第5話

 (三百年生きている男に、たった二十年ちょっとしか生きていない自分が教えてやれることがあるとは思わなかった)

 喜一は勝負の合間に口笛のコツを教えたが、不死郎の苦手は筋金入りで、何度やってもひゅうっと立て付けの悪い戸の隙間風みたいな音しか出ず、それが喜一の母が住む、田舎の実家の隙間風の音にそっくりなものだから、喜一は声をあげて笑ってしまった。不死郎はむっと面白くなさそうな顔をしたが、さすが情報屋、喜一の田舎の珍しい名産の話などをすると興味深そうに気分を変えていた。そして次の勝負では不死郎は見事鮮やかに一人勝ちした。


 ◇◇◇


その後、賭博場を出る頃には赤い夕陽が町を照らすような時刻だった。喜一は完全に日が沈むまでには帰らないといけなかった。

不死郎も喜一も酒が回ってただの酔っ払いとなっていたが、喜一は待っている家族のため、しっかり歩ける程度には気を保っていた。不死郎は夢見ごこちでふらふらしている。

「いやあ、勝った勝った。今日は勝てる気がしてたんですよねえ」

「フーさんのおかげで今日は楽しかったよ。たまにはこんなのも悪くないね。子供にもいろんな遊びを教えてやろうと思ったよ」

「江戸の賭博場が一番盛り上がりますからねえ。こりゃ知らなきゃ損でしょ? ああそうそう、俺が勝ってあんたから巻き上げちまった分は返しますよ。えーと、いくらだ? このくらい? あんたに負けさせないって言ったのに、つい熱中して俺が一人勝ちしちまいましたから」

 不死郎は小銭袋から雑に掴んだ金を喜一に渡してきた。

 (忘れっぽいところもあるが、あんがい律儀な性格だな。こう見えて一人で旅して生きてるんだから、適当ばっかりじゃねえってことかね)

 喜一はすっかり不死郎に気を許していた。

不死郎という人物は、金稼ぎにはがめついし、女にはだらしないところがあるが、知識が深く、勝負が好きで、勝負に関しては必要な時にしっかり教えてくれる、頼りになる男だ。町の人たちから、フーさんと面白がられつつ、慕われているような雰囲気があるのも納得できた。

(今日のことはいい思い出になりそうだ)

 しかし、喜一にとっての今日いちばんの出来事は、賭博場でのことではなかった。

 それは、指先まで通った熱気を、一気に覚ますような言葉だった。


「ああ、そうそう喜一さん、一つお節介なんですがね」

「うん?」


「あんた、大工向いてないよ。早めにやめた方がいい」


「……は……」

 喜一は、頭から冷や水を浴びせられたような心地になった。うわついていた気持ちが強制的に現実に戻される。

「急に何言ってんだい、フーさん。冗談はやめてくれよ」

「いいや、喜一、賭博場で見てたが、あんた人より指が少し長いだろ。俺は相手の手を見ただけで、向いてることがわかるんですよ。たくさんの人の顛末を見てきましたから。指が長いと人よりも関節に負荷がかかりやすい。そして関節にできた「たこ」は治りにくい。下手するとそのまま炎症を起こして指が曲がる。大工を続ければ、最悪利き手から使えなくなりますよ」

 喜一は自分の手を見た。不死郎の話は、冗談ではなさそうだった。少し前から右手の関節の小さな痛みが消えないのだ。それは今が忙しくて、休みが少ないからだと、しかし上達のためにはそれでいいのだと、そう思いこんでいた。動悸が少しずつ速くなる。今すぐ冗談だと言ってくれと心が騒ぎ出す。少し気にかかることがあっても、喜一は大工をやめることはできないのだ。故郷の期待に応えるため、信じてついてきてくれた嫁と子を絶対に食わせていくために。

「……それは、運が悪い時の場合だろ? そんなこと言わないでくれよフーさん。あんたの情報は頼りになる。賭博場の奴らからの慕われようでもそれがわかった。だからあんたがそんなこと言いきったら冗談じゃなくなっちまう」

「俺がずっと口笛ができないように、物事には向き、不向きが確実にあります。知識や技術だけじゃ超えられないこともまだ多い。俺は壊れた関節を治せる医者を知りません。それは江戸にいても治せないものになる」

「…………そのうち、関節が治せる医者が出てくるかもしれないだろ……」

「あんたの指なら、槌を握るより細やかなことに向いてる。陶芸家とかいいんじゃないですか? 大工よりは稼げないかもしれませんが」

 喜一の頭に、自分を信じて送り出してくれた故郷の村の人々、そして貧しい家に住んでいる母親の顔が浮かんだ。そして、見送りの際、母が喜一の成功を願って、しわがれた手から手渡してくれた大きな衣装箱。

「やめてくれよ……俺は大工をやるために江戸にきたんだ! そうじゃなきゃ、村のみんなに顔向け出来ねぇし、まだ二年目だ。俺は、大工の仕事が好きなんだ。誰かの帰る場所を作ってやる仕事が……」

「別に喜一さんが槌を握らなくても、大工の道具を作る仕事や、家材手配する仕事もありますよ。あんた、女房と子供がいるんでしょう。利き手の使えない旦那になってもいいってんですか。家族のためと自分の理想を混ぜちまってませんか」

「もういい、やめてくれ!」

 受け止めきれない思いで、喜一は走り去ってしまった。今日一日、不死郎は知識において嘘はつかなかった。きっとこの男は情報屋の名にかけて嘘はつかない。だからこそ、頭の中には、希望と絶望が行ったり来たりしていた。

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