52.おばあ、襲来。
嵐は突然、やって来た。
カーテンの向こうから慌ただしい人の気配が漂って来たのは、夕飯前の静かな時間でした。
看護師さんたちが、珍しくバタバタと大きな音を立てて入院の準備を進めています。
ベッドの周りは基本的にカーテンで仕切られているので、何が起こっているのかはよくわかりません。
人の治療の話などがもろに聞こえてきてしまうので、お医者様が診て回っている時間はノイズキャンセルできるイヤホンを耳に入れて過ごしていたのですが。
それを突き抜けて、何かがやって来たことがわかりました。
「お名前は? どうしてここにいるかわかりますか?」
大きすぎる声に、そこにいる相手が耳の遠い方なのかなということがわかります。
か細い女性の声で、いくつかの受け答えがされています。
聞くべきではなかったのですが、イヤホンを突き抜けてぼんやりと全容が把握できてしまいました。
イレギュラーな入院である。
受付で貧血で倒れた。
今日入院の予定があると自覚してやって来た。
どうやら、入院の予定は病院側にはないらしい。
輸血を希望している。
財布に四十万入れて持って来た。
断片的な情報だけでも、彼女がかなりお年を召した大先輩であること、おそらくご自身の状況を自分で判断できる状態ではないこと、緊急連絡先のお相手と連絡が取れるまで検査入院という形で緊急入院することになった、ということがわかりました。
おばあの登場です。
流石に、受け答えが朧げで、はっきりとしない、大先輩。
突然のことで、看護師さんや先生方も対処に困っている様子。
周りもだけど、ご本人も不安でお辛いだろうな。
大変そうだし、何かあったら私もすぐに先生を呼べるようにしないと。
何ごともないといいんだけど。お互い頑張りましょうね。
と、心の中でエールを送っていました。
この時までは。
しかし、同室として謎の親近感を覚えていた私の心を、おばあは三十分で打ち砕きました
。
十分おきに鳴らされるナースコール、意図のわからない質問、ごね、文句、苦情。
おそらくご病気であることは推察されるので、なんとか気にしないようにしようと心がけたのですが。
ガサガサゴソゴソ。管がついてるとは思えないアグレッシブさで、おばあは動き続けます。
元気やん。
それも、何かする度にナースコールで看護師さんを呼んで手伝ってもらっているので、1時間もする頃にはナースコールの反応も「行きますね」と伝えてから来る時間が明らかに遅くなっていて、すげーこういうの本当にあるんだってちょっとブチ上がりました。
こういうのって地味にストレスなんだなって、入院生活で初めて感じました。
私の足元、カーテンのすぐ横には共同で使用する洗面台がひとつ置かれています。
アグレッシブおばあは歯磨きをしたいと申し出て看護師さんに手伝ってもらって、洗面台まで案内してもらっていました。
「じゃあ、終わる頃にまた来ますね」
看護師さんは洗面台まで介助した後、すぐに病室を離れていきます。
慌ただしい時間。私も、なるべくご迷惑をかけないように静かに何事もなく夜を迎える準備を。
カーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!
なんて!!!!!!!?????????!!!!!!!
地を震わすような激しいうねりと共に、ビチャァと粘液が硬いものにぶち当たる音が響き渡ります。
カーーーーーーーーッペッ!!!!!!!!!!
カーーーーーーーーッペッ
カーーーーーーーーッペッ!!!!!!!!!!!
カーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!
ペッ!!!!!!ペッペッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
かーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!
待て待て待て。そんないる?そんな????そんなか!!!?????
ってか喉つええな!?洗面台に穴開くぞ!!!!!!?????!!!!!!!
恐ろしい唾液と痰を撒き散らしながら、おばあは再び戻って来た看護師さんに連れられてベッドへ戻っていきます。
いや、それだけ痰を切る力があるならひとりで戻れるでしょ。
なんやったん今の破壊力。びっくりした。
ノイキャンを突き抜けるあまりの大音響他人の痰にビビりちらかしながら、私もそろそろ歯を磨こうかと立ち上がりました。
洗面所、びっちゃびちゃ。
うそやろ??????????????????
結構、結構ね。この段階でも我慢しましたよ。
音が立つのも、少人数の部屋を選択したとはいえ共同部屋を選択した時点で覚悟してました。
今日までたまたま静かだっただけ。それだけでも幸運だった。
お相手は、なんだかおぼつかない人生の大先輩。自分もいつかこうなるのだから、見知らぬ人とはいえ、寛容な気持ちで、お辛いでしょうね。お互い、頑張りましょうねの広い心で受け止めてね。
できるかよ。
流せよ、おばあ。
できないことがあるのも仕方ないです、
病気なのも仕方ないです。
十分おきにナースコール押すのも、
誰かにかまって欲しくて仕方ないのも、しょうがないです。
自分で出した痰は、自分で流せ。
まじで。
ナースコール押したら誰かが相手してくれるって判断できる知能があるなら、それだけはやってくれ頼むから。
掃除、しました。
知らんおばあの痰の。
ごめん、病院。無駄に手拭く用の紙使いまくって。
いやもうほんま、耐えられんかった。無理だった。
なんで私、ベッドの差額代多少出してんのに、知らんおばあの痰掃除してるんやろ。
泣きたい。
多少洗剤ぶちまけたけど、この水道もう使いたくない。無理。
別にそこまで潔癖な方ではないと思っていましたが、
流石にちょっと無理でした。
歯磨きするために、ミネラルウォーターを買うという経験を初めてしました。
これ、キャンプかな?
ごめんなさい。人間ができていなくて。
ごめんなさい。自分勝手で。
ごめんなさい。人に優しくなくて。
その後も、案の定というか、予想通りというか、消灯になっても三十分に一回のナースコール、十分程度の睡眠(爆イビキ)、排泄を要求する声などなど。
看護師さんへの百パーセントの尊敬を胸に、午前一時、私はイヤホンとスマホとSwitchを手に病室を抜け出しました。
ここまで寝られていなかったこともあり、ロビーの硬い椅子に座りながらぼんやりと明るい遠くの都会の景色を眺めます。
帰りたいな。ここに来て、今まで積み上げて来たものがガラガラと音を立てて崩れていくような気がしました。
今夜が終われば、あとひと晩。
あと一夜、ここで過ごせる気力が今の自分にあるのだろうか。
幸いにも、見回りの看護師さんや警備の方は、ロビーでぼーっとしている患者に声をかけることもなく放っておいてくれています。
ベッドには『散歩中。すぐ戻ります』と書き置きを残してきたので、見回りがあってもそう大きな問題にはならないでしょう。
眠りたいのに眠れない体を抱え、長い長い夜が明けるのを待ちました。
ぼんやりと空の色が白くなり、雨の朝がやって来ました。
一旦、病室に戻ろう。
部屋に戻ると、おばあはカーテンの向こうで咳き込んでいるようでした。
かわいそうに。体のことはどうしようもないもんな。
「同室の者です。大丈夫ですか? 看護師さん呼びましょうか?」
カーテンの外から声をかけましたが、返事はありません。
朝の早い時間で、ナースステーションにも人がいないのかもしれません。
私は廊下へ出て看護師さんがいそうな場所を探し、バタバタと慌ただしい時間に申し訳ないと思いながら、部屋の人がずっとむせていてしんどそうであることを伝え部屋に戻りました。
部屋は、やけに静かです。
治ったのならよかった。きっと落ち着いたら看護師さんも来てくれるだろう。
ほっとしたら、トイレに行きたくなっちゃった。
私は、部屋についているトイレのドアをゆっくりとスライドさせました。
車椅子も楽々の広いお手洗い、洗面台に、手すり、消毒はやり方までしっかりと書いてあります。
薬剤は七プッシュ、使用前、使用後拭く箇所も写真で指示されており、これは入院中染みついた癖になりました。
あと一日でこの景色も見納めかと思う視界に、おばあのケツ。
ケツ????????????????????????????????
先ほどまで声をかき消すほどの咳をしていたおばあが、そこに座っていました。
ケツ丸出して。
実は私、関西出身でして。
もう十年以上そういう気持ちになったことはなかったのですが、
心の底から、そして腹の底から湧き上がる感情に任せて声を発しました。
「いや、鍵閉めろやーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!」
こんな綺麗に、反射で、人間ってツッコミが出せるんだなって。
起床時間後とはいえ、早朝に大声上げてすみません。
人間って、限界が来ると笑っちゃうんだなと思いました。
私は自分のベッドに戻り、ナースコールをプッシュしました。
担当の看護師さんが、駆けつけてくれます。
私、入院してからほとんどナースコールなんて鳴らしたことないですもんね。
麻酔の装置がピーピー鳴り出した時くらいですもんね。
「初心者さん、大丈夫ですか?」
顔を見せて下さった看護師さんは、私の腸管が通らない時にマッサージの方法などを伝授してくれたお姉さんでした。
「すみません、退院させて下さい」
眠れなかった長いこの夜、短い時間ではありましたが、私は入院時にサインした書類を撮影したものを確認し、入院退院に対する強制力、過去この病院で裁判になった事例を簡単に調べまていました。
数値の安定、点滴などの管は外れており、服薬での治療のみの段階に入っている状況。
退院に対する強制力はなさそうであることは、確認できていました。
そして最悪の場合、こちらが優位に働けるであろうカードをすでに所持していることを、私は自覚していました。
まさかこんなところで保険になるなんて。
ありがとう、髄液を漏らしてくれた先生、ありがとう薬アレルギーを確認しなかった先生、ありがとう他の患者の薬を飲ましてくれた先生。
一番切りたくはない、ただ、信用問題を前提にした場合の拘束力を失わせるには十分すぎる材料が、手札には完璧揃っていました。
「それは、部屋を変えるという対応でも無理な感じでしょうか」
私よりもこの部屋で起こっていることのヤバさ、実害を被っている看護師さんは、全てを察した様子で提案をして下さいます。
すみません、もうそのターンも通り過ぎました。
他人の痰を掃除して、ミネラルウォーターで歯を磨き、知らん人のケツを見ながら生活するのはちょっと無理です。
やんわりと言葉を選ぶ私に、看護師さんはその場を収めるためなのか、否定することなく頷いてくれました。
「わかりました。担当の先生がもうすぐ出勤して来るので、相談しますね。時間をいただけますか」
私は承諾し、広げていた荷物をまとめて着替えを始めました。
こんな形でクレーマーにはなりたくなかった。
けれど、これ以上ここにいたら、死んでしまうか殺してしまう。
それくらい、限界でした。
ティッシュの箱やストロー、消耗品は買い直せばいい。
脳が考えることを最小限に絞っているのか、小さなゴミ箱がどんどんいっぱいになっていきます。
全ての荷物を整理し、カートを閉じたところでパチ先がやって来ました。
「初心者さん、今日退院の準備を開始します。お薬のこととかあるので、お時間いただきますが大丈夫ですか?」
「大丈夫です。先生、ありがとうございます」
心の底からの、感謝が出ました。
お忙しい時に仕事を増やしてしまったこと、本当に申し訳なく思います。
いい患者でいられなくてごめんなさい。本当に、根性のない患者ですみません。
色々なことが浮かぶ時ほど、言葉は簡潔になってしまうものです。
「先生、すみません。お手数をおかけして」
絞り出すように己の不甲斐なさを伝えた私に、パチ先は苦笑を浮かべました。
「大丈夫ですよ。よくあることなんで」
よくあるんだー。そっかー。
次がないといいなと思いつつ、次は個室にしたいなって心に決めた瞬間でした。
あるいは、知らんおばあのケツを見ることを前提とした腹づもりが必要だなって。
二時間ほどかけて、各科の先生が薬や状態の最終確認をして下さいました。
本当に、朝からお手数をかけて申し訳なかったです。
声をかけてくださる看護師さんたちが、わがままな患者である私に「大変でしたね」と微笑みかけて下さいます。
私がみてないとこでも、昨夜色々あったんだろうなと思い起こされました。
外に出ると、強い風が吹いていました。
霧雨は横に流れ嵐のような荒れた空でしたが、それでもただただ安心しました。
こうして、私の九日間の入院生活は終わりました。
最後の最後にご迷惑をおかけした、くそ患者として退場することをお許し下さい。
しょうもないオチすぎて、さすがに自分でも予想外の展開でした。
ただ、このラスト、本当に様々な方に迷惑をかけてしまったのですが、ひとつだけ良かったなって思うこともありました。
本当にどうしようもないことって世の中にはあるけど、嫌なことは嫌って言ってもいいんだなって思いました。
どうしようもないこともあるけどね。本当。けど、言ってよかったです。
これからもちゃんと考えて、嫌って思うことはちゃんと、嫌って口にしていこうって思いました。
自分のことを、かわいがってもいいよ。辛いんだもの。
本当に、色々なことがありました。
ありすぎました。
改めて今回の入院で感じたのは、人間は痛くなく死ぬのって難しいんだなってことでした。
痛くなく死ぬためには、健康であらねばならないのだなと。
そして、自分で思う以上に、私は本当に多くの方に想ってもらえている人生なのだなと。
私の分まで、泣いてくれた人がいたことを後から知りました。
なんなら、目の前で泣かれたこともありました。びっくりした。
死なない手術だって、言ってたのにね。
優しいみんな。本当にありがとう。
私は、前を向いてる時でも後ろを向いている時でも本当に勝手で、自分のことしか考えておらず、人から好かれる性質ではないことを自覚しています。
友人も多くはありません。
それでも、数少ない好きな人たちに、大切に思ってもらえているというのことが嬉しかったし、これからも大好きな人たちを大切にしていきたいなと、心から強く強く思いました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
みなさまどうか、健康にはお気をつけて。
ご自愛下さいませ。
退院しました、初心者です。
もう初心者じゃないです。先輩って呼べよ。どやっ。
(了)
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