第56話

 信じられない光景に、ヤイバは全身が固まる。

 すっと冷たい気配が背筋を通れば、瞬時に彼は我を思い出して走った。そのまま、仰向けに倒れるカホルに駆け寄り、ギリギリで抱きとめる。

 彼女の左胸には今、矢が突き立っていた。


「カホルッ!」

「は、はいはーい……ヤイバっち、ぶ、じ? だよ、ね? よかっ、たあ」

「よくないっ! く、ちょっと待って。少し痛いけど我慢して」


 防具……というかチャイナドレス風の着衣も魔法の加護があって、そのせいかあまり深くは刺さっていない。心の臓には届いていないと思う。だが、服にはじんわりと紅いしみが広がりだした。

 ヤイバはすぐにブランシェを呼びつつ、矢を抜く。

 思った通り出血がひどくなったが、今は治療が優先だ。


「ブランシェ! 治療魔法、使えるよね」

「うんっ! まってて、カホル」


 その間も、背中は殺意を感じていた。

 ヤイバは強い視線を感じつつも、それを我が身で遮りカホルをかばう。

 二の矢が飛んできたが、それをチイが叩き落とした。

 驚くべきことに、彼女は自ら放った矢で敵意を相殺したのだ。ちょっと人間業じゃないが、彼女も魔法の武具に身を固めてる。その恩恵があるのかもしれない。

 ただ、眼鏡の奥にチイは激しい怒りの瞳を燃やしていた。


「ヤイバ君、ブランシェちゃん! 早くカホルさんをっ!」

「ここは僕たちで……すみません、あの! 僕たちに敵意はありません! どうか話を!」


 シャリルも腰の細剣を抜いて、断続的な矢の雨を切り払った。

 その間に、そっとブランシェがカホルの傷口に手を当てる。温かな光が広がり、少しずつ傷が塞がっていった。だが、妙だ。ブランシェはだんだん息を荒げて、額に汗を玉と浮かべる。

 すぐにヤイバは察した。

 イクスから魔法を奪っても、イクスと同じレベルの使い手にはなれないのだ。

 経験と魔力の差か、おそらくブランシェはイクスより魔法の効力が低い。そして、無尽蔵に何度も魔法をかけ続ける持久力もないのだ。


「も、もう、すこし……ぜったい、治すから」

「ブランシェ、一度休もう。血は止まったし、傷口も」

「だめ……カホル、きれい。きずあと、のこったら、ヤだ」


 だが、ほのかな光が細く細く消え入る。

 同時に、ブランシェはその場に倒れてしまった。

 そこを狙った矢が、チイとシャリルの防衛戦をすり抜けてくる。

 ヤイバは直感で見もせず、適当なナイフを抜いてそれを叩き落とす。ぼう! と炎が吹き上がって、矢は空中で消し炭になって燃え尽きたのだった。


「フレイムエッジ、という名前にしておこう。それよりっ!」


 起き上がろうとジタバタするブランシェをかばいつつ、ヤイバは森の奥を睨んだ。

 薄暗いその先は、闇。

 その向こうから、確実にこちらを見つめる気配があった。

 やがて矢が尽きたのか、攻撃が止む。

 そして、ゆっくりと長身の影がこちらへ歩いてきた。手には弓を持っていて、矢筒の中にもまだ矢がある。それより驚いたのは、その整った顔立ちだった。


「人間にダークエルフ、混血児のハーフエルフまでいるのか。去れ、逃げれば追わない」


 その男は、エルフだった。

 長い耳が怒髪天のようにピンと立っている。

 やはり噂は本当だったのだ。

 元からヤイバは、亜人たちの絶滅に少しだけ懐疑的だった。例えばエルフ、長寿な上に容姿が老化しない。そんな種族が10年やそこらで絶滅というのは、例えば民族浄化で皆殺しにしたとかでもなければ不可能に思えるのだ。

 もちろん、それだけ魔王軍との決戦は過酷だったとも考えられる。

 エルフが繁殖力の極めて低い人種だとも聞いていた。

 だが、眼の前のエルフは現実だ。


「……イクスさんを知っていますか?」

「イクス……! ま、まさか……呪いの魔女、エクストラ・スクロール!」


 エルフの美丈夫はわずかに表情を歪めた。

 露骨な忌避と嫌悪が伝わってくる。

 だが、すぐにその男は左右に頭をふると、長い金髪を揺らしながら自分自身を否定した。そして、弓の弦を外して戦闘の意思がもうないことを表明してくる。

 そして、謝罪するようにうつむき小さく呟いた。


「いや、呪いを背負わせたのは我々か……すまなかったな、冒険者。……今どきまだいるのだな、冒険者が。そうか、まだ10年しかたっていないのか」

「謝罪は受け取りました。遺恨はここで捨てます」

「ありがたい。……君は人間の子供なのに、随分と感情の律し方が達者だな」

「そういうふうにするしかないでしょう? あなたを殺してもカホルの傷は治らない。それより」


 徐々にだが、おぼろげに真実がわかってきた。

 イクスが目指せといった、翠緑ノ樹海、その深淵……伯爵の親衛隊が巡回しているのは、おそらく開拓者たちを寄せ付けないようにしているのだ。

 そして、そのさらに奥にはエルフたちが住んでいる。

 そう、もう確信した。

 この奥にはエルフたちの生活する集落があるのだ。

 そのことを尋ねると、戸惑いつつ男は頷いた。


「エルフだけではない。ホビットやドワーフもいる。かつて皆、人間と共に戦った者たち、その生き残りだ」

「エルフとドワーフ、本来は互いに嫌い合ってるんじゃないんでしょうか」


 チイが一般的なファンタジーの話を差し込んだが、エルフの男は苦笑するだけだった。


「人間嫌いという点では、エルフもドワーフも変わらないさ。一緒に魔王と戦ったんだ」

「そして、戦争が終わったら……人間の一人勝ちみたいな世界になっていた、と」

「ああ、その通りだよ。賢い人間のお嬢さん」


 男は、村に案内すると言ってくれた。

 そこには、イクスを知る者たちも何人かいて、その全員があらゆる魔法を集めてイクスに刻み込んだのだ。あの白い肌に明滅する、無数の紋様……それは、魔王討伐完了と同時に封印されし、魔を滅する力。

 人間たちが科学に目覚めた今、決して使われてはいけない外法の術なのだった。


「チイ、ブランシェをお願い。僕はカホルを」


 カホルを抱き上げ、ちょっとよろける。それでも、彼女の体がどんどん冷たくなっていく感覚がはっきりあって、腕に力がこみ上げる。

 少し重いが、口にしたら意識不明でもカホルは怒りそうだ。

 そういうカホルとまた会いたくて、ヤイバは黙ってエルフの男に続く。

 チイもブランシェを背負うと、赤子をあやすようにして従った。

 ただ、シャリルだけがその場に突っ立ったまま動かない。


「どうした? ハーフエルフ。ああ、うん、そうだな……先程は侮蔑の言葉を吐いてしまった。すまない」

「いえ、ただ……あ、あのっ!」


 シャリルは戸惑い躊躇する中でも声を張り上げる。

 彼にしては珍しく、その声が周囲に響き渡った。


「エルフたちって、他にもあちこちに暮らしてるんでしょうか!」

「……そういう話は聞かないな。皆、この先に集められている。言ってみれば、我々の居留地は隔離されているようなものだからね」

「隔離……じゃあ、もしかして母さんが」

「女性のエルフも何十人かいるが、そうだね。もう亜人も数百人しかいない。そして、婚姻や出産は厳しく制限されている。……滅びは決まっているんだよ」


 自分たちのことなのに、男は諦観の念があるのか淡々と話す。

 そこで、ヤイバは確信をついた。


「もしかして、世界中から亜人を集めて隔離しているのは……キルライン伯爵ではありませんか?」

「……そうだな。彼が偉大な冒険者、仲間だったのは遠い昔だ。我々にとっての10年は昨日のようだが、人間が様変わりするには十分な時間だろう」

「あと、あの……異世界から召喚魔法で転移してきた勇者は」

「ああ、ツルギとミラか。懐かしいな……無事元の世界で元気にしているといいが」


 男はヤイバが二人の子だと名乗ると、目を丸くして驚いた。

 ただ、現実世界がこの異世界のニ倍の速さで時間を巡らせていることは伏せておく。余計な混乱は避けたいし、あまり意味のない情報だからだ。

 でも、もう一つ、もう一つだけ疑問がある。

 あの夜、カホルと見上げた星空の向こう側。

 謎の魔法で隠蔽された、夜の女王にまつわる話だ。


「すみません、あともう一つ……月を知ってますか? 夜空に浮かぶ月、お月さまです」

「うん? なんだいそれは。あ、いや、待てよ……何百年か前に長老が」


 フム、と考え込む素振りを見せたが、男は再び歩き出した。

 若々しく二十代に見えても、もう何百年も生きているのだろう。そして、魔王の支配する暗黒時代も生き延び、生き残ったのだ。先程の弓の腕前が、それを如実に語っている。

 だが、その彼でも知らない。

 この異世界にも、隠された衛星があることを。


「ま、待ってください、ヤイバ君。月って」

「ん、実はね……カホルと見たんだ」

「……二人きり、で? ですか?」

「え、そこ? うん、まあ、二人の夜だった」

「いつのまに……ちょっと、あとで詳しく説明してもらいますからね」


 なぜかチイは、鼻息も荒く眼鏡を上下させる。

 とりあえずはカホルの傷もある程度は塞がったし、急げばこの先で治療が受けられるかもしれない。それは魔法ではなく、おそらく医療だとは思うが。

 そう、眼の前のエルフもだろうが、全ての亜人は魔法を手放したのだ。

 それを今、詰め込まれて預かっている少女がいる。乙女にしか見えないその老婆を助けたくて、ヤイバは歩調も強く密林の奥に分け入っていくのだった。

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