第3話 街

日が少しずつ昇り始めた頃、寝汗の不快感で目が冷めた。ここに来るまでに買ったインスタントコーヒーを拳ほどのカップに注いで口内にひっくり返す。酸味が感じられず味気ないが、半乾きの喉はコーヒーの通しが良かった。

膝をキシキシと鳴らしながらホテルの窓を開ける。

春になりかけの冬はやる気のない生暖かな風をトロトロとホテルに吹き付け、顔に引っかかる度に汗をどっと出させる。

思えば、なぜこんな片田舎に来てしまったのだろう。私には大きな仕事があり、ここは中継地点であって目的地とは違うのだ。変に逆張りをしないでもう一つ隣の大きな駅で泊まれば良かったと後悔した。



もう7時に差し掛かる頃だが、平日なのに人どころか車の音も聞こえない。味気ない部屋を出て無人のエントランスでチェックアウト―といっても箱に借りてた部屋のセキュリティーカードを入れるだけだけだが―を済ませて、泊まっていたホテルから少し離れた山までの一本道に散策に出た。次の電車まで数時間はあるのだから、贅沢に使っても良いだろう。

しかし、奇妙な街だ。昨日はホテルに籠もっていて気が付かなかったが、この街には街灯がない。グリーンベルトも、サブカルな店もだ。整備された車道を、左右にびっちりと清潔感のある家々が連なっている。数軒程度なら気にもならないが、ここまであると圧迫感も相まって薄気味が悪い。結局、駅に向かうことにした。観光は切り上げだ。駅のホームで座って膝に寝顔を見せたほうがマシだ。すると、広い坂道が目についた。昨日駅からホテルまで向かう途中に横切った時には魅力など微塵も感じなかったが、一睡しただけで吸い込まれるように足を向けてしまうのだから、不思議なものだ。坂道は、上りと下りの車道と歩道が一本ずつあり、気休め程度の自転車道も設置されていた。私の背よりも大きな看板に『1キロ先閹昴≠繧』と本殿らしき建物と共に書かれている。腰を落としたり色々工夫して読もうとするが、無駄な時間だった。肝心の施設の名前は車の擦りキズみたいなもので見えなくなっていた。静かな街だと思っていたが、以外に治安は悪いらしい。そう言えば、ここに来るまで飲みかけの缶や瓶が多く見受けられた。夜間の営業で成り立っている街なのかもしれない。

坂道を登ってみる。無機質な家の壁面は私をじっと見つめ、歩道は足並み揃えた家々に日の光を奪われ薄暗くなっている。一歩一歩なだらかな斜面を昇っても、見えてくるものに違いはなかった。意識していなかった革靴が急にコツコツとなり始めた。そうして足に身を任せて無心に歩き続けていると、林道に入った。木々からは姿は見えずとも小鳥のさえずりが良く聞こえ、住宅街がいかに私にとって苦痛だったのかを身をもって教えてくれた。しかし、日光が私に降ることは無い。竹の様に細く高く、私の肩幅よりも太い木々は私から日光を取り上げた。

石が靴に入るたびに脱いで靴を逆さまにする。膝裏を季節外れの蚊に食われた。とても不快な所だ。革靴で来る場所ではない。しかし、ここで引き返すといけない気がした。


こんな林道に入ったのはいつ頃だろう。子どもの頃の記憶を遡ってみる。かつて、私にはイマジナリーフレンド想像上の友人がいた。もう名前も忘れてしまったが、虫取りによく遊びに行ったものだった。あの子との会話はいつも弾んだし、息もぴったりだった。そしてあの頃の私は一日が終わることに恐怖を覚えていた。それほど充実した毎日だった。しかし、学校に入学し、勉強をし始めてから少しずつその子は薄れていった。そして、それに私は一切の関心を示さなかった。


歩き続けた。すると、一人の男を発見した。チェック柄の服と短パンの、山をなめた登山客といった感じの男だ。偶然か、容姿がそれとなく私に似ている。しかし、様子が変だ。ほぼ平坦な道なのにリュックを背負って、トレッキングポール登山の際に使う杖に身を任せて顔が見えないほどに前かがみになっている。走り寄って顔を覗いてやると、とても緊迫した表情をしていた。声をかけても、手をかざしても、なんの反応も見せない。それどころか、膝から血をだらだらと流している。スネには乾いた血と浸出液しんしゅつえきが傷口からしたたっている。

『あああああああ!』

叩き起こそうとすると、大きく体を仰け反らせて大声で絶叫し倒れた。

そして、声をかけようとすると、時計が電子音を唐突に鳴らした。電車が来るまであと少し。緊張からか、体中の汗腺がぷつぷつと開き、痒みが後から追ってくる。時間がない。

気がつくと、電車に乗っていた。どうやら、私はあの登山客を見捨てて逃げたらしい。非道な自分に嫌気が差す。しかし、私はなぜあの登山客に他人事でない印象を受けたのか…揺れる車内は私に考えるのをやめさせ、かんかんと私を包む午後の太陽までも私の邪魔をする。

ガックンと反対側に私を押して電車は隣町に着いた。しかし、ホームを降りた先はまるで私の住む街のようだった。おかしい。十駅以上離れた場所にこんなところがあるわけがない。しかし、塾、不動産会社、飲み屋、スーパーマーケット…確かにここは私の街だ。もう一度駅の名前を確認してみる。確かにここは隣町だ。一度も行ったことのない街。

何をトチ狂ったのか、私は一目散に自宅へと向かった。この街にある筈がないのに。

公園、本屋、図書館、子ども、大人、老人、アパート、マンション、バスにタクシーにスポーツカーにトラック。カラスに鳩、雀、散歩中の犬、風景画のように美しい空、そこを流れる雲でさえ。みんなみんなみんなみんなみんな全部一緒だ。私の街はこの街だ。走る。走る。そして私の家に着いた。

縺?∴繧。私の名字が表札に書かれていた。隣も、その隣も、私の家とお隣さんの住所、同じ構造の家、同じ色、同じ表札。もちろん私の家は私の持っていた鍵で開いた。

部屋の匂いでさえ私の家と同じだ。壁を伝ってベッドへ行く。不可思議な事が多すぎる。脳を整理するために私は布団に包まる。仕事など知ったことか。もう寝てやる。




膝が、膝が呟く。浅く、長く、変哲もなく、特別可笑しい話でもない。ただの単語のつながり。抑揚が無く退屈だ。言葉が分かるから退屈なのだ。いっそ分からなければ聞こえないのに。

僕は膝を呼び始めた。

そして永い時が経って膝が僕に囁く。

「どう?あなたはまんぞくなの?」

膝が先に返事をしてしまった。何かは満足げに消えていった。さて、戻らなければ。僕の父が思い出を持って、行ってしまう。名残り惜しいが、決して膝を悲しませてはいけない。さぁさぁ、早く早く…




日が少しずつ昇り始めた頃、寝汗の不快感で目が冷めた。乾いた喉は飲み物がほしいと私に訴えた…

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