第13話 今川、西進す
さて、一五五九年、正月の行事も滞りなく終わった頃、清洲に居城を移していた信長は、熱田神宮に年始めの訪問を終えて戻ってきたところであった。
「お館様、梁田正綱が戻って参っております。」
まだ幼さの残る小姓のひとりが知らせに来た。着替えの終わった信長は、帯を締めながら「よし」とだけ返答をした。
この梁田正綱という男、もとは尾張の守護、斯波氏に使える小物であったが、斯波氏の没落を目の当たりにして信長の父、信秀にくら替えし、今は九之坪城(現在の愛知県北名古屋市)の城主となっていた。斯波氏に使えていた頃より、他の豪族や有力豪族との交渉ごとにあたり、様々な国に人脈を持っていたことから、信秀も正綱を重用し、彼からもたらせる情報をもとに様々な戦略を立てることも多かった。今は信長のもと、表向きは信長に味方する大高城の水野大膳へのお目付役として、城を行き来する役割であった。
「お館様、今川がとうとう仕掛けてきますぞ。」
いつも軍議をする広間で先に待っていた梁田正綱が入ってきた信長を見上げて報告した。信長はすでに予期していたように慌てる様子もなく上座に座った。
「そうか。大高城も凋落されるか」
「それにしても元康も性根のないやつじゃ。長いものに巻かれおって」
大高城を攻めるとしたら今川方に組みする松平元康が、先鋒を切らされることはおおよそ見当がついてきた。幼い頃は人質として信長とも暮らした時期を知っている信長だった。竹千代と呼ばれていた頃の元康は心優しい少年であったことを覚えている。気性の荒い信長は、竹千代に強く生きることを教えてきたはずであったが、今川に組みしてしまったことが悔しかった。
「では、こちらから攻めてみるか」
驚いた正綱はしばらく返答に窮した。今川の軍勢に正面から攻めても今の兵力ではとても勝てないと思った。
「単なる脅しならなんとかなるであろうが。正綱、すまぬが鷲津、丸根の二城に物見を増やし、不測の事態が起きたら寺部等の諸砦に速やかに大高城を囲むよう手配しておいてくれ。沓掛、鳴海の両城にも同じ命を伝え、従わねば大軍を率いて攻め込むと噂を流せ」
信長は、今川に勝てる自信はなかった。それだけに、すでに六角と密かに約定を交わし、美濃の国境に兵を進め、牽制しておくように仕向けていた。これで万が一の時にも兵力を多く差し向けられるのである。この交渉には光秀があたっていた。
「かしこまってございます」
そう言い残すと足早に支度に戻っていった。
これより三ヶ月ほど前、信長は秀吉を通じて、当時、名馬の産地として知られていた木曽を治める遠山左近佐(直廉)に馬の調達を命じていた。戦において活用することを考え、沓掛城や鳴海城にも配置しようと準備させていた。そして、この脅しに応じたならば、相応の馬を与えることを正綱に言い含めておいたのである。
『さて、今川との戦、勝てるものか』。
信長には自信がなかった。今までの敵とは兵力も知略も全く大きな存在に見えていた。そんな思案をしていたところに濃姫が静かにその縁側から声をかけた。
「天下を目指そうとしてるお方が何を思案しておられますか。私がついております」
信長はゆっくり立ち上がると濃姫の方に歩んだ。実は馬の手配は濃姫の発案によるものだった。
「いくら準備をしても今度ばかりは死ぬるやもしれぬと、ついつい考えてしまう」
「そのときは私の見る目がなかったということでございます。運命をともに致しましょうぞ」
濃姫の声は静かに、力強いものであった。信長はそのような濃姫に惚れていたのである。
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