春は悪夢と共に
五十嵐文之丞
少女A
人と関わることが苦手でした。
人の目を見るだけでも、勇気を持たないといけませんでした。
そのせいなのか、わかりませんが、小学生の頃からいじめられていました。
いじめられていた……。
この表現は私にはあまり適切だと感じられませんが、周りがこの言葉を使うので、会話をなめらかにするために私もそう言うことにしています。
私はどう感じていたか?
そうですね。「迫害」ですかね。あ、笑いましたね。
大げさだと思いますか?
民族とか宗教は世界規模で何万人から何万人が弾圧され、多くの命や人権に関わるから、いかにも罪の色が塗られているような鋭い言葉を使うことが許される。だけど、北関東の田舎町の小さな学校の、三十数名にみたないクラスの中で、たった一人が虐げられる行為には使えないのですか? どうしてでしょう。
誰にでも起こり得る身近なものだからですか、命が危険にさらされる可能性が人によりけりだからですか。
それとも、単に大小の問題でしょうか。
え、別にいじめという言葉でも違わない?
そうですか。そう言えるのは、使われる側じゃなく使う側にいるからだと思いますよ。使われる側からすれば、そんな安っぽくて線引きが曖昧な言葉で片付けないで、一括しないでと言いたいです。いじめという言葉は傍観者がわかりきったことを語る時のために作られた言葉ですから。
いや、虐げられる行為を一括して迫害とよぶべきとは言っていないです。
多種多様なので、総称は必要ないと思います。
私の場合は迫害が適していたという話ですよ。
受けた側の人間が、感じるままに言えばいいと思います。
いじめという言葉は、状況によっては受けた人間の痛みなんかを隠してしまいがちですから。
いや、怒っていないです。何度も大げさだと言われたので、慣れています。
色々な大人からです。
特に学校の担任です。耳を疑うようなことも言われたことがあります。
「これくらいのことを深刻に捉えない方がいい」
いじめ程度のことに、迫害なんて言葉を使うなってことです。
その担任は酷いって?
でも、先生も同じじゃないですか。言葉にしなかっただけで、いじめと迫害を天秤にかけましたよね。だからさっき、無意識に鼻で笑ったのでしょう?
罪を重いか軽いかで判別した。
私は悪いことに大小はないと思っていますから、そういう考え方は嫌いです。
猫を殺していたお兄ちゃんのことを両親に告げ口した時「人間じゃないならいいでしょう」と言われたことがあります。そんな両親の価値観を反面教師にしたので、今の私のこんな価値観が生まれたのでしょう。
はい? お兄ちゃんですか? いや、家族じゃないです。
家の真向かいに住んでいた近所の高校生です。それも私が幼稚園の頃なので、今はいません。とっくに田舎を出ています。
そうですね、嫌な思いをしました。目撃するだけでも嫌なのに、一緒に猫を殺すように強要されたこともありました。怖くて、本当に殺しました。殺した後に何を感じたかですか? 可哀想よりも気持ち悪いと怖いしかなかったです。
でも、今になって振り返ってみると、線香花火みたいだったなって思います。ちょっとの風とか手の震えなんかで簡単に火種が落ちちゃうところが似ているような気がします。
ついさっきまではあんなに紅く輝いていたのに、突然、今までが嘘みたいにあっけなく消えちゃう。死ぬってあんな感じでした。
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