十二通目 岩

 ある山の上に大きな岩があった。その大きさははるか遠く、山のふもとからでも輪郭が確認できるほど。

 その山の近くに老人が住んでいた。老人はその岩を見るのが好きだった。雨でも風でも動かない。夏になろうが冬が来ようが空に最も近い場所でどっしり構えている。そんな岩を眺めていると常に変わり続ける浮世などどうでも良くなってくるのだ。老人は毎夜眠る前、月光に照らされたその岩を眺めていた。

 しかしいつものように布団に入り、岩に目をやるとおかしなことに気がついた。少し動いている。右にほんのちょっぴりずれている。見間違いだろうか。そうだ、そうに違いない。岩が動くわけなどありはしないのだから。老人はそう自分に言い聞かせて眠りについた。

 それからしばらく月日が経って老人は確信した。動いている。岩は少しずつ、それとわからないように右に移動している。毎日見てるんだ。いくら使い古した老人の目とは言え、気づく。

 そこで老人は周りの人に言って歩いた。あの岩は動いているぞ。よく見て見ろ。しかし誰も老人の妄言だと取り合わなかった。指を指して力説しても、もとからあそこにあった。ぴくりとも動いてないさ。だって岩なんだから。

 老人はそれでも岩が動くことを信じていた。枯れ木のような足で山を登り、岩にたどり着いて確かめようとしたが一度もそれは叶わなかった。迷ったり、転んだり、何度試そうとしまいにはぼろぼろになって真っ暗闇の森から吐き出されるのだ。

 やがて老人の足は動かなくなり、体も自由が利かなくなってきた。布団に入って一日中岩を眺めるだけ。見るうちに蟻の体長だけ右に動く。そして老人は心配していた。もう少しだけ右は崖になっている。このままだと転がり落ちるぞ。

 岩は徐々に崖に行く。老人は次第に弱っていく。岩は崖へとにじり寄る。老人はもう起き上がれない。岩はとうとう崖にせり出した。老人はついに食うこと叶わず。

 そしてついにその時が来た。せり出した岩がぐらりと揺れて、どんどん下方へ傾き出した。老人はただ目をかっと開いてそれを見ていた。瞬きもせず。岩が崖から離れたと同時、老人の心臓は動きを止めた――永久に。


 それから太陽と月のいくらかの交代を経て、老人の住居と反対側、山を挟んで住む老婆が気が付いた。あの岩、右に動いている。崖にせり出していたのが、山の中心に向かって移動している。でも、そんなことあるわけないわ。なぜって、岩なんだから。



 

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