確認する。

「……よし」

 笑顔で今日のチェックを締めくくると、マキはキッチンに向かう。キッチンでは、おばあちゃんが朝食を準備していた。

「おばあちゃんごめん! 急ぐから朝ごはんいらない!」

「いけないわ、食パンだけでも食べなさい」

 おばあちゃんはそう言って、有無を言わさずマキの口に焼けたトーストを咥えさせる。とろけたマーガリンの香りがするトーストを齧りながら、マキは玄関へと急ぐ。通学バスの時間がもうすぐそこまで迫っていた。

 玄関先に用意しておいたランドセルを背負って、買ったばかりの運動靴に不器用に足を突っ込んでいると、見送りに来ていたおばあちゃんが声をかけてきた。

「マキちゃん、お稲荷さん食べてくれてありがとうね」

 優しさの滲む声色。マキは振り返って、口を塞いでいたトーストを離す。

「ううん、私の方こそ昨日はごめん。美味しかったよ」

「ありがとう、マキちゃん。それじゃあ、いってらっしゃい」

「うん、行ってきます!」

 短い会話を交わして、家を出る。胸の内にわだかまっていたもやもやが、なんだか解消された気がした。おばあちゃんに抱いていた罪悪感を掃ってくれたのは、他の誰でもないおばあちゃんだった。

 やっぱりすごいな、おばあちゃんは。

 そう思いながら歩き出すマキ。しかし、数歩も行かない間にその足が止まり、マキは今出てきたばかりの家を振り返った。

 ふと、昨夜のことを思い出したのだ。

 無意識に記憶の外に追いやっていたあの出来事。深夜のダイニングで見た、あの影について。

 昨日のあれは夢だったのだろうか。あの鏡に映った人影と、妙にくっきりとした冷たい感覚は……。

 いや、きっと夢だ。そうに違いない。

 ぞわりと背筋を撫でる感覚を振り払って、マキは通学路を足早に駆けていった。


         *


 原綿はらわた市は、明治中期に興った紡績業の発展に伴い栄えた土地だ。

 人口はおよそ四万人。市としては最低限の小さな都市である。

 海岸には原綿港という小さな港があり、そこから内陸に向けて緩やかに高度を増す土地は、不規則に聳え立つ壁のような山に阻まれている。

 右を見れば海があり、左を見れば山がある。一言で言うとそんな場所だ。

 この街の経済の一部は、古くから続く綿の栽培によって動いているが、安価で安定的に供給される輸入品の物量に押され、興隆を極めた時期から見れば雀の涙ほどの規模となっている。

 かつてはこの歴史ある産業を観光資源にしようと、市の肝入りで綿畑を存続させる動きもあったが、観光地としての立地の悪さと、なり手の減少が重なり、今ではそれらの施策も白紙に戻っている。

 とはいえ、大きく成功した産業もあった。

 綿を加工する紡績業は地元のアパレル産業と提携することで、加工工程からデザイナーの意見を取り入れた染色や紡績糸を生産するという、芸術方面での発展を遂げた。仕立てられた衣装は、年代を問わずに調和したデザインが人気で、市職員や銀行、学校の制服にも採用されており、過去には原綿市であつらえたスーツを着用していた議員がテレビに映ったことで、注文が殺到した事例もあるほどだ。

 そういった経緯もあって原綿市は、芸術家やデザイナー、果ては制服目当てで進学や就職を決める者の多い、少し変わった土地になった。


 マキの通う小学校、

 原綿小学校はそういう都市の中心地にあった。


         *


 学校での境井マキは、そこそこの生徒として評価されている。

 学業もスポーツも特段優秀というわけではないが、そこそこの点数をキープしており、友人関係もそれなりにある。遅刻や欠席は病欠を除いてほぼ無し。目立った問題は起こさず、大人の手を焼かない子ども。準優等生的な立ち位置。

 平たく言えば、マキは普通の子だった。

 そんなマキが授業開始のチャイムと同時に教室に飛び込む様は、ちょっとした非日常の出来事として捉えられた。

 そんなわけで、一限目が終わったマキは、友人たちの事情聴取にあっていた。

「もうホント、大変だったよ」

 ため息交じりにぼやくマキ。その両脇を、二人の女子が囲んでいた。

「それで寝坊して遅刻ギリギリだったってわけ?」

七尾ななおさん七尾さん、この人これで十一歳なんですよ」

 昨夜の出来事を包み隠さず伝えると、本影もとかげ七尾と、溜井戸都ためいどみやこは各々の反応を返してきた。


 七尾は小学五年生になったばかりだというのに、高校生に間違われるほどの長身の女子だ。運動も得意で、体育では七尾の右に出る者はいない。なんでも実家が武道塾を営んでいるため、物心がつく前から武道に打ち込んでいたそうだ。短く切り揃えられた髪もそのためらしい。

 そのせいか女子よりも男子との交流が多く、よく男の子と一緒に校庭を走っている姿を見る。

 対照に、都はインドア派の文学少女だ。身長もかなり低く、同学年と比べても頭一つ分は小さい。前髪の伸びた市松人形みたいな見た目も相まって、低学年と混じっていても違和感がない。本人は成長期が来てないだけだと言い張っているが、知り合って以降、身長が伸びている気配がまるでない。

 ただ勉強はかなり出来る方で、マキも七尾もテスト前にはよくお世話になっている。生粋の読書家でもあり、暇を見つけてはジャンルを問わず様々な本を読んでいる。曰く、活字フリークスなのだそうだ。

 この二人は去年からの同級生で、今年も同じクラスになった、特に仲のいい友達だった。


「もう都ちゃんやめてよー、てか誕生日早いだけで同学年だし」

 そうぼやくマキに、七尾が落ち着いた雰囲気のまま呟く。

「いやいや、流石に面白いから」

「そうですよ、中々出来ませんよ。高学年にもなってお化けが怖くて寝られなくなるなんて」

 都が慇懃な口調でせせら笑う。

「メンタル低学年じゃないですか」

 容赦のない追い打ち。

 片目が隠れるくらいに伸びた前髪の奥で瞳を歪ませる都に、マキは顔を真っ赤にして反論した。

「で、でも、本当に怖かったんだからね! 都ちゃんだって同じ目に遭ったらきっと眠れなくなるよ!」

「私はそんな変なおまじないやらないんで大丈夫でーす」

「うぐ……」

 そう言われてしまえば、返す言葉がない。冷静に考えれば、自分でもどうしてあんなことをしたのかと思う。

 言葉に詰まって右往左往するマキ。それを見る都の目は実に楽しげだ。

「な、七尾ちゃんも怖いよね、そんなことになったら……」

 助け船を求めて、都の隣で成り行きを見守っている七尾に訴える。

「うーん、でもなにかされたとかじゃないんだろ」

「それは、そうだけど……」

「じゃあ怖くないじゃん」

 そう、にべもなく返される。

「えぇ……武道やってる人ってみんなそうなの?」

「耳にタコが出来るほど言われんだよ。ビビると体がこわばるから、いつでも冷静に対処できるようになれって」

 七尾が師範である父の言葉を思い出しながら、短く切り揃えられた前髪をがしゃがしゃとかき回す。

「まあ私はともかくマキは怖かったみたいだし、ミヤもあんまからかってやるな」

「それもそうですね。すみません」

 諫める七尾に、都は素直に謝罪する。

「それで、『わらわちゃん』……でしたっけ? この辺りに伝わる昔話かなにかですか?」

 都の疑問にマキは、思い出したように説明する。

「あ、そうそう。『わらわちゃん』。原綿市だと割と有名なんじゃないかな」

「そっか、ミヤは去年越してきたんだもんな」

「ええ、稲荷神社とか、狐のお社が多いなとは思っていましたが」

 都の言う通り、この辺りは赤い鳥居などがよく目立つ。現に教室の窓から外を見れば、遠くの方に、稲荷神社がちらりと見える。

「でも、わらわちゃんを呼ぶ方法なんてのは初めて聞いたな」

 七尾が顎に手を当てて言う。

「本当? てっきりみんな知ってるんだと思ってた」

「いや全然、わらわちゃんについても名前知ってる程度だし」

「お年寄り世代の、都市伝説みたいなものなのでしょうか?」

「あー確かにそうかも。私も、おばあちゃん以外からは聞いたことないし……」

 そこまで話してから、マキはふと後ろを振り返った。

 とん、と誰かに肩を叩かれた気がしたのだ。

「?」

 しかし背後には誰もいない。そこにいるのは声を上げてはしゃぐ男子と、仲良しの友達とお喋りをする女子だけだった。

「……?」

 疑問に思うマキだったが、その正体を確認する前に授業開始のチャイムが鳴り、教室に入ってきた担任の栢森かやもり先生の声と共に、グループで固まっていた全員がそれぞれの席へと戻っていった。

 不可解な気持ちが残りつつも、マキはみんなと同じように教科書を取り出して授業に集中することにした。

 肩には誰かが触れた感触がうっすらと残っていたが、その内ゆっくりと消えていった。


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