09 知恵
ただの銅板では面白みがないと殿下が唸ったのは十日前のこと。次の朝には、黒くなった鉄製の壺を何処かから持ってきた。壺の周りにほどこされた星や幾何学模様に銅板を打ち付け、形をうつす。形を整え、鉛と炎で作り出した金色は世界に一つしかない宝物のように見えた。
ひとつひとつ丁寧に磨き上げて、できた宝物を配ろうと動いたのは今日のこと。私が声をかけずとも殿下自らが前に出た。
施しではなく知識を得るための交渉だろう、と言った控えめに笑みをこぼした顔は凛々しい。
殿下はまず、厨房に向かわれた。迷うそぶりを見せなかったので、作業の間に決めていたのかもしれない。
戦士と見間違えるような料理長に
殿下の口以上に雄弁な目に――年相応の無垢な瞳に絆されてしまったらしい。
「殿下は昼間はどうされている」
厨房を出ようとしたわたしに初めて声がかけられた。
料理長が腰に手をあてて見下ろしてくる。
殿下のことを何処まで話していいのか判断できないわたしは、取り繕った笑顔でかわすことにした。
「――わたしがお世話を任さられています」
「それで、顔色がいいのか」
昼餉は大丈夫そうだな、と背を向けながら呟いた料理長は、持っていた黄銅を指ではじいて飾り皿に投げ入れた。
言われてみれば、と殿下の横顔をうかがってみる。青白く線の細かった肌が血色を持ち、少しではあるが角が取れた。
料理長が見せた料理を自分でも作れるだろうかと思案しているのか、浮足立っている。楽しげに考え込む姿は
やはり、見て学び、その道のものから聞ける話は楽しい。
昼餉は殿下と一緒に
最初に生地を練る手本を見せる。殿下に任せると、ターバンに汗じみを作りながら最後までやり遂げた。
細いと思っていた腕もたくましくなったように見える。
おすそ分けしてもらった白チーズとひき肉とスパイスをのせて焼けば、言葉なんて必要ない。
全部、お腹におさめてから、机のそばで立ち尽くす
いつもなら、部屋の隅でまどろむか、姿を消すはずなのに。
理由を探るわたしにも気付かず、空の皿を毛を震わせもせずに見ている。瞬きひとつもしない姿に申し訳なくなってしまった。
「鹿は
不思議そうにする殿下は人が鹿になっていることを知らない。
尻尾をひと振りした
✶ ✶ ✶
夕餉は悩むまでもなく
そっとうかがっても、旦那さまは黙々と
ふふ、と笑いがこぼれてしまった。夕餉中だというに、顔がだらしなかったかもしれない。
長い前髪が旦那さまの口元も隠してしまった。厳かな雰囲気はそのままで、とても器用なことをされていると思う。笑っていらっしゃるのか、いないのか、わからない。
でも、わたしは知っている。いつもは手をつけない果実酒が減っていたことを。
殿下のこともうれしかったけど、同じぐらいに旦那さまがご機嫌なことがうれしかった。
食事の音だけがする部屋なはずなのに、雰囲気がやわらかい。
白いチーズの代わりに形が崩れるまで煮込んだトマトのソースは肉と絡んで食が進んだ。やわらかいパンをいつの間にか平らげていた旦那さまは次へと手をのばしている。
殿下が忘れない内に、ともう一度作った生地は、さらに美味しくなっている気がした。旦那さまも気に入っている様子に口端が上がる。
最初は、気が引けていたけれど、依頼を受けてよかったみたい。
もう一度、声もなく顔をほころばせると、ふっと緊張のゆるむような音が聞こえた。
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