第2話 黄泉帰り 弐
いったい、目の前の“なにか”は何を言っているのだろうか。
それは、私を「生き返らせる」と言った。ただの幻聴かとも思ったが、妙に理の通った口調が耳に残っている。
しかし、仮にそれが本当だとして——正直、ごめんこうむりたい。確かに、死ぬ直前に食べ損ねたうどんのことを思い出すと、少しだけ悔いはある。けれど、あの人生に戻るくらいなら、いっそこのまま魂だけになって他の何かに生まれ変わる方がずっと望ましい。どうせ生きていたって、誰かの役に立てるわけでもないのだから。私という人間の人生は、ここで終わってしまっていい。誰かの役に立たないというのは本当に辛いんだ。
「すみませんが、この話は……」
「おっと、待ってくれ。ただ生き返らせるだけじゃない。君にはいくつか“能力”をつけてよみがえってもらう。」
“なにか”は楽しげに言った。
「ただ生き返るだけなら、いつでもできるよ。だって死んだ記憶を持った人間とさして変わんないんだから。でも、それじゃあ面白くない。そうだね……たとえば、飲み食いや睡眠を必要としない身体になる。病気にもならない。もちろん寝たければ寝られるし、食べたければ食べられる。人間らしい欲望は消さないことを、約束する。」
何を言っているのか、しばらく理解できなかった。驚きというより、言葉の意味が脳に届いてこない感覚。
食欲も、睡眠欲もない? 病にもならない?
そんなの、人間というより“生物”としての枠組みを完全に逸脱している。
それだけではない。口ぶりからして、与えられる力はそれだけではないのだろう。そんな異常な力を持って生き返るなんて、私には荷が重すぎる。それにしても、この“なにか”は、まるで天気の話でもするような軽さで話してくる。
「……あなたの目的は何ですか? “知的好奇心”だなんて言ってましたが、どうしても信じられません。」
「まあ、そう言われると思ったよ。」
“なにか”は肩をすくめるような仕草をした。輪郭はあいまいで、姿形ははっきりと見えない。けれど、どこか親しげで、感情を持っているのが伝わってくる。
「君たち人間と、僕たちとでは価値観が違うんだよ。壮大な理由なんてない。ただ、君という個体を見て、ちょっと興味が湧いただけ。それに、正直けっこう好条件だと思うんだけどな?」
……たしかに、そうだ。
もしそれが本当で、能力も得られるなら、これ以上ありがたい話はない。いくら願っても叶わなかったものが、向こうから差し出されている。
ただ、人生というものは、甘い話には必ず裏があると教えてくれた。それを私は、嫌というほど知っている。だからこそ、いくら「好条件」だと言われても、すぐには信じきれない。
“なにか”は身振り手振りで感情を表現していたが、顔がない。表情が読み取れない。けれど、それでもなぜか、不思議なことに「親しみ」を感じてしまう。まるで旧友のように、同じ食卓を囲むような自然さで、目の前に座っている。
「なぜ私なんですか?」
「それは、たまたま。君が、あのとき、あの場所で、ちょうど都合よく死んでくれたから。それだけの話さ。ふつうなら、あの“環”の引力に吸い込まれて、そのまま還ってしまう。君は奇跡的に、それに巻き込まれなかった。ただ、それだけ。」
「そ、そうですか……。あはは、そういえば、さっきも同じような話をしましたね。何度もすみません。」
「はは、いいんだよ。無理もないよね。突然こんなところに連れてこられて、訳のわからない話をされて、混乱しない方が不思議さ。」
そして、“なにか”は、静かに尋ねてきた。
「それで……どうだい? もう一度、人生をやり直してみないかい?」
私は、一度深く息を吐いた。
この“なにか”が知的好奇心で動いているということは、とりあえず信じるしかない。そうだ、この存在の本当の目的が何であれ、私がそれを知ったところで、どうにもできないのだから。たとえ裏があったとしても多分私には到底理解もできない。
そのうえで考えてみた。この能力を持って生き返れば、少なくとも誰かに迷惑をかけることはない。だって衣食住が自己完結できるんだ。迷惑をかけるほうが難しい。それにもしかすると、誰かの役に立つことさえできるかもしれない。それならば、生きる理由にもなる。
——けれど、私は生き返って「何をするのか」が決まっていない。家族はもういない。友人と呼べる人もいない。やりたいことも、目指すものも、なにもない。
私は黙って俯いた。
「悩んでいるようだね。君の言動を見るに、生きる目的が見つからないというところかな。“なんでもいいさ”なんて、無責任なことは言いたくないけれど……」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃないよ。君を勝手に呼び止めてるのは僕なんだし。でも、そうだね。目的か……」
“なにか”は少し間を置き、考え込むように言った。
「——では、旅をするというのはどうだろう?」
「旅、ですか?」
「うん。ただあてもなく、各地を歩いてみる。やりたいことが見つかるかもしれないし、旅そのものも楽しいものさ。」
考えてみれば、私はこれまで一度も“旅をしてみたい”と思ったことがなかった。金もなければ、行きたい場所もない。ただ毎日をやり過ごすだけの人生だった。
けれど、今の私は、腹が減らない。眠くもならない。道に迷っても、時間に追われることもない。そんな身体で旅をするなら、意味もなく歩くことすら楽しめるかもしれない。
「……確かに、いいかもしれませんね」
「だろう? じゃあ、決意は固まったということでいいかな?」
「はい。よろしくお願いいたします」
そう私が答えると、“なにか”はホッとしたように机に突っ伏し、大げさに力を抜いた。
「よかったーー。ダメだったらどうしようかと思って、ほんとにひやひやしたよ……」
不思議なものだ。顔も輪郭も曖昧で、正体も分からないくせに、その仕草が妙に人間らしく見える。
私は、ふと思い立ち、尋ねた。
「そういえば、あなたの名前は何というんですか?」
「僕の名前? ああ、言ってなかったね。僕は……」
その名を聞いた瞬間、私の意識は静かに落ちていった。
望む能力が手に入ったとして人生は楽しいのだろうか @soranin-
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