硝子の世界
父の葬儀が終わって、何日か経った。
おそらく一週間ほど。
日にちの感覚が薄くて、何度眠って起きたのかあやふやになっている。
多分、母も同じだと思う。
私と母は葬儀の間、ずっと互いに抱き合って泣いていた。
外は寒くて、母と触れ合っている部分だけが暖かかったことを覚えている。
今もガラス戸の向こうには雨が降っていて、寒そうな風がときおり窓を叩く。
外の冷気を受けて体が勝手に縮こまると、今度は胸の底からやってくる悲しみがチクチクと刺さる。
じっとしているのが辛くて、私は息継ぎをするように顔を上げた。
母はリビングの椅子に座ったまま、じっとしている。
隣にはいつも父が座っていた。
いつまで待ってもその席は埋まらない。
そのことを思うと、また私は泣けてしまう。
「母さん、少しは食べないと」
私はそう言って、小鉢を母にすすめる。
「そうね……でも、もうおなかいっぱい」
母は悲しそうに笑う。
「そう? じゃあ片付けちゃうね」
小鉢を手にして台所に向かう。
背中に静かな母の存在を感じながら、皿を洗い始める。
明日から私は仕事に戻る。
母を一人この家に置いていくことになる。
右手に泡のついたスポンジ、左手にはガラス細工の器。
父が母に贈ったものだった。
いまの母はこのガラスの器のようにもろい。
いいや、母だけじゃない。
私もそうだった。
父の思い出に囲まれるこの家の全てが、触れるとすぐに壊れてしまうガラス細工に思えた。
一つの遺品に触れると、それだけで涙がつたう。
思い出は粉々に砕け、飛び散った破片が次の思い出へと伝わる。
そうして、とめどなく泣き、疲れ果てた頃にやっと立ち上がることができる。
そんな日々を送っている。
私は明日出社できるのだろうか。
母は一人で何を思うのだろうか。
朝は遥か遠いように思えた。
「おはようございます」
無理に大きめの声を出して挨拶をする。
「おう、おはよう。お父さんの件、大変だったね。もう大丈夫?」
上司のゴトウが無遠慮な明るい声を返す。
私の心にひびが入った。
「ええ、なんとか」
笑顔が引きつらないように努力した。
「今日から頼むよ!」
彼にとっては、仕事を休まず、ずっと働いてくれる社員が一番大事。
そう思えてしかたなかった。
「おはようございます、先輩」
背後から通り過ぎざまに声をかけたのは、後輩のカタギリだった。
「ええ、おはよう」
彼はただ静かに笑って、それ以上は話さない。
仕事も早くて助かっている。
良くできた後輩。
でも、どこか他人行儀で、付かず離れずな距離感は嬉しい反面、さみしくもあった。
少し贅沢すぎるかな。
私は自分を戒め、仕事に没頭することにした。
「先輩、これ、おごりです」
誰も来ないはずの休憩所で、ぼうっとベンチに座っていると、カタギリがホットコーヒーを差し出してきた。
「え? いいの?」
「ええ。なんだか、疲れてるみたいだったので」
「そう……」
私は素直に受け取った。
プルトップを開けることはなく、手の間で転がし、温かい缶の手触りを味わった。
カタギリは黙って隣に座る。
この休憩所は、職場の奥にひっそりとたたずんでいて、未だ使っている人を見たことがなかった。
だから、私専用の避難所として使っていたのだけど。
彼からは何も語らない。
先ほど、さみしいと思った気遣いは、今嬉しいと思えた。
直ぐ側に血の通った温かさがある。
そう感じるだけで、ひびの入った心が柔らかく受け止められた気がした。
「ゴメン、カタギリ」
そう言って、彼の肩に頭を預ける。
「はい」
一言だけ返した。
私はズルいのかも知れない。
父を亡くし、未だ悲しみを引きずっていることをカタギリは知っている。
だから、決して彼は手を出してこない。
ガラスの心を彼に押し付ける。
私は母の心を守らくてはいけない。
そんな私の心は誰が守ってくれるの?
言わなくてもわかってくれるカタギリなら、きっと私の願いを叶えてくれる。
いつかアナタの気持ちに答えられる日が来るかも知れない。
だけど、今は静かに優しく私を包みこんで欲しい。
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