第28話 ズレていく日常

 仕事で使う書類にサインをする。これが最後だ。私はペン立てにペンを戻し、一息つく。

 昔だったらこの時間は、子どもたちと遊んであげれていた。

 この過ごす時間の変化が、私が大人になったのだと告げてくる。

 けれど、その中でも変わらないものもある。

 それは隣の机でペンを走らせるルー君だ。今は今月受けた仕事のリストを確認している。

 そんなこと帰ってからでもできるだろう。でも、あえてここでやっているのは、間違いなく私のためだ。

 私が父親の後を継いでからは、仕事で村から離れる時間も多くなった。

 みんなとの時間が薄れていく中、ルー君だけがいつも私の隣りにいた。魔法を教えてくれる時も、私が仕事で行き詰まっている時も、彼が魔法使いとして仕事を始めても、変わらずに側にいてくれる。

 それがどれだけ嬉しかったか。

 子供だったみんなも、大人になるに連れて私を見る目が変わっていった。

 そんな中で常に変わらずにただ寄り添ってくれたルー君という存在は、いつしか私の中の特別になりつつあった。

「んー…?ああ、そっか。」

 リストとにらめっこしている彼の頭を、私は優しく撫でる。

「どうしたの?」

「んーん。なんでもない。もう終わる?」

「うん。これで最後っと。はい、終わったよ。」

 彼もペンを置くと椅子の背もたれに寄りかかる。時計を見ると、針は午後三時前を指していた。

 時計の方を見ながら落ち着いた声で私は話す。

「ねえ、ルー君。」

「んー?」

 彼は気の抜けた声で返事をする。仕事が一段落して集中力がきれているのだろう。

「お昼寝しよっか。」

「んんー…」

 ルー君は少しムスッとして、なにか言いたげな顔をする。

「…嫁入り前の子がそういうこと言うのやめなさい。」

「寝るだけだから。お願い。」

 私は席を立って彼の椅子の背後まで行く。肩に手を乗せ、彼の返事を待つ。

「…はぁ。ずるい。」

 彼は一言そう言うと、私の手を払い除けて立ち上がる。

「ごめんね。」

 私は心の籠もっていない謝罪をする。

 それでも彼は私の手を取り、優しく握ってくれた。

「いいよ。行こ。」

 私は彼に手を引かれるがまま自分の寝室に向かう。部屋の扉を開けて、ベッドの前までくる。お互いそこに腰掛けて靴を脱ぐと、そのままルー君を勢いよく押し倒す。

 そして、彼の体を思いっきり自分の方に引き寄せる。胸を押し付け、脚を絡ませ、顔を擦り寄せる。

「服、皺になるよ。」

「いいから。」

 彼の声が耳元で聞こえる。更に近くで聞きたくて、私は頬を擦り寄せる。

「髪、乱れてる。」

「いいから。」

 彼に少しでも近づきたくて、私は体を密着させる。

「下着、見えてる。」

「いいから。」

「よくない。」

 ルー君はそう言うと、その小さい体で、私のことを少しだけ押し返す。今日下に着ているのはフリルがついたミニスカートと厚めのストッキング。

 彼は自分が着ていた薄手の藍色のコートを私の下半身に被せる。

「ルー君なら見てもいいんだよ…?」

「だめ。」

「いいのに…」

「だめ。見せるならもう帰る。」

 再度ベッドに倒れ込み、彼の背中に手を回す。

 私はその言葉に観念して押し黙る。この時間が無くなるなんて私には耐えられない。

 暫し無言の時間が流れる。

 聞こえてくるのは外にいる鳥の鳴き声と人の声、そして、ルー君の呼吸音だけ。

「ルー君。」

「どうしたの?」

「頭撫でて。」

 私がそう言うと、ルー君は頭を撫でてくれる。優しい手つきだ。乱れていた髪を整えながら、私の頭に彼の手の感触が何度も訪れる。私に最大限気を遣っているのがわかる。そのことが嬉しくて私はニヤつく。

「抱きしめて。」

「…」

 ルー君の耳元でそう囁く。彼の足の付根に自分の太ももを押し当てる。自分の体を彼に擦り付けて、その気にさせようとする。

「…これでいい?」

 彼は左手で私の腰を掴む。右手は頭に乗せたままだ。

「もっと下がいい。」

「嫌だ。」

 ルー君はそれ以上動くことはなかった。

「ん。」

 私はそれだけ言うと彼の腕の中で目を閉じる。ドロドロとした底なし沼に足元から溺れていくように、彼の優しさに沈んでいった。


「はぁっ。はぁっ。」

 マリーの呼吸音が耳元で聞こえる。悪夢を見ているのか、かなり過呼吸気味だ。

 ここ最近いつもそうだった。何があったのかは知らないが、彼女の精神状態は明らかに異常をきたしている。

 このまま放置したくはないが、どれだけ彼女の元に踏み込んでいいものか俺は迷っていた。

 眠っているマリーは身体をくねらせている。まるで何かから逃れるために、もがいているようにも見える。

 俺は彼女の背中を擦り、呼吸を落ち着かせる。窓際で丸くなっているヴァーレンを起こさないように、静かに彼女の心を支えようとする。

 近頃は俺を誘うような言動も目立ってきた。

 昔はこんなことはなかった。

 昼寝する時ももっと純粋に一緒にいる時間を楽しんでくれているように見えた。

 それが今はどうだ。

 これでもかという程身体を押し付け、お互いの顔の距離は僅か数センチだ。その大きな胸は密着し、股には俺の脚を挟んでいる。

 さっき見てしまった下着も明らかにそういう用途のものだった。

 これはただの推測だが、マリーは何か大きなストレスを抱えている気がする。そのストレスの捌け口として俺を使っている感じがするのだ。

 そのストレスの元が何になっているのかは知らないが、今の状況は良くない。いや、かなり悪い。

 彼女の身体をできる限り落ち着かせようとする。こんな日々があとどれほど続くのだろうか。

俺だって男だ。今は彼女をそういう目で見ていないが、それがいつまでも変わらないという保証はどこにもない。

 俺がマリーの誘いに乗ってしまったが最後、もうこの関係には戻れない。

 それは、嫌だった。

 俺の中のマリーは姉であり、仕事仲間であり、親友なのだ。そんな相手に劣情なんて向けたくない。

「はやく元に戻ってくれ…」

 俺は彼女の頭を撫でながら切に願った。

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