第20話 “いつもどこか他人事”のひそやかな興奮


 はっ、はっ、はっ……


 くらやみのなかに、断続的な呼吸の音が、ひびく。


(なにも――見えない)


 おさえなければと、自分に言い聞かせる。


(音を立てれば、あのモンスターに見つかり、殺されてしまうかも――)


 背なかを伝うひんやりとした汗を感じると同時に、後頭部のななめ上の空間のあたりに「本当にこれは現実なのだろうか」と俯瞰ふかんしている自分がいることも、“いつもどこか他人事ひとごと”は感じていた。

 暗いクローゼットのなかで、ひざをかかえ、息を殺している自分の実在を、自分は、いや心のどこかにいるはずの「本当の自分」は、きちんとれることができているだろうか。


 思えば、いつもそうだった。


 自分という存在と、自分が見ている――自分の視界から見えているこの景色が現実なのだと、どうも判然ハッキリとは、実感ができない。

 手ざわりが、ないのだ。

 一人称視点で進んでいくゲームに似たものを見せられているだけのような、気がしている。


 主観が自分だからといって、自分がこの世界の主人公だと思えているわけでもなかった。

 しかし脇役ですらないように感じるのは、なぜだろうか。

 ドラマチックな浮き沈みは、恋愛のような「だれにでもやってくる」かのように喧伝けんでんされているものさえまわりのどこにもなくて、ただ、なにもかもが「遠い」感覚だけがあった。


 目のまえでこんな惨劇が起きているはずのいまでさえ――


(どこか他人事ひとごとのように、感じてしまっている)


「ウウウワァァァァァ!!」


 デス畳がフローリングをぐようにあばれまわるバリバリという音ののち、クローゼットの扉の向こうから、“びびり八段”の悲鳴がきこえた。


 バグンッ


 何度も聞いたあの音も、扉のすきまから、こぼした水のようにしみ出してくる。

 “びびり八段”は、きっと、われてしまったのだろう。

 やはり冷静に考えている自分がいる。

 首に縄をかけられた“びびり八段”が、どんと背なかを押され(あるいは、押したのは自分かもしれない)、そのからだがぶらんと宙に浮かぶ光景を、ゲームのバッドエンドをながめるように、思い浮かべた。

 怒りも、悲しみも、うすい。

 あーあ、死んでしまった。

 あえてことばにするなら、そんな感慨だ。

 助けに行こうなんて考えは、ほんの一瞬さえ、生まれなかった。

 自分はゲームやアニメに出てくるような、ヒーローではない。

 自分の分際ぶんざいは、なんとなくわかっていた。

 こうして暗い空間でひざをかかえて、嵐がすぎていくのを待つこと。それだけが平凡な自分にできる唯一のことだ――


「ウウウワァァァァァ!!」


 まだ生きていたらしく、転げながら走りまわる音とともに“びびり八段”のいつもの悲鳴がきこえた。

 意外としぶといなと思いつつ、しかし、もう時間の問題だろうと思う。

 気がやさしく、だれよりも強かったあの“ゴリラ”さえ殺されてしまった。

 自分と同じような、並の能力しかもたない“びびり八段”が、どうしてあのモンスターから逃げられるだろう……


「う、ウウウワァァァァァ!! 死にたくねぇ、たのむよほんとに死にたくねぇんだよぉぉぉ」


 床か壁かわからないが、建物の駆体くたいが派手に粉砕されていくような轟音ごうおんに、這いずりまわりながらも哀願あいがんする“びびり八段”の声がまじった。

 そのとき、ふと――気がつく。


(あそこに、いま、自分がずっと手にすることのできなかった『生きている実感』があるんじゃないか……?)


 “いつもどこか他人事ひとごと”はくちびるをしめらしながら、無意識に指でなぞっていた。

 “びびり八段”のしぶとさ、またその絶叫に宿る「鬼気ききせまるほどのせいへの執着」に、だんだんと、のめりこみはじめている自分がいることを、自覚する。


 比喩ではない、生きるか死ぬかのまさしく瀬戸際せとぎわにあって、なお「死にたくない」とさけぶ。


(あれこそが――自分の人生に足りなかった「真剣さ」ではないか)


 自分のような凡人なればこそ発せられる、しんせまった、あるいは真実そのものといっていい魂の訴え。


「タミィィィ!!」

「うわ、あぶねっ、ほんとごめんってゆるしてくださいぃぃぃ」


 そっと、ほんの少し、クローゼットの扉をひらく。

 ちょうど、“びびり八段”が床をゴロゴロと転がってデス畳の攻撃から必死にのがれているところであった。


 ぎゃあぎゃあとさわぎながら、くねっと腰をひねってすんでのところでさらなる追撃をかわす。

 ドッジボールのように、ぎゅんと瞬間的にかがんで回避する。


 “いつもどこか他人事ひとごと”は、“びびり八段”のその死への抵抗に、いつしか夢中になって見入っていた。


 しかし、さらに逃げていこうとして転んでしまい、ついには部屋のカドへと追いつめられてしまった。

 ゆらりとその前まで近づき、仁王立ちのごとく立ちはだかると、「もう逃げられんぞ」とばかりに「タミ!」と吠えるデス畳。


(どうなるんだ、このまま死んでしまうのか)


 てのひらが、汗でじんわりとぬれていることに気がつき、ズボンでにじるようにぐりぐりとぬぐう。


「いいやぁぁぁぁ、もうほんとイヤ、死ぬのやだやだもうこわすぎふざけんなこわすぎるでしょやめてくださいもうほんとやめてくださいぃぃぃ」


 足が尋常じんじょうならぬスピードで震えてもはや立ちあがることもできず、“びびり八段”はとうとう泡を吹き、白目をむき、船上に釣りあげられた一匹の巨大カツオのごとくビチンビチンと床ではね出した。


「タミィ……」


 その顔面や動きが想定以上の気もちのわるさだったのか、デス畳も若干ひいている。

 が、エサをしとめるには好機といっていい。

 ほかにも喰ってまわらないといけないエサはくさるほどあり、あまり時間もかけていられないのでは――


 気づけば、デス畳側の気もちになって、“いつもどこか他人事ひとごと”はぶつぶつと詳述しょうじゅつしていた。


「喰うのか、デス畳……」


 はたしてそのつぶやきのごとく、あらためて気を入れ直したデス畳がくわっと“びびり八段”へおそいかかる――

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