兵舎の薄暗い廊下を歩いていると、ラインツファルトは曲がり角で大きな紙袋を抱えた女と衝突した。その袋は膨れ上がっていて、彼女の視界を遮っていたのだろう。

「わわっ！」

　女は弾かれたように尻もちをつき、袋の中身を盛大にぶちまけた。パン、砂糖菓子、チョコレート――甘い香りが一瞬にして辺りに広がる。

「大丈夫ですか？」

　ラインツファルトはすぐにかがみ込んで手を差し出す。女は照れくさそうに笑い、助けを借りて立ち上がった。

「あはは、どーも……」

「お名前は？」

「メリッサです！」

「俺はラインツファルトです。よろしく」

　二人は握手を交わした。

　しかし、メリッサはハルトマンの姿を認めると、バネ仕掛けの人形のように背筋を伸ばして敬礼した。

「貴様、何だそれは」

　ハルトマンの低い声が響く。

　メリッサは慌てふためきながら、目にも止まらぬ速さで散らばった品々を拾い集め、再び袋に詰め込む。けれども、その中身を隠すには手遅れだった。

「甘味でありますッ！」

「そんなことは分かっている。なぜここにそんなものを、それも大量に持ち込んでいるのかと聞いている」

　メリッサ

の顔が青ざめ、ガタガタと震える。敬礼したまま、じりじりとハルトマンから距離を取るように後ずさりする。ついにはラインツファルトに助けを乞う顔を向けた。

　(やめろ。俺に助けを求めるな)

　彼は心の中で呟きつつ、助け舟を出す。

「何か事情があるんでしょう。大目に見てあげませんか」

「いったいどんな事情だ。この女の肩を持つならお前も同罪だが？」

「ではやめておきます」

「ええっ、寝返るの早くないですか!?」

「それをよこせ」

　ハルトマンが指を鳴らした。次の瞬間、メリッサが差し出した紙袋は鮮やかな炎に包まれ、中身ごと跡形もなく焼き尽くされた。

「いやあああああ！　ちょ、ちょっと！　人の心ってものがないんですかっ!?」

　メリッサは四つん這いになり、無残な灰だけが残る床を見つめて絶叫した。

「部屋に溜め込んでいるものがあるなら、今のうちに処分しておけ。明日の昼には出発だ」

「出発？」とラインツファルト。

「そいつもお前と同じだ。今回追放される魔術師の一人だ」

「俺と、同じ……？」

　メリッサとラインツファルトは顔を見合わせた。

　結局、メリッサは二人の後をついていかざるをえなかった。甘いものをため込んでいるのが、彼らの目的地だったからだ。

　そこは書類以外のほとんどの備品がない無機質な部屋で、二人の男がカードゲームに興じていた。

「ハルトマン大尉、お疲れ様です。……そちらが、噂の『変わり種』ですか」

　カードを置いて立ち上がったのは、理知的な目をした男、ハロルドだった。

「情報が早いな。こいつがラインツファルト。……これで『特務部隊』の全員が揃った。すぐに支度しろ。明日の昼には出発する」

　ハルトマンが冷ややかに告げる。

「そうは言っても、何もすることないっすよ！」 もう一人、ソファでふんぞり返っていたヴェイスがこたえる。その手にはシミの付いたカードが握られていた。

「そーそ。だいたいこの国じゃ魔術師の居場所なんてないじゃないですか」 メリッサも、いつの間にか気を取り直して愚痴をこぼす。

「……それで、隊長」 ハロルドが、冷ややかにハルトマンを見据える。「いよいよ俺たちも『処分』ですか。……公安委員会が解体されて、俺たち『政敵抹殺の道具』のお役御免とばかりに、帝国に追放とは。随分といいご身分だ、共和国も」

「……ハロルド。口を慎め」

「事実でしょう。俺たちは『寄せ集め』の『追放待ち』だ。……どうせ地獄行きの馬車みたいなもんですよ」

　ハルトマンは軽く肩をすくめてみせると、すぐに部屋を出て行った。

「……はあ」 メリッサはため息混じりに肩をすくめる。 「隊長はあんなんだけど、うちはゆるいから好きにやってね」

「敬語じゃなくていいよ。隊長以外にはねっ！　あの人に関わると大切なものを燃やされるからね！」

　あまりにも必死な形相だ。目がギラギラしている。執念に取りつかれているのだ。

「俺たちも地獄までご一緒するわけっすから、よろしく頼むっすよ？」

　ヴェイスがおちゃらけた風に手をひらひらさせる。

「はあ。帝国っていうのはずいぶんとおっかない場所らしいな」

　するとハロルドが、持っていたカードを切りながら会話に入ってきた。

「僕たちくらい魔力があれば、帝国にいけば当然『泉』にぶち込まれる。何もしなければ殺されるんだよ」

　一瞬、重い沈黙が降りた。何もしなければ、死ぬ。それなのに、なぜそんなに楽し気な雰囲気でいられるのか？

「みんなは、それを大人しく受け入れてるのか？」

　すると、三人はにやにやして顔を見合わせた。

「もちろん、大人しく殺されに行くわけはない」ハロルドは不敵に笑った。「アリオストを殺して、新しい政府を向こうに樹立する。これは僕たちのスクワッドだ。隊長には秘密だよ？」

　ハロルドはいたずらっぽく笑った。

　息が詰まる。そんなことが可能であれば、渡りに船だ。だが。

「勝算は？」

「今までは、かなり厳しかった」 ハロルドは、切ったカードをテーブルに置く。「帝国はアリオストの独裁国家だ。だが、今は八十年前と違って銃火器も発達している。魔術に劣った一般人でもそれなりに戦力になる。彼らを味方につける必要がある。……問題は、彼らを束ねる『旗印』がなかったことだ。だけど今は変わり種が降ってきた。あんた、ハルトマン隊長に『王族の追放』って言われてたな」

　 ハロルドの目が、値踏みするようにラインツファルトを射抜く。

「え？　マジもんの王族なの？」とメリッサ。

「ああ、マジもんだよ。自分で言うのも変な話だが……」

　彼は端的に事のいきさつを語って聞かせた。

「信じられない……」

　メリッサはよろよろとくずおれた。そのはずみでふんわりと甘いものの香りがする。

「これである程度は実現性を帯びたわけだ。帝国の転覆っていう一大作戦の実現性が。ラインツファルトが手を貸してくれればね」

　ラインツファルトは三人の視線があつまるのを感じた。熱い視線だ。

「ま、待て待て。もっとゆっくり考えたい。計画性っていうのがあるだろう」

「今決めよう」とハロルド。

「え？　いや……」

　ラインツファルトは反射的に躊躇する。国家の転覆をするということは、アリオストにされたことをそのまま返すということだ。確かにそれは望んでいることだ。しかしもっといい手段は……。　

　彼は少し遠くを見据えた。

「わかった。その話に乗ろう。ただしどうやってアリオストと戦うかは考えさせてもらうぞ」

　すべてを失った今、できることをなす。それがせめてもの罪滅ぼしだ。