花のカーテン

 小さな手を泥で汚しながら子供は、私を見上げた。


「これでいいの? ママ」

「ええ、良くできたわね」


 私は子供を褒める。


「えへへ」

 彼は汚れた手で、鼻の下をこすった。

 私は笑いながら、ハンカチで子供の顔を拭って泥を落とす。


 戦場に近いこの街は、たびたび戦火に見舞われた。

 今も視界の先には穴の開いたレンガの壁や、屋根のない家、地面には大きなくぼみもある。


 未だ大地には血なまぐさい匂いが刻まれていた。

 そうした過去を拭い去る必要がある。


「そちらも終わったの?」

「ええ、ご苦労さまです」


 近所に住む家族が近寄ってきた。

 彼女らもこの活動に参加してくれている。


「ここら一帯は、あらかた終わったかねえ」

「ええ、そうですね。春が待ち遠しいです」


 そう言いつつ、私は振り返る。

 丘の手前には鉄条網があり、それは左右に長く伸びていて、終わりが見えない。


 あちらとこちらを分ける境界線。

 国境線だった。


「後は向こう側ですね」

 かつて敵国と呼ばれた向こう側を見渡す。


 戦闘は一時的な停戦を迎えたが、火種はくすぶっている。

 いつまた戦端が開かれるか、それだけが気がかりだった。


「ママ、向こうの人も種を植えてるの?」

「ええ、そうよ。こっちと向こうで協力してるのよ」


 敵と認識された向こうの人々との関係はずたずたに引き裂かれた。


 それでも、こうして近くで暮らす者同士、全く無視して過ごすことは難しい。

 停戦を迎える前から交流は始まっていた。


 正直、互いに敵意をあらわにするのに疲れたということもあるかもしれない。

 だから、他愛もないことを一緒にしようということになった。


「それじゃ、また明日!」

 夫人はそう言って、帰っていった。


「私たちも帰りましょうか?」

「うん!」


 子供は元気よく答えた。


 この村に残っているのは女子供や老人ばかり。

 男たちは皆戦場に行ってしまって、帰ってこない。


 夫も戦場で捕虜になったと聞いている。

 この村の者は皆、父や兄、弟、あるいは子供を戦地に送り、その帰りを待っている。


 ほとんどの男は帰ってこない。

 帰ってきたとしても、体のどこかを損傷していたり、心を病んでいたりする。


 彼らの帰りを迎えたその日は喜べる。

 けれど、その後の生活は大変だ。


 私は頭を振った。


 今からこんな調子では、夫を迎えられない。

 子供の手をしっかりと握り、二人で家路につく。


 私は近所の人に掛け合って、国境線に花の種を植えようと呼びかけた。

 帰りを待つだけの日々に疲れ、なにかしていないと気が狂いそうだったというのが本音かもしれない。


 始めは他愛もない願いだった。


 しかし、人が増えるうち、この行動には意味があるかも知れないと思い始めた。


 夫は今、かつて敵国と呼ばれた、鉄条網の向こうにいる。

 夫を迎えるとき鉄条網を挟んで再会なんてしたくない。


 国境を示す鉄条網は近く取り払われるらしいが、それでもこんな血なまぐさい大地は嫌だ。


 だから鉄条網の変わりに花を植えることにした。

 国境はいずれ花のカーテンとなって、夫を迎えることだろう。


 しばらくして、国境の向こう側の家族も同じように種を植え始めた。

 徐々に会話が増えて、互いの活動にさらなる意味を見出し始めた。


 いつか、この国境線を侵略の意図をもって踏み越えようとする愚か者が、また現れるかもしれない。

 その時、一面の花畑を踏みつけていくことになる。


 その意味を噛みしめることで、少しはためらうかもしれない。


 そう、ちょっとだけ、ためらうかもしれない。


 戦いを始めるのはいつだって男だ。


 彼らにも花の命の重みを知ってほしい。

 種を植える大切さと、大変さを知ってほしい。


 そうしたら、血なまぐさい大地が減って、笑い声の絶えない花畑が増えるのに。

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地図には硝子、約束を花とする 月井 忠 @TKTDS

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