ポイズン・ガーデン

松原凛

ポイズン・ガーデン

 そこにある植物たちはとても美しいですが、すべて毒があります、と春田先生は言った。

 イギリス北部でもっとも美しい庭園の一つと言われるアニック・ガーデン、そのはずれに、世界でもっとも危険な庭園があります。真ん中にドクロマークが描かれた黒い門を開け、緑のトンネルを抜けた先に、その庭園はあります。名前はポイズン・ガーデン。そこにはトリカブトやベラドンナ、エンゼル・トランペットなど、約百種類もの毒草が植えられていて、触れたり口に入れたりするのはもちろん禁止、立ち止まって匂いを嗅ぐだけでも意識を失ってしまうことがあります。

 先生はそこに行ったことあるの、と一人の生徒が尋ねた。春田先生は、いいえ、すごく遠い場所だから、でも死ぬまでに一度は行ってみたいですね、と丁寧に答えた。また違う生徒が、触ったらどうなるの、と尋ねると、春田先生は、運が悪ければ死にます、と当たり前のように言った。死ななくても、ものすごい痛みや吐き気に襲われたり、火傷をしたみたいに赤くなったり水ぶくれができ、数年続くこともあります、と言って、教室のスクリーンに、実際に毒草を触ってしまった人の赤くなって苺のゼリーみたいにぱんぱんにふくれた手のひらの画像や、大きな鳥の卵がくっついているような足の画像を見せた。もとはじぶんたちとおなじ形の手足だったとは思えないほどのグロテスクな姿に、生徒たちはうわあ、やばいな、と顔をしかめたり顔を覆ったりしながら、でも怖いもの見たさで指の隙間から目を離せなかった。

 ポイズン・ガーデンの創設者ジェーン・パーシーは言った。

『毒草のほうが、子供たちの関心をひくでしょう。子どもたちはアスピリンが樹皮からできていることなどどうでもいいのです。その植物の致死効果や、死の前に人がどのようになるか、といったことが本当に知りたいことなのです』

 その通りだった。理科の授業で季節の草花や雄しべや雌しべなどの細部の名前、受粉の働きがどうとか、どこにでもあるような花びらをルーペを使って隅々まで観察したりするのに飽き飽きしていた私たちは、どこにでもあるような植物が人を死なせたり、あんな風におそろしい姿に変えてしまうなんていう事実に興奮し、ほかにはどんなのがあるの、もっと教えて、と春田先生にせがんだ。

 じゃあ有名な話を一つ、と春田先生は前置きをして、秘密の話をするみたいに人差し指を立てた。オーストラリアのギンピ・ギンピという木の葉には細かいトゲがあって、葉に触れると酸をスプレーされたようなひどい痛みに襲われます。ある男性が、茂みのなかで用をたし、ギンピ・ギンピの葉をトイレットペーパーがわりに使ってお尻を拭きました。するとみるみるうちにその部分が火傷をしたみたいに真っ赤に晴れ上がり、男性はあまりの痛みに耐えきれず、持っていた拳銃でじぶんの頭を打って死んでしまったのです。

 教室にはさっきよりも大きな悲鳴と笑いが同時に起こった。ギンピ・ギンピこええー!ケツ拭いて死ぬとかサイアク! その人かわいそう!てかバカじゃん、死んじゃうなんてよっぽど痛かったんだなあ!

 春田先生の授業はほかの先生の授業と違って、一時間のうちにいくつも思わず笑ってしまうようなおもしろい話が次々飛び出してくる。春田先生は五十五歳のおばさん先生だったけれど、自然に出てくる言葉遣いや仕草が上品で、それなのに毒とか死とか強烈な言葉も普通に使うから、そのギャップがまたおもしろく、子供たちの興味を惹きつけて止まなかった。

 ある時、生徒の誰かが親にぽろりとその話をしたのがきっかけで、春田先生の「毒授業」が問題になった。授業でおかしなことを教えるのはやめてほしい、自殺した人の話を笑い話にするなんて信じられない、教師失格、そういう電話がたくさん来たのだ。私は悔しかった。違うのに、春田先生は笑い話になんてしてない、危険な植物のことを教えてくれただけなのに。でもそう思わない人も、中にはいるのだ。

 春田先生にはほかにも噂がいくつかあって、それもよくなかった。そのほとんどが誰かが思いつきで言い出したような根拠のないもので、私は春田先生の自由な教育方針を気に入らない大人(学校に苦情の電話をかけたり、それに賛同するつまらない教師たち)が好き勝手に悪い噂を広げているに違いなかった。

 それが直接の原因だったのかどうかはわからないけれど、私たちが四年生になる年に、春田先生は学校からいなくなった。先生、なんでいなくなっちゃうの、いやだよ、ずっといてほしいよお。泣いてすがる子供たちの頭を撫でながら、春田先生は言った。

 先生をやめるわけじゃないのよ、ほかの学校にいくだけ。大丈夫よ、ありがとう、先生はずっと、あなたたちのこと忘れないからね。


 ◯


 その家では、広い庭を覆い尽くすほど大量の月桂樹が生い茂っていた。

「最初は庭の一角にちょっと植えただけなんだけど、年々増えていって、手入れが大変なのよねえ」

 木も草も伸び放題、もう何年も手をつけていないと思われる庭を眺めながら、彼女は微笑んで言った。

「前はほしいときにちょっと摘んで料理に添えたりして便利だったんだけど、最近は外に出るのも億劫でねえ。よければ好きなだけ持っていってね。ああでも、気をつけて。月桂樹の葉には、毒があるのもあるから」

 そうなんですか、と驚いて返すと、彼女はくすくす笑いながらつけたした。

「大丈夫よ、そんなに怖がらなくても。毒があるかないかは、すぐにわかるもの。匂いでね。私にはわかるの。毒のある植物はね、ほかとは全然違う匂いがするのよ」

 月桂樹に稀に毒が含まれていて、口に入れたり狭い場所で匂いを嗅いだりすると意識を失うこともある。私が驚いたのは、そのことじゃなく、そう言った時の彼女の大事な秘密を打ち明けるような表情が、三十年前と少しも変わっていなかったからだ。

 会社から受け取った資料を見た時、すぐに気づいた。春田佳子、八十五歳、一人暮らし。私の家から自転車で通える距離に、春田先生は住んでいた。約三十年ぶりの恩師との偶然の再会に、感動の予感がした。

 が、現実は拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「こんにちは。どなたかしら?」

 春田先生が、私を見て言った。

 当時、五十代半ばという年齢にしては随分若々しく見えたように思う彼女は、いまではどこから見ても立派なおばあさんになっていた。顔も体も声も彼女がまとうすべてがひとまわり小さくなって、色白の顔には深い皺が目立つ。けれど当時の気品や、花が綻ぶような笑顔は、そのままだった。

 冷静に考えれば、先生が私のことを覚えているわけがない。私がどれだけ春田先生を慕っていても、先生にとって私はたくさんいた生徒の一人にすぎないのだし、見た目も随分変わっている。それに……

「初めまして。ヘルパーの松本泉美と申します。よろしくお願いします」

 お久しぶりです、あなたの教え子です。そう言いたいのを我慢して、普通に挨拶をした。

 春田先生は不思議そうな眼差しで私を見つめ、ああ、と納得したように頷いた。

「生徒さんの親御さんかしら。お茶をどうぞ。ゆっくりしていってね」

 春田先生は、認知症を患っているのだ。認知症の人が、頭の中で自分を実年齢よりずっと若く思っていたり、とっくに辞めた仕事を現役だと思い込むのはよくあることだ。

人は年齢には抗えない。絶対に忘れないと思っていても、忘れてしまう。やがては大切な家族や友人のことも、自分の身の回りのことも忘れて生活が困難になってゆく。だから私はここにいる。春田先生の手足となって、支えるために。

「週末は息子さんが様子を見にいらっしゃるんだけど、出張などもあるそうで、来られない時もあるから」

 五十代半ばの前任のヘルパーさんが、部屋を見ながら淡々と注意事項を説明した。

「薬は一日三回、食後に精神安定剤と、夜は睡眠薬も。あとこれ、薬棚の鍵を忘れずにかけてね」

「鍵をかけるんですか?」

「飲みすぎて危なかったことがあってね……何度も」

 含みのある口調が気になったが、そうですかとだけ頷いて、瓶やピルケースが置かれた薬棚の鍵を受け取った。

「あと、時々おかしなことを言うけれど、真に受けないようにね」

「おかしなこと?」

「そのうちわかると思うわ」

 彼女は、じゃあわたしはこれで、と言って薄手のコートを羽織り、颯爽と自転車で去っていった。

 冷蔵庫にほとんどなにもなかったので、買い物に出かけることにした。リクエストを訊くと、

「そうねえ、スープが飲みたいわねえ」

「わかりました。買い物、行ってきますね」

「気をつけてね」

 春田先生は、にっこり微笑んで言う。今度は私を生徒の親ではなく、ヘルパーと認めてくれたようだった。

 スーパーから戻ると、さっそく夕食の支度を始めた。大きめに切った鶏肉と野菜を柔らかく煮込んだスープを出すと、先生は不快そうに眉をひそめた。

「臭い」

 一言、そう吐き捨てて、スプーンを皿に置く。

「わたしは肉肉しい臭いが嫌いなの。庭の葉を使って臭みを取るのよ。わかったら、ぼんやりしてないで、さっさと作り直して」

 料理に香辛料の類を入れる習慣は、私の生活にはなかった。そういうものが苦手になったのは、春田先生の影響によるものだ。

『月桂樹の葉は乾燥させてローリエという香辛料に使われるけれど、中には毒のあるものも紛れ込んでいるの。毒のある植物には、きれいな花や甘い香りがあるものが多いのよ。そういうもので生き物を誘って、簡単に死なせてしまうの』

 春田先生に毒の怖さと魅力を教わった私は、毒のある植物に興味を持った。図書館で調べ、自由研究の課題にもした。それで、毒のある植物がごく普通に園芸店に並んでいたり、民家の庭やその辺の雑木林に何食わぬ顔で紛れ込んでいることを知った。身近にある草花が、簡単に人を死なせてしまう。もちろんそんなことは滅多にあることではないけれど、幼い私は、身近にある植物が急に凶器のように思えてぞっとした。子供のころに覚えた恐怖は、大人になっても無意識にのこっているものだ。

 庭から月桂樹の葉を数枚とってきて、電子レンジに入れて乾燥させ、細かく刻む。急激に加熱したせいで台所にはつんとした匂いが満ちた。この匂いのなかにもし毒が混ざっていたとしても、私にはきっとわからない。

 ローリエを入れて再び煮込み直したスープを持っていくと、

「おいしい」

 と春田先生は満足そうに綻んで言った。

「できるじゃない」

 ただ葉っぱを刻んで入れただけなのに、子供の頃に先生に褒められて嬉しかったのを思い出して、少し照れ臭くなった。

「また明日来ます。おやすみなさい、春田先生」

 玄関先まで見送ってくれた彼女に、春田先生、と、私はあえて言った。優しくて面白くて大好きだった先生が、物忘れの激しい気難しいおばあさんになっていても、やっぱり、私にとって、春田先生は春田先生のままだ。なにか言われるかなと思ったけれど、春田先生はただ柔らかく微笑んで、おやすみなさい、と言った。


 ◯


「臭っ!」

 家に帰るなり、先に帰っていた息子の恵太が悲鳴をあげた。

「すげえ臭いよ、母さん、どこ行ってきたんだよ」

 恵太が鼻をつまんで顔をしかめる。恵太は人一倍、匂いに敏感なのだ。

「お母さん、くさいって」

 妹の美優が、わかっていないくせにニヤリと笑う。

「そんなに匂うかな」

 そんなにあからさまに避けられると気になって、腕の匂いを嗅いでみるけれど、最初は強烈だと思ったあの家の匂いも、自分の体に染み付いてしまえばなにも感じない。

 ちょうど仕事から帰ってきた夫の恵介に、ねえ私なんか匂う? と訊いてみると、

「なんだよいきなり。別に普通だけど?」

 と怪訝な顔をされただけだった。

 マンションの三階にある我が家には庭もなく、香草どころか観葉植物すらおいていない、植物とは無縁の家だ。

 子供の頃、春田先生の影響で異常なほどに執着していた植物に対する興味は、年々薄れていった。植物すらない家で、私にだけ匂いがついているというのがなんだかおかしかった。早く風呂入ってきてよ、ほんと臭いから、と恵太に急かされるので、はいはい、と私は美優を連れてお風呂に向かった。

 こんな風に憎まれ口は叩くけれど、六年生になる恵太はしっかり者で優しい子だ。私が仕事でいなくても、学校から早く帰った日はせっせとお風呂を掃除したり洗濯物を取り込んだり、三つ下の美優の世話まで焼いてくれる。親の手伝いなんてほっぽり出して遊びたい年頃だろうに、恵太の口から文句を聞いたことはない。

 美優と二人並んで首まで湯船に浸かってくつろいでいると、今度は扉の外から恵介が代わってくれと急かすので、じゃあそろそろ出ようか、とタオルで美優の体を拭いて、次に自分の体を拭く。鏡に自分たちの姿を映すたび、そっくりだなと思う。美優は私の、恵太は恵介の子供時代に、成長過程を並べて見ているくらいによく似ている。

 恵介とは小、中が同じで、中学校を卒業して以来会っていなかったが、二十五歳の時に十年ぶりに再会し、付き合いはじめて一年後に妊娠したのをきっかけに籍を入れた。穏やかな性格の恵介とは喧嘩もなく、とくに不満もない。お互いいいバランスで仕事と家庭を大切にし、価値観も合う。

「ねえ、小学校の時の担任の春田先生って覚えてる?」

 子供たちを寝かせてから、恵介の晩酌に付き合いながら尋ねてみたけれど、反応はいまいちだった。

「春田……? うーん、覚えてないなあ」

「覚えてないの? 毒について子供に教えて問題になっただ女の先生よ」

「へえ、変わった先生がいたもんだな」

 まるで他人事で、おいしそうにビールを飲む夫に、わたしは思い出させるのを諦めた。三十年ぶりに恩師に再会するというのは、人からすれば、それほど驚くことでもないのかもしれない。近くに住んでいるのだし、そういうこともあるだろう。それに、向こうは完全に私のことを忘れてしまっているわけだし。

「初仕事で疲れただろ。泉美も飲みなよ」

 すでにほんのり顔を赤らめている恵介は、ビールの缶を持ち上げる。

「ありがと。じゃあ、一杯飲もうかな」

 恵介は童顔で、四十になっても小学校の卒業アルバムの写真とほとんど変わっていない。最近は中年太り気味なのと、髪が薄くなってきたくらいで、クラス会などで必ず「全然変わらないなあ」と言われるタイプだ。実際、私も十年ぶりに会った時にそう言った。昔はまったく話した記憶がなかったのに、あまりにも顔が変わらないので話しやすかったのだ。

「なに?」

 ビールで赤くなった顔を、子供みたいにきょとんとさせてこっちを見る恵介に、私は笑いながら、なんでもないと答えた。


 ◯


 翌日は、朝から雨が降っていた。頭から足まですっぽり覆う機能性重視の雨がっぱをかぶって、自転車で春田家に向かう。

「こんにちは。どなたかしら?」

 予想通り、昨日と同じことを言われてしまった。

「こんにちは。ヘルパーの松本泉美です。春田さん、よろしくお願いします」

「ヘルパーですって? そんなもの頼んだ覚えはないんだけど。いまから仕事なの、忙しいのよ」

 怪訝な顔でそう言いながら、一人がけのソファに座って、出かける準備をする気配もまるでない。

「いえ、でも、そう言われていますので。とりあえず、入れてもらえないでしょうか」

 懇願するように頭を下げて、なんとか中に入れてもらった。食事の前に薬を出して、鍵をかけたのを確認する。鍵は絶対に見つけられない場所に隠しておく。

「ねえ、ちょっと」

 台所のほうから鋭い声が飛んできて、扉から覗くと、春田先生が、薬棚を開けようと取っ手を引っ張っている。

「どうしました?」

慌てて駆け寄ると、きっとものすごい形相で睨まれた。

「戸棚が開かないのよ。あなた、まさか、勝手に鍵をかけたの?」

「はい、かけました」

「鍵、返してちょうだい」

「それはできません」

「どうして? ここはわたしの家よ。窃盗で警察を呼ぶわよ」

 白く骨ばった手が私の腕を掴み、爪が食い込む。その細さからは信じられないほど、強い力で。

『飲み過ぎて危なかったことがあってね……何度も』

 前任のヘルパーさんの言葉を思い出して、胸が痛む。毒や薬に詳しかった春田先生が、オーバードーズの恐ろしさを知らないはずがない。重大な後遺症が残ることだってある。なのに、知っていてもなお、あるいはそれすら忘れてしまうのかもしれないけれど、そんな危険なことを繰り返してしまうのか。

「春田さん、お薬は食後に飲みますから、それまで待っててください。お願いします」

 何度か押し問答を繰り返した後、

「……もういいわ。疲れたから寝るわ」

 春田先生はそう言って、ふらふらと寝室に入ったまま出てこなくなった。

 夕食の時間になっても、春田先生は起きてこなかった。そろそろ帰る時間になってしまうので、襖を開けて電気をつけないまま声をかけてみる。

「春田さん、お食事できてますよ。食べませんか」

 規則的な寝息が聞こえるだけで、返事はない。静かに眠り続けている。無理に起こさないほうがいいかもしれない。私はそっと襖を閉めた。


 七時を過ぎた頃、ようやく襖が開いた。三時間も昼寝をしていた春田先生は、今度は私を見て、どなた? とは言わなかったが、

「あら、まだいたの」

 と冷たく言われてしまった。

「あなた、家族がいるんでしょう。早く帰ってご飯を作ってあげなさい」

「今日は、夫に夕食の支度を頼んだので」

「そう」

 春田先生は頷き、なにか言うかと思ったけれど、黙ったまま、大人しくテーブルについて食事を待っていた。

 昨日は洋風スープだったから、今日はあっさりした和食にした。よく煮込んだ肉じゃがと、ほうれん草の胡麻和え、豆腐の味噌汁。肉じゃがにローリエは入れられないので、代わりに生姜を入れて、野菜を多めにした。春田先生は、おいしいわ、と言ってすべて平らげた。椅子にもたれて息を吐き、おもむろに口を開いた。

「時々、さっきみたいになるの。何十年も昔のことを思い出してね……私、夫を殺したの」

 さらりと口にされた衝撃の言葉に、私は固まった。

 しかし、すぐに思い直す。前のヘルパーさんが、時々おかしなことを言い出すけど真に受けないようにと言っていた。きっとこのことだろう。そう、これは彼女の妄想だ。真に受けてはいけない。

 それでも、一瞬ぎくりとしてしまった。小学校の頃、春田先生には、よくない噂があった。

 いや、そんなはずはない。そんなことは、あり得ない。つい動揺してしまったのは、初めてその話を、噂じゃなく、本人の口から聞いたからだ。そんな話、聞きたくなかった。誰かが思いつきで言い出しただけの、馬鹿げた噂話であってほしかった。

 外に出ると、雨が降ったあとで、冷たく湿った庭が昼間よりもずっと強く香っていた。

 暗闇に月桂樹の葉が溢れ、窓から漏れる淡い灯に水滴が光る。風がふいてざわざわと揺れると、まるで大きな生き物のように生命力を感じる。生命。植物は生きている。身近に、道端や公園やマンションの庭先の草花、どこにでもあるそれらを普段意識することはないけれど、時々ふと、そう思うことがある。子供の頃は、もっと強く、思っていた。植物は生きている。人間と同じように意思があり、生き物の命を、簡単に奪うことができる。先生は、本当はどういう思いで、あの授業をしたのだろう。

 冷たい風が吹き、少し寒気がした。私は急かされるように自転車にまたがり、夜道を漕いだ。


 ◯


 仕事を片付けて、いつもの時間に家を出る。

「それじゃあ、また来週来ますね。おやすみなさい」

 玄関の扉を開けて言うと、春田先生は微笑んで言った。

「いつでもいらっしゃいね、ここはあなたの家なんだから」

 今日はずっと、春田先生の頭の中で、私は彼女の娘という設定だった。彼女には五十代の息子がいるが、もう一人、存在するはずのない娘がいることになっていた。ご飯を食べながら、掃除をするわたしをにこにこ眺めながら、いつもありがとうね、こんないい娘がいて私は幸せだね、と何度も繰り返していた。わたしはその度に、うんうん、私も幸せだよ、と娘になって笑って答えた。

 この家に通い始めて、一カ月が経った。彼女の頭の環境は、毎日めまぐるしく変わる。娘がいたり、いなくなったり、仕事をしていたり、あるときは少女時代に戻ってお友達のおうちに遊びに行ってくる、なんて言っていた時もあった。少しも演技ではなく、本気でそう思っている純粋な目を前に、それは違いますよ、とは言えなかった。

 外に出ると、もわっとした湿気の多い空気に包まれる。七月も半ばになり、暑い日が続いていた。この家にはエアコンが居間に一つしかないけれど、寝る時とか大丈夫なのだろうか。蒸し暑い夜は大量の汗をかくし、認知症の人はとくに体温調節が難しい。汗をかいても気にせず、真夏なのに長袖を着ていたり、かと思えば肌寒い日に冷房をつけていたりする。息子さんに相談してみようかと考えていたら、自転車をひきながら門を出たところで、その人とばったり会った。

「ああ、こんにちは、松本さん。いつもお世話になってます。なかなか来られないで、すみません」

 春田先生の一人息子、幸男さんだ。私が休みの土日は顔をなるべく顔を出すことになっているが、仕事で出張が多く、なかなか難しいのだという。

「いえいえ、大丈夫ですよ。明日はお休みなので、お食事多めに作っておきましたので」

「ありがとうございます。松本さん、そういうのしっかりやってくれるので助かります。僕もできることなら手伝うので、なんでも言ってください」

 幸男さんは白髪混じりの頭を掻きながら笑った。

 少し気が弱そうな、感じのいい人だ。笑った時に細かな皺のできる目元が春田先生によく似ている。結婚しているが、子供はいないという。春田先生の息子。たった一人の、血の繋がった家族。

 私の母もまだ生きていたら、きっとこんな風に暇を見つけてやってきたのだろうか。そう思うと、ほんのりと寂しさを覚えた。

「春田さん、エアコンのことなんですが……」

 寝室にもう一つつけたほうがいいのではないかと相談してみると、幸男さんは、快く頷いてくれた。

「ああ、そうですね、それは僕も考えてました。そう言っても母は、いいよ、使わないしと言い張るんだけれども、認知症の症状も重くなってきてるし、いっそもう相談なしで業者を呼んでしまおうかと」

「そうですね。一度検討してみてください」

 それと、と私は、躊躇いながら続けた。

「前のヘルパーさんが言っていたのですが、時々、薬を飲み過ぎてしまうことがあるみたいで……」

 幸男さんの表情が、途端に曇った。

「またありましたか」

「いえ、鍵をかけていたので大丈夫だったんですが、無理矢理開けようとして……」

 幸男さんはため息を吐いて、そうですか、とつぶやいた。

「できれば同居したいのですが、妻がなかなか納得してくれなくて……」

 松本さん、と幸男さんは、私の目を見て続ける。

「あなたは母の教え子だったと聞いています。この家にはもう、母の知り合いが訪ねてくるようなことは、滅多にありません。母は忘れてしまってるみたいですが……どうか、母の支えになってやってください」

 深く、頭を下げる幸男さんの姿に、私は胸が熱くなった。

 それじゃあ、失礼します、はい、また来週もよろしくお願いします。そんなやりとりをして別れた。自転車にまたがりながら、ちらりと振り返る。ひょろりとした幸男さんの姿が、門を開けて月桂樹の庭に吸い込まれるようにして、見えなくなった。

 それから、家を見上げた。大きな家だ。一人で住むには、あまりにも大きな。幸男さんの言った通り、この家に来る人といえば、私と幸男さん、ほかには市の職員や訪問営業くらいしかいないから、余計にもの寂しく思えてしまう。

 この家は春田先生の実家だということだけれど、詳しいことはわからない。結婚してからずっと、ここに住んでいたのだろうか。それとも、離婚してから戻ってきたのだろうか。この家で、どういう生活を送ってきたのだろう。

 私は春田先生の、先生としての姿しか知らなかった。その姿さえ、謎が多かった。ふと、その奥を、覗いてみたいような気もした。けれども高い塀と木々が家をまるごと覆い隠すように囲んでいて、外からではなにも見えなかった。


 ◯


 夏は駆け足で過ぎていった。子供たちは夏休みだったが、仕事場に連れていくわけにはいかないので、平日はほとんど毎日学童に通わせていた。

 九月に入ってすぐ、季節の変わり目を報せるような、大型の台風が来た。暗くなる前にベランダの竿やハンガーなどを夜の前に全部取り込み、念のため水や非常食や懐中電灯などもすぐ出せるようにしておいた。予報より少し遅れて、深夜から荒い風が吹き始め、凄まじい雨が降り出した。うちはマンションの五階だから、浸水の心配はないけれど、停電や、緊急時に外に出られず困ることもあるかもしれない。いつもは子供たちは子供部屋のベッドで寝ているが、今日は家族四人布団を並べて眠った。

「お母さん……」

 夜中の一時に、美優が外の物音に目が覚めて怖くなったのか、急にすり寄ってきた。恵介と恵太は、音などいっさい気にせずいびきまでかいている。

「大丈夫よ、大丈夫」

 私は言いながら、美優の頭をゆっくり撫でた。やがて再び静かな寝息が聞こえはじめ、私も目を閉じたが、なかなか眠れなかった。

 春田先生は、大丈夫だろうか。そのことが気にかかっていた。いつもより多めに食材を買ってきて、簡単に食べられるものを冷蔵庫に入れておいた。それに、仕事帰りに幸男さんが様子を見に行ってくれるはずだ。もうとっくに寝ているだろうし、明日になれば、きっといつも通りの日常に戻っているはずだ。


 暴力的な雨風は夜中続き、朝になると少し落ち着いてはいたが、まだ警報は解除されていなかった。テレビのニュース番組ではいくつかの地域で大きな被害が出たと繰り返し報道されていた。

 暴風警報が解除されたのは十時を過ぎた頃で、

「やったあ! 遊びにいける!」

 学校が休みになった恵太と美優は飛びあがって喜んだ。まったく子供は呑気なものだと呆れながら、

「じゃあ準備して。行くわよ、春田先生のおうちに」

 公園に行こうとしていた恵太は、途端にげんなりした顔つきになった。

「えーっ、臭い家?」

「そう。お願いだから、先生の前で失礼なこと言わないでよね」

「わかったよ」

 不満そうにぶつぶつこぼしながら、

「つうか、なんで先生って呼んでんの? もう先生じゃないんだろ」

「お母さんにとっては、先生はずっと先生なの」

 ふうん、と恵太は訊いておきながらどうでもよさそうに答えて、服を着替えはじめた。

 ◯


 門を開けて、うわ、と思わず声を洩す。庭は地面が見えないほど、大量の葉っぱの山で埋めつくされていた。濡れた緑の葉の太陽に当たって艶めく様子は、美しく、昨日の嵐が嘘のようだった。反対に葉を落とした木々は、散髪したての髪のようにさっぱりとした面持ちで並んでいる。

「わあ、すっごい葉っぱ!」

 美優が目を見開き、

「うっ、やっぱ独特な匂い……」

 恵太は微妙な面持ちでつぶやきながら、でも広い庭のある家が新鮮らしく、辺りをきょろきょろ見回している。

「あらあら、こんにちは。かわいいお客さんだこと」

 子供が大好きな春田先生は、ぱっと雨上がりに花が咲くような微笑みで迎え入れてくれた。

「おじゃましまぁす」

 二人とも猫を被った声でそう言って、嬉しそうに部屋に入っていく。

「たくさんご飯があるから、みんなで食べましょうね」

 春田先生は嬉しそうに言って、珍しく自分で食事の用意を始めた。昨日、念のためにと、たくさん作っておいてよかった。マカロニサラダにハンバーグ、魚のトマト煮、卵焼き、コロッケ。家で作って持ってきたのも皿に乗せて、パーティーのようなご馳走がテーブルに並んだ。

「みんなで食べるとおいしいわねえ」

「うん、おいしい!」

「今日は学校はお休み? 大変ね」

「そうだよ、休みのほうがいいけどね」

「あらあら」

 春田先生と子供たちとのやりとりを、私は料理を取り分けながら目を細めて眺めた。

 お昼ご飯を食べ終わって、片付けをしてから、庭の落ち葉拾いをした。葉だけでなく、折れた枝もまとめてゴミ袋に詰めていく。いったい、何袋分あるんだろう。広い庭をまだまだ埋めつくしている折れた枝や葉の山に、気が遠くなりそうになる。

「はい、どうぞ。きみたちにこれ、あげる」

 春田先生が言って、恵太と美優が、わあ、と声をあげた。見ると、二人の頭には、枝を編んだ緑の冠が、ちょこんと乗っていた。

「冠だ!」

「月桂樹の枝と葉で作った冠はね、月桂冠といって、古代ギリシアでは勝者のしるしとされていたのよ」

 人差し指を立てて、楽しそうに言う横顔に、懐かしい、三十年前の春田先生の顔が重なる。

「ショウシャってなに?」

 美優が頭の冠に手を乗せて尋ねる。

「なにかに勝った人のことよ。すごい人や頑張った人、あとは大詩人ね」

「ダイシジン?」

「大昔にはね、詩人が偉大な存在として尊敬されたの。みんなに尊敬される偉い詩人はこの冠をかぶって、冠詩人と呼ばれたの。とても光栄なことなのよ」

「カンムリシジン! へんな名前ー」

「美優も作りたーい」

「教えてあげる。おいで」

「わぁい!」

 落ち葉拾いなんてそっちのけではしゃぐ子供たちを、春田先生はまぶしそうに目を細めて見つめる。その眼差しを、私は、よく知っていた。

 春田先生は、昔から、子供たちを喜ばせるのが上手だった。知識が豊富で、子供の好きなツボも知り尽くしていた。春田先生がなにかするたび、話をするたび、もっとやって、もっと教えて、とせがみたくなるのだ。

 春田先生の魅力は、健在だった。すごいことだ。私の先生が、私の子供を教えている。先生が教えてくれたのは、机に座ってする退屈な勉強じゃなく、楽しい、嬉しいと思うこと、そういうものを、自分から探すこと。好奇心に満ちた目の輝き、それがまた、私の子供にも受け継がれてゆくのだ。


 ◯


 落ち葉をおおかた拾い終え、ついでに伸び放題になっている草むしりもしてしまうと、袋の量がものすごいことになった。明日のゴミの日には忘れずに出さないと、と自分の家のことのように頭にメモをした。

「おじゃましましたぁ」

 と、三人で扉の外に出た頃には、辺りはすっかり夜に包まれていた。台風が去った後の、からりとした涼しい夜。空には雨粒の残りのような淡い星が散りばめられていた。

「今日は本当にありがとうございました。子供たちと遊んでもらって、夕飯まで一緒にいただいて」

「私も楽しかったわ。またいつでも遊びにきてね」

「はーい!」

 恵太は最初は渋い顔をしていたくせに、お菓子をスーパーの袋にたんまりもらってすっかりご機嫌だ。春田先生は一日中にこにこと楽しそうだった。子供たちと遊んでいる姿は、教師の姿そのままで、認知症なんて病気とは無縁のように思えた。また今度、休みの日に子供たちを連れてきてもいいかもしれない。

 今日は車だったので、五分もすればマンションに着いた。エレベーターで三階にあがり、玄関扉に鍵を差し込み、回しかけた手を、ふと止めた。

 ……私、薬棚の鍵、かけたっけ。

 食事の後のことを思い出してみるが、記憶が曖昧だった。かけたはずだ、いつも通り。ご飯を食べた後、薬を取り出して、鍵を閉めようとして、美優の呼ぶ声に振り向いて……いや、子供は関係ない。私が、浮かれていたのだ。春田先生や、子供たちと一緒になって笑って、楽しくて、仕事中だということも、忘れていた。

 幸男さんに電話をしたけれど、出なかった。どうしよう、もし、鍵が開いていたら……。いてもたってもいられず、

「ごめんね、お母さん、先生のおうちに忘れ物しちゃった。すぐに戻ってくるから、留守番お願いね」

「えーっ、なにやってんのお母さん」

 子供たちを部屋に入れて扉を閉めてから、急いで駐車場に戻った。星のない夜道を走る。信号の少ない道を選び、ほとんど止まることなく、あの家へ。

 玄関のチャイムを押した。しばらく待ってみたが、出てこない。灯はついているけれど、物音一つしない。そっと扉に手をかけて横に引いてみると、扉はからからと横に動いた。おじゃまします、と小さく言って、靴を脱ぎ中に入る。寝ているかもしれないから、なるべく音を立てず、泥棒のように抜き足差し足、静かに歩く。静かだ。部屋の電気をつけたまま、唐突にどこかに連れ去られたみたいに。

 居間と台所、トイレやお風呂や二階の部屋も隈なく探した。薬棚の鍵は、ちゃんと閉まっていた。でも、先生の姿が、何処にも見えない。

 春田さん、春田さん。名前を呼びながら家の中を回っているうちに、庭にいるのかもしれないと、ふと思った。

 もう一度庭に出て、見回してみる。人の気配はなく、しんとしている。ふいに、妙なものが目に留まり、私は門とは反対側の塀に近づいてみた。見通しがよくなった木と草の奥に、門があった。こんなところに門? 不思議に思ったが、いままでは木に覆われて見えなかったのだろう。それは塀と同じ高さの、和風の家にはあまり似合わない、鉄柵の黒い門だった。

 黒々とした冷たい取っ手に手を添えて引いてみると、ギイ、と鈍い金属音を立てて扉が開いた。躊躇いはなかった。むしろ、そうしなければならないような気がした。

 鉄柵の向こうには、背の高い草が続いていた。薬のような匂いが、ツンと鼻をつく。いったい、この庭は、どこまで続いているのだろう。私は草を掻き分けながら、奥へと進んでゆく。奥へ進むほど匂いは強くなってゆく。

 まるで道しるべのように、どこからか、光が漏れている。暗がりを照らす、淡い光。その光に包まれるようにして、草むらの中に、春田先生の姿が見えた。

 私は目を見開いて、その光景を見た。彼女の傍らに生えているのは、暗がりでもわかる鮮やかな紫色の花をつけた、トリカブトだった。日本三大有毒植物の一つで、非常に危険な野草だ。食べると嘔吐、呼吸困難、臓器不全をもたらし、少量でも数十秒で死に至る即効性がある。そのそばに生えているのは、人間の背よりも高い巨大なジャイアント・ホグウィードだった。この植物は光に反応して恐ろしい効力を発揮する。人間の皮膚に深刻な炎症をもたらし、水疱や傷跡を残し、目に入れば失明する。春田先生が、面白半分で触れるとこうなります、と写真を見せたのは、毒と知らずにそれに触れて酷い有り様になった人の姿だった。頭上から鈴のように大量にぶら下がっているのは、エンゼル・トランペットだ。見た目はアサガオに似ていて、淡い色合いの美しい花を咲かせるが、口に入れるとめまい、頭痛、錯乱、呼吸困難を引き起こし、皮膚に触れるとひどい炎症を起こす。ほかにも、猛毒で知られるドクウツギ、ドクゼリ、ドクニンジン、キンポウゲ、キョウチクトウ、トウアズキ、マンチニール……その一つ一つが恐ろしい毒を持つとは思えない美しい花や果実が、薄闇のなか、幻想的に咲き乱れている。

 まるで遠い地にあるあの有名なポイズン・ガーデンのよう。しかきここには危険な植物を囲うための巨大な鳥かごのような柵がない。手を伸ばせば、簡単にそれらに触れられる距離。彼女はそのなかにぼんやりと佇み、なにかをつぶやいている。

「春田先生」

 私は、ゆっくりとその丸い背中に近づき、声をかけた。

 彼女は振り向かずに、静かな口調で言った。

「私ね、ここで、夫を殺したの」

 強い香りに頭がぼうっとする。閉じ込めていた壁が溶けてゆくように溢れだす、三十年前の記憶。

 春田先生には、ある噂があった。彼女の夫は、私が小学校にあがってすぐの頃に、失踪していた。人当たりがよく、なんの問題もなさそうな真面目な人が、ある日突然、煙のように消えた、不可解な事件。ある時、誰かが言い出した。

いなくなったのではなく、春田先生が殺したのではないか、と。

「辛かったの」

 春田先生は、虚ろに揺れる目で、そう言った。

「毎日、毎日、暴力を振るわれて、誰にも言えなくて、逃げられなくて、何度も何度も、薬を飲ませて、料理に混ぜて、寝ている口に押し込んで、殺したの」

 馬鹿げた、根拠のない噂、そう思っていた。でも、ある意味では、本当だった。彼女は、夫を殺したのだ。何度も何度も、彼女の頭のなかで。ここにある無数の毒草や花は、きっと、彼女が夫を殺した数なのだ。

 彼女は忘れていなかった。夫がいなくなって何十年も経ち、ほかの色々なことを忘れてしまっても、いまでもその苦痛が続いているような悲痛な声に、私は呼吸を忘れるほど苦しくなった。

 私にも、あった。人を殺したい、死んでほしい、そう強く、願ったことが。

 私の父は、私が物心つく前に事故で亡くなった。母は女手一つで私を育て、私が小学校にあがる頃、恋人ができた。はじめは優しくて面倒見のいいおじさんだった。この人がお父さんになったらいいな、そう思っていた。けれど一緒に住むようになってから、その思いは一変した。母がいない時、男は私に暴力を振るった。無理矢理服を脱がせ、全身に、決して人には見えない傷をつけた。母には言えなかった。悲しませたくなかった。でも、心のなかではいつも、こんな奴、いなくなれ、死んでしまえと、願っていた。

 春田先生との出会いは、ちょうどその頃だった。誰にも言えない苦痛は、私を毒への興味に向かわせた。どこにでもあるように見える草花が、簡単に人を殺してしまう。この草をお茶に混ぜたら呼吸が止まる、この葉を目に投げつけたら失明する、錯乱し、嘔吐し、汚い物にまみれて痛みに叫びながら、あらゆる苦しみの果てに死ねばいい。とてもまともではなかったが、その危険に満ちた思考は、ほんの少しだけ私の心を楽にしてくれた。

 一緒に暮らしはじめて一年ほどで、母は男と別れた。男が私に乱暴しているところを、偶然早く帰ってきた母が見つけたのだ。

 母は泣きながら、自分を責めた。ごめんね、気づかなくて、ごめんね。許せない、あの男も、娘にこんな辛い思いをさせた自分も、許せない。

 私は母と約束した。なにがあっても、辛い時はちゃんと話すこと。我慢しないこと。そして、幸せになること。

 誰にも打ち明けたことはなかったのに、そのことを春田先生に言いたかった。でも、その頃にはもう、先生は別の学校に移ってしまっていた。

「先生。戻りましょう」

 私は彼女の手を取り、言った。

「ええ、そうね」

 彼女は微笑んで言った。

「迎えにきてくれて、ありがとう」

 めまいがするほどの強い香りに包まれながら、覚束ない足取りで手を繋いで歩く私たちは、二人そろって迷子になってしまった間抜けな親子のようだった。


 ◯


 目が覚めると、家にいた。

 いつ、どうやってあの家から帰ってきたのか、まるで覚えていない。でも、暗闇のなか、不気味な香りと光に包まれながら、あの庭にいたことは、覚えている。

 あれは、なんだったのだろう。夢だったのだったのだろうか。きっとそうだ。あんな場所が、現実に存在するはずがない。そう思うのに、毒の強い香りが、簡単には取れないくらい体の奥底にまで、染みついている気がしてならなかった。

「臭っ!」

 朝起きてきて第一声、恵太が叫んだ。

「母さん、すげえ臭いんだけど。うつるからあっちいって」

 あんまり臭い臭い言われるのでシャワーを浴びて強めに体をこすったが、それでも匂いは消えてくれなかった。

「そんなに匂う?」

「うん。なんかもういろいろやばい」

 遠慮のない物言いに傷つきながら、思った。やっぱり、昨日のことは夢ではなかったのだろうか……。

 私にも、わかっていた。体の奥まで染みついた毒の匂いは、しばらく取れそうにない。

 家族四人で朝食を食べ、夫と子供たちを送り出し、自分も出かけようとしたところで、電話が鳴った。

「はい、もしもし、松本です」

「おはようございます。春田です」

 受話器から聞こえる、幸男さんの強張った声。その声が、震えていた。

「今朝、母が亡くなりました」

 突然の報せに、息が止まりそうになった。

「庭で、倒れていました。母の口に、なぜか月桂樹の葉が……」

 私は受話器を持ったまま、呆然とした。

『毒があるかないかは、すぐにわかるもの。匂いでね。私にはわかるの。毒のある植物はね、ほかとは全然違うのよ』

 ボ呆けていたんじゃない。先生は毒があるのを知っていて、わざと、口にした。閉じたんだ、自ら、その命を。

「すみません、また連絡します」

 幸男さんは暗い声でそう言って電話を切った。ツー、ツー、と無機質な音を鳴らす受話器が、ゴトリと床に落ちた。半分だけ開けた窓から入る風に、カーテンが揺れる。朝の爽やかな、白い光。

 先生。

 目を閉じて、思い出していた。大好きだった春田先生の、花が美しく開くようなあの笑顔を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ポイズン・ガーデン 松原凛 @tomopopn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る