保健室の秘め事

望月くらげ

保健室の秘め事

 ふう、と息を吐いて私は教室――ではなくて、保健室のドアを開けた。

「おはようございます」

「はい、おはよう。春風さん」

 保健室の山吉先生は、優しい笑みを私に向けた。

「今日の課題はさっき先生から預かってあるわ」

「そう、ですか」

 手渡されたプリントに視線を落とす。『早く教室に来れるといいですね』という定型文のような言葉の書かれた付箋をグシャッと握りつぶした。そんなこと、思っていないくせに。

 私の行動に、山吉先生は困ったように眉を八の字にする。けれど咎めることなく、いつものように仕事を始めた。山吉先生の反応にホッとしながら、私も定位置に座ってカバンから教科書やノートを取り出した。

 二年一組三十二番春風砂羽さわと私の名前が書かれた教科書。ここに名前を書いたときは、まさか自分が保健室登校になるなんて思ってもみなかった。

 十月も半ばだというのに、窓の外はまだ夏の日差しが残っているようにジリジリと暑い。教室に行けなくなってもう一か月以上経つ。最初こそは『どうして来ないんだ』とか『皆待ってるぞ』なんて言葉をかけにきていた担任も、最近は顔を出すことさえなくなった。『登校拒否になられるよりマシだ』とでも思っているのかもしれない。

 シャープペンシルをノートに走らせながら、胃の辺りを左手で押さえる。別にいじめられてるわけじゃない。陰口を言われたり無視されたりするわけでもない。

 けれど夏休み明けに教室へと入ろうとした瞬間、どうしようもないほどの拒否反応が身体を襲った。扉の前で座り込み過呼吸を起こしてしまった私は、通りかかった数学の先生に肩を借りて保健室まで連れてきてもらい、ようやく落ち着いて息を吐き出すことができた。

 またあんなふうになってしまうのでは、そう思うと足が竦む。それどころか教室に行かなければと思うだけで、動悸がする。

「無理に行こうとしなくてもいいのよ」

 まるで私の心の中を読んだかのように、保健室の先生は言った。

「学校に来られてるだけでも凄いことなのよ。だからね、頑張ろうなんて思わずに、今自分にできることをやっていきましょう」

「……はい」

 保健室の先生の言葉にホッとしながら、それでも私は教室に行けない自分を心の中で情けなく思っていた。他の人が当たり前にできることを、どうして同じようにできないのか。弱い自分がみっともなくて情けなくて大っ嫌いだった。

 シャープペンシルを動かす手が止まりそうになるけれど、必死に堪えた。教室に行けないんだから、せめて課題ぐらい頑張らなければ。

 シャープペンシルを握る手に力が入る。そんな私の頭の上に、パサリと何かが触れた。

「おー、春風は今日も頑張ってるな」

蘇芳すおう先生……?」

 声がした方を振り返ると、二年一組の数学を担当してい蘇芳正晴まさはる先生の姿があった。

「数学の課題も持ってきたぞ」

 頭の上に置かれたのは数学のプリントだったらしく、蘇芳先生はそれを机の上に置き、当たり前のように私の隣に座った。

「あっ、蘇芳先生ったら。ここは休憩場所じゃないって前も言いましたよね?」

「やだな、俺は春風に数学のプリントを持ってきただけですよ」

「では、もうお戻りになるんですね?」

「次の時間、担当のクラスがないので数学を教えていこうかなと」

 キリッとした顔で言う蘇芳先生に対して保健室の先生が「そう言われると何も言えないってわかってますよね?」と呆れたように言うから思わず笑ってしまう。

「ったく、しょうがないですね。じゃあ、ちょっと春風さんのことお願いしますね」

「あれ? 先生もサボりですか?」

「蘇芳先生と一緒にしないでください。掲示物の張り替えと今日は水質検査の日なので先にやってしまおうかと思っただけです。どうせ蘇芳先生はこのまま一時間目が終わるまでいらっしゃるでしょうし」

「酷いなぁ」と笑う蘇芳先生を無視すると、保健室の先生は私に「ちょっと出てくるから、勉強しててね」と言い残して保健室をあとにした。

「ま、じゃあのんびりやるかね。なんかわからないところあったら言ってよ」

「あ、はい」

 蘇芳先生は私の隣でノートを広げて何かを書き始めた。どうやら今日は学習計画を立てているらしい。ちなみに昨日は小テストの採点をしていた。私の隣でやってもいいのかと戸惑ったけれど、教室に行かない私なら誰にも言いふらさないと思ったのかもしれない。

 そんな感じで蘇芳先生はほとんど毎日のように保健室にやってくる。担任でもなんでもないのに。

「なに?」

「え……?」

 気付けば蘇芳先生は私の方を見ていた。思ったよりも距離が近くて、思わず後ろに下がってしまう。

「な、なにって」

「ずっと俺のほう見てるから、何か用かなって思って」

「べ、別にそんな……」

「あ、もしかして見とれてた?」

「ち、違います! ただどうして毎日来てくれるのかなって思ってただけで」

 笑いながら言う蘇芳先生の口調からからかわれていることはわかったけれど、つい必死に言い返してしまう。

「なんでって、春風が俺の生徒だからかな」

「でも、別に担任でもなんでもないし」

 手元のノートに視線を落としながら口をもごもごさせる。そんな私に蘇芳先生は大袈裟にため息を吐いた。

「そんな寂しいこと言わないでくれよ」

「だ、だって」

「そりゃあ俺のクラスの生徒じゃないけど、でも俺が教科担任を受け持っているからには俺の生徒だって言ってもおかしくはないだろ?」

 そうなの、だろうか。そう言われるとそんな気もするけれど。

「だから教室に来られないって聞いたら心配するし、保健室で勉強してるって知ったらわからないところがあれば教えたいって思うのは教師として普通のことだと思うんですよ」

 胸を張る蘇芳先生の姿に、私は思わず噴き出した。

「なんで敬語なんですか」

「え、今の笑うところじゃなくて『キャー! 先生素敵!』ってなるところでしょ!?」

「ふふ、蘇芳先生っておもしろい」

「まあ……春風が笑ってるなら、面白いでもいいか」

 頭を掻きながら蘇芳先生は笑う。その表情にドキドキしてしまう。いつからだろう、蘇芳先生に対してこんなふうにドキドキするようになったのは。何でもないフリをしているけれど、上手く隠せているだろうか。

「わからないところがあればちゃんと聞けよー?」

「はーい」

 こうやって蘇芳先生が来てくれるのは、私が教室に行けないから。なのに、この時間が嬉しいと思ってしまうのは間違っている。そうわかっているのに。


 一時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴っても保健室の先生は帰ってこなかった。蘇芳先生は大きく伸びをすると、机の上を片付けて立ち上がった。

「それじゃあ先生は行くから」

「あ……はい」

 今日は水曜日だから、一時間目以外は全部授業が入っているはずだ。二人きりの時間があっという間に終わってしまって少しだけ寂しさを感じていると、蘇芳先生はふっと笑った。

「そんな顔、するなよ」

「あ、ち、ちが」

 寂しがっているのがバレてしまう、と慌てて両手で顔を隠そうとするけれど、それよりも早く蘇芳先生は私の頭を撫でた。

「すぐに保健室の先生も帰って来るだろうし、な? 大丈夫だって」

「……そう、ですね」

 保健室に一人っきりでいることを寂しがっていると勘違いされたようだった。本心に気付かれなくて安心したような、私がそんなふうに感じているなんて微塵も思われていないことが悔しいような、複雑な気持ちだ。

「春風?」

「……でも、寂しいのは一人になるからだけ、じゃないですよ?」

「え……?」

 思わず口をついてしまった言葉。少しでも気持ちが伝わってほしい。ちょっとぐらい意識してもらいたい。そんな欲張った感情が蘇芳先生を困らせることになるなんて、わかりきっていたことなのに。

「その、俺」

 視線を迷わせたあと、蘇芳先生は「ごめん」とだけ呟いた。

「あ……」

 その言葉に込められていた蘇芳先生の気持ちに、気づけないほど子どもじゃなかった。

「……な、何謝ってるんですか! もー、冗談ですよ」

「あ、冗談……。そうだよな、冗談」

「ほら、早く行かないと二時間目始まっちゃいますよ!」

 私は蘇芳先生の背中を押すと、保健室の扉に向かって歩いた。

「私は、大丈夫ですから。次は国語頑張りますね!」

「あ、ああ。頑張れよ」

 それだけ言うと、蘇芳先生は保健室の扉を開ける。私はその背中をもう一押しして廊下に押し出すと、保健室の扉を閉めた。

 パタパタと立ち去っていく足音を聞きながら、私はその場にしゃがみ込んだ。失敗した。あんなこと言わなければよかった。そうしたら今まで通りでいられたのに。

 もしかしたらもう蘇芳先生は保健室に来てくれないかもしれない。ううん、でもその方がいいのかも。これ以上一緒にいる時間が長くなれば、どんどん気持ちが大きくなって、抑えきれなくなってしまう。そうすればもっと迷惑をかけてしまうことになる。

「うん……これで、よかったんだ」

「何がよかったの?」

「せんせ……っ。あ……」

 頭上から聞こえた声に、勢いよく顔を上げた。もしかしたら、蘇芳先生が戻ってきてくれたのかもしれないと思って。

 でもそこにいたのは学生服を着た、よく知ってる先輩の姿だった。

「なんだ、唐津先輩かぁ」

 ついガッカリとした声を出してしまった私に、唐津先輩は不服そうに唇を尖らせた。

「なんだとはなんだよ。俺が来たら悪いの?」

「悪くはないですけど……。またサボりですか?」

「失礼な。今日は歴とした寝不足です」

「それをサボりっていうんですよ。……まあいいや。ちょっと今日は言い合う気力もないんで。保健室の先生は今不在ですし教室に帰って……って何やってるんですか」

 私の言葉なんて聞こえていないかのように、唐津先輩は当たり前のようにベッドに向かい、当然のように布団の中に潜り込んだ。

「俺はここで寝るので、砂羽ちゃんはさっさとお勉強をしてね」

「勝手に寝たらまた怒られますよ?」

 忠告するけれど、唐津先輩の返事はない。代わりに聞こえてきたのは、規則正しい寝息だった。

「嘘でしょ、一瞬で寝たんだけど」

 今の今まで話していたのに、と呆れてしまう。三年生のこの時期に保健室でサボっていて大丈夫なのだろうか、なんて教室に行けない私が思うのは余計なお世話でしかない。

 しょうがなく国語のプリントをはじめた。現国と古文のプリントが用意されていたので、私は苦手な現国からはじめることにした。

「うーん……」

 登場人物の気持ちを答えなさいと言われても、そんなの人によって感じ方も違うのにどうやって書けというのか。ふわっとした解答となる現国とはどうしても相性が悪かった。

「数学みたいに答えがひとつしかなければいいのに」

「砂羽ちゃんは数学が得意なの?」

「わっ、ビックリした」

 いつの間にベッドから抜け出ていたのか、気付けば私の後ろに唐津先輩が立っていた。

「寝てたんじゃないんですか?」

「寝てたけど、大きなため息に目が覚めちゃって」

「それはすみません……」

 謝る必要があるのかはわからないけれど、そもそも保健室は休むところで勉強をしている私が間違っているのだとすれば、やっぱり謝らなければならない気がする。

 でも、そんな私を唐津先輩はおかしそうに笑った。

「砂羽ちゃんは真面目だなぁ」

「別に真面目なんかじゃ……」

「国語の問題も真面目に考えすぎてるんじゃない? 国語も自分のこともそれ以外も、気を抜くぐらいでちょうどいいんだよ」

 そんなこと言われるなんて思っても見なくて、戸惑い、それから見透かされた気持ちを誤魔化すようにそっぽを向いた。

「……唐津先輩はもう少し気を張った方がいいんじゃないですか?」

「俺? 俺はここに気を緩めに来てるからいいの」

 そう言うと、唐津先輩は私の隣の席に座った。ジッとこちらを見られているのに気付いたけれど、気付かないフリをして問題を解いていく。

「砂羽ちゃん、さ」

 ポツリと唐津先輩は呟いた。

「蘇芳ちゃんのこと、もう諦めたら?」

「……っ」

 一瞬、言われた言葉の意味が理解できず、けれどわかった瞬間声を荒らげていた。

「な、何を変なこと言ってるんですか!」

「何が?」

「だ、だから私が蘇芳先生のことが好きとかそんなことあるわけないです!」

 必死に言えば言うほど涙が溢れそうになる。でも認めるわけにはいかなかった。だってそんなことすれば、蘇芳先生に迷惑がかかってしまう。

 堪えようとしたはずの涙は、ボロボロとこぼれ落ちた。

「……まあ、そういうことにしといてあげてもいいけどさ」

 唐津先輩は席を立つとベッドのほうへと戻っていく。

「好きになったって無駄なやつのことなんて忘れて、俺にしとくのはどう?」

 冗談めいた口調で、唐津先輩は言う。その言葉が、あまりにもわざとらしくて私は泣きながら笑ってしまった。

「なんですか、それ」

「えー、俺本気なんだけどな」

「はいはい、ありがとうございます」

 唐津先輩の言葉を適当にあしらいながら、私は涙を拭った。

 いつの間に、泣いてしまうほど蘇芳先生のことを好きになってしまっていたのだろう。こんなふうに思われたって、蘇芳先生を困らせるだけなのに。

 でも、それでも無駄だってわかってるけど、好きでいるだけなら、許してもらえますか……? ねえ、先生。


 でも、それすらも許されないということに気付いたのは、その日から一か月も経たないうちのことだった。

 その日も、授業の空き時間に蘇芳先生は保健室を訪れ数学を教えてくれていた。時には数学以外の教科も、わかる範囲で教えてくれる。

 先生が生徒にわからない問題を教えることは何もおかしなことじゃない。ただその場所が保健室で、さらに私が蘇芳先生のクラスの生徒じゃないということを除けば。

「ねえ、蘇芳先生。ここもわからないんですけど」

「どこだ?」

 保健室の片付けを手伝わされている蘇芳先生に、私は数学のプリントを指差してみせた。

「ああ、これな」

 問題の解き方を教えてもらっていると、ガラッという音を立てて保健室のドアが開いた。

「先生! 体育の授業でぶつかって動けないって!」

「ええ!? 運動場? 蘇芳先生。私ちょっと行ってきますので、春風さんのことよろしくお願いしますね」

「わかりました」

 救急箱を手に持つと、保健室の先生は生徒と一緒に運動場へと向かっていった。残されたのは私と蘇芳先生の二人だけ。そう思うと、急にドキドキし始めてしまうから困る。

「春風? どうかしたか?」

「え、あ、な、なんでもないです!」

 隣から覗き込まれると、勢いよく顔を背けてしまう。こんな態度が取りたいわけじゃないのに。

「そうか? お、ここ。答えあってるぞ」

「え? ホントですか?」

 先ほどまでどうしても解けなくて、うんうん唸りながら書いた答えに蘇芳先生は花丸を書いてくれた。

「これが解けたら、こっちの問題も解けるはずだ」

「そっか! 蘇芳先生、教え方上手だね」

「まあ、先生だからな」

「そっか。そう、だよね。先生だもんね」

 私は生徒で、蘇芳先生は先生。そこには超えられない、そして超えてはいけない壁が確実にある。

 黙り込んでしまった私の頭を、蘇芳先生は優しく撫でた。

「蘇芳、先生……?」

「あ、いや、すまん。えっと、あ、そうだ」

 慌てて手を離すと、蘇芳先生はポケットに手を突っ込み、それから何かを私に差し出した。

「これ、やるよ」

「……飴?」

「そ。あ、でも他のやつには内緒だぞ?」

 口に人差し指を当てて、蘇芳先生はウインクをする。そんな蘇芳先生の仕草に思わず笑いそうになった、その瞬間だった。

「何が内緒なんですか」

 乾いた声が、いつの間にか空いていた保健室の入り口から聞こえてきたのは。

「先生……」

「竹下先生。どうなさったんですか?」

 そこに立っていたのは、私の担任である竹下先生の姿だった。竹下先生は蘇芳先生の問いかけを無視すると、ツカツカと保健室の中へと足を踏み入れた。

「生徒から『春風と蘇芳先生が保健室でいちゃついている』と聞いてね。まさかと思って見に来てみれば」

「ち、違います。そんなこと……!」

 慌てて否定しようとする私に、竹下先生は冷たい視線を向けた。

「じゃあ、どうして今こうやって二人きりで保健室にいるのです。たった今、二人で何を? 他の生徒に秘密にしなければいけないようなことをしていたのでしょう?」

「違います。先ほどまで保健室の先生がいたんですが、呼び出されてしまって。だから」

「言い訳は結構です。僕は自分の目で見て、耳で聞いたことしか信じません」

 説明しようとする蘇芳先生の言葉を遮ると、竹下先生はぴしゃりと言い捨てた。

「全く。教室に来られないなどと周りを心配させておいて、実際は保健室をこんなことに使っていたなんて」

「違います! 聞いてください!」

「言い訳でも弁解でも結構ですが、それは職員室で聞きましょう。蘇芳先生、あなたからね。春風は今すぐ教室に行きなさい。ここで蘇芳先生と不健全なことをする元気があるのであれば、教室で授業を受けることもできるでしょう」

「それ、は……」

 竹下先生の言うことは正しいのかもしれない。でも足が竦み、鼓動がどんどん早くなる。不安から俯いてギュッと拳を握りしめていると、私の背中に一瞬だけ蘇芳先生の手が触れた。

「軽率な行動を取ってしまい申し訳ございません。ですが、俺も春風も誰かに顔向けできないようなことは何一つとしてしていません」

「蘇芳先生……」

「だから、春風の気持ちが落ち着いて自分から教室に向かうことができるようになるまで、ここにいさせてやってもらえないでしょうか」

「……ふん。それを決めるのはあなたではありません」

 取り付く島もなく冷たい口調で竹下先生は言うと、私に視線を向けた。

「春風、お前はさっさと教室に――」

「っるせえなあ」

 その声に、私も蘇芳先生も、そして竹下先生すらビクッと肩を振るわせた。ここには私たち三人しかいないはずなのに、いったい誰が。ううん、今の声は――。

「病人が寝てるんだから、ちょっとは静かにしてくれる?」

 奥のベッドのカーテンが開いたかと思うと、中から唐津先輩が顔を出した。

「お前は……三年の唐津、か?」

「あれ? 受け持ちの学年じゃないのに知ってくれてるなんてビックリー」

 おかしそうに笑うと、唐津先輩は私に手を振った。つられて私も振り返すけれど、内心は驚きでいっぱいだった。いったいいつからあそこにいたのだろう。だって、今日はまだ保健室に来ていなかったはずなのに。

「ウトウトしてたら竹下先生のうるさい声が聞こえてくるからさ、目が覚めちゃったじゃん。どうしてくれるの」

「そんなの僕には関係……」

 唐津先輩の不服そうな声に眉をひそめていた竹下先生の動きが突然止まった。

「今、なんて言いました?」

 竹下先生の言葉に唐津先輩がニヤリと口角を上げたのが見えた。

「だから、ずっと俺も保健室にいたんだって。体調を崩してさ」

「そんなことあるわけ……」

「ないって言い切れるの? どうして?」

 わなわなと震える竹下先生の顔がどんどん赤くなっていくのがわかった、

「ついでに言うとさ」

 唐津先輩はベッドから下りると、私たちのほうへと近づいてきて、そして――私の肩を抱いた。

「砂羽ちゃん、俺と付き合ってるんだよね」

「な……っ」

 私と、竹下先生の声が重なった。

「だから変なこと言わないでくれる? ねえ、砂羽ちゃん」

 唐津先輩が私たちを助けてくれようとしているのはわかった。けれど、頷いていいのかどうか判断がつかない。だって、こんなの……。

「今だけ、話を合わせときな」

 唐津先輩は、私にだけ聞こえるぐらいの小声でそう言った。私は――唐津先輩と、それから蘇芳先生のほうを見て、それから小さく頷いた。

「……そう、ですか」

 竹下先生が絞り出すような声を出したのは、私が頷いてからゆうに三十秒は経ってからだった。

「だとしても、周りから勘違いされるような行動は慎むべきです。変な噂を立てられて、傷付くのは春風なのですから」

 その言葉に、蘇芳先生が息を呑んだのがわかった。

「申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる蘇芳先生を一瞥すると、竹下先生は保健室を出て行ってしまった。「何かあったらいつでも相談しなさい。僕はきみの担任なんですから」と言い残して。

 竹下先生のいなくなった保健室は妙に静まり返っていた。

「蘇芳先生、あの……」

 何か言わなくては、と思い口を開いた私の視線の先で、蘇芳先生がふうと息を吐き出した。

「竹下先生の言うとおりだ。いくら心配だからって俺が過剰に春風を構えば、変に勘ぐってくる人も出てくる」

「……はい」

「悪かったな」

「そんな! 私の方こそ……迷惑かけてすみません」

 蘇芳先生は静かに首を振ると、唐津先輩の方を向いた。

「唐津も、悪かったな」

「別に。あんたのためじゃねえし」

 唐津先輩は肩をすくめた。

「砂羽ちゃんが辛い顔をするところ、見たくなかったからさ」

「そう、か。……いいな、そうやって素直に言えて」

 ポツリと呟いた蘇芳先生の言葉の意味は、どうしても私に都合よく聞こえてしまって、でもそんなことあるわけないと否定しようとすればするほど、もしかしてが大きくなっていく。

 そんな私の隣で唐津先輩は「けっ」と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、二度三度と首を振った。

「あーあ。はいはい。わかりましたよっと」

「え、あ、あの?」

 何がわかったのか、私にはさっぱりわからない。でも視線を交わらせた蘇芳先生と唐津先輩は、言葉を交わさなくても言いたいことが伝わっているようだった。

「唐津せんぱ……」

「くっそ。自分がいいやつすぎていやになるな。蘇芳ちゃん、これ貸しひとつだからな!」

 そう言ったかと思うと、唐津先輩は保健室を出て行ってしまった。残されたのは私と蘇芳先生のふたりだけ。

 先ほどの『もしかして』のその先を、聞いてもいいだろうか。私が都合よく勘違いしているだけかもしれない。でも、それでも。

「……借りを、作ってしまったな」

「蘇芳先生、私……!」

「春風」

 蘇芳先生は、静かな落ち着いた口調で、私の言葉を遮った。

「俺は今、春風に何かを言うことはできない。何かを伝えてもらったとしても、それに対して応えることもできない」

「……はい」

 先生と生徒。その関係性の上で成り立っている私たちの間柄で、そうやって言われるのは仕方のないことだ。頭では理解できる。でも気持ちはどうしてもついていかない。まるで告白する前にフラれたみたいだ。

 こみ上げてくる涙を、グッと堪える。大丈夫、まだ泣かないでいられる。だから。

「そう、ですよね。勘違いして、ごめんなさ――」

「だから……っ」

 蘇芳先生は唇をギュッと噛みしめると、真っ直ぐ私を見つめた。

「卒業まで、待てるか?」

「え……?」

「春風が卒業するまで、待っていてほしい。今の俺には、それしか言えないから」

 その言葉の奥に込められた想いに、気付かないほど子どもではない。

「待ってて、いいんですか……?」

「待っていてほしい。どうしても、春風に伝えたい言葉があるんだ」

 涙を我慢することはできなかった。次から次へと溢れてくる涙を、制服の袖で必死に拭う。そんな私に蘇芳先生が手を伸ばそうとして、グッと堪えたのが目に入った。

 私は涙を拭って、それから笑みを浮かべた。

「大丈夫、もう泣かないから」

「春風……」

 蘇芳先生は優しい笑みを私に向ける。いつかその笑顔の隣で笑える日が来るまで、精一杯頑張ろう。それが今、私にできることだから。

「それじゃあ、もう行くな。たぶん、これからは保健室に来られないと思うけど……」

「大丈夫。私、強くなるから。蘇芳先生に心配かけないぐらい強く」

「……ああ」

 静かに頷くと、蘇芳先生は振り返ることなく保健室をあとにした。

「あーあ、格好つけちゃって」

「え?」

 どこからか聞こえてきた声に振り向くと、保健室のベッドの上には唐津先輩の姿があった。

「どうやって……出て行ったんじゃ……」

「窓から入ってきたんだよ」

 ベッドの横に面した窓を指差して唐津先輩は笑う。もしかしてさっき急に現れたのも、そこから入ってきたのでは……。

「邪魔者はいなくなったし、これで解決だな」

「邪魔者って竹下先生のことです……?」

「竹下先生も邪魔だけど、それより蘇芳ちゃんのほうが俺にとっては邪魔者だったからさ」

「どういう……」

 唐津先輩は整った顔でニヤリと笑って見せた。

「卒業まで何のアプローチもしないって言っちゃったからには、蘇芳ちゃんは約束を守るだろ? ってことは、それまで俺は砂羽ちゃんに好き放題できるってわけだ」

 ベッドから下りて私に近づくと、唐津先輩はふっと笑みを浮かべた。

「え、あの、何を……」

「俺が卒業するまでに、蘇芳ちゃんよりも俺のことを好きにさせてみせるから」

 いい人だと、思ったのに。

「覚悟しとけよ」

「~~っ。蘇芳先生より好きになるなんて絶対にないですから!」

 私の叫び声と、唐津先輩の笑い声が保健室に響き渡る。私が無事に卒業して蘇芳先生に気持ちを伝えることが出来るのか――。それはまだ誰にもわからない、少し先のお話。

 

   

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保健室の秘め事 望月くらげ @kurage0827

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