『それぞれの戦い』
境内に展開された《
初動は互いに〈
二人合わせて、たったの四手。盤上に置かれた、そのたった四つの石が、雄弁に声を発している。
――あれからもう千年になるのか。懐かしいものよのう、鷺若!
――随分と遅くなったが、今日こそ決着をつけてやる、九郎!
鷺若丸と九郎。二人は宿敵同士だが、そのルビに「とも」の二音を振れるような間柄では決してなかった。
盗賊として平気で人の命を奪おうとする九郎を、鷺若丸は許さなかったし、都の貴族として生まれておきながら、その恵まれた生い立ちを顧みず、あまつさえ行儀見習いの寺から抜け出す鷺若丸を、九郎は敵視し続けていた。
そこにたまたまあったのが、囲碁という決闘の手段だ。互いの棋力が拮抗していると知ってしまった時には、二人とも後戻りのできない泥沼にはまっていた。ここで大人を介入させたり、暴力で事態を解決しようとしたら、勝負から逃げたことになってしまう。相手を跪かせる手段はただ一つ。囲碁で力の差を示すこと。それだけだったのだ。
しかし千局目の決闘を前に、鷺若丸は姿を消すことになってしまった。負け越したまま取り残された九郎が、果たしてどれだけ悔しがったか。鷺若丸には容易に想像できた。
――はっ、七日七晩、飲まず食わずで待ち続けたわ。しかし貴様は、ついぞ現れなかった。月の満ち欠けが一周した頃、空腹と頭痛にまみれながら、吾輩は絶望を知った。もう二度と……、もう二度と貴様を屈服させることができないのか、とな!
――それで怪異と成り果て、人様に迷惑をかけたのか、悪人め。千年前に貴様との力の差を示すことができなかったことは、我が生涯、最大の汚点だ!
漆羽鬼神が黒石を握る。
――黙れ! 千年だ、千年待ったのだ! 今日こそ貴様を圧倒し、力の差を見せつけてくれる! 行くぞォ!
漆羽鬼神の放った五手目は、〈
「……ッ!」
鷺若丸は手を止める。こんな戦法、千年前には打たれたことがない。これほどの最序盤で敵の懐に入り込むなど、あまりに過激すぎる!
この瞬間に、はっきりした。この時代に来て強くなったのは、鷺若丸だけではない。漆羽鬼神も長い時の中で、研鑽を重ねてきたのだ。出だしこそ千年前と同じだったが、今日の囲碁はより高次元での戦いになる。確実に!
「……」
激しくいくか、冷静にいくか。鷺若丸は考える。少し間を置いてから、敵の石をいなすことに決めた。ひとまず、無難な
しかし、その直後……
彼は不敵に笑って、正反対の方向へ手を伸ばした。繰り出したのは〈三々〉。そう、漆羽鬼神にやられたことを、そっくりそのままやり返したのだ!
〈石の声〉は力強く主張する。
――この対局を待ちわびたのが、そなただけだと思ってくれるなよ!
○
大会開始から一時間半。会場校の外、高い街路樹の上に直立する
大会は早くも二回戦に突入していた。ホワイトボードには、一回戦の勝敗が記録されている。新しい巫女候補、
仙足坊にとって意外だったのは、初心者だったはずの
「この一か月、ただ遊んでいたわけではないようですね。大したものです。とはいえ……」
その勢いもここまでか。現在進行中の二局目で、雪花は劣勢に立たされていた。彼女の白の
○
雪花は考える。何故こんな局面になってしまったのか。
花ノ木国際高校の三将、赤い髪のクールビューティ、
敵の追撃は激しく、状況は混沌としている。相手のジュリアは、中級者。その実力は雪花よりもやや上だ。乱戦の中でも、雪花の首にかかった縄を着実に絞めてくる。
このままでは
石を握る手がすくむ。思わず亡き母に助けを求めた。
(お母さん……。あたし、また肝心な時になにもできない!)
囲碁部はせっかく見つけた新しい居場所だ。
鷺若丸もステラも世話が焼けるし、
思えば、こんな騒がしい集団の中に身を置くのは、母が死んでから初めてのことかもしれない。漆羽神社へ通い詰めるようになってからは、同年代の友人たちとも疎遠になっていたからだ。囲碁部との時間は、本当に新鮮だった。あるべき場所に自分がいるような、そんな奇妙な実感がある。このひと月、漆羽鬼神に山を追い出されたにも関わらず、落ち着いて生活できていたのは、この部のおかげだ。
だからこそ、この場所に連れてきてくれた鷺若丸やステラの期待には応えたい。いや、応えないといけない。ここで勝たねば、顔向けできない。
強く噛みしめた唇から、冷たい血の味がにじむ。どうにかしてこの一勝が欲しい。しかし、どうしたらいいか分からない。いったい、どうしたら……。
その時だ。隣から、終局の挨拶が聞こえてきた。
「ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました……」
驚いて声の方に視線を向けると、天涅がてきぱきと石を片付け始めていた。勝気そうな敵の副将、
しかし天涅は自分の使った石だけ手早く片付けると、あろうことか雪花の方を一瞥もせず、その場を立ち去っていった。
雪花の囲碁には、これっぽっちも興味がないとでもいうのだろうか。否、そんなはずはない。信じがたいことだが、天涅はああ見えて彼女なりに、囲碁部のことを考えているらしい。だが、ならばチームの行く末がかかった三将戦を無視することなんて、できるものだろうか?
答えはノーだ。つまりこれは、天涅からのメッセージであり、挑発に違いなかった。
(わたしはこんな二回戦で転ぶことなんて、まったく考慮してない。当然のようにおまえが勝利するものと考えてる。……まさか負けたりなんてしないでしょ、ねえ?)
対局を見届ける必要なんてない。彼女は続く灰谷・聖導との優勝争いに備え、とっとと休息をとりに行ったのだ。
「あのクソチビ五歳児が……!」
雪花は口の中で小さく呟き、片側の頬を引きつらせる。上等だ。
(あたしは半人半妖の雪女で、謎の天才美少女、
ルールを覚えたのはつい最近で、使える武器も多くはない。しかし鷺若丸とステラが鍛えてくれたのだ。ただの
腹をくくった雪花は、素早く状況を整理する。
この一局を勝つために必要なこと。それは、死にそうになっている自分の石を逃がし切ることだ。石の活き死にを問うのなら、要領は詰碁と同じはず。詰碁なら飽きるほどやって来たのだ。自信はある。
(やってやる。やってやるわよ、ド畜生!)
奮起した雪花はグッと前のめりになり、果ての見えない探求へと漕ぎ出した。
(これで負けたら、向こう一年、語尾にニャン!)
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