12.オスとメス

来てしまった。

インターフォンを押すまで、しばらく掛かった。

変なところは無いかと確認し、無駄にスカートの埃を払い、髪を直し、そわそわとバッグを持ち直し、古めかしいそれをようやく押した。静かな住宅街に、チャイムが中で響く音が聴こえた。

何故か、誰も出ない方が良いと思いながら待つと〈はい〉と女性の声が応答した。自分で押しておきながら、仰天した志帆は大慌てでインターフォンに詰め寄った。


「……あ、あの、こ、こんにちは……! 玉城さんの会社で働いています、尾川と申します……!」


ぺこぺこしながら言うと、相手は特に答えずにマイクを切る音がした。不安げに身を引いてドアを見つめていると、それは静かに開いた。

きちんとした格好の清楚な印象の年配女性が、曖昧な愛想笑いと共に立っていた。


「こんにちは……玉城さんから何か?」

「あ、い、いえ!……玉城――社長からは何も……今日は、その……私は休みで――こ、こっそり来たんです……」

「こっそり?」


遠慮がちに名刺を差し出すと、女は怪訝そうに受け取った。


「き、急にすみません……晃生さんが心配で……何かお手伝い出来ることがあればと……ご、ご迷惑でしたら申し訳ありません……!」


早くも頭を下げっぱなしの志帆に、女は少し表情を和らげた。


「あら、そう……お休みの日にありがとうございます」

祖母の幸栄ゆきえです、と女は名乗った。

「今ねえ、晃ちゃんは日向ぼっこしてうたた寝しているの。良かったらお茶でもご一緒に如何?」

「えっ、と、とんでもない……! 私……」

「遠慮しないで、どうぞ」


――電話越しとは、随分と雰囲気が違う……

志帆がどぎまぎしながら上がると、玄関に入ってすぐに辺りはひやりと暗くなった。外界と遮断されたように静かで狭い廊下を行くと、すぐに辿り着いた奥の部屋の襖を、女は優しく声を掛けてから開けた。

そこには、唐突に明るい世界が広がっていた。

使い込まれた印象の畳敷きの和室は、日向ぼっこという言葉がぴたり合うような空間だった。辺りには同じサイズの紙が散らばり、クレヨン――ではない、子供が使うような、プラスチック色鉛筆と、古びた画板も一緒にばら撒いてあった。

何気なく紙を見て、志帆は胸がぎゅっとした。プラスチック色鉛筆で描かれた絵は、全て虹色の塊だった。注意深く見ると、植物や動物、昆虫や魚なのだが、精密な輪郭線とは裏腹に、色は恐ろしくギトギトしていた。子供でも、もう少しソフトに塗るだろう赤や緑は、一ミリもはみ出ていないことがむしろ恐ろしい。


「晃ちゃん、玉城さんの会社の人が来てくれたわよ」


その背は縁側に座っていたが、振り向かなかった。

本当に日向ぼっこをしているらしい。日差しに色素の薄い髪がいっそう明るく見え、柔い風に吹かれている。


「晃ちゃん?」


再度、呼び掛けた声に、ふらりと振り向いた。

懐かしく感じる顔に、感情は見えなかった。何を考えているか判然としない顔は、こちらを一瞥したのかも怪しい数秒で外へと戻った。

まるで、人間ではない動物が座っているようだ。


「……あの、晃生さん?」


声を掛けてみたが、ぴくりとも動かない。志帆はじんと指先が痛む気がした。


「考え事してるみたいね。こうなると何を言っても駄目なのよ。そっとしといてあげて」


幸栄は「お茶淹れてきますね」と志帆を残して出て行った。襖が開いて閉じるリアクションにも、晃生は無反応だった。小さな庭よりも更に遠くを見ている目が、定かではない何処かを見ている。春の光を浴びる植物ほどに、静かに。


「……晃生さん」


つられるように、そよ風みたいな声で志帆は話し掛けた。


「あの……もう、ニナさんは描かないんですか?」


返事はない。ニナの名前にさえ、反応しないのか。

そう思った時、彼はぽつりと言った。


「ニナは、描けない」

「……ど、どうして? 好きじゃないんですか?」

「ニナは好き。でも描けない」


描けない? 描かない……ではなく?

躊躇いがちににじり寄り、生き物では無さそうな横顔を覗くと、彼は確かに生きていて、ガラスめいた瞳は確かに瞬いた。

それでも尚、その目はこちらを見ない。一度とて、視界に入ったかも怪しい自分。

彼のキャンバスには永遠に収まらないだろう自分は、此処に居る筈だが居ない。

此処に居るのは、人間だろうか? 自分は何者と喋っているのだろう?

それとも……誰とも話していないのか?

何かたまらなくなってきて、生唾飲んでから志帆は言った。


「描きたいのは……甘理さんですか?」


ちらりと、その目が振り向いた。


「描きたい」


薄く整った唇からぽつりと出た一言は、強くも弱くもなかった。

何なら……男ですらない。

ごく自然な響きだった。雨が天から降る様に、咲いた花の花弁はなびらが散るように、日が昇って沈むように。

言葉は希望を示したが、どんな感情だったのか、志帆にはわからなかった。

初めてその目に見られたことを確認して、不気味なほど心の内側がざわめく。

どこかに有った甘理やニナへの羨望や嫉妬が、すうっと溶けるのを感じた。


――なんてムダな気持ちだろう。この人は……描きたいだけなんだ。

こんなに純粋に、芸術を見つめている。


「描く」と「抱く」をどこかで混同していた自分に恥じ入りつつ、大きな声を出さない様に気を付けながら、志帆はどうにか言った。


「わ、私が……頼んできます。貴方の傍に、甘理さんを連れてきます」


意味は通じただろうか?

不安げに見つめた志帆を、晃生はじっと見返した。

他の者なら、嘘を疑うような目に見えたかもしれないが、彼の両眼は何も求めないように見えた。

或いは、志帆の内側など、とうに見透かしているように。

仄かに笑みが浮かんだ。

罪を感じる程に、優しい笑顔だった。

志帆はぱっと立ち上がった。

早く。早く連れてきたい。彼のために……!

畳に滑りそうになりながら、忙しく襖を開け――ふと、聞こえてきた声に立ち止まった。幸栄だ。思わず、襖の陰に身を潜めて耳を澄ますと、キッチンらしき場所で先ほどとは全く違う声音は、焦燥か、苛立ちかに鋭い。


「そんな筈ないです! もっとちゃんと調べて下さい!」


――調べる?


「何でって……甘理は、うちの孫を裏切ったんです! 絶対に隠れて何かしてるに決まってます!」


はっと志帆は口を押さえ、晃生を振り返った。

この声が聞こえていないのか、彼はもう先程と同じ様に外を眺めている。

声がやみ、志帆が慌てて襖をそっと閉じて座り直すと、幸栄が盆をささげて戻って来た。


「すみませんねえ、ちょっと電話が来ちゃって」

「い、いえ……とんでもない……! ありがとうございます……」

「晃ちゃん、お茶いかが?」


振り向きもしない男に、女は特に怒ることもなく志帆に勧めた。

何度も頭を下げてお茶を頂き、志帆は幸栄の取り留めのない孫自慢を聞いた。

幸栄はこちらが、しょっちゅう掛かる電話に辟易していた女とは気付いていないようだった。

ぽろりぽろりとこぼれる要求は、晃生を再び『アート界の麒麟児』として、『和製クリムト』として注目させてほしいというものだ。内実はともかく、気持ちとして同じなので、志帆は同調し、自分からも社長に告げると約束した。

案の定、嬉しそうにした幸栄から、挨拶も程々に逃げるように辞した。

住宅街をじりじりした気持ちで歩きながら、忙しく考えた。


――さっきの電話の相手は……あの探偵かもしれない。


甘理が、晃生を裏切った……?

それは、『レディ・ミント』のモデルだから?

でも……晃生は彼女を描きたいと言った。裏切られた人が、あんな顔で言うだろうか。

志帆はバッグを握る手に力を籠め、アスファルトを睨んだ。


――ちょっと待って。何かヘンだ。


辻井甘理は、『夜の階段』のモデル。

美術界からは非難を浴び、『R指定の裸婦』として炎上した。

マスコミやネットの何者か等は彼女のことも非難し、無礼な取材に激高した父親が、病んでいた心臓を悪化させて亡くなってしまう。

しかし、甘理の名は一般人ということもあり、”公表はされていない”。

無論、当時のマスコミは家に殺到したので知っているし、一部のネットには流れたが、これには玉城が削除と刑事告発を訴え出てからは大人しくなった。

マスコミに甘理をリークしたのはニナという事になっているが、今も志帆には考えられない。

ニナは他人を妬むぐらいなら、自分を磨く。浮気を騒ぐような女ではないのだ。

それに、甘理の方も――周囲が騒いだ通りの毒婦ならば、知らん顔で晃生の傍に居た筈だ。

晃生は今も彼女を「描きたい」と思っているのだし……


――では、何故、幸栄は「甘理が晃生を裏切った」などと言うのか?


構図だけ見れば、『ブランシュ』が有るのに、『夜の階段』を描いて外部に漏らしてしまった晃生と、発表を許した玉城の方に問題が有る。

玉城は炎上の件で、甘理に土下座したと聞いているが……この絵がもたらすだろう騒動を想定できなかったのは、彼らしくない。

甘理は芸術及び美術界から姿を消し……今は存在を秘匿して『レディ・ミント』として在る。


あの作品に関わった全員が、様子が変だ。

何故みな、いつもの彼らと違う行動を取った?

本当は、あの別荘で何が有ったのだろう?

本当に『夜の階段』のモデルは、辻井甘理なのか?

何故、彼女は『レディ・ミント』として再び現れたのか?

玉城が甘理にモデルを頼めないと言ったのは、今は『レディ・ミント』だから――?

それはそうかもしれないが、晃生の気持ちが変わらなかったのなら、『レディ・ミント』が誕生する前の、三咲明斗が沈没していた三年の間に、甘理に声を掛けても良い筈だ。

名前が公表されず、個人の特定が難しい作品だったのだから、『ブランシュ』のように清楚な絵として改めて完成させれば、炎上はすまい。

甘理本人が、晃生に描かれるのを断っている……?

それが裏切り?

だとしたら、どうして?

炎上したのが理由なら、怒って当然だ……父親も没した彼女に裏切りと非難される謂れはない。


『夜の階段』が描かれたとき、誰も知り得ない何かが有ったのでは……?


得体の知れない焦りに押されて、志帆は走り出した。

急がないと……!

もし、甘理が何か訴えられたりしたら、晃生の前に連れてくることが出来なくなってしまう……!




「三咲先生、その節はありがとうございました」


出迎えてくれたたにの言葉に、明斗は何故か慌てて首を振った。隣の甘理は、温和な眼鏡のおじさんと化している鬼のマネージャーに微笑した。

改めて、美術界の王子――おみの家に招かれた二人である。

客間に通されると、臣の作業が少々押しているらしく、ひと段落するまでと谷はお茶を準備してくれた。


「臣――というか小町さんも、俺のこと……なんか言ってましたか?」

「言っておりましたとも」


自ら茶飲み相手を務めながら、谷は大きく頷いた。

当然だが――両親に挨拶に行く手前、臣はきちんとプロポーズしたそうだが、そこに至るまでにも、だいぶもたついたらしい。


「三咲先生にガッと言われるとは予想外だったのでしょうな。最初の話し合いでは、お二人とも借りてきた猫みたいに大人しかったですよ」


猫は向かい合って内緒話のようなボリュームで会話をしたというが、元々両思いだ――要点だけ言えば数分だった。「また明斗に怒鳴られては敵わない」などというセリフも飛び交ったらしく、なけなしの発破をかけた身としては釈然としない気もするが……この縁の犠牲ならば仕方がない。


「全く、昨今の若者は両極端で宜しくない。あっちやこっちで節操のない輩も居れば、良い歳こいて告白もできない男も居るんですからね。押しが足らんのですよ、押しが」


仕事の鬼で嫁に逃げられたというが、谷は押して結婚した口らしい。時代が違うとはいえ、彼女の誕生日にプレゼントとは別に花束を持参し、指輪は夜景の美しいレストランを予約して渡したというから、なかなか侮れない。


「私はこの通り、顔で勝負できませんからね。気になる人には必ず声を掛けました。女性というのは存外、自分に自信がないですから、優しく褒めたもん勝ちですよ」

「いやあ……男が押すばっかりじゃないですよね? そういうの、嫌がる女性も居ますし……」


ちらりと甘理を振り返ると、彼女は無言でニヤリと笑ったが、意図は読めなかった。

代わりに谷が、この世の終わりみたいに嘆息する。


「三咲先生……なーんと弱気な事を仰るんですか。人間はね、男が押すのが相場ってモンなんです。もちろん、勘違いしちゃいけません――可能な限り優しく接し、嫌がられたらいさぎよくやめる。だとしてもですよ、声は男が掛けなけりゃ始まらんのです。三咲先生は辻井さんに声を掛けたから復活できたんじゃあないですか」


甘理に声を掛けたのはそういう意味ではないのだが……まあ、平たく言えばそうなるだろうか。

谷の独自見解に曖昧に頷いていると、かつての鬼の評論家は、良い具合に乗って来たか、茶を含み、眼鏡を押し上げて尚まくし立てた。


「成婚率が低いのはね、男の気が小さいからなんですよ」


よっぽど極端に聴こえるセリフに、明斗と甘理は思わず顔を見合わせた。


「い、一応、聞きますけど……どうしてそう思うんです?」

「そりゃ、人間は妊娠できるのが女だけだからに決まっとりましょう」

「あ、そういうことですか」


手を打ったのは明斗ではなく甘理だ。あっさり納得する様子に、明斗は面食らったまま両者を見た。


「俺、全然わからないんですけど……」

「谷さんが仰ってるのは……子孫を残す方法と、時間的な猶予の話、ですよね?」


甘理の問い掛けに、谷は大きく頷いた。


「その通り。辻井さんは見識がありますな」

「ミント君、他の動物の生態で考えてみて」

「ど、動物?」

「オスの精子は多く作れるけど、メスの卵子は沢山作れないし、その過程で大抵はツラい月経が有るの。ついでに、オスは交尾して終わりだけど、メスは出産までお腹に抱えて、尚且つ産むのも、産んだ後も大変。人間だと、プロポーズの段階じゃわかりにくいけど……自然界は、栄養とか季節、寿命なんかの制約が厳しいから、メスは慎重にオスを選ぶし、オスはメスにしっかりアプローチしないと子孫が残せない。そういう生態だって本能でわかっているから、オスの方がメスにアタックするの」


……なるほど。

人間も動物だ。子を成すメカニズムが女性の妊娠なら、本来は子孫繁栄の為に、オスが頑張って求婚し、メスが精査して受け入れる構図が有る。

出産後にオスが世話するパターンもあるが、メスが産む他ない構図は同じだ。

とはいえ人間は、その殆どが子孫繁栄という生物的な本能の元に行動していない。

他の生物よりも寿命が長く、様々な環境下で生き、単純な数のみで言えば絶滅の危険を感じていないことも有るのだろう。

谷は茶を啜って尤もらしく頷いた。


「ライフスタイルの変化だとか、金が掛かるとか言いますがね、結局のとこ、自然界を離れても人間の生態は変わっていないじゃあないですか。ジェンダーに関してとやかく申す気はございませんが、自分が男という自覚と、好きな女性が居る人間は発起しなけりゃいけません。自信がどうのと言ってる場合じゃないんですよ」

「は、はあ……」

「年一か二の繁殖期に全力で取り組む生物は凄いもんです。そこを人間てのは、ウチの王子みたいな奴まで何年もぼーっとしとるんですから呆れますね。いっそ非効率ですが、戦って決める生物を見習わんと。鳥類のオスにも目を瞠る奴が大勢居ます――コトドリなんて、メスを射止める為にオリジナルのステージを作って、歌とダンスまで披露するんですからねえ……大した芸術家ですよ」


存外、生物好きらしい谷の言葉は、臣の交際が決まった今は良いものの、かなり痛烈だった。生物的に子孫繁栄を目的とするならば、臣は選ばれないオス確定だし、小町の選択は愚行と言わざるを得ない。

ある意味、生物的には厳しいポテンシャルでも、パートナーを得て幸福になれる人間は不思議なものだが……なんだか責められている気がしつつ、明斗が身をすぼめて茶を啜っていると、扉が開いた。


「悪い、呼んでおいて待たせた」


つかつかと入って来た家主は、伊達に王子なぞと呼ばれていない優美さだが――優し気なイメージとは似ても似つかない、何なら恐怖政治でも行っていそうな顔つきだった。文句を言おうと思っていた明斗だが、白旗を持っていたら迷わず上げていただろう。


「お……オメでとうございマス……」


何故か片言になる親友を呆れ顔で見た親友だが、甘理も「おめでとうございます」と笑うと、座りながら恥ずかしそうに頷いて目を逸らした。


「まあ……なんだ、そういうわけだ」

「”そういうわけ”かよ……」


気持ちとしては大声で万歳三唱だが、あんまりばつの悪そうな王子を前に、悪ふざけはできなかった。


「良かったよ、とにかく。俺も熱弁を振るった甲斐がある」

「あれは……近所から苦情が来ないか不安だった」

「お前なー……」

「……いや、すまない。ありがとな」


ぼそりと言った一言は、彼にしては最大限の感謝らしい。


「いいよ。丸く収まって、俺もホッとした」

「……呑気だな、ミント。これで俺は堂々とお前をなじれるのに」


ようやく皮肉な笑みが浮かんで、明斗は喉元絞められた顔になるが、窓の外――庭の景色を眺めて誤魔化した。


「い、いやー……庭の花……増えてきたね。さすが小町さん……綺麗だねー……」


ボキャブラリーに乏しい賛辞に甘理が小さく吹き出し、親友とそのマネージャーは呆れた苦笑だ。下手な言い訳はともかく、窓から見える庭は本当に綺麗だった。

そこに降る陽の光さえ、ひときわ明るく、特別に見える。鳥がどこかで愛らしい囀りを響かせ、芽吹いた若々しいグリーンの中に、ピンクや黄色、薄紫が花開く様は、本当に祝福するような花々だった。


「イギリスでの個展、頑張って」

「ああ」


ようやく和やかなお茶の席になったかと思ったが、臣はメイクアーティストがスッと引いたみたいな眉を寄せた。


「それより聞いたぞ、SNS騒動の件」

「あ、うん……お騒がせしました」

「マスコミが大事おおごとにしているが、大丈夫か? 俺も過激な犯行だと思うが……少々やかましい」

「うん……俺は大丈夫。南美子さんが上手く対応してくれてる。怪我した人達には申し訳ないけど……警察に任せるより他に、何もやり様が無いしさ」


親友は無策を咎めるような目をしていたが、腕組みして椅子にもたれた。


「谷が『昭和の根暗ネクラ攻撃』だとはしゃいでいたんだ。手口だけなら年配者ではないかと見ているんだが……本当に心当たりは無いんだな?」


あれは古い陰湿人間で間違いないと豪語する谷を見ながら、明斗も腕組みして唸った。


「うーん……無いんだよなあ……俺は臣みたいなサイン会とか、ファン交流みたいなのはやったことないから。今回みたいなメディア露出は凄く久しぶりだし、直接会う機会が要るほどファンは居ないし」

「三咲先生は、内向的ですからな。もはや大手を振って歩いても宜しいのに」


谷の揶揄に返す言葉もない明斗は髪を掻いた。

先日、ニナにも言われたことだ。大手を振る……か。

威張るのは宜しくないが、自信を持つのは大切なことかもしれない。現に、目の前の親友は王子の呼び名に開き直って偉そうにしている為、周囲も――谷以外は何となく萎縮して見える。


「まあ……俺は俺らしく行くよ。賞を貰ったとかじゃないし……売れたのは、南美子さんのプロデュースが良かったからだし……」

「お前、そういうとこだぞ」

「そ、そういうとこ?」

「隣にモデルが居る時ぐらい、でかいツラで居ろ」


泡食って隣へと振り向いた明斗に、甘理はぷっと笑った。


「ミントくん、そういうとこだよ」

「え、何が?」

「そういうとこだな」

「そういうとこですなあ」


三人が楽しそうに笑い合い、明斗は恨めしそうな顔で肩をすくめた。


「ち……ちなみにさ、臣は小町さんに何処でプロポーズしたの?」


虚を突かれた様子の王子は一瞬、頬を引きつらせ、ニヤニヤしている谷を睨んでから庭に顎をしゃくった。

これ以上ない絶好の場に、甘理が「すてき」と呟き、ひょっとしたらアドバイスしたかもしれない谷がうんうんと頷いた。


「どうです、三咲先生。ウチの王子もやる時はやるでしょう?」


御見それしました、と呟いた明斗に、親友は照れ臭そうにしつつも不敵に笑った。


「お前がする時に、貸してやっても良いぞ」


余計なお世話だと言いながら、明斗は庭を振り返った。本当に、綺麗な庭だ。

きっと、彼はますます良い花を描くだろう。

描くものには少なからず、描いた者が映る……臣の花は、今よりもっと幸せな花になるに違いない。

俺は……『レディ・ミント』はどうなんだろう?

自問自答しながら見た、甘理の横顔は楽しそうだったが、それしかわからなかった。




 その頃、明斗のアトリエ――休憩室のテーブルで南美子は唸っていた。

知り合いが救急搬送されたかのような勢いでやって来た尾川志帆に驚いた後、興奮気味に身振り手振りを交えて喋る彼女の話を聞いてからのことだ。


「的場さんが……」


目の前の志帆は、ガンの検査結果でも聞くような顔だ。

志帆はこれでも、玉城の事務所では古参である。自分と同世代、玉城に弟子入りした経緯も「芸術に惚れた」という点で似ている彼女の話は、信用に足る一方、衝撃的だった。


――的場が今も、甘理を描きたいと思っている。


予想していたことではあるが、それだけではない。

深呼吸してから、南美子は切り出した。


「まず、一つ断わっておくわね」

「は、はい」

「甘理をスカウトしたのはウチのミント本人で、その動機は彼女が買おうとした『チョコミントアイス』なの」


目をぱちぱちする志帆に、明斗に聞いた通りの経緯を説明すると、彼女は尚も不思議そうに目を瞬かせた。


「では……三咲先生は、辻井さんのことを全くご存じなかったんですね……」

「そう。ミントが彼女をスカウトした後に、私が調べて伝えた。それも最初の『レディ・ミント』が描かれた後の話よ。私も……甘理がミントと会ったことは偶然にしては出来過ぎだと思っているけど、ミントはどちらでもいいと思ってるし、甘理も今のところは妙な作意は感じない」


二人は『チョコミントアイス』を好きな同志として出会い、明斗はそれにシンパシーを感じて彼女をスカウトした。

当時、どん底の画家がモチーフにしたいと思うだけの魅力が彼女には有ると思うが、年末という奇妙な時間帯に、コンビニでチョコミントアイスだけを買い求めて、モデルにスカウトされる……少々、ドラマチックが過ぎる展開だ。


「率直に言って、ミントは多分、的場さんが甘理を描きたいと言っても断らないわよ」

「ほ、本当ですか……!」

「でも、マネージャーとしてはお断りする」


きっぱり言った南美子に、志帆はぐっと言葉を飲み込んだ。


「尾川さんも業界長いからご存じだと思うけど、創作活動に支障が出なければ同じモデルを描くのは無いこともない。だけど、モデルには負担が掛かるし、まして甘理はアマチュア。描きたいからって、何日も拘束されたらこっちも困る。ついでに、的場さんは“描くだけじゃない”って話よね?」

「……それは――仰る通りです……」


同世代ながら、明斗の作品に惚れたと言って飛び出していった南美子は、わずか数年とはいえ玉城が育てたマネージャーだ。

明斗をプロデュースすることに公私共に捧げ、離婚してまで明斗を支えることを選んだ。それが恋愛感情ではなく、真に感銘を受けた芸術を世に送り出そうとする意志なのだから、彼女の言葉には重みがある。


「ミントと甘理には相談してもいいけど……この件、玉城さんには秘密にできない。尾川さんの気持ちは汲むけど……いくら私でも、魔王の目を盗むのはちょっと厳しい」

「は、はい……そうですよね」

「むしろ……玉城さんには話した方がいいんじゃないかしら」

「晃生さんのことを、ですか?」

「いいえ、スケッチを持参してきてるんだから、甘理を描きたがっているのは知っている筈。玉城さんは的場さんの、本当の意味での伴侶だもの。誰より的場さんを思って頑張って来たのは、あの魔王だと私は思う」

「誰より……」


確かに、本当の伴侶というのは正しい。

的場晃生を一流にしたのは全て、玉城の手腕だ。親族同士とはいえ、玉城が晃生にしてきたことは、従兄弟の枠には収まらない。


「話すべきは、祖母の幸栄さんの行動よ」

「やっぱり、あれは探偵に、辻井さんの素行調査を依頼しているのでしょうか?」

「断定はできないけれど、可能性は高いと思う。個人的な想像じゃ、彼女の動機は被害妄想じゃないかしら……『レディ・ミント』が脚光を浴びたのも、良くなかったのかもしれない」


慎重な言葉を選ぶ南美子に、志帆は慌てて首を振った。

つい最近まで抱いた妬ましい気持ちが恥ずかしい。

……そうだ。三咲明斗も同じだ。描きたいのに描けず、三年も沈み込み、やっと掴んだのが彼女だったのだ。

裸婦というきわどいモチーフ、男女という関係性に、すっかり翻弄されていたと気付かされる。玉城は、彼らが芸術家だとわかっていたのだ。

それに比べて、芸術に関わる人間でありながら思慮が足りないと猛省していると、南美子は思案顔で呟いた。


「ウチは……甘理が犯罪を犯していない以上、何か言われる筋合いはないけど……その探偵、マスコミより節度があるみたいね。幸栄さんの発言からして……甘理が的場さんに不利益なことはしていないって報告したんじゃないかしら」


同意見だった為、志帆は頷いた。

甘理は晃生と一波乱あった為、幸栄は彼女が当てつけで『レディ・ミント』となったと睨んでいるのだろう。

志帆とて、つい先日まで甘理を疑った。

しかし、彼らの出会いは偶然。声を掛けたのも、明斗の方から。

甘理が格別、目を引く格好をしたり、誘惑したわけでもない。仮に策略が潜むとしても、明斗が彼女を描きたいと思った気持ちは彼から発したものであり、嘘や企みによる筆で、あの絵のクオリティーには到達しない。


「機会があるなら、その探偵から話を聞きたいわ」

「え、南美子さんが……?」

「『夜の階段』のことが気になるのは、貴女と同じなの」


難しそうな顔で、南美子は机を指先でトントンと叩いた。


「あの絵が描かれた経緯を知るのは、甘理と的場さん、玉城さん、あとはニナ。どうも甘理だけじゃなくて、全員が何かを隠してる気がするのよね……だって、貴女が言う通り、彼女が展示会の手伝いに現れたのは妙な話よ」


そう言って時系列を喋りだす南美子に、志帆は驚いた。彼女は本当に、業界をよく見ている。

『夜の階段』の発表は十年前。

『ブランシュ』はその前から。甘理が手伝いに来たのはそれより前の展示。

そして、彼女はニナと揉める程度には晃生と時間を共有したが、スタッフとは殆ど顔を合わせず、描かれたのは『夜の階段』だけ。


「私はもうこの頃、師匠の魔王に色々教わってたけど……この件には関わらないように釘刺されたのよね。『夜の階段』て、今は何処に有るか知ってる?」

「いいえ……炎上騒ぎ以来、私も見ていません」

「じゃあ、あれが描かれた別荘は、今は?」

「さあ……あの件以来、晃生さんも行っていないと思います。もともと晃生さんのご両親のもので、アトリエというよりは御静養に使っていたので、私たちもあまり行く機会はなかったんです。多分、当時の甘理さんは、あそこでしか晃生さんと会っていなかったと思いますが……」

「ひょっとして……的場さんの不調は『夜の階段』から、もう始まっていたんじゃない?」


南美子の言葉に、志帆はぎょっとした。


「そ、そんな筈は……だってあの後に『ブランシュ』がシリーズ化したんですから……!」

「じゃあ、尾川さんから見て、いつ頃からだと思う?」

「……それは……」


何か、見てはいけないものを見ている心地がした。

元より集中が切れると出歩く晃生が、急にその頻度を増やした年がある……


「三年前ぐらい……だと思います」

「『ミント色の街』が発表された辺りね」

「は、はい……」

「あの展示には、的場さんも来てたわ。私……絵に興奮してあんまり覚えてないんだけど、的場さんも、けっこう長く見ていた気がする」


彗星の如く現れ、コンクールで最優秀賞を得た明斗の絵に、麒麟児の晃生がどんな印象を受けたかは聞いていない。


「甘理も……見たと言ってたのよね。『ミント色の街』を」


呟いた南美子の目が、何かを見つけたように閃いた。


「……とりあえず、この件は保留で。玉城さんには、どうする?」

「あ……私からお話しします……」

「そう。私はいつでも構わないから、魔王が何か困らせるなら連絡して」


頼もしい一言にほっとした顔で頷いて、志帆はふと思い出した。


「……南美子さん、関係ないかもしれませんが、例の探偵さん……うちの事務所の周囲に、自分と同じような人間や、マスコミ関係者が来なかったか聞いたんです」

「玉城画廊を、誰かが見張ってるってこと……?」

「直接そう仰ってはいませんでしたが……心当たりがないと伝えると、参考になったって……」


南美子も探偵の様な顔付きで顎に手をやった。


「……その探偵の連絡先、教えてもらえる?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

チョコミント・シンドローム sou @so40

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ