第7話 ニコラス氏の作戦
ここでフィアーは、自分が絵の具カレーを全然食べ進めていないことにようやく気がついた。
分析と弁論に熱中するあまり、食べた量はせいぜい3口分程度。カレーとフィアーの言い訳は、落ち着き足りないとばかりに、グツグツと煮えたぎっている。
フィアーはタジンポットの瓶ソーダをちびちび飲むと、苦しそうに息を吐き、ラズリーにそっと耳打ちした。
「お前には正直に言おう。実は、胃袋がけいれんしているんだ。船酔いすると、やけに食欲がなくなるだろう?あの感覚に似ているな」
ラズリーは指折り、フィアーが今まで食べた食事の量を計算した。
「フィッシュアンドチップスが0.7人前に、シェパーズパイが0.7人前。このカレーも0.7人前くらいかな。合わせて2.1人前。2人前は余裕だって豪語したフィアーなら、頑張らなくてもいけるんじゃない?」
「数日前の俺をぶん殴りたい気分だ。ゴールまでが長すぎる」
彼はラズリーの手を払うと、しぶしぶといった調子でスプーンを握り直した。
チキンブロックを1つすくい、爆弾を処理するかのような慎重さでおそるおそる頬張る。チキンは中まで煮込まれ、口の中でほろほろと溶けた。
絵の具カレーは、フィアーに完食されるのを今か今かと待ちわびていた。
米粒ひとつひとつに顔が浮かび上がり、煮えたぎるルゥの音にあわせて、一粒一粒がゲラゲラと笑っている。そんな幻覚をフィアーは見る。
「こんちくしょう!」
フィアーは思わずスプーンを放り捨てた。左手で頭をかかえて
「我ながら、これは重症だ。美味いのに食えない。こんな悲しいことがあるか?」
続けて彼はニコラス氏に向け、死にかけの動物のような声を上げる。
「なあ、シェフ。どうして1品目をチキンティッカマサラにしてくれなかったんだ?」
「それが私の作戦だからである」
シェフは水に濡れた手をタオルで丹念に拭き取りながら言葉を続けた。
「我が『食事と五感の生理学』は、
「ただの料理人が、個人の胃袋を操作できるわけがねえだろ」
「しかし、君の顔は限界を見せている。そろそろ諦めるかね、瓶ソーダ君? いつでも降参していいのだぞ、瓶ソーダ君?」
ニコラス氏はどこか勝ち誇った様子で、フィアーを指さした。
満腹状態に引っ張られてか、フィアーにはシェフの顔すら、赤く膨らんでいるように見えた。フィアーは悔しさのあまり、こぶしを握りしめた。
ラズリーは捨てられたスプーンを拾い上げると、こぶしの穴にすぽっと差し込んで言った。
「いえ。フィアーはまだ食べる気マンマンです」
「そうか。頑張るといい。カレーも制限時間もたっぷりあるのだ」
ラズリーはフィアーの手の上に自分の手を乗せると、そのまま一口分よそおった。タイミングをあわせ、フィアーの口にぽいと投げ入れる。
フィアーは辛さに反応して飛び上がり、彼女に猛抗議した。
「なんてことしやがる! のどちんこにカレーが当たったぞ! 俺を殺す気か?」
「依頼を手伝って、って言ったのはフィアーじゃん。だからそうしてあげてるの。完食しないと帰れないしね。さあ、もう一口手伝ってあげる。はい、あーんして」
「誰が口を開けるかってんだ」
フィアーは激しく歯ぎしりしながら、首を後ろに下げる。
「おい、ニコラス・マッカーシー」
「何かな?」
「仕方がないから、降参してやる! 満腹だからじゃない、相棒に殺されそうになったからだ!」
「理由は何でもよろしい。降参を受け入れよう」
ニコラス氏は食べかけのカレーボウルをキッチンに下げ、2人の元に戻ってきた。
ようやく苦痛から解放されたフィアーは、口を天井に向けながら必死に呼吸していた。魚の干物みたい、とラズリーは思った。
「当店の大食いはいかがだったかね? 瓶ソーダ君」
「フィアー・フライだ。もしくは、名探偵と呼べ」
「チャレンジに負けたのだから、瓶ソーダ君のままで構わんだろう?」
フィアーは弁論を続ける元気もないのか、手のひらを揺らして会話をぶった斬った。
「しかし、なんで突然俺は満腹になったんだ?」
「先程も言ったとおり『食事と五感の生理学』の研究成果だよ。ものの見事に引っかかってくれた。
たしか君は、挑戦前にこう言ったはずだ。「ベルを3回鳴らしたくらいで降参するわけがない」と。だが、今はどうかね? 予言通り、ベルが3回鳴った後で君は屈したではないか」
「……」
事実を突かれ、フィアーは完全に力尽きた。テーブルの上に適当な文字でダイイングメッセージを書き、全く動かなくなった。
一方でラズリーは、目の前で手品に引っかかったかのように、歓喜の拍手をニコラス氏に送った。
「すごい、すごいです! フィアーが本当にベルを3回鳴らして降参するなんて、まるで魔法みたい!」
「魔法ではない、学問である。お嬢さんこそ、我がフィッシュアンドチップスを完食してくれたな。奇麗な皿を見るのは、料理人として嬉しい」
「とっても美味しかったです!」
ラズリーは身ぶり手ぶりを駆使し、貧弱な表現でよろこびを精一杯表現した。
「私はトロンプ・ルイユより美味しいフィッシュアンドチップスを食べたことがありません。いつでもこれを食べられるクローリー市の人たちは、きっと幸せなんだろうなぁって思いました」
「お褒めに預かり、感謝する。さて、写真を撮ろうか」
「写真、ですか?」
ニコラス氏は壁際のサウンドボックスへと向かい、中の扉を開けた。
サウンドボックスは2つに仕切られており、上部にはレコードを流すための機械一式が、下部にはカメラが2つ入っていた。
「私の趣味は、写真を撮ることだ。普段は山の生き物や森などを撮るが、大食いに負けた者の写真も撮影する。お嬢さん、キッチンに来たまえ」
ラズリーは言われるがままキッチンの中に入り込んだ。
キッチンの壁際には、挑戦者が
全員が魚の干物のポーズをしており、その中には弁護士ピアースのものもあった。
ニコラス氏は研究材料を見るかのような視線で写真を眺め、淡々とした口調で言った。
「私の研究が正しいものであったことを示す、記念写真である。敗者には白黒カメラを、勝者にはカラーカメラで写真を撮ると決めている。あいにく、カラーカメラを使う機会は一度も来ていないが」
「ここに貼られているのは、全部白黒写真じゃないですか。カラー写真がないことが、トロンプ・ルイユが難攻不落の城である証明にもなっていますね」
「左様。白黒ばかりである。残念ながら」
「今まで、何枚の写真を撮ったんですか?」
「98枚。今日で99枚だ。では、彼の写真を撮ろう」
ニコラス氏は股を開いて少しかがむと、カメラを持ってピントを調整した。最適な場所を見つけると、フィアーに向けて低い声で言った。
「セイ、チーズ」
ニコラス氏は左手でサムズアップし、同時にカメラのフラッシュをたいた。
フィアーの情けない姿は、その哀れな敗北の姿とともにトロンプ・ルイユで永遠に刻まれることとなった。
◇ ◇ ◇
ニコラス氏はそっとカメラをキッチンの脇に置くと、フィアーのテーブルへとゆっくり歩いてから言った。
「では、会計をしてもらおう」
その言葉を聞いたフィアーは、苦しそうな表情を浮かべたまま指折り総額を概算する。
「1品2シリングとして、計6シリングくらいか?」
「いや、総額1ポンドだ」
「は? 1ポンドだと!?」
フィアーは起き上がって文句を言おうとしたが、満腹のために起き上がることができなかった。
代わりに、ひっくり返ったクワガタのように、手足のみをジタバタと揺り動かして文句を言う。
「つまり、1品あたり4シリングってことだろ? 4シリングあれば、コース料理が食べられるじゃねえか! いくらなんでも、ボッタクリだろ」
「ボッタクリも何も、私は最初からメニューに記載してある」
「書いてあるだと? んな馬鹿な。メニューを持ってこい」
フィアーはメニュー表を受け取り、丹念に眺めた。ページの隅々まで確認したが、1ポンドの文字はどこにも見当たらない。
だがメニューを畳もうとしたとき、彼の指先はページの隙間に、ページがもう一枚隠されていることを探し当てた。
慌てて開き直した先には、大食いのルールが書かれたページがあった。
その一番下、それも虫眼鏡なしでは見えないほどの文字サイズで、『完食できなかった場合は1ポンドを頂戴する』との記載があった。
フィアーはメニュー表を叩き落とした。
「おい、なんだこれは! 詐欺だろ詐欺!」
「詐欺ではない。なぜなら、私はメニューに記載したからだ」
「この文字が? 小ささにも、限度ってもんがあるだろ。こんなもの、誰が気づくんだ?」
「君の意見は間違いだ。なぜなら、君はすでに気がついている」
「なぜ、最初のときに金銭面の話をしてくれなかったんだよ」
「事前に、『質問はあるか?』と聞いたではないか。私は数十分前に念押ししたばかりだぞ」
「ハイハイ! そ こ ま で !」
ラズリーは2人の間に割って入ると、カバンから自分の財布を取り出した。
「フィアーの代わりに、私がお支払いします。ええと、1ポンドでしたっけ?」
「君のフィッシュアンドチップス代を含めて、1ポンド2シリングだ」
「わかりました。じゃあこれで」
ラズリーは正直に支払い、お釣りをもらった。
フィアーはラズリーを呼び止め、彼女の肩を借りてなんとか立ち上がる。一度大きなゲップをすると、ニコラス氏へ手を上げてあいさつした。
「うぷ……今日はもう帰るぜ」
「またのご来店をお待ちしている。足元に気をつけて、帰宅したまえ」
「んなもん、言われるまでも……」
ドアを開けた瞬間、彼は唐突に身体をふらつかせ、足を滑らせて地面へと転げ落ちた。土に頭が突き刺さり、そのまま動かなくなる。
ラズリーは慌てて階段をおり、フィアーを抱きかかえた。
「だ、大丈夫? …と、とりあえず生きてるみたい」
ラズリーはほっと胸をなでおろすと、階段の上から様子を見守るニコラス氏に向けてほほ笑みかけた。
「無事みたいです。じゃあニコラスさん。私たちはここで」
「うむ。道中、気をつけるように」
ニコラス氏はピシャリと扉を閉めて鍵をかけた。後片付けをしているようで、シェフの足音が漏れ聞こえている。
しばらく後、フィアーは正気を取り戻してむくりと起き上がった。そこらに落ちていた木の棒を拾い、つえ代わりにして立ち上がる。
だが、不幸なことが起こったはずの彼の顔は、なぜか歓喜に満ち溢れていた。
砂がくっついた歯を見せながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
ラズリーは不審そうに見上げ、フィアーに話しかけた。
「やっぱり大丈夫じゃなかったのかも? 首が曲がってたりしない? 頭のネジは……最初から外れてるか」
「いや、首から下は絶望だが、首から上はすこぶる調子がいい」
「なんで?」
「転んだ瞬間、この店に隠された仕掛けに気がついたから、だな」
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