第22話「ハイエルフが真夜中に描く地図」
それからの数日は、平穏な時間がゆっくり流れていった。
キルライン伯爵は意外にもなりをひそめ、先日の停電騒ぎもニュースに埋もれてゆく。
だが、ヤイバは家事に勤しむかたわら、決して時間を無駄にしてはいなかった。
「んー、まあ、こんなもんかな」
早朝、庭の奥へ置いた的にナイフを投げる。
インターネットで動画を見たりなどして、見様見真似で練習してみるが……これがなかなか上手くはいかない。ただ、やらないよりはましという程度には身についた気もする。
ここ数日で、段ボールを重ねて作った的には、十本投げれば一本は刺さるようになった。
なにより、日常には全く必要のないナイフ投げという動作を、身体がようやく覚えてくれたように思う。
そっと手の甲に触れて、元のパジャマ姿に戻る。
さて朝食の準備をと思った、その時だった。
「あれ? ……イクス、さん?」
そろりそろりと足跡を殺して、縁側にイクスが現れた。
何故か、敷布団を抱えてキョロキョロとしている。ヤイバのいる庭の奥は、木々のブラインドによってちょうど死角になっている位置だった。
なにごとかと思ったが、隠れる必要もないのでヤイバは朝日の中へと歩み出る。
「おはようございます、イクスさん」
「ひあっ! あ、う、お、おおう……おはようじゃな、少年」
「なにしてるんですか? あ、布団干します?」
「……う、うむ。そのう……」
なにやらもじもじとして、イクスは真っ赤になってうつむいた。
よほどのことなのか、長い耳がぺたんと垂れ下がってしまっている。
それでなんとなくヤイバも察したが、彼女は小さな声を噛みしめるように呟いた。
「……そのぉ、うん……粗相を、してしまってのう」
「あ」
「は、恥ずかしいから、こっそりと思ったんじゃが」
「えっと、シーツや下着は」
「洗濯機? とかいうのに入れておいたが、動かし方がわからん」
「大丈夫ですよ、やっときますから」
「すまぬのう、まっこと申し訳ない。客人としてあるまじきことじゃ」
そっとイクスは、布団を宙にほうる。
魔法で浮かんだそれは、ひらひらと舞って物干し竿の上で二つ折りになった。
そこには、異世界の地図がしっとりと刻まれていた。
こういう時、どうフォローしたものかと思ったが、改めてヤイバは思い知る。
イクスは見た目こそ美少女だが、既に老齢の年寄りなのだ。
「気にしなくていいですよ、イクスさん。別の布団、出しときますから」
「ううむ、恥ずかしや……」
そう、おねしょである。
イクスは大きなため息を零して、そっと両手を布団に伸べた。
そよそよと熱風が吹き出して、布団が静かに揺れる。
ドライヤーみたいなものだが、これもれっきとした魔法だろう。
しおしおにしなびた顔で、イクスは身も心もぺしゃーんとなっていた。
「はあ……赤子の頃以来じゃよ、もぉ……恥ずかしいのう」
「しょうがないですよ。気にしないでください、イクスさん」
「気にするわい! ……少年にはみっともないとこ、見られたくなかったのう」
その時、背後で大きなあくびが響いた。
振り返ると、下着姿の母ミラが縁側に立っている。
今日は全裸じゃないだけまだいいかと思う程度には、この人の私生活は概ね裸族なのだった。物心ついたときから薄着な母を、ヤイバも気にしなくなって久しい。
でも、流石に学校で噂になってるとは思わなかったが。
そのミラだが、眠そうに目をこすりながら庭に降りてくる。
「おはよー、って、ありゃ? イクス、それってもしかして」
「おはよう、ミラ。すまんのう……やはり、身体が老いて弱っておるのじゃ」
「はは、気にしない気にしない! 年寄り笑うな、いつか行く道! ってね」
「なんじゃそれは」
「こっちの世界の、うーん、ことわざ? 若者笑うな、いつか来た道、とも言うしさ。ヤイバなんか、三歳になってもおむつしてたし」
そういう個人情報の流出はやめてほしいなあ、とヤイバも苦笑する。
事実、おむつが外れてからもヤイバはおもらし常習犯だったらしい。
ただ、イクスの場合は老齢からくるもので、本人もそのことをいたく気にしている様子だ。無理もない、こんな時どう接したらと思うと、ヤイバも胸がキュッとなった。
だが、ミラは流石に一児の母、そして昔ながらのイクスの仲間である。
「いいのよ、イクス。あたしたちに気兼ねしないで。介護用品もあるけど、嫌なら使わなくていいし。あたしやヤイバにお世話させてよ、それくらい」
「それくらい、と言うてものう」
「20年前はお世話になったんだから、こっちではあたしたちがお世話するよ? ねっ、ヤイバ。うちの子、こう見えても父親に似て気が利くから」
ヤイバも大きく頷く。
それに、母の言葉ももっともなことだ。
年寄り笑うな、いつか行く道。
若者笑うな、いつか来た道。
だから、いいのだ。勿論、中学生時代の母親がハイレグビキニアーマーでハルバードをブン回していたことも、笑ってはいけない。それと同じことだ。
というか、そっちに関してはヤイバは、笑うに笑えないのだが。
気恥ずかしそうなイクスの頭をぽんぽんとなでて、またミラはあくびを一つ。
「ふあ、それにしても眠い……ヤイバ、今朝のご飯は?」
「ん、パンにしようかなと思って。ありきたりな卵とベーコン、お漬物と」
「オムレツにしてー、ふわとろなやつ。ねっ、ほらほらイクスも、家はいろ?」
しょんぼりイクスを元気づけるように、母は肩を抱いて家へと戻っていった。
布団は既に、異世界地図が薄く消えて、ちょっと触ってみれば熱かった。
さながら人間電子レンジというか、些細なことでも魔法はやはり凄い。そして、どんな魔法も悪用が可能かと思えば、やはり守って戦う必要もあるとも思えた。
それと、なんとなくヤイバも自分が年頃の男子なんだなあと実感する。
見目麗しいハイエルフの美貌と、布団に広がる異世界地図。
このギャップがなんだか、ちょっと心をそわそわさせる。
でも、ヤイバは徹底してイクスを老婆だと自分に言い聞かせてるので、妙な気が起こることはなかった。わりと必死にそう思い込まねばならぬほど、彼女は綺麗だ。
「あ、そうだ! ヤイバー? 今度の日曜日、暇?」
「毎日が暇だけどね、母さん。なに? どこかに出かけるの?」
「あたしの会社もね、とあるイベントに参加するんだけど。なんだっけ? 地球環境うんたらかんたら? ま、ちょっとしたお祭りみたいな、展示会みたいな」
ミラは今、シングルマザーとして忙しい日々を送っている。会社では重要なポジションを任されてて、地球環境に関する大事な研究に従事しているのだ。
ちょっと前、その一端を見てしまったのをヤイバは思い出す。
それで空を見上げれば、雲一つ無い晴天に薄っすらと月が見えた。
「イクスもさ、ヤイバとおいでよ。気分転換に外出もいいし、色々珍しいものも見れるよん?」
「ん、そうじゃのう……ちと世話をかけるが、行ってみるかのう」
「そうしなよ! あたしの仕事ももうすぐ、一段落だからさ。そしたら三人で温泉にでも行こうよ」
日曜日の予定が、半ば強引に決まった。
何年も母が手掛けていたプロジェクトが、どうやら節目を迎えるらしい。
それはめでたいことだし、そのイベントとやらにも少し興味がある。
朝の風に今度はくしゃみをして、ミラが先に家へと戻っていった。それと入れ替わるように、ヤイバは身を寄せて声をひそめる。
「イクスさん。もしかしたら……こういう時に伯爵が動くかもしれませんよ」
「ふむ! そ、そうじゃな。こっちの世界も、環境が弱っておるのか? 星の泉が感じられぬが」
「まあ、色々ですよ。温暖化に天候不順、少子化と人口爆発の板挟みですしね」
「大変じゃのう。それでミラは忙しく頑張っておるのか」
「ええ、多分。……だからまあ、伯爵の言うことも一理はあるんですよ」
ほんの一理だけ、ごく僅かにだがヤイバにもわかる。
だからといって、幼女を道具のように使う環境テロリストは野放しにはできない。そして、魔法を再びイクスたちの世界に解き放つ訳にもいかないのだ。
おねしょのショックから立ち直りつつあるイクスが、ふむと唸って腕組み頷く。
「もう、些細な魔法でも一つも渡せん。チイやカホルも手を貸してくれるしのう」
「あ、その二人も誘ってみようかな、日曜日」
「うむ、それがええのう。伯爵うんぬんは別にして、少し楽しみになってきたわい」
にんまりと笑ってくれて、ヤイバは内心ホッとする。
だが、次の瞬間にはやっぱりイクスがおばあちゃんなんだと実感した。
孫にこういうこと言う祖母というのは、よくある話だったから。
「で、ヤイバはどっちが本命なんじゃ? チイかや? それともカホルか」
「あ、そういうのないんで」
「なんじゃ、恋愛せんのか?」
「イクスさん、その調子で20年前も僕の両親を煽ったでしょ」
「煽ったんじゃないぞよ? 後押ししたんじゃ」
「僕にはいいですよ、世話焼かなくても」
見合いを進める親戚のおばさんみたいな、というのはこういうのだろう。
悪気がないだけに、よけいにたちが悪かったりする。
だが、無邪気なイクスの笑みには、その余計なお世話さえ愛らしく感じた。ほんの短い時間でもう、ヤイバはイクスのことをとっくに家族と想えているようだった。
「最近、孫の顔がみたいとかいう気持ちが少しわかるのじゃ。あ、ヤイバが孫みたいなもんじゃから、ひ孫かのう」
「バカ言ってないで、家に入りましょうね、イクスおばあちゃん」
「……ハ、ハイ」
互いにクスリと笑って、そうして歩き出した時だった。
春の風がまた吹いて、今度はイクスがくしゃみを一つ。それもその筈、彼女は上にパジャマを羽織っただけだった。そして、それが風で舞い上がる。
本来ある筈の下着は既に洗濯機の中だと、ヤイバは思い出した。
何度もおばあちゃんという呪文を心で唱えても、ついつい赤面してしまうヤイバだった。
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