第二話「私のニチジョウ、会長との夕暮れ」

 私にとって、尊ぶべき日常とは何だろうか。朝起きて、寝ぼけまなこで情報番組を背景音にしながら、トーストをかじることか。はたまた、一日の合間にしっかり服薬することが、それに繋がるとでも? 会長が強引に録音した声に幾らか救われた何日かあと、情緒が滅茶苦茶になったときラムネ菓子を噛み砕く癖がついた。朝と晩、決められた薬を飲むことは諦めることにした。ある程度の人間性を取り戻すためには、明るい「フリ」をして自分を騙す。これに限る。


 校舎に潜り込んで、規範の通り過ごすことは苦ではない。けれども居心地がちょっと悪い。少し肩の力を抜けるのは、放課後の生徒会室といったところ。副会長が二か月も休学していると、それなりに支障が出てしまう。その帳尻合わせに追われている間は、楽しい。夕暮れも深くなってくる下校時間の手前。生徒会顧問が、施錠のために訪れるまでの十五分間。とりとめのない会話をするのが、好きだ。


「そうは言ってもだな、三枝くん。何度たずねられても、あの時の録音は必死だったんだ。そこに他意などある筈なかろうに」

「いいえ、伊地先輩! あれは、明らかに何か下心あるのでは? そう取られても可笑しくないですよ」


 最近、こんな話ばかりが飛び交う。どうにも彼に、その気があるのではないかと思うと。心臓に悪い、健康に悪い、何だか落ち着かない。このネタを何度『擦っている』のだろう……机に向かう私。暮れ行く太陽を見つめるばかりの会長。


 これが最近の尊ぶべき日常。そういうものなのだろう。


「時に三枝。その、なんだ。君がいう下心は、ギリシア語でいう “エロース” というものではないか?」

「エロス!? そんな直球な」

「まぁ、落ち着き給え。この場合は、日本語でいうこところのエロスの元になった性愛を表すエロースのことをいう。男女間の見返りを期待する愛という意味も含まれているぞ」


 どうも、会長は理屈っぽい。ただ、見返りを求めてあの録音を吹き込んだ訳ではないことは、何となく分かっていた。今はとりあえず、その言い訳を聞こう。そう思った。


「あの時、録音に込めた感情は、たしかに愛はある。ただ、同じくギリシア語でいうところの “フィリア” というものだ。友情や親愛を込めた。こういえば、分かりやすいかね、三枝くん」


 なるほど、言いたいことは分かった。下心あったでしょ、なんて詰め寄った私も悪い。ただ、人の心をドギマギさせるようなことをいう先輩も悪い。吊り橋効果が最大限発揮され、数日は先輩のことを考える度に、胸が小さく跳ねるのを感じていた。男女の愛を勘違いした自分自身が恥ずかしくなった。


 やがて、下校時間のキッカリ十分前に、生徒会顧問の三条先生が生徒会室に入ってくる。


「おい、ジャリ共。もう下校時間だぞ、施錠するから。ほら。帰った、帰った」


 先生もお疲れさまです。そう先輩がバッグ片手に声をかけ、私もそれに倣う。秋も近い下校時間は、黄昏時というのにピッタリな色彩を、窓辺や校庭あるいは下足場に塗りたくっている。先輩は、私の歩調に合わせて少し歩幅を狭めて、生徒会室のある部室棟から、ゆっくり下足場に向かう。互いに何を話すこともない。先に先輩が上履きから革靴に履き替え。オレンジ色に染まり沈みゆく太陽に視線を向けていた。まだ、上履きをしまってローファーに履き替えている最中の私に先輩が独り言くらいの声量で尋ねてきた。


「三枝。未だに世界は難しいか?」

「そうですね、煩わしいほどに。けど、前ほどじゃなくなりました。特に、伊地先輩とこうして何でもない時間を過ごしている間。世界はビックリするほどシンプルです」

「そうか……誰しもが、惑う世の中だ。一年前の常識が今も通じるか怪しい。物凄いスピードで科学が、医学が、流行り廃りが加速している。そんな中で、シンプルに在れる瞬間は貴重なものだ。三枝、君の貴重な時間に私の様な粗忽者が役に立ったのならば、これ以上嬉しいことはない」


 こちらを振り向かない先輩が、どんな表情をしているかは分からない。ただ、きっとどこか晴れやかで、誇らしげな雰囲気が伝わってきた。それにどこか安心する。けれど、きっと。この感情は恋愛じゃない。生徒会室で先輩が言った様に友愛や親愛というやつなんだろう。けれども、そんな器用とも不器用とも知れない心遣いが、復学してからの私の悩みを減らしてくれていることは確かだ。だから。


「先輩。私、こんな日常が。ちょっと愛おしいんですよ」

 振り返った先輩の目が、驚いたのか僅かに見開かれた。そして、僅かに微笑むと。

「そうか、なら。良かった。明日も何でもない日は続くさ。難しいことばかりじゃない、シンプルで分かりやすいものだって、我々は大切に出来るし、愛しさえする。それでいいじゃないか」

「……ですね」


 日がどっぷり暮れてしまう前に、二人でトコトコと駅に向けて歩く。それにどうしようもない安心感を抱いている自分に。下心があるのは私の方じゃないだろうか。そんなことを考えて、少し頬を染めてしまう。だと言うのに、先輩はこっちなんて見ていなくて。それがちょっと癪に障りながらも。ちょっと離れてしまった距離を詰めるのだった。


 これが、私と先輩のニチジョウ。少し特別で、でも何処にでもありふれているシンプルなもの。こういう雰囲気を大事にしていきたい。そんなことを思った。三枝さん、単なる思春期なのかな?

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三枝木葉のジジョウ 藤 秋人 @akihito_fuji

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