小説 登り竜の如く<米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代

長尾龍虎

第1話 小説 蒼天繚乱ー荒波の如く。幕末の傑物ー坂本龍馬と陸奥宗光

昇り竜の如く

<米沢藩士>雲井(くもい)龍(たつ)雄(お)伝とその時代

活躍の陰にあった男 – 雲井龍雄の生涯と米沢藩の歴史

<のぼりりゅうのごとく よねざわはんし くもいたつお でん とそのじだい>

~米沢藩に咲いた滅びの美学~

米沢藩の不世出の『米沢の坂本竜馬』詩吟『棄児行』誤伝論

       『幕末史に埋もれた歴史的・偉人』究極の伝 米沢藩士・雲井龍雄伝説

                ノンフィクション小説

                 total-produced& PRESENTED written by

             NAGAO Kagetora長尾 景虎

         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



          あらすじ・まえがき


明治三年十二月二十六日、米沢の人、雲井龍雄は判決を下され、その日のうちに小伝馬町(こでんまちょう)の獄で斬首され、その首は小塚原(こつかはら)に晒された。

すなわち、明治政府にとっては、雲井龍雄が生きている、そのことが恐怖であった。

 また、もうひとりの主人公・清河八郎も幕末の激動の中で、浪人集団を京洛の幕府警備隊として、のちに尊皇攘夷の先兵とする画策をする。だが、やがて、八郎は不逞浪人たちに斬られて死んだ。幕末の庄内と米沢の幕末志士ふたりの物語である。

       おわり



         一 草莽掘起





数日後、雲井龍雄こと小島は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。

人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。

「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」雲井はふいに思った。

米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣美作が龍雄を出迎えた。

竹俣美作は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。

屋敷を歩くと、ぎしぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。

「ところでご家老」龍雄は切り出した。

「賢き若君ときいております」

「そうじゃ…」美作は微笑み、続けて

「ぜひに、一刻も早く…茂憲さまにお会いしたい」と龍雄は願った。

 竹俣美作は、

「雲井先生……。今、喜平次さまーーいや、茂憲さまはは江戸屋敷を留守にしており申す。近々、拝謁させよう」と言った。

「……茂憲さまは今、御年いくつなので?」

「八歳じゃ」

「そうですか」

 雲井龍雄は満足気に深く頷いた。

「それは重畳」

「……まぁ、いい年頃ではありますな」

「楽しみですかな?」

 美作はもう一度、満足気に深く頷いた。

「…拝謁が楽しみです」

 竹俣美作は

「先生……世子さまは大変賢いぞな」

雲井龍雄は、

「女房殿よりも愛しい方ですな?」と冗談をいい、一同は笑った。



秋月直丸、出羽米沢藩八代藩主・上杉重定の養子となる。上杉直丸公、元服して上杉治)憲公、後年・晩年・上杉鷹山公となる。

父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種美公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。

俗な話をすれば上杉鷹山公は二○十四年度の大河ドラマだった『軍師 官兵衛』の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。

また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ『忠臣蔵』の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。

つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子。吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞だ。

まさにサラブレッドである。

頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。

では、米沢藩第八代藩主・上杉重定はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉憲(米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗憲、次男・第七代藩主・宗房である。

 上杉家は子宝に恵まれない家系である。

 藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。

上杉謙信公は米沢藩としては〝藩祖〟、となる。

 後述するが上杉家三代目・上杉綱勝は養子も跡取りも決めないまま若くして病死する。

普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とする。

何故、会津藩主・保科正之は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。

しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。

幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「哀れ」に感じたに違いない。

確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱憲を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。

だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。

新たなる危機は禄高減少である。

ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。

結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどで、たった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利

……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。

上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(二○○九年度大河ドラマ『天地人』の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。

しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。

上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。

土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し同然の処遇」にあった訳だ(笑)。

苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。

 私の親戚のひとに聞くと、七十年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたのだという(笑)

雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。

除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。

私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。


「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」

竹俣は

「先生はいいが、失礼ながら喜平次殿はまだ八歳の童べであろう」

とため息をついた。

望みがわずか九歳の御世継・上杉喜平次、のちの茂憲公で、ある。

溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。

この茂憲公こそが、幕末の上杉藩最後のお殿様であり、上杉家の謙信公からの子孫でも、あった。




ハレー彗(すい)星(ほうき星)は昔、『妖(よう)霊(れい)星(ぼし)』と呼ばれていた。

ハレーすい星。数100年に一度来る。ハレーすい星がきたときには「天変地異がおこる」と恐れられている。明治維新の時もきた。以前来た時は富士山が大噴火を起こした。

ハレーすい星は『妖霊星』ともよばれ恐れられていた。

この江戸や京都よりはるかに遠い庄内藩(山形県庄内地方)でも、『妖霊星(ほうき星)』は見えていた。まだ、ほうき星が地球と太陽系のあいだの惑星間を漂う彗星と、学問で理解されなかった時代である。「不幸をよぶ不吉な星」=「妖霊星(ほうき星)」

また、当時はハレー彗星がこの地球を包む間は「空気が無くなって息が出来ない」とまで。

庄内藩の家老酒井了明の息子・酒井虎之進(幼名・のちの了恒・玄蕃)少年も夜におおきな実家の瓦屋根にすいすい登った。親友ののちの勝山重良少年もついていく。

「……妖霊星だあー!」

「虎之進くん! 危ないよ、屋根から落ちたら大怪我するよ」

「いいか。昔から妖霊星がくるときは「天変地異がおこる」っていわれてんだず。わがっが?」

「んだな。んでも、それだげでねえ」

「なんだず?」

「この前きたのは百年前で、その頃のこの国は徳川吉宗や徳川綱吉や柳沢老中らの〝大改革〝のとぎでもあんだず。〝大改革〝の星でもあんだぁ」

「んでも」虎之進は夢中でハレー彗星を見上げながらいう。

「そのときも「天変地異」がおごっだべな。富士山が大噴火しで、大地震もおごっだべしだ」

「やっばり、何があんのがなあ? 虎くん」

「シラねげんじょ。なんがあんがもしんねえべしだ。〝天変地異〝は困るげんじょ……〝大改革〝なら俺は大歓迎だべ」

「おれだじの故郷の庄内が?」

「いやいや。御公儀(幕府)だなあ。御公儀(幕府)だべずう」

「……御公儀(幕府)? 徳川幕府があ?」

「んだ。んだ」

「徳川幕府がかわるってのが?」

「…徳川はかわらん。ただ、もう徳川の世は二百六十年だべ? もう制度が疲労をおごっしでんのや」

「……制度が疲労? 虎くん。難しい言葉知っでるずなあ」

「難しくなんがねえずう。………んだげんじょ、今、ちょっと……俺が難しいごどになっでる!」

「……ん?」

「俺は……高い所が駄目だっで勝山なら知ってんべ?」

のちの玄蕃少年は屋根の下を見て、ぶるぶるしていた。

「ん?」勝山重良少年は虎之進(玄蕃)に近づいた。だが思い出した。

「ああ! そういえば……虎くん。高いところ駄目だっだずなあ。忘れでだずう」

「……た…たすけて…くれ……」

「あはははっ」勝山重良少年は笑った。

それで近くの薄暗い畦道を、ぼろい服に、内職の鳥かごを沢山抱えて歩いていた貧乏武士の清河八郎少年は、豪邸の屋根瓦のうえののちの玄蕃少年と勝山重良少年に気付いた。

「あれは……家老の坊んさんの虎之進(玄蕃)坊ちゃまがぁ。まだ、夢中になって自分が高い所が駄目なのば忘れで……登っで降りられなぐなっだのが……金持ちのボンは…」

清河八郎少年は、星明かりの中で狼狽する玄蕃を見て苦笑した。馬鹿め、と思った。

そんなとき、木をつたって近づく少女があった。

「虎之進! また、高いところに登って降りられなくなったのが?」

それはのちに妻となる玉浦だった。幼馴染みである。

「この幼馴染みの玉浦が助げるがら……じっとしてんだずうなあ!」

「……高い……怖いよお……」

のちに庄内藩の軍師として『幕末最強庄内藩第二大隊』を率いて、官軍を散々打負かし、それ故『鬼玄蕃』と畏怖される酒井玄蕃もこの頃はただの高所に恐怖する少年でしかない。

……んだげんじょ、これだがら金持ちのボンは……八郎少年はつばを地面に吐いた。

清河八郎少年が藁葺き屋根の粗末な自宅へ帰る。

と、途端に父親が「八郎。鳥篭ば、売れだが?」と父親がきいてきた。

「……売れねがっだ」八郎は、やっと鳥篭の重い荷物をおろす。

すると、病気で寝ていた八郎の母親が、

「八郎……晩飯食ったが? さすけねえが(大丈夫か)?」ときく。

「ああ。母ちゃん。寝でろずう。いいがらいいがら。さすけねえ」

「んだげんじょ、腹減らねえが?」

「さっぎ、畑のイモ囓ったがらさすけねえ。どうせ、この貧乏な家にまともなメシなんかねえべやあ」

「悪れなあ、八郎。お前は頭さいいのに……うちが貧乏で藩校の致道館にも通はせられねえで。悪れなあ、八郎」

「いいず、いいず。おれは近くで学問さ教える鳥森彰右衛門先生の私塾さ行ぐ! 私塾なら学問で身を立てることばでぎっがら。学問は身分の差なんが関係ねえがら…」

「家が貧乏でなければ……頭のいいおまえば苦労しなぐでもよがっだのになあ。悪れなあ」

「……そげなごど…気にすんなずう。さすけねえ。」八郎は強くいった。

 (清河八郎が貧乏なのはこの小説の設定・実際は金持ちの息子)

数日後、庄内の街に大雨が降った。

庄内藩にはそんなに身分の差というほどのことはなかったが、上級武士と、下級武士や農工商との『身分の差』というものは存在した。

雨の中、傘を差して、上級武士三人の少年が歩いてきた。立派な着物である。

農家の息子と父親が端に寄って、傘をとじて平伏する。八郎少年も蓑をとって、鳥篭をおいて、平伏する。

だが、清河八郎は驚いた。

大嫌いなガマガエルが、近くから寄ってきたからだ。

「わあ! ガマガエルじゃ!」

八郎は飛び上がってよけた。と、立派な着物を着た上級武士の少年にぶつかり、その少年武士を泥だらけにした。

「な! なにをするんだずう! このガキいぃ!」

「すいません! すいません! 許しでくだされ!」

「いや、ゆるさね! こっちさごい! 手討ちにしてくれるずう!」

近所の知り合いが八郎少年の危機を親にしらせた。

「こっちさこい!」

「……勘弁してください! すんません」

「ゆるさね! 玄関で手討ちにしてやるずう」

野次馬が出た。「どうしだ、十郎? なにがあったのが?」

「父上さま! この乞食が……おれさぶつがっで泥だらけさしたんだ」

「泥だらけさ?」

「こいつは不埒を働いたんだ! 手討ちさ、しでいいべ?」

野次馬の中に玄蕃少年と玄蕃の母親の姿がある。玄蕃が止めようとしたとき、大雨の中を走る女性があった。「申し訳ありません! おらの息子をどうか許してください! 手討ちにするならおらを! この母親のおらを! おらを!」土下座する。

それは清河八郎の病弱な母親だった。「かあちゃん!」

「手討ちにするなら息子ではなくおらを。どうか…おらを」

「かあちゃん!」

「んだなら……」抜刀する。

「やめい、十郎」上級武士の少年の父親が止めた。

「そいつば乞食じゃねえ。清川の下級武士のせがれだべ。そげな母親や下級武士のせがれば斬っても……家の玄関が汚れるだげだ。清河の母御……許しちゃる。さっさと消えろ!」

「ありがとう御座いまする。ありがとう御座いまする!」

雨にずぶ濡れになりながら八郎の母親は土下座していた。

「母ちゃん!」

「八郎!」

親子は抱き合った。

上級武士たちが姿を消すと、野次馬から弱い拍手がなった。

「よがったなあ」

「命びろいしだなあ」

だが、このことで病気が悪化した清河八郎の母親は死ぬのである。

のちの玄蕃少年は夜に寝室で、母親にきいた。

「母上。どんな子供の母上も、息子や娘が危機の時にはたすけるものなのが?」

「んだごで(そうですよ)。親はいくつになっても子供がかわいいんだ。だから、自分の子供があぶないどぎは絶対に助けるんだ」

「……んだが?」

「虎之進(のちの玄蕃)……母上のふとんにおいで」

「んでも、おれはもう兄貴だから……」

「弟も妹も…眠っている。だから、ほら」

虎之進は母親のふとんに潜り込んだ。

「かわいい、かわいい、お虎」

優しい母親である。だが、これが母と息子の最期の団欒となった。

 甘えたい盛りの酒井玄蕃(幼名・虎之進)少年も十四歳ともなると、〝天才少年〝として、庄内藩の藩主さまの前で講義をすることにもなった。

庄内藩の藩主に認められ、酒井玄蕃(幼名・虎之進)少年の父母も大喜びだ。

だが、玄蕃の母親は病床にあった。

「そなたは……もう庄内藩家老の子供ではなく……この庄内藩の子供になりなさい。諸葛孔明のような軍師に……なるのですよ」

「……母上」

「秋になると真っ赤に燃えて、御屋形さまである木の幹を守って散っていく〝紅葉のような家臣〝になりなさい! わがったが? お虎?」

「わがっだ! 母上」

庄内藩の藩主はのちの酒井玄蕃に「庄内の子になれ」といった。山の上で裾野を眺め、

「ともに釈迦牟(しゃかむ)尼(に)に恥じない庄内の国をつくっていこう」と。

藩主は玄蕃(幼名・虎之進)に、砲術の師匠・秋保政右衛門を紹介した。

この秋保により、のちの酒井玄蕃は長沼流兵學を学ぶのである。

その玄蕃の弟子であり、慕うのは栗田元輔と渋沢永太、である。

砲術を学ぶ玄蕃。玄蕃の母親は病死する。幼馴染みの玉浦は慰めた。

清河八郎は死んだ母親の位牌に手を合わせた。貧乏なので仏壇はない。

「母ちゃん! …おらは鳥森先生の私塾で塾頭じゃ。これで先生についていけば先生の私塾をついでわしも先生じゃ。先生はわしの希望だずう。母ちゃん、偉くなるからなあ」

だが、その〝希望〝だった清河八郎少年の通う私塾の鳥森彰右衛門先生は……突然の心不全で、あの世に逝った。

清河八郎は自暴自棄になる……絶望…もうおしまい???

のちの酒井玄蕃こと、元服して酒井吉弥は、街のそば屋の娘・お菊にいれあげて何度も通っていた。蕎麦屋は酒場も兼ねていて、酒も出した。

すべてに自暴自棄で投げやりになっていた清河八郎はささくれだって荒れていた。

「酒井のぼんさま。まいどどうも」

「…お菊さん。天ぷら蕎麦!」

「まいどあり!」

「酒井のボン! いいご身分じゃのう! 蕎麦屋のひとり娘に惚れて、蕎麦三昧かえ? ほんとにおめはいいご身分じゃのう。このおちょうしもんが!」

「どげんした? 八郎さん」のちの玄蕃は清河に声をかけた。だが、

「おめにはわがらね! 金持ちのボンになにがわかる」

「なにがあったがぜ?」

「……先生は…鳥森彰右衛門先生はわしの希望だったんだずう。んだげんじょ、死んだ。これでおれの学問もおわりじゃ。せっかく塾頭にまでなれただに」

「……おめ、酒呑んでんのが」

「それがどうしだ。構うなずう……」八郎は銭を食台に置いて、去るように歩いた。

「待ちぃや。八郎さん」

「おれに構うなというんだべしだ。構うな、ボン!」

前も見ずに、八郎は脚を早めた。誰かにぶつかる。

「邪魔じゃあ」

「ん? 貴様っ!……下級武士があ」

ぶつかった相手が悪かった。それは上級武士の青年ふたりだった。

橋のたもとである。

「すまんちぃ。すまんちぃ。八郎さんは嫌なことがあって自暴自棄になってんだべ。許してください! わざとではないですから……すいません」

「誰が……たすけてくれといったがが。このボン!」

「いいから。八郎さん。いいから」

「おめは家老のボンの酒井吉弥とかいう……」

「はい。わたしに免じて許してつかあさい」

「なら、家老のボン。ここで土下座せい」

「そうじゃ」

「土下座……わかりました」

酒井のボンは土下座した。

「なにをしとるずう。だれが土下座を頼んだ。おれを斬りたければ斬れ。斬れ!」

「八郎さん、駄目だずう。駄目だずう」

「なにをするが……なにをするが」

ふたりはバランスを崩してもんどり打って小川の下に落ちた。

小川は浅かったが、怪我は無かった。

「……馬鹿が」

敵の上級武士の青年は去った。

「だれがたすけてくれ、と頼んだが。たのんでないずなあ」

「八郎さん。自暴自棄になってんだべ。んだげんじょ、あそこで斬られてはつまらん。死んだらつまらんべな」

「もうどうでもいいんだ。もういいんだずう」

「おれは上級武士の振り上げた刀を納めさせた人間を知っでる」

「……おれの母ちゃんが?」

「そうじゃ。おまえの母親はおまえをたすけた」

「おれの母ちゃんはあいつらに殺されたようなもんじゃ。あの大雨で体調をもっと崩して死んだんじゃからのう」

「だが、もう身分の差などない世の中にせんといかん」

「身分のない……? どうなったらそげな世の中になるんだずう。このボケボン」

「これからは学問の時代じゃ! 身分が低くてもおまえのような頭のいいやつはどんどん出世する時代がもうすぐくる」

「なにを夢みたいなことを…」

「八郎さん。おめも藩校の致道館に通うがじゃあ。親父に頼んでやる。のう?」

「わしが……藩校の致道館に」

「そうじゃ。おめのような頭のいいやつがこれからの庄内藩を支えるがじゃぞ」

「おれが…藩校に?」八郎は戸惑った。

「確かにおれには野望があるが」

「どんな?」

「それは言えねえずう。殺されるからなあ。だが、おれの策は幕府をすくうようにみえて……じつは朝廷の天子さまの与力……というか…」

「そうか」酒井玄蕃はあっさり引き下がった。

だが、清河八郎少年にとって藩校の致道館に通えるのは大幸運である。

藩校の致道館でも酒井玄蕃はイケメンでモテモテである。無論、藩校は男子校で女学生などいないのだが。その選ばれたものだけが通う藩校に、例の清河八郎少年も通い出した。

酒井玄蕃(元服名・吉弥)が家老の酒井了明(父親)に口利きし、通えるようにしたのだ。

その際、玄蕃は「清河八郎くんのような頭のいい人物はこの庄内藩に絶対に必要ですから、どうか八郎くんを藩校の致道館に通わせてください。八郎くんが間違いばおこしだらおれも致道館を辞めます。んだがら、お願いします」と頭を下げた。

酒井玄蕃にとって、清河八郎は大事な親友であったが、清河八郎にとって酒井玄蕃は、結局、〝利用できる人物〝、でしかない。

貧乏をして育った清河八郎は、容易には他人にこゝろを開かなかった。

「すいません。藩校の学生さんですか?」

可愛い顔立ちの武家の女の子が、清河八郎に声をかけた。

「……ん?」

「すいません。酒井吉弥の妹の久井といいます。兄が弁当を忘れたので……届けにきたんです」

「あ! あんたは酒井のボンの妹かえ?」

「はい」

「弁当……?」八郎は久井に惚れた。のちに女性解放運動家となる酒井久井はじつはもうこの頃には許嫁がいた。

「わかった。おれがボンに届けちゃる。渡せ」

「ありがとうございます。え~と……」

「わしは清川村の清河八郎じゃ」

「はい」

 八郎は玄蕃の妹・久井が好きになった。

だが、所詮は〝高嶺の花〝である。

清河八郎は成人後、遊郭からもらい受けた蓮(れん)という芸子を嫁にすることになる。

酒井玄蕃は女性に優しく、のちの夫人となる玉浦の娘時代にも…。幼なじみだった。

師匠(軍師)秋保政右衛門に砲術や兵法を学ぶ。

田舎でくすぶる〝出羽・吉田松陰〝である。

庄内藩藩校致道館などで学問や兵法や法律の教えを受ける酒井玄蕃。本や日記、オランダ語の本。勝海舟らからも酒井玄蕃は学んだ。

二家老(松平権十郎・菅実秀)は幼君(藩主)を支える英雄である。松平権(まつだいらごん)十郎(じゅうろう)と菅(すげ)実(さね)秀(ひで)。幼君・酒井忠(ただ)篤(あつ)(戊辰時十六歳)をよく支えた。

豪商本間さまとともに最新兵器に先見の明とか。軍師・酒井玄蕃がいてこその庄内藩だった。

忠篤は十六歳の藩主であり、酒井玄蕃が〝西郷隆盛〝なら、藩主は〝斉彬〝だ。

玄蕃少年や勝山重良氏や玄蕃の弟子の栗田元輔・渋沢永太や、清河八郎らに影響を与えた。

藩校での日々も楽しかった。だが、玄蕃は江戸に遊学する。幕末の明星・佐久間象山の「象山塾」に入塾したのだ。だが黒船を見た。

「んだげんじょ……あれが黒船が? すごいずなあ! あげにでかいんだなんでおもわなかったずう」

京洛で尊王攘夷の運動も見た。玄蕃と八郎の友情ではあったが、玄蕃は清河八郎の語ったかつての策「幕府をすくうようにみえて、じつは朝廷の天子さまの与力…」というのが

「あれが尊皇攘夷の考えなのか?」と今更ながら思った。

「確かに命の危険がある」

西郷吉之助(のちの隆盛)と大久保一蔵(のちの利通)は、玄蕃が戊辰後に経済外交。

庄内藩や兵部省で、アドバイスを受ける。陸奥宗光・外相、渋沢栄一・経済界らも。

酒井玄蕃は師匠・秋保政右衛門の老いらくを理由に、兵学・砲術の師範として、米沢藩や、会津藩、仙台藩、山形藩などに師範代として指導にいくことになる。

家督を継いでから酒井吉弥は父祖代からの玄蕃(げんば)(号)を名乗り、吉之丞を襲名した。諱(いみな)は了(のり)恒(つね)。字(あざな)は伯通である。

父親の了明が幼馴染みの玉浦と玄蕃の祝言を無理矢理挙げさせた。

文句はない。両思いの幼馴染みである。

米沢藩では、藩主は上杉茂憲。家老・千坂太郎左衛門、竹俣美作。

「さすがに上杉謙信公以来の名門・米沢だ」玄蕃は感心した。

米沢藩への兵法講義では、講義の主は雲井龍雄という武人である。

大久保利通・黒田清隆は、兵部省入省から清国偵察と労咳で死ぬまでの上司である。

その他に、福沢諭吉・経済界。小栗上野介忠順・坂本竜馬・佐久間象山。吉田松陰・勝海舟。近藤勇・土方歳三・沖田総司。総司の義理の兄・沖田林太郎。新徴組隊長。戊辰での戦友

……酒井玄蕃の「人脈」は豊富であった。

会津藩は、松平容保。山本覚馬。山本八重。仙台藩は、伊達藩主。片倉和泉守。仙台藩にも玄蕃が兵法や砲術を指南する。

この中で、米沢藩の雲井龍雄はいっぱしの知識人であった。

「黒船はその目で見たかい? 玄蕃さん」

「はい。みました。おおきくてすごいはやく海をすすむ。これは西洋の技術じゃ、と」

「で、日本は勝てると思うかい?」

「まず、勝てないかもしれない。だが、ぼくが長沼流兵學を習ったのは勝つため」

「じゃあ、どうすれば勝てると?」

「まあ、日本の海沿いに砲台を築き、海の軍艦・黒船に大砲を撃ち込む」

「〝駄目〝……〝落第〝! 日本は四方八方海だらけ。大砲が何百台あっても足りない」

「しかし……主要な港に大砲を配備して…」

「だから、それが〝駄目〝を打つ、ってんだい。いいか。西洋列強は文明が進んでいる国だ。ほんとうの攘夷っていうのは天子さま(天皇陛下)のために死ぬことでもないし、黒船や軍艦を砲撃することでもない。これを見てみろ!」

雲井は地球儀を掲げた。

「地球は丸い。だが日本はこんなちっぽけな島国だ。だが、イギリスも大英帝国といわれているがこんな島国だ……じゃあ、日本とイギリスの違いは?」

「……船だずう。軍艦だずう」

「んだ! 軍艦だ。もう鎖国だの尊皇攘夷だのじゃねえ」

「そうか! 日本はもう開国してるがら……西洋の優れた技術や知識を集めて、優秀な人材をそろえて……この日本も外国に負けない国に「追いつけ追い越せ」だべ!」

「んだ! んだずう! ……その通りだ。もはや徳川幕府はいらない」

「え? 雲井さん。あんたは……確かに……米沢藩は外様だが…幕府との関係が深い。その立場での「倒幕」は危ないですよ」

「ははん。……では、酒井さんは佐幕派ですか?」

「いや。わからねえべえ。でも、庄内藩は元々幕府よりの藩ですがら…」

「幕府か。まあ、見せてもらおうか。徳川幕府の最期の断末魔を」

「雲井さん。危険な考えだずう。雲井さん、今の世の中は危険です。都では天誅や攘夷と称して浪人達の辻斬りが横行していると。米沢藩でさえも危ないですよ」

「かまいませんよ。ぼくは。天誅上等。この雲井龍雄、負けませんよ」

雲井龍雄はにやりといった。

まるで、〝闇の陰謀家〝だ。



歴史上の人物は、その時代に傑出し、活躍し、英雄と呼ばれて民衆から慕われた人々である。さまざまな分野で、その人たちが生きた時代に、その人自身が持つ並はずれた才能によって、数多くの制約・重圧とたたかい、成功や失敗にかかわらず、群を抜く功罪で名を後世に残した。

時代は幕末、米沢の雲井龍雄は、近代国家建設に尽力し、維新の大業を純粋なものにしようとした。藩閥政府の中心である薩長に反抗して刑場の露と散る。

昇り竜の如し、雲井龍雄伝をものしてみたい。(『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店参照)


この物語の主人公・雲井(本姓・小島)守(もり)善(よし)・龍雄で、ある。『くもいたつお』である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の薩長同盟ができ、幕府が敵とされた時期だった。

 雲井龍雄は『維新の書』を獄中で書いていた。薩摩藩を討つべし! それが、『討薩檄(とうさつのげき)』である。最初は『討幕派』であったが、明治新政府が出来ると腐った私利私欲にうつつをぬかす薩長幕政に嫌気がさし、特に薩摩を憎むようになったのだ。

 弟子と妻は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の龍雄が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。

「先生!」意外にも龍雄は微笑んだ。

「………ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」

「先生! せ…先生!」

「旦那様―! 旦那さまー!」

 やがて龍雄は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。

鋭い光を放つ刀が天に構えられる。

「………朝に道をきけば夕べに死すとも可なり」

「ごめん!」閃光が走った……

「旦那さまーっ!」妻は号泣しながら絶叫した。暗黒の維新回天時代ならいざ知らず、戊辰後の明治政府初期の時代である。明治初期の天才・米沢藩の思想家・詩人「雲井龍雄の「死」」……

 かれの処刑をきいた弟子たちは怒りにふるえた。

「軟弱な明治政府と、長州薩摩の保守派を一掃せねば、本当の維新はならぬ!」

「先生はあまりに頭が切れすぎた。『討薩檄』はまずかった。薩長の奸賊どもめ!」

 弟子は師の意志を継ぐことを決め、決起したがもう遅い。もはや師匠・雲井龍雄は『あの世のひと』である。


雲井龍雄が貧乏武士というか、百姓というか。これはこの小説の設定であり、本当は商人の跡取り息子である。侍ではないが『御免』(苗字帯刀を許された)であり、腰の帯に刀と脇差しを差している。尊皇攘夷の志士であり、過激派でもある。

そのうち、京洛や地方で浪人衆のあいだで流行りだした尊皇攘夷にかぶれた。

尊皇攘夷……………

日本の象徴の天皇を守り、敬うことで、天下の天下は天下なりとなる。朝廷や天子様(天皇陛下)の為に、外国の異人たちと戦い討ち滅ぼし、日本国を外敵から守る!

この危険な思想に、雲井龍雄たちはかぶれた。

だが、そんな尊皇攘夷の志士も、米沢藩(現在の山形県米沢市地方)の田舎にいるうちは駄目である。

同年のある月夜のある日、夜四つ(午後十一時)。尊皇攘夷思想の連中と、田舎の山中の無人の寺院内だった。

志士かぶれの数十人が話し合っていた。態度や思想だけは立派で、勇ましい。

月明かりがあたりを蒼白く照らすが、蝋燭の炎が、寺内部を鬼灯色にする。

しかし、誰かが藩の捕り方に、集会のことを密告した。捕り方たちがやってきた。

連中は、突撃してくる。

「ご用改めである! 神妙にしろ!」

捕り方たちは集会の名簿や、誰それ、までは知らなかった。

大勢が刃向かう。斬り合いになる。

雲井龍雄や同士たちは、夜陰にまぎれて逃げるのに成功した。

鯉口を切りながら、駆け抜けた。

だが、仲間の一人は慣れない刀で応戦し、斬られて死んだ。

そののち、捕縛された連中も、何も語らぬまま斬首となる。

くそったれめ! 雲井龍雄は下唇を噛む。怒りで手足が小刻みに震えた。

一歩間違えば、おれも斬首だった。くそう! 落涙し、手の甲が濡れる。

 身分の差なんてくそくらえ! エセ侍からの脱却を決意する。

「虐げられる百姓のままでは終われない。エセ侍のままではおわれない!

 侍に、尊皇攘夷の攘夷の志士になってやる!」

 雲井龍雄は強く、こころに誓った。侍に………尊皇攘夷の尊皇の志士……に……なる!


 雲井龍雄こと小島守善は、討幕派というより、尊王攘夷の志士である。

 米澤出身の田舎者であるが、猛勉強の末に、〝天才〟として幕末に大活躍した。

 主は上杉茂憲公であるが、どうも雲井は不幸が先立つ。

 明治時代になって、〝倒薩檄〟を書き上げると、薩長明治新政府を恐れた米沢藩は、雲井龍雄を放逐する。

 すべての逃げ道を閉ざされ、進退窮まった雲井龍雄は、労咳(肺結核)に侵されながら、斬首という判決で刑場の露、と消えるのである。

 雲井の不幸は、頭が良すぎたこと。薩長の藩閥政治の有害性に気づき、警鐘を鳴らした。

 それで、危険視され、殺された。雲井は存在自体が薩長新政府にとって、危険だった。特に大久保利通は大の〝雲井龍雄嫌い〟だった。雲井の死は、まさに私刑(死刑)であった。

清河八郎は幼い頃から家業に従事して商才を発揮した。父親は本好きで、この頃、孔子の『論語』であっている。

彼にとって当時の日本はいびつにみえた。八郎は尊王壤夷運動に共鳴していた。

八郎には、幼い頃の記憶があってよく夢に出てきたと日記に書いている。それは藍玉をつくる男の影である。実際に父親が商人で、紡績業でもしていたのだろう。


歴史上の雲井龍雄は、豪農の、田舎者である。

農家の藁葺き屋根の木造家屋、緑の森や田圃が広がる。耕作用の牛馬が糞尿をたれ流し、草を食んでいる。牧歌的な印象の村だが、時代は、激動の徳川幕府統治下二百六十年である。

雲井龍雄は、若い頃は色男ではないが、醜男だったのでもない。

雲井龍雄の家は確かに、農家で、つまり、百姓で武士だ。が、侍ではない。豪農だから、食うには困らない。

「え~と。藍玉が五十個で、一両で、それが百二十五個と、それが昨日の分十箱でそれで………え~と」

「番頭さん、二○五両だよ」跡取り息子の雲井龍雄は算盤も弾かず、暗算で答えた。

にやり、となる。若い賢そうな跡取り息子である。

眉目秀麗という訳でもないが、まさに農家の息子というような跡取り息子だ。

色黒な肌は、流石は農家の息子、である。

華奢な身体に、艶やかな髷の髪型をもち、おおきい鷂(はしばみ)色の瞳の龍雄は十七歳。見た目では、童顔で、十四歳に見える。

風邪も引かない大丈夫な農家の息子である。

少年時代の雲井龍雄は頭の回転が速く、権威や家格にものおじしないやんちゃな息子であった。

「おれは権力も武士も、なんとも思わない。同じ人間じゃないか」

雲井龍雄はまだ、幕府や武士・百姓町人などの官尊民卑を、知らなかった。

「……農家の何が悪い!」

「龍雄。お前は剣術より、算盤や物書き、商売を学べ。これからは武士より、商人の時代だ」

「貿易の時代ですか? 父上」

「おうとも」父親は頷く。徳川幕府統治下なので、立派な着物姿である。髷もしている。豪農で、商売人であり、商売に長けた父親である。

龍雄はこの父親の背中で、商売のイロハを学ぶ。

賢く、利発な跡取り息子に、青年になる。

けして、鳶が鷹を生む、ではない。

父は四十五ですでに家業の中心の人物となって働いていた。使用人たちと一緒に昼には仕事に精を出すが、父親に似て書物好きであった。

夜は書や読書に励み、厭きることはない。父も祖父も、大変立派な人物だった。

家業を守りながら、只の商人に堕するでもなく、広い教養を身につけていた。趣味は水墨画で、息子の龍雄もなかなかの人物だった。

雲井家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。

原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なる。

常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。

元司(龍雄の幼名)も、父と共に信州や越後まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。

十四歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになる。

だが、この時代、武士や徳川幕府の天下である。

龍雄は商売の面白さに、魅了された。が、同時に、違和も、感じてはいた。

武士の態度の傲慢である。

いちいち偉そうなのだ。町人や農家や商人から、年貢を取って、それで食っている。

年貢で食っている立場の武士や、幕府、ではないか。

こうなると龍雄には面白くない。

元々、権威や格式に物怖じしないのだ。夕方の萱葺屋根の家屋で、

「武士の何が偉い?」龍雄は口にする。

「百姓の何が悪い? 人間の食べ物をつくる貴重な職業ではないか!」

「……龍雄! やめんか! 武士どもは町人百姓より偉いって神君・東照大権現公が決めたんだ」

「んでも、父上、百姓は食べ物をつくりますが、武士は何をつくります?」

「んだがら」

 父親はいぶかしがった。

「……百姓は武士の家来。そう決まってんだ」

「誰がそれを決めたんですか? 公方様ですか? 朝廷の天子様ですか?」

「龍雄! 長幼の序だ。年上のしかも、父親のいうことばきけ。世間には、長いものに巻かれろ、だよ」

 父親は叱るが、跡取り息子の龍雄は聞き分けない。

頭の回転は速いが、どうも反権力というか。これが、反抗期、というか。

 身分は百姓の息子でも、そこには志士の胸の炎が見えるようだ。

見るといつも穏やかな表情を崩さない龍雄の顔がどす赤くかわっている。龍雄の背筋に、冷たいものが走った。

龍雄が、身動きできないうちに、顔色がみるみる赤くになっていくようだった。

重くなった胸に、早鐘のような鼓動がひとつ打つごとに蓄積していく。

雲井龍雄は、孔子の論語にこの頃、はまっていた。寺子屋でも、孔子の論語に熱心に当たっていた。龍雄は、晩年、「至誠の論語」という思想を掲げた。

龍雄にとってはちゃんとした考えであった。

一日に論語に当たって、一日に瞑想をして、発案を次々に出して、商才を磨く。

また、龍雄は漢詩も得意であり、商才だけでなく、文才もあった。

剣の腕はまあまあだったが、商才とか文学の才能とか、芸術面商売面での才覚が鋭い。雲井龍雄郎は、漢詩の作家になろうか、とも思ったこともあった。

だが、商売ほど面白いものはない。

金を稼ぐ。お金や財産は大事だ。

「金などいらぬ」等と綺麗事を言ったところで金や銭がなければ一個のおにぎりやお団子も買えもしない。

命の次に大事なのは金だ、では怪しげな新興宗教の教祖でしかない。

が、世の中は金の力で解決する悩みは多い。金があればあるだけ、悩みも減る。

お金という大きな力があれば、千騎の武者、を味方に得たようなものだ。

 農家の雲井龍雄は、藍玉を売りにまたも越後・湯川村諏訪駿河屋への旅だった。歩く北陸街道の山道で、立ち止まり、青天を見上げる。

早朝、遠い目をして口にする。

「……金儲けは楽しいのう」

商人の池口平蔵と三春八郎が大八車を押す。

その後、かごを担ぎ直した。竹製の水筒の水を飲む。汗を拭う。


米沢藩の上杉氏の歴史を振り返ってみよう。

幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「哀れ」に感じたに違いない。

 確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱(つな)憲(のり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。

 だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。

新たなる危機は禄高減少である。

 ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。

 結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどで、たった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利

……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。

 上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(二○○九年度大河ドラマ『天地人』の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。

しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。

 上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。

土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。

 苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。

 私の親戚のひとに聞くと、七十年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたのだという(笑)

 雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。

除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。

 私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。

 だが、米沢の鷹山公の尊師・細井平洲先生、である。

 平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。

平洲は潔く承諾し、浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道する。と、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、高度な直接経書に基づくものだった。

松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。

それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。

〝上杉の義〟等という理想論ではなく、〝成果主義〟でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。

平洲は

「どんな綺麗事を並べ立てても銭金がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭金は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。

平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で平洲に松柏は入門した。

藁科松柏自身は米沢本国にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣(たけのまた)美作(みまさく)当綱(まさつな)、莅戸九郎(のぞきくろう)兵衛(べい)善政(よしまさ)、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。

その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。

しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)・森平右衛門利(とし)真(ざね)に籠(ろう)絡(らく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。

竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だ。

が、望みの期待の〝改革派の頼りの綱〟はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。

松柏は〝大人物〟細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。

「上からの論理ばかりでは〝死角〟ができる」、

「諌言をさまたげ、甘言によっては〝大きなツケ〟ばかり残る」

平洲の主張もごもっともであった。

竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。

「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」

竹俣は

「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」

とため息をついた。

望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。

溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。*

上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。

 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか? やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのだ。

 だが、米沢藩の改革は成功し、幕末に時代は移る。

 幕末の米沢藩はまさに大波乱の国である。

 藩主・上杉斉憲の世子の茂憲が主導して、幕末の戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟で、薩長明治新政府軍と戦う。が、敗れて、明治の代へ。

 のちに、上杉茂憲公は沖縄県知事となり、沖縄で改革をするがそれは私の別の小説を参照されたい。


同年某日。

雲井邸では、春の陽気の中、祝言が執り行われた。

さらさらと、桜の花びらが細雪のようにゆっくりした風に吹かれてふりそそぐ。儚い。

淡い桃色の桜吹雪が、まさに美しい。桜も祝言をお祝いしているようだ。

愁いを含んだ早春の光が、障子越しに差し込んでいた。

障子を開けると、縁側の外には四季折々の菜の花が育つ庭がある。

萱葺屋根の豪邸である。が、村では老舗店ではない。豪農として知られた。

立派な建物、むしろ風流な豪農木造民家。結婚式には似合いだ。

新郎が雲井龍雄(小島)、新婦は元・女郎の遊郭からもらい受けた女、である。

女は、龍雄がはじめて会ったころにくらべると、まるで別の女のように様変わりしていた。こけていた頬に肉がついて、血色もよく、大きな茶色い目がきらりきらりと光っている。痩身は痩身だが、手足から骨張った感じがなくなり、身体が丸味をおびている。

髪はつややかな光沢がつきまとっている。お蓮はいま、女性の一番と美しい時期を迎えようとしていた。

みんな祝いの酒を飲み、酒臭い息で、ご馳走をもぐもぐ食べている。

「おめでとう! 龍雄(小島守善)、いよいよ、お前も妻帯者かあ」

「腰を痛めるなよ。奥さんがかわいそうだからのう」

「それより、武士になって何かかわったかい? かわらんべな」

「そうそう。武士の格式や習いより、商売だべなあ。商売の方が面白いだっぺ?」

「まあ………」新郎の龍雄は、やっと声を出した。

「そうですが……」

「なんじゃ? 龍雄。もったいぶった話し方をしてえ。しっかりせんか!」

父親は紋付き袴のまま、クダを巻いた。

「これこれ、義兄さん。飲み過ぎですよお」義叔母さんが笑う。

「こんな祝いの場で、しらふでいられるかいぃ。のう? 龍雄?」

新郎と新婦のふたりは、顔を見合わせて、微笑んだ。

「でも、わたしはその方がいいわ」

長い睫を伏せて、妻がかすかに言った。

「なにがいいんだ?」

「旦那様が江戸に行かない方がいいわ」

「案外に不人情な女だな、おめも」

「だって、行ったらもう会えないかもしれないもの」

妻は吐息を漏らし、顎をひいた。

恋愛結婚などこの時代、ある訳がない。

 その日の夜、いわゆる初夜な訳だ。二人とも布団に横になっている。が、なかなかいやらしいことをすぐに励む訳はない。すぐにというのもやはり、無理な話である。

男女関係にしても、そういうことはなるのかも知れない。

だが、そうそう性欲もんもんの人間ばかりじゃない。

 結婚から三年後、子供も出来て、雲井龍雄は二十二歳になった。

「江戸にいく!」龍雄は決意する。

「剣術修行だ!」

 またとない機会であった。



龍雄が千葉剣術稽古場に入門したのは、その年の七月、江戸に来て二ヶ月が経っていた。

華のお江戸で、尊皇攘夷などで進退窮まっていた雲井龍雄は、折良く出府してきた親類の弥八右衛門に救われた。しかし、それですぐに親類の推薦で緒方洪庵の蘭学塾『適塾』にはいる、とか、父の後見人の許しを得て商売に戻る、とかの状況ではない。

弥八右衛門は、熱心に帰郷を勧めたが、やがて、諦めた。

龍雄の決心が固いのを知る。と、とりあえずは緒方洪庵の『適塾』ではないが、江戸のおよそ有名とはいいがたい蘭学塾に、龍雄を入れた。

龍雄は猛烈な勉強をはじめた。それは、乾いた砂が水を吸収するかのようなものだった。

蘭学塾の先生の書物を、研究しながら、片端から書き写す。

龍雄の鈍重な米沢訛りは、時折、塾生たちの笑いものになった。

が、龍雄の勉強の真剣さを知ると、数ヶ月後には嘲笑は止んだ。

なんでもやってやろう、龍馬はそういう気持ちになっていた。江戸に来てすぐの頃の、手足を縛られたような状況とはまるで違っていた。

青空に解き放たれたとらわれた鳥のような、龍雄の気分は完全に自由だった。

蘭学塾と同じく、江戸の千葉剣術稽古場でも鍛錬を重ねた。

「若先生だ。技が早いから見逃さずにのう。しっかり、学べ」

剣術稽古場の仲間が、小声で囁くように後輩にいう。

米沢の先生の稽古場の剣術とはまるで違うな。

龍雄は剣術の先生の千葉栄次郎の木刀さばきに見とれながら、茫然と思った。この剣豪をもやぶった剣術の天才が、いるのか。




  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……


 伊藤博文が、このような『高杉晋作』に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。

「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」

 英国の痛いところをつくものだ。

 伊藤は感心するやら呆れるやらだった。

 明治四十二年には吉田松陰の松下(しょうか)村塾(そんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。

 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  

 松門の龍虎は間違いなく『高杉晋作』と『久坂玄瑞』である。今も昔も有名人である。

 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした『高杉晋作』『久坂玄瑞』に比べれば『吉田松陰門下』というイメージは薄い。

 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されている。

「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」

 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。




 その頃、長州藩(山口県)の思想家・吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。

 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。

 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。

「黒船に密航しようとしたんだとさ」

「狂人か?」

「先生! 先生!」

「下がれ! 下がれ!」

長州藩の桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。

 松陰は殴られ捕縛されながらも

「私は、狂人です! どうぞ、狂人になってください! そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります! 狂い戦ってください! 二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」

「先生!」晋作らは泣き崩れた。

黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。

 唐(とう)丸籠(まるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。

「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ! 幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」

役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。

「うるさい! この野郎!」

「いい加減にだまらぬか!」

「若者よ、今こそ立ち上がれ! 異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ! 若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ! この日の本を守る、熱き志士となれ」

 またも役人は棒で松陰をボコボコにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。

「耐えるんだ、皆! 我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。

江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかった。

が、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。

それは切腹でなく屈辱的な斬首である。

そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。

やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。

 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生! 先生!」「兄やーん! 兄やーん!」

 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも

「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。

 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。

 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら、

「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。

 だが幕府役人たちに、

「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」

 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。

「百年後……二百年後の日本の為に…」

 しばらくして松陰は

「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。

「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」

松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。

「ごめん!」

 吉田松陰の首は落ちた。

 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。

 高杉晋作は怒号を発した。

「首がないぞ! 先生の首はどうしたー!」

「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」

 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。

「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」

 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!

 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、

「是非に大老殿のお伝えくだされ! 松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると! 聞け―幕府! きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ! この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」

 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。


 雲井龍雄が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。

「雲井さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」

「わかってくれだんべがか?」

「ええ」晋作は涼しい顔で言った。

「これからは、長州は倒幕でいきますよ」

 龍雄も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。

 武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。

 高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、

「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」

 竜馬は同意した。よしよしという感じで、しきりに頷く。

「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」

「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」

「それはええですろうのう!」

 竜馬はにやりとした。

「それ坂本さん! 唄え踊れ! わしらは狂人じゃ!」

「それもいいですろうのう!」

 坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。


 竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。

 晋作は呆れた。「なにーい?! 勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」

「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」

「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」

「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。

それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」

「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ! 君はまんまとだまされたんだ! 目を覚ませ」

「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ」

 同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、

「聞く必要などない! こいつは我々の敵になった! 俺らが斬ってやる」と息巻いた。

「待ちい、早まるなち…」

 高杉は「坂本さん、刃向うか?」

「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」

 高杉は考えてから、

「わかった坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」

「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。

夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。

 勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利(ゆり)公正(きみまさ))と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。

 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であった。

 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。

 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと、

「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」

 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、

「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。

「日本人? ほう」

 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。

坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。

 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。

「やめちょけ!」

「誰やねんな、あんたさん?! あんたさんに関係あらしません!」

 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。

「……借金は……幾らぜ?」

「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」

 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。

「おまん、おりょういうがか? 袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」

 おりょうは激高して、

「うちは乞食やあらしまへん! 金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」

「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが? 幾らぜ? 三両か? 五両かへ?」

「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。

「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」

 おりょうは絶句した。

「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。

「そいでいいかいのう? お登勢さん」

「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」

 おりょうは答えなかった。

 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。

 

 武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものだった。

 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。

 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。

「お富、今度旅行にいこう」

 半平太はそういって連行された。

 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。

 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。

 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。

 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。

 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。

 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。

 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷した。

「幕府は腐りきった糞以下だ!」

 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。

 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉佐那子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごした。(最近、一度結婚してすぐに離婚したような資料が見つかったのだという。本当なら大発見だ)


禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池(いけ)内蔵(くら)太(た)もいた。だが中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。

「御所御門に発砲するとは何ごとか?! そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」

「そんな話があるかー!」

 鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。

「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」

 武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出た。

が、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。

久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。

「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」

 入江(いりえ)九一(くいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。

 右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。

「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」

「ああ」

「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」

 久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。

 やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。  


 竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。

 のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。

 すべては日本の国の為にである。

 長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。

 京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。

 だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。

 勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。

 ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。

 だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。


 雀が空の低いところを飛んでいる。小雪が降っていて、肌寒い。

 米沢藩の幕末の風景は、きれいな風景であった。雲が低く、一面を白くしていく。

「小島は江戸に行ぐのが?」肩を並べて歩いた。

「んだごで。当たり前だ。おらは米沢藩では秀才で通っている。江戸に遊学しないでどげんするんべな?」

「なら、山田蠖堂(やまだかくどう)先生の推薦状をもって江戸の三計塾が?」

「んだごで。藩校興譲館の山田先生は安井(やすい)息軒(そくけん)先生、塩谷宕(しおのやとう)陰(いん)先生と並んで三傑と呼ばれている。んだら、金子(兵助)は?」

「おらは無理だべな。八歳で藩校興譲館の曽根俊臣の門を叩き、山田先生の薫陶を受け、論語を一刻(約二時間)も諳んじた天才・小島のようにはいかんべな」

「まあ、金子。おめはいづだっで、おらの親友だべな。んだげんじょ、おらは天才ではない。秀才だ。勉強を必死にやっだだげだべしだ。んでも、おらは本気で世の中の役に立ちたいんだべ。でぎれば、米沢のために―――――――」

「米沢の?」

「うむ。んだべな」

「お前はオリキリキ……じゃからなあ」

 雲井の同僚は、そういって龍雄をからかった。

 少年時代、龍雄は「お歴々」を「オリキリキ」と主張した。

 ガキ大将は「お歴々(オレキレキ)」と主張。大将に続け、と子供らは「お歴々」についた。「オリキリキ」は雲井ひとりになった。「小島! 間違っていたら大皿で水十杯だぞ!」

「望むところだ!」

 子供たちは先生に聞いた。やはり、「お歴々(オレキレキ)」だった。

 雲井は観念して、水を飲みだした。大きな器で、井戸の水を飲む。普通の器でも数十杯はきついのに、大きな器で、水飲みである。

 だが、雲井はふらふらになりながらも、水を飲む。そこで、根性を見せた。

 このエピソードは、後年、関係者が雲井龍雄のことを聞かれて何度も語ったらしい。

 猛勉強のための眠気覚ましの頭を叩く、〝勉強棒〟といい、雲井龍雄は本当に凄い。


「ぼちぼちだべな」

「ん? なにがだんべ?」

「江戸への遊学だべな」

 龍雄は静かに笑った。

「上泉―――おめもいぐっでが?」

「おらが? まさが」

 直蔵は苦笑する。

「江戸遊学は藩の秀才……いや天才の小島だべな。おめだげだあ。米沢藩で殿様に遊学の費用までだしでもらえんのはあ」

「んだげんじょ。それはおらが一生懸命努力して勉強したからだべな」

「努力?」

「んだ。人間は努力次第だべ。努力もしねで夢ばがり語ってもしかたねえのっす。人間は努力次第で何にでもなれるのよっす」

「―――んだが? さすが別名・雲井龍雄殿!」

「んだごで」

 雲井龍雄は大きく頷いた。

 それが彼の信条でもあった。


 立志


          米沢の春



 京都のお登勢さんの宿『寺田屋』に、坂本龍馬をたずねた雲井龍雄は〝龍馬払い〝で豪華な食事と芸子遊びをしてキセルでタバコをくゆらせていた。

竜馬は寺田屋にもどってきたが、龍雄とは初対面であった。

正確にはお寺で遭遇しているが、ふたりともわすれているようである。

「おまん、だれぜよ?」

雲井龍雄は寺田屋の浴衣姿で芸子にもたれかかり横になって、

「ふーん、あなたが勝海舟の一番弟子の坂本龍馬か………ずいぶんうす汚れているね。私は、雲井龍雄だ。」

雲井は面長で眉目な美少女のようである。

雲井龍雄。この時十九歳。後に明治新政府の悪とみなされ、さらに処刑・さらし首となる雲井龍雄である。

「なるほどおんしの方はわしを知っちゅうがか」

「あんた、先月の五月十日のことは知ってますか?」

「ん!?」龍馬は黙った。

「幕府が朝廷に対し、攘夷を決行すると約束した期日だよ」

「幕府に替わって長州が、その日下関海峡でアメリカ商船に砲撃したことか?」

「うむ! 長州はその後、フランス、オランダの軍艦も砲撃した。」

「じゃが、今月、報復攻撃にあっさり打ち破られたようじゃの」

「さすが、勝海舟についてりゃ情報は早いな」

「で?」

「私はちょうど長州に行っていて、その現場を見てきた」

「おう! そりゃすごいのう! 詳しくきかせてくれ」

龍雄は芸子らに人払いを命じた。

竜馬は銭がたんまりはいった財布をお登勢に渡し、

「お登勢さん、この中から今までの分払うといてや」と言った。

龍雄は長州藩の『攘夷決行・異国艦隊への砲撃』を龍馬に語った。

「あんたはどう思う? 幕府がいう様に、長州が軽挙妄動をしたと非難するかい?」

「いや、これで西洋列国の実力と日本の無力さが思い知らされた。

平和ボケした武士どもや空念仏の攘夷論者も目が覚めたろう。ここからが日本人の踏ん張りどころだ。国の改革が始まるがぜよ。長州の行動は決して無駄ではない」

龍雄は〝なるほど。馬鹿ではないな〝と思った。

「ところでおんしゃあこの俺に何の用きにか?」

「いやあ、勝海舟が作ろうとしている海軍塾は………なかなかいい見通しだと思ってな!」

「ん?」

「でさあ、わたしもそこに…入ってやろうと思ってな」

「おお! そうか! おんしゃ海軍塾に入りたくて来たがか。そりゃあ、大歓迎ぜよ」

龍馬は喜んだ。

「よし! わかった! 勝先生に話すきになあ」

「いろいろ情報を仕入れてみると、今、海軍塾に入るとどうやら坂本龍馬という男が、先輩ヅラして塾頭として上にいることがわかって…わたしの上に立つ奴はケツの穴がどの程度の男かと思ってな」

「神戸には明日立とう。わしゃ長い事眠っちょらんきに、寝る」

「え?」

龍馬は着物姿のまま、畳に寝転がり、眠った。もう熟睡している。

龍雄は驚いた。

「なんだ? あっというまに熟睡してやがる。なんなんだよ、こいつは。

初対面の男の前で、いきなり大の字で寝るかよ。

無防備? いや、お人よしか? 変なやつ…」

 翌日、龍雄はもっと驚いた。竜馬が汚い服でいるとお登勢さんが

「駄目です、坂本さん。まずはお風呂にはいらんと。ちゃんと体を洗うんどすえ! 髪もちゃんとあらって! 顔を洗って!」

………なんだよ、いい年こいてガキ扱いされてるぞ…情けない男だなあ。

雲井龍雄は呆れる前に驚いた。結局、雲井龍雄は海軍塾には入らないでおわるのだが、そうそう説明ばかりもしていられない。印字枚数に限りがあるのだ。

朝ごはんも龍馬は飯粒をぼろぼろ落とす。飯を食っているのにそばで小便して、袴にもらす。

……なんじゃ、こいつは。これじゃ、まったくのアホだ。北辰一刀流の達人ってのは嘘じゃないのか? 龍馬は龍雄のような常識人とプライドの高い男には理解しかねる人物であったに違いない。のちの英雄の坂本龍馬も、いってみれば身分は〝只の脱藩浪人〝である。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第七巻(改筆)

 

雲井(くもい) 龍(たつ)雄(お)(天保五年三月二十五日(一八四四年五月十二日) - 明治三年十二月二十八日(一八七一年二月十七日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての志士、集議院議員。本名は小島守(もり)善(よし)、字は居貞、号は枕月または瑚海侠徒とも。

壮志と悲調とロマンテイシズムに溢れた詩人とも評されている。

雲井龍雄という名は明治元年(一八六八年)頃から用いたもので、生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。

また、自称変名として用いたものに遠山(とおやま)翠(みどり)、一木(いちき)緑(みどり)、桂香逸(かつらこういつ)などあるが、雲井龍雄の変名がもっとも知られている。

生涯

天保十五年三月二十五日(一八四四年五月十二日)、米沢藩士の父・中島惣右衛門平(勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等六石三人扶持)と屋代家次女・八百の二男二女の次男として米沢袋町に生まれる。幼名は豹吉、猪吉、さらに権六、熊蔵などと名前を変えた。

幼い頃は負けず嫌いで腕白な性格であった。八歳で近所の上泉清次郎の家塾に就学し、その優れた才能と胆力を認めた清次郎から孟嘗君と呼ばれた。九歳にて師・清次郎が病死すると山田蠖堂(やまだかくどう)の私塾に移り、十二歳の頃には郷学の中心的存在であった曾根俊臣にも師事する。

十四歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場であった。

が、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けた。

好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約三千冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。

十八歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。二十歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、二十一歳で高畠の警衛の任に就いた。

慶応元年(一八六五年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井(やすい)息(そっ)軒(けん)の三計塾に入門。息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。

こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷(たに)干(た)城(てき)以来の名執事長」といわしめた(若山甲蔵『安井息軒先生』)。

同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。

またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助や同郷の清河八郎と出会った。



雲井龍雄は本名を小島龍三郎(または小島守善)といい、天保十五年(一九四四)正月(一月)二十五日、出羽国(山形県)米沢の藩士、中島摠(そ)右(う)衛門(えもん)の次男として、米沢の城西、袋町(現松が岬二丁目)に生まれた。

袋町は米沢城の外堀に代わる堀立川を西に、五十騎町を東にして南北に長く、北から入るただ一筋の道が行きどまりで袋のようになっているのでこの名がつけられた。

「おお、でかしたぞ! まるで女子のようにかめんごい(可愛い)顔の綺麗な赤子じゃ」

父親はのちの雲井龍雄となる赤子をあやした。

「まあ、もう親ばかにございますか? 旦那様」

産後すぐでくたくたな母親が、幸せそうに微笑んだ。確かに生活はあまり余裕のあるものではなく、苦難の貧乏生活である。

だが、文武両道と武門で知られる出羽米沢藩の藩士であり、軍神として城下でも尊敬の的である上杉謙信公を藩祖としている(上杉家としての祖で、米沢初代藩主は謙信の養子・上杉景勝)伝統ある上杉家の家臣で、ある。

 家格で言えば農工商の頂きにいる士族である。

長男がいて、のちの雲井龍雄は嫡男ではないので家督は継げない。だが、父親は何かと聡明な龍雄に驚かされることが多かった。まず、学問の吸収と栄達が極めて早かった。

俗に『神童』という存在がいるが、のちの雲井龍雄はまさにそれであった。

ちなみに幼名は猪(いの)吉(きち)。やや長じてから養父の名をそのまま継いで権六(ごんろく)、または熊蔵と呼ばれた。もの心ついてからの名前は龍三郎(自分でつけた変名のひとつ、正しくは守善)。

肖像写真で見てもわかるように、まるで「美貌の女性」のような端正な顔と華奢な身体で、ある。だから、「女子のような野郎」、「姫様!」と、父親の上司・家臣士族の寺子屋などの同級生たちから『村八分』にされたり、からかわれたりすることもあった。

投石やからかいの的になるとのちの雲井龍雄(小島守善)は石を投げ返す。

「女子! 姫! 姫!」

「馬鹿者! 私は女子ではない! 米沢藩の昇り竜・雲井龍雄だ!」

 雲井龍雄こと小島守善はいじめを苦に自殺するような心の弱い人間ではない。

復讐のためにと、誰よりも勉学に励んだ。

雲井龍雄は勉強を続けて、眠くなると硬い棒で自分の額を殴った。睡魔を殴ってでも、追い払い、

「勉学で知恵によって貧困層から抜け出し「いじめっ子たちより社会的に成功する」」

という野心満々の男であった。優しい華奢なヤサ男に見える肖像写真からのイメージとはまったくギャップがある性格と野心だ。だが、それが雲井龍雄である。

かつては寺子屋が、藩士庶民たちの学校である。まあ、今でいえば小学校な訳だが、当然ながら「学校給食」などある訳がない。皆「弁当」持参である。のちの雲井らは貧乏だから、米に梅干しのいわゆる「日の丸弁当」である。また「貧乏人」とからかわれる。

のちに雲井龍雄となる小島守善は帯刀を藩に願い出て、許可された。

この帯刀は事実上の元服といえる。

しかし、のちの雲井龍雄は小柄で華奢で、一目見ると少女のようであった。

が、その内心には武士の魂が育っていた。

このころ雲井少年をいじめていたいじめっ子たちのボス的存在が、家老の佐藤某という息子の大柄な嫡男である。

米沢藩内で雲井龍雄こと小島守善が繁華街を歩いていると、その佐藤某の嫡男やいじめっ子たちが

「女子男! 女郎!」と囃し立てる。

佐藤某の息子が

「女子男にその腰のモノが抜けるのか? それとも飾りか?」

と木の枝で龍雄の帯刀をこんこん叩いた。

「無礼者!」

 とうとう龍雄は刀を抜いた。

「おっ………」

野次馬が集まってくる。龍雄少年は

「皆様方、この男はこれが飾りと抜かした! 飾りならば人の肉に触れても害はないであろう。試してみるので是非ご見物くだされ!」

と、刀を構えた。

「おお~っ!」

「試すって?」

「まさか斬るのか?」野次馬達がざわざわする。

佐藤某の嫡男は「な…なんだ? 本気か?」とびくついた。

「しえええーい!」龍雄は刀を振りぬいた。

ばばっ!佐藤某の嫡男のチョンマゲが斬れ、落ち武者みたいになる。

「わわっ…」

「飾りじゃ飾りじゃ、飾りをこわがるなよーつ!」

いじめっ子たちが恐怖で逃げ出した。

「お前の首を血で飾れ!」龍雄が刀を構え、大声で威嚇した。

「わああああぁあ~!」

 佐藤某の嫡男も逃げ出した。

「あははは。飾りがこわくて逃げおった!」龍雄が不敵に笑った。

 だが、しばらくすると家で父親に怒鳴られた。

「馬鹿者! 佐藤のお坊ちゃまに抜刀するとは何事か」頬を平手打ちされた。

だが、「折檻ではないぞ」といい蔵に押し込み「おしおき」のために閉じ込められた。

雲井龍雄少年は、

「もうしませぬ! もうしませぬ! ええ~ん!」と泣きだした。

暗所恐怖症のうえに閉所恐怖症で、さらに高所恐怖症でもある。

病気がちの母親は息子を、助けようとするが、龍雄の父親が、

「甘やかしてはならん!」と止めた。

しばらくして、息子は出された。

雲井龍雄少年は学問にも長け、文武両道であったが、涙もろく、人情に篤かった。

つまり、繊細な性格なわけだ。

母は晩秋、鮮やかに色づき次々と秋風に散りゆく光景で、

「守善、何故、紅葉が鮮やかに朱色や黄色に色づき散っていくかわかりますか?」と訊いた。

龍雄は「わかりませぬ」と息子は正直にいう。

すると母は、

「紅葉は御屋形である木を守る為にかわりに燃えるように色づき、御屋形の木を守る為に散っていくのですよ。

お前も紅葉のような米沢藩の上杉さまに仕える家臣とならねばなりませぬ。けして学問が上達しても努々「自分が他人より偉い」等と思いあがってはなりませぬぞ」

「はい、わかりました母上」

 雲井は約束した。

 母は労咳(肺結核)であった。ごほごほと病床で咳をして、喀血して、自分でも驚いたろう。だが、雲井の母親はまた、紅葉のように早逝するのである。

龍雄は泣いた。だが、母との別れで心の中で

「母上、かならずお約束お守りいたします。母上、おしょうしな(ありがとう)!」と誓った。

雲井龍雄の本名は小島守善だが、辰の年うまれであるからと龍三郎・龍雄と自分で名前を変えた。さらに付言すれば、龍雄の生まれたのは、明治維新の二十四年前であり、紀州の陸奥宗光と同年である。

長州の伊藤博文よりは三歳年少、肥前の大隈重信よりは五歳年少、土佐の板垣退助よりは六歳の年少であった。

また、自称変名として用いたものに遠山翠、一木緑、桂香逸などがある。

が、雲井龍雄の名前が広く知られる。龍雄の郷里米沢の西に連なる斜平山(なでらやま)のふもとが遠山という部落である。

龍雄の生家の近く桂の大樹があり、よい目じるしになっていた。桂といい、一木というのは、この老樹に因んだものと思われる。雲井龍雄の名は、二十五年の慶応四年(一八六八)七月頃から使用し、晩年は好んでこの名を使用した。

本名の龍三郎(または守善)に因んで、「雲龍昇天」の活躍を望んだものである。

次男に生まれた龍雄は母の死後、十四歳の安政四年(一八五九)五月、同藩の小島才助の養子となった。

 龍雄が初めて勉学の手ほどきを受けたのは、生家の北隣に住む上泉清次郎という人であり、龍雄八歳の時である。清次郎は、龍雄の教育わずか一年という短さで病死した。

そこで龍雄は、曽根(そね)俊(とし)臣(おみ)という人の私塾に入った。まあ、前述した寺子屋であり、前述したエピソードのようなものがあったり、なかったりする。

俊臣の本名は宮地敬一郎、俊臣は幼くして神童の誉れ高く、二十一歳で藩校・興(こう)譲館(じょうかん)の助読に挙げられ、さらに読長になった。一代に門弟三千人と称せされ、郷学の中心的学者であった。

惜しいのは戊辰戦役に志願して従軍、越後大黒の夜戦に斬込隊の先頭に立ち、敵弾で戦死した。

現在の上杉神社(米沢城址・松が岬公園)の西堤上にその慰霊碑が建っている。次いで龍雄は、遠山の里(米沢市遠山町)に住む山田蠖堂の私塾に移り師事する。

(「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作・遠藤書店三十九~五十三ページ参照)


関連項目

• 討薩檄

討薩檄

「討薩檄(とうさつのげき)」は、戊辰戦争に際し、米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために起草した檄文。

この文章の内容と政治思想が、明治政府のしゃくに触り、「危険分子」として雲井龍雄は罪名も不明のまま斬首され、この世を去るのである。

まるで関ヶ原のきっかけをつくった直江山城守兼続の「直江状」のようだ。


内容

その文章の迫力や訴える力において、数ある古今の檄文の中でも名文と言える。実際の戦闘においては物量や人的資源にはるかにまさる主に薩長率いる新政府軍に奥羽越列藩同盟は敗れることになるが、「討薩の檄」は、薩長を中心とした視点とはまた別の視点を今日にも訴えるものとも言える。

なお、雲井は、大政奉還に協力・尽力した人物であり、必ずしも佐幕派ではなかったが、薩長の武力討幕方針に反対して奥羽越列藩同盟に身を投じた。

雲井は戊辰戦争期間中、薩長の離間を画策し、「二毛作戦」と呼ばれる、遊撃隊を率いて上野・下野方面から官軍を撹乱する作戦を採ったが、作戦は失敗に終わった。

戊辰戦争終結後、雲井は米沢藩から推挙されて新政府の集議院に勤めるが、のちに戊辰戦争期間中の言動が理由で集議院を追われ、その後、帰順部曲点検所を設立し失業士族の救済に奔走するが、謀反を企てているとして処刑された。

この物語とこの物語の大河ドラマでは、家の強い絆と、雲井龍雄の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!

 大河ドラマ「花燃ゆ」(二○一五年度作品放送)。大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な、杉文が主人公ではあった。大河ドラマ「篤姫」「西郷どん」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花神」「花燃ゆ」では長州藩を描いた。なら大河ドラマ「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代(主人公は男性だが女性説で「雲井龍雄」とか「上杉謙信」とか)」では米沢藩を描いてほしい。

 大河ドラマ「花燃ゆ」は、大河ドラマ「平清盛」のような低視聴率になった。

が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。

 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」「マッサン」「あさが来た」「半分、青い」「まんぷく」「なつぞら」「らんまん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。

「この雲井龍雄、この動乱の世にあって、大活躍をするぞね!」彼は強く頷く。


米沢藩の藩校・興譲館に出勤して家学を論じた。次第に龍雄は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。親戚の妹にとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという兄・雲井龍雄(遠山翠)の存在は誇らしいものだったらしい。

龍雄は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡(ほくすい)杞憂(きゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。

しかし、そうそう覚えられるものではない。

あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。

「これはいくらだ?」龍雄は主人に尋ねた。

「五百文にござりまする」

「高いな。なんとかまけられないか?」

 主人はまけてはくれない。そこで龍雄は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五百文をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。

「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら龍雄はきいた。

「板谷峠にお住まいの与力某様でござります」

 龍雄は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。

「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」

 与力某は断った。すると龍雄は「では貸してくだされ」

 それもダメだというと、龍雄は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。

誇り高い雲井龍雄でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」

 龍雄は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。

 龍雄の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であった。雪の日も雨の日も台風の日も、龍雄は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、

「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。龍雄は断った。

「すでに写本があります」

 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。龍雄は受け取った。仕方なく写本を売りに出したが三〇文の値がついた。


 龍雄は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により雲井龍雄の名声は世に知られるようになっていく。龍雄はのちにいう。

「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」


 親戚の妹は幼少の頃より、龍雄に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という龍雄の考えで学問を習うようになる。

雲井龍雄は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。

それにたいしてその親戚の妹なる人物がどこまで学問を究めたか? はさっぱり資料もないからわからない。

 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。

雲井龍雄のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。

 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。

「んだげんじょ、なしで、守善にいちゃんは、考えだすと私の声まできこえないんだず?」親戚の妹が笑う。

と雲井龍雄(本名・小島守善)は、

「んだな、学者だがらだんべと僕は思う」

などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の親戚の妹は笑うしかない。

 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。

徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。

 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。


話は長州藩の天才思想家・吉田松陰の話に変えよう。 

あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本国家を今一度洗濯するのだ。

「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。

「地球儀やろう?」

「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう? 日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」

「へ~つ、こげな小さかと?」

「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」

「わからん。何故イギリスは強いと?」

 松陰はにやりと言った。

「蒸気機関等の産業革命による経済力、だが軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」

「この国を守るにはどうすればいいとか? 寅次郎にいやん」

「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ! 日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」

 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。

 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか? と思っていた。

 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。

 この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。

 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」

 と母親につげた。

 すると母親は「せわあない」と笑った。

 松陰は風呂につかった。長州風呂こと五衛門風呂である。

 星がきれいだった。

 ……いい人物が次々といなくなった。残念なことだ。

「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」

 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。

 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。

剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。

松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。

 吉田松陰は、遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。

 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 

 父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。

 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。

 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだ。

 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。

だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。

 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。

 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。

「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」

 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。

 

のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとりもとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、

「わあ、寿(ひさ)姉やん、綺麗やわあ」

 と思わず声が出た。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなった。

 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。

 当然ながら、杉文は久坂に淡い懸想(けそう)(恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。

 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。

それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。

 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。

 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものだったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。

 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。

「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」

「……は…はい。わかっとう」

母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。

 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。

 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、

「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。

 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。

 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷すると、また裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。

「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」

「いやあ、非常に勉強になった。百閒は一見にしかず、とはこのことじゃ」

「何を見聞きしたとですか? 先生」

 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。

「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」

「貧しい? せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」

「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、

「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」

 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は

「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」

「草莽掘起……って何です?」

「今、この日本国を苦しめているのは「侍と農民などの身分」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」

 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。

「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」

「それで草莽掘起ですとか? 先生」

 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も

「その為に長州藩があると?」と鋭い。

「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」

 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。

 嘉永六年(一八五三年)六月三日、大事件がおこった。

 ………「黒船来航」である。

 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。

 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。

 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。

 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。

 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。

 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。

 二、海防の軍艦を至急に新造すること。

 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。

 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。

 五、火薬、武器を大量に製造する。


  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。

 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。

 幕府はオランダから軍艦を献上された。

 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であった。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。

 吉田松陰は「外国にいきたい!」

 という欲望をおさえきれなくなった。

 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。

(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。

 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられた。

まさに大獄の最中である…


  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。

彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利(もうり)敬(たか)親(ちか)公であった。

公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話した。

「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。

なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。

「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(ただ)天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。

同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ! しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」

 これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。

第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされた。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?

 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?

 そんな者であるなら私はこの小説の中に吉田松陰を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。

 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。

だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。

 確かに三百年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。

しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。

 それこそ「木を見て森を見ず論」である。

「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか?

 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか?

 それこそ「糞っくらえ」だ。

吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。

 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。


山田蠖堂は文久元年五月二十七日、一羽の鶏の如く殺された。

蠖堂は、米沢藩の藩校・興譲館を直江兼続の意志を継ぐような革新的な学校の藩風にしようとした。まあ、わかりやすく言えば佐幕だが、少し過激な尊皇攘夷の思想と開国の利点までを兼ね備えた藩風――――少しわからないが。幕末、といってもそれは後付けのデコレーションでありまだまだ幕藩体制の堅持の時代に、尊皇攘夷を唱えた。

それを危険視した米沢藩が、山田を天誅討ちにしたのだ。

その頃、〝米沢藩の天才〟〝努力の藩士〟雲井龍雄こと小島守善は、江戸の三計塾で学んでいた。用あって米沢へ帰ると、龍雄は山田先生の死を知らされた。

愕然となった。当たり前である。

「あなた」

 襖をあけて、ヨシが顔を出した。

「お使いですよ」

「誰だ?」

「お城からのお使いです」

「城? お城の家老様や殿様が何の用だ?」

「あなたは知らないんですか? 山田先生が殺されたことを……」

「―――何っ?!  まさか――――山田先生が」

 龍雄は目を白黒させて仰天した。

「病死であるか?」

「いいえ。何でも天誅討ち、ともっぱらの噂です」

「なんと……これ米沢藩、倒るるの兆しだ!」

 思わず、龍雄は口走った。



 新選組の血の粛清は続いた。

 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。

土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げた。

が、気絶し捕縛された。

他はとびおりて逃げ去った。

 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。

「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。

「どちらさまで?」

「新選組の土方である。中を調べたい!」

 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。

 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

 文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。

 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。

新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だった。

このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかった。

 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。

新選組はさっそく捜査を開始した。

そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。

 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。

 桂小五郎は

「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。

 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。

 数が少ない。

「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。

 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。

 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にダンダラ染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。

「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。

二尺三寸五分虎徹である。

沖田、永倉がそれに続いた。

「桂はん…新選組です」

のちの妻・幾松が彼につげた。

桂は「すまぬ」といい遁走した。だが、十年前………



 桂小五郎は江戸幕府三百年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。

小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。

父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。

「歴史から学べ。温故知新だ」

「苦労は買ってでもせい」

「学問で下級武士でもなんとかなる」

そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。

 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。

ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。

 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。

 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。

 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。

「また借金か! この貧乏侍!」

借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。

「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」

 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」

 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。

桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は、

「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」何故か?

「外国と我が国の戦力の差は物凄い。

あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。

日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」

 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。

この吉田(よしだ)松陰(しょういん)公は愚かではない。

 そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾(いく)松(まつ)である。松子と名を改めた。

だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。

吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。

何故だ? 何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか? 吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。

 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。

 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。

こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家(いえ)茂(もち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。

 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。

 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」

「しかし…」近藤は戸惑った。

「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」

「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。

「なれる!」

 近藤らは笑った。

「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。

 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。

 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだ。

 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。

 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だらけになった。

「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。

 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」

 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。

「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」

 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。

 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、だが桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。

 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。

「幕府の大老が……」

「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。

「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。

「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。

 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。

 けっこう美人なほうである。


「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!

「どうでした? 近藤先生」

 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は

「ダメだった……」と、ぼそりといった。

「負けたのですか?」と沖田。近藤は、

「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」と口ごもった。

「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。

「……その通りだ。トシサン」

 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。

 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?


 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に〝英雄〝となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。

 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す

……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。

しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。

 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。


 文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。

それは、京にいく徳川家茂のボディーガード(身辺警護)をする浪人募集というものだった。

 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。

 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。

 会合場所は、小石川伝通院内の処静院でおこなわれた。    

 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。

 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていい。

 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、だが新選組となる。

 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。

江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいた。

 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない〝浪人〝を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」

 土方は江戸訛りでいった。

「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。

 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。

 近藤が「総司はまだ子供だからな」と、沖田が、

「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。

「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」

 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 今度は〝採用取り消し〝の、二の舞い、にはならなかった。〝いも道場〝試護館の十一人全員採用となった。

「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」

一同は歓喜に沸いた。

 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。

 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。



 ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、

「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。雲井龍雄だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。

「雲井さんか」近藤は続けた。

「俺は〝鬼瓦さん〝ではない。近藤。近藤勇だ」

「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。

「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかべな」

「よくない!」と近藤。

 龍雄は無視して、

「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったず」

「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物だずう。天下一の学者で、幕府の重要人物だべ」

「重要人物? 名は?」

「勝!」龍雄はいかにも誇らしげにいった。

「勝安房守……勝海舟先生だずなあ」

「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。

「会いたいべか? ふたりとも」

 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。

 龍雄は「よし! 今からわしが会いにいくからついてくるべな」といった。

 近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だった。

が、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。

 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。

 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも〝いびつ〝に見えていた。

「先生、お茶です」龍雄は勝に茶を煎じて出した。

 近藤たちは緊張して座ったままだった。

 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(雲井龍雄のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。

「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」

 近藤は下手に出た。

「そうか」勝は素っ気なくいった。だが続けて

「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。

「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。

「なるように?」勝は笑った。

「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」

 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。

「それが違う」勝は一蹴した。

「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」

「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。

「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」

「………トップ?」

「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。

 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。

 勝は笑って、

「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」

「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」

 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。

「まさか!」勝はまた笑った。

「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」

「んだべな。メリケンすごいずなあ? わが日本国も見習わにゃいかん!」

 今まで黙っていた龍雄が強くいった。

 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。

「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。

 だが、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。

「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ? ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」

 勝に呼応するように龍雄もいった。

「今は世界だべな! 日本は世界に出るんだべな!」


 米沢で山田蠖堂先生の門にいたときも、陽明学が何故禁書なのか問い質したことがある。

 江戸の安井息軒先生も夜にこっそり講義をした。

 陽明学――――――わかりやすく言えば『一君万民』つまり、天皇以外の下は皆、平等な市民――――ということである。今でこそ、「今の君主制の国家ではないか」のような感覚だろうが、昔は幕藩体制であり、確かに、天皇・天子さまは君主というか上に頂いているが、その下には殿様だったり、家老や上司などだったりの〝上役〟があるものだ。それを否定するような学問は、討幕や体制の破壊につながるというものである。

 だからこそ陽明学の書は、当時は〝禁書〟なのである。

「よう。三計塾の秀才。また勉学に励んでいるな」

 同僚の猪俣は苦笑した。

「んだ。……いや、はい。勉学の努力は自分の為ですから」

「――人間は努力次第?」

「んだ。……いや、はい。そうです」

「でも、あまり根詰めて勉強ばかりでも頭が固くならないかえ?」

「はあ。んだげんじょ……いや、でも、勉強するために江戸に来たのですから」

「女を抱け―――――それでスッキリするぞな」

「女? はあ」

「秀才君はもう妻がいるんだったな。国元に」

「はい。米沢の実家に」

「手紙が来るだろ?」

「はい。来ます」

「そんなものはほっとけ。どうせ、金がどうの。嫁姑がどうの。子供がどうの。だろう?」

「はあ。まあ、そんなところですな」

「んんなもの。相手にせんでいいぞな。女子には男の立志がわからん。所詮、女は馬鹿だ。頭にあるのは金や飯や子供や近所づきあいに井戸端での悪口だけ。女に男の夢や野望がわかってたまるか」

「……」

「廓の女は情が深いぞ。しかも、後腐れがない。さあ、行くぞな。女を抱きに!」

「は、はあ。俺は女より酒が呑めれば――――」

 夜、廓に行くと、狭い部屋に通された。

 たいして、値段は高くはないが、それ故か、田舎娘が多い。

「――江戸の娘か?」

「いいえ。上州の娘です。田舎者です」

「俺は米沢だ。同じ田舎者同士、気があうかも知れんのう」

「確かに。わちきはおとせどす。よろしゅう頼んます」

「小島だ。おとせ、抱くぞ」

 龍雄は、おとせをゆっくりとふとんへと押し倒した。

 さすがに情がある。まぐわいは、よきものぞよ。

 雲井龍雄こと小島守善は苦笑した。



 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。

処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだ。

 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。

 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。

 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。

一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。

 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。

口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。

「あれは何者だ?」

 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。

この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、

「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」

「なぜわかるんだ?」

「だって……すごい訛りですよ」

 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。

近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。

「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。

「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。



 隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。

隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。

 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。

 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。

 浪人隊は黙々と京へと進んだ。

 途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになる。

 浪人隊はやがて京に着いた。

 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。

「江戸へ戻れ」というのである。

 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。

だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。

「これより浪士組は朝廷のものである!」

 浪士たちは反発した。

清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにした。

 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。

 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。

彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。

「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。

 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。

(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺された。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって〝英雄〝となる)


「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。

「何か策はないか?」

 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」

「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」

「京の守護職って誰だっけ? トシサン」

「さあな」

「松平…」沖田が口をはさんだ。

「松平容保公です。会津藩主の」

 近藤はさっそく文を書いて献上した。…〝将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい〝

 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。

 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。

 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。

 勇たちは就職先を確保した。

 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。

 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………


 〝芹沢の始末〝も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだった。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。だが、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。だが、「誠」の紅色旗………

 土方は禁令も発する。

 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)

 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で〝組〝を強固なものにしようとした。

  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。

「誠」の紅色旗がたなびく。

 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。

 壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!

 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めたりした。そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、

「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。

 だが、容保は書をかく。

 ……………新選組

「これからは壬生浪人組は〝新選組〝である! そう若者たちに伝えよ!」

 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。

 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだ。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらない。

 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。

 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。   

雲井龍雄は、其の頃、米沢藩で、上杉茂憲率いる京の米沢藩兵八百とともに、京都で暗躍していた。雲井の頭脳は、米沢藩の参謀のようなもので、茂憲は雲井をあてにした。

「謙信公以来の武功を! この京で、米沢藩上杉さまの武勇をみせましょうぞ」

 雲井龍雄はにやりと言った。


 風が強い。

 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。

 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。

 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。

 この船に、高杉晋作は乗っていた。

「面舵いっぱい!」

 艦長のリチャードソンに部下にいった。

「海路は間違いないだろうな?!」

 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。

「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」

 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だった。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。

 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。

 このあとは引退して、隠居するのだ。

「取り舵十五度!」

 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっている。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。

「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」

「イエス・サー」

 部下のミスティは返事をして命令に従った。

 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。

 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。

「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」

 岩崎は、

「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。

「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」

 リチャードソンは笑った。

「あの時化が順調な航海だというのですか?」

 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。

 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。

 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。

「あれが時化だと?」

 リチャードソンはまた笑った。

「あれが時化でなければ何だというんです?」

「あんなもの…」

 リチャードソンはにやにやした。

「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」

 岩崎は沈黙した。呆れた。

「それよりあの病人はどうしてるかね?」

「病人?」

「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」

「ああ、長州の」

「……チョウシュウ?」

 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。

 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。

 岩崎は慌てて、

「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。

「……従僕?」

「はい。その病人がどうかしたのですか?」

 リチャードソンは深く頷いて、

「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と感心していった。

 極東は西洋にとってはフロンティアだった。

 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。

 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。


 観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。

 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であった。

 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。

 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。

 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。

 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。

 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。

 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。

 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であった。

  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。

「なんでござろうか?」

「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」

 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。

「なんとか形にはなってきたな」

 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。

 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。

 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。

 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。

 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わった。

 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。

 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。

 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていた。

 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。

  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。

  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。

 短期間で命を落とす乾性コレラであった。

 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。

 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。


 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。

 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。

 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。


 幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。

 全身の発疹がおさまりかけていた。

 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。

 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。

 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だった。

 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられた。

 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。

 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、

「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。

 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。

 ひとは晋作を酔狂という。

 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。

 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。

 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。

「高杉くん。だいじょうぶかね?」

 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。

 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。

「航海日録か……やるのう高杉くん」

 中牟田が感心していった。

 すると、五代が、

「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。

 高杉は青白い顔で、

「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」

「なにとぜ?」

「俺は船に酔う」

「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」

 五代が笑った。

 中牟田も

「そうそう、冗談はいかんよ」

 すると、高杉は、

「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。

「別の病気? 発疹かい?」

「そうだ」高杉晋作は頷いた。

 続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」

「なるほどのう。そげんこつか?」

 五代がまた笑った。

 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。

 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。

「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」

 晋作は憂欝そうにいった。

「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」

「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」

 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……

 高杉の名文句はここからきている。


 昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。

「あれが揚子江の河水だろう」

「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」

 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。

 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。

 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。

 なんとも神秘的な風景である。

 上海について、五代たちは

「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」

と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。

 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。

 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。

 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。

晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう、

「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。


 三計塾において、全国のあらゆる名士と交わり、精一杯の遊学を続けていた龍雄は、慶応二年(一八六六)の四月、藩命によっていよいよ帰国することになった。

四月九日江戸を発ち、日光街道を通り南会津を抜け、檜原峠を越えて同月十七日に米沢に帰着した。

米沢に帰った龍雄は、しばしば藩の執政(しっせい)に対して、時局の急迫を警告し、自務を論じた。

「徳川幕府は腐りきった糞以下です!」

「これ、声がでがい! いがに京や江戸より遠く離れた米沢でだんべども………危険な思想だべした!」

「幕府は馬鹿です。戦に長けた長州藩を会津藩や薩摩藩と徳川で滅ぼそうという点……ぼくから言わせればそれこそ夷人(えびすじん)(異人のこと)の思う壺! このままではこの日の本の国はエゲレス、メリケン、フランス、オロシアの植民地に…清国(中国)やインドのような西欧列強の奴隷国家となってしまいます」

「んだがら…」家臣たちは困った。理解できない。雲井龍雄のように黒船をまじかに見た訳でもなく長州藩士や土佐藩士、薩摩藩士にさらには幕臣だが勝麟太郎(勝海舟)や勝海舟の弟子と称する坂本竜馬の話を訊いた訳でもない。

佐久間象山先生や吉田松陰先生の話を訊いた訳でもない。とにかく「田舎者」「井の中の蛙」である。

「おじづげず、雲井!」

「今はやれ長州だ会津だ薩摩だ、と内輪もめしている状態ではないのです! 倒幕です!倒幕しかありません! 西洋列強国の奴隷国に日本がなってもいいのですか?!」

「んだげんじょ………」

確かに米沢藩は徳川幕府に恩はない。

というか越後(新潟)から会津(福島)そこから出羽米沢(山形県米沢市)に転封されたのは徳川幕府のせいである。

だが、歴史通のひとならご存知だろうが保科正之公への恩はある。

つまり、上杉家の世継ぎでお家断絶の危機の時、当時の会津藩主(初代)の保科正之公の取り計らいにより、謙信から四代目、藩祖・景勝から三代目の上杉綱勝が病死して、会津公のとりなしで綱勝の妹と結婚していた吉良上野介義央の、息子・吉良三郎(のちの綱憲)を四代米沢藩主につけて上杉家米沢藩は「お家断絶」を免れたのである。

「倒幕です! 勤王攘夷だの馬鹿馬鹿しい! ただちに開国して西洋列強の知恵や技術を文化を学ぶことです」

「だまれ雲井! んだなごどでぎるが?! ここは米沢じゃぞ! 謙信公の米沢藩上杉家の城下町だぞ! 異国なんぞにまげるが」

「……んだげんじょ! なら僕に茂憲公の上洛のお供を! 直江兼続公・謙信公みたいに……鷹山公みたいになりたいのです!」

「馬鹿が! 雲井!」

 当時の米沢藩では、龍雄を江戸から呼び戻す少し前、幕府の要請を受け入れて、世子(世継ぎ)の上杉茂憲に、兵八百をつけて京都の治安を分担させていた。

 幕府では、米沢藩の歓心を買う為に、今まで委任統治の形で米沢藩に任せていた屋代郷三万七千石を、この年六月、正式に米沢藩領地に加えた。

米沢藩主・上杉斉憲の世子・茂憲も在京しており、徳川幕府に接近していた。が、雲井龍雄は天下の計を示し、「徳川幕府討つべし」という結論にいたった。

坂本竜馬や勝海舟や西郷隆盛より、誰よりも幕府の腐り具合を見ていた。

さすがは雲井龍雄だ。坂本竜馬の人気や知名度には遠く及ばないが、さすがは天才的英雄だ。「滅びの美学」等とほろばされたままではもったいない。

世子がいたずらに大軍を率いて京に滞在すれば、いつ政争にまきこまれるか分かったものではない。

それはおおいに危険だ、と雲井は意見を通した。もっともである。

茂憲が米沢に帰着すると、これに代って執政(家老)千坂太郎左衛門高雅(たかまさ)が上京し、これに呼応して、龍雄をはじめ上(かみ)与七郎・小田坂盛之進・宮嶋誠一郎などが、おいおい京都探索方(たんさくかた)として用いられることになった。

(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店五十七~六十ページ)



雲井龍雄という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。

足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、と。

文は龍雄の底知れない存在感に驚いた。

「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったべげんども、井伊大老に殺されたがはもったいないことだべず」

「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」

「あ、わしは龍雄! 米沢の藩士・雲井龍雄だずう。おまえはもしかして松陰先生の身内かえ?」

「はい。妹の久坂文です」

「んだが。あんたがお文さんだべ? まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったずなあ」

「さ…桜田門外の変?」

「おまえ、知らんべが? 幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったべな」

「えっ?!」

「まずは瓦解(維新)へ一歩前進だずう」

「…瓦解(維新)?」

桂小五郎も高杉晋作もこの米沢藩士に対面して驚いた。

龍雄は「世界は広いべな、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。

「どのようにかね、雲井さん?」

「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復二年かかったのが…わずか数ヶ月で着くんだずう」

「そうですか」小五郎は興味をもった。

 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は、

「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」

 龍雄は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」

 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。

「知らんべな。わしは勝先生についていくだけだずう」 

「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」

「んだべな」 

 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。

「馬鹿らしいべな。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんべな」

「なればおんしは倒幕派か?」

 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。

「んだずなあ」龍雄は唸った。

「たしかに徳川幕府はおわるべげんども…」

「おわるけど?」 

 龍雄は驚くべき戦略を口にした。

「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるべな」

「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。

「それではいまとおんなじじゃなかが?」

龍雄は否定した。

「いや、そうじゃないべな。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんだずう」

「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」

「そうだべがのう?」龍雄は子供のようにおどけてみせた。

 

この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。

 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。

 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん)(馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行(ちこう)合一(ごういつ)(智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海(しかい)兄弟(けいてい)(世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。

 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をした。

井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。

 当然、松門門下生は反発した。

「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。

 桂小五郎は万廻元年(一八六○年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。

しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。

 公武合体がなった。

というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。

だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。

幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。

だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。

幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。 

長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。

 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。

 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。

「松陰先生が間違っておると申すのか? 坂本龍馬とやら」

 木戸は怒った。

「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」

「外国でえなくどいつを叩くのだ?」

 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。

「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」

「なに、徳川幕府?」 

 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。

 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。

家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。

明治維新の革命まで、後一歩、である。

 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。

 文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。 

「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」

「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」

「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。

 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。



 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。

周防(すおう)の僧、月性は親友である。

 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。

 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。

彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。

野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。

しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。

「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」

「僕、ついに降参するなり」

「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」

だが、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。

松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めた。

だが松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下(しょうか)村塾(そんじゅく)」を受け継いだ。萩の

実家の隣にある二間の家だ。

長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。

吉田栄太郎(稔(とし)麿(まろ)・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。

その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。

「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。

イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。

藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。

高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。

だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。

尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。

だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。

「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。

江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。

晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。

「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」

久坂は訊ねた。

「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。

「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」

晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。

「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の〝はしくれ役人〝にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」

「草莽でなければ人物なし」

松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。

斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。

「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」

「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」

『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛(し)葉(ば)英(えい)治(じ)氏著、プレジデント社刊百二十~百三十六ページ参考参照


大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は神様に愛想つかされとんのや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち〝八つ当たり〝という訳ではなかった。

ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。 

精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。

それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。

畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。

玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。

久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけた。

が、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。

「筋金入りの〝攘夷思想〝」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。

「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」

松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。

長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木(まき)和泉(いずみ)である。

天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を〝朝敵〝ではなく、〝官軍の藩〝とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねった。

が、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。

松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。

高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には、

「まてや、久坂! もうちと考えろ! 異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。

それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、

「ペリーの大砲は三キロメートル飛ぶが、日本の大砲は一キロメートルしか飛ばない」

「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。

文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。

それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。

四面楚歌の長州藩は四国(米軍、英軍、仏軍、蘭軍)に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。

ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだ。

が、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろう。

家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。

伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。

談判で、先方が賠償金を持ち出すと、

「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。

下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。

だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると〝抗戦派(進発派・「正義派」)〝と〝恭順派(割拠派・「俗論党」)〝 藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、となった。

周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。

小田村伊之助は一時期、野山獄に投獄され小田村「素(もと)太郎(たろう)」と改名した。

小田村の正妻・寿は二人の息子(次男は久坂家に養子にやった粂次郎だが、このころは実父母と同居していたのだろう)をつれて獄にいき、食物や衣類などを差し入れた。

その頃の野山獄は、凄惨な空気が漂っていたから、文は恐怖を感じておののいた。

が、寿は少しも恐怖を感じず、かえって興味津々だった。こうした寿の行為を獄中で知った楫取は驚き、喜び、感謝した。小田村(楫取)には寿が必要であり、愛していたのだった。(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫百四十二~百五十七ページ)

そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文が選ばれる。

文らは隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。

「お文さん、………何故ここに?」

「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」

「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」

「違います! 寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。

……義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも(小田村伊之助のちの楫取素彦は、長崎で、長州藩のために藩命で武器や軍艦を武器商人トーマス・グラバーと交渉し調達する役目になり、その長崎で坂本龍馬と出会ったことが、のちに薩長同盟のきっかけとなる。楫取が龍馬を桂小五郎に紹介したのだ)

薩摩の西郷隆盛さんも〝桂さんこそ長州藩の大人物〝とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」

桂は考えた。

……長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている? やがて根負けした。

文らは桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。

こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。

それは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。だが龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。

しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。

彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであった。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。

坂本竜馬と小田村は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。

しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は、

「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ? 桂さん?」

「同盟はなんもなっとらん」

「え? 西郷さんが来てないんか?」

「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」

龍馬は喝破する。

「何をなさけないこというちゅう?! 桂さん! 西郷さん! おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か? 日本人じゃろう! こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれをたらして狙ってるんじゃ! 薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ! そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」

こうして紆余曲折があり、同盟は成った。

「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」

晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。

最初は八十人だったが、最後は八百人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派〝徳川幕府への恭順派〝を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死した。

高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろずの国を見んとしぞおもふ」

長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。

七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。

「勝さん、あんたは大丈夫ですか? 長州に尻尾をふった裏切り者! と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」

「てやんでぃ! 古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」

長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。

大政奉還の年、小田村素太郎は藩命により「楫取素彦」と改名した。舟をこぐ、「楫(かじ)」を「取」るの意味である。

(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫百九十二ページ)

だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。

すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。

『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊百三十七~百五十四ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊百五十四~百六十八ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献参照



                            


明治新政府は慶應四年正月十七日、言論陳情を目的に「貢士(こうし)対策所」を設け、各藩から貢士を選抜した。また、これよりさき、政府は同じ目的で「徴士(ちょうし)」を選抜している。

徴士も貢士も、歴史的には立法府の前身をなすもので、徴士は貴族院議員(現在の参議院議員)、貢士は衆議院議員の前身にあたる。貢士にくらべて徴士は、政府の宦官的性格が強かった。

当時は政府も創成多忙のさいで規則通りにはいかなかった。米沢藩は中藩なので、貢士二人を推薦できるが、龍雄ひとりが「米沢藩代表」の貢士となっている。

何故か? そこは坂本竜馬や木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治改め)との縁なのである。

坂本竜馬が生前に『雲井の倒幕論』を桂小五郎に話し、「米沢藩に雲井龍雄あり!」としてくれたので、木戸孝允に拾われたのである。だが、雲井龍雄はしかし、

「ただでさえ財政難のとき、無名の軍を起こすことの非をつき、徳川氏討伐、会津討伐のくわだては、公費無駄遣いの最大のモノ」と決めつけた。

まあ、明治政府の官軍ぶりが気にくわないということである。私利私欲に明け暮れる薩長政府を呪った。

慶應四年五月、三度目の意見書を政府に提出した龍雄は、盟友二十名の盛大な送別会に臨み、さらに翌三日、公議所に休暇届を出す。

と、再び他藩の盟友二十余名と別宴を張り、このあと夜隠にまぎれて京都を脱出、東海道を下った。

こうして京都を脱出した龍雄は、雨の中を徹夜で桑名まであるいた。従う者は同志の大津山譲介(後の中村六蔵)ただ一人、龍雄たちは薩摩の追手を受けるおそれがある。

で、少しでも早く京都から遠ざからなければならなかった。

豪雨の年で河川の洪水に悩まされながら追手をかわし、三計塾で同門の鈴木陸二の岳父、陸平の邸に駆け込んだ。

「くそう! 僕は討幕派なのに薩摩の馬鹿め。あいづらの魂胆はみえでるず。幕府も糞だが薩長官軍も糞だべした!」雲井は天を呪った。

(参考文献「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作 遠藤書店六十六~七十ページ)


 和宮(かずのみや)と若き将軍・家(いえ)茂(もち)(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。

なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(てんしょういん)(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。

様も何もつけず呼び捨てだったのだ。

「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。

「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺した。滝山は、

「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。

 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。

 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        

 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。

「懐剣じゃと?」

 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        

「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」

「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。

「…まさか…公方さまを…」

 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いた。

 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。

 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。

「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」

「……無理とは?」

「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」

 和宮は動揺した。

「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」

「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」

「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」

「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」

「大事?」

「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」

 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。

 この頃、文久二年(一八六二年)三月十六日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、だが江戸へと動いた。

この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。

この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。だがやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。

 家茂は妻・和宮と話した。

 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」

「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」

「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」

 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。

「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる」

 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……

 薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。

 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。

しかし、天璋院は泣きながら、

「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」

和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。

それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。だが天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。

こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。

 


長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。

 当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。

 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。

 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていた。

 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。

 ……それにしてもまたされる。

 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。

「また、私をお売りになればいいでしょう?」

 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であった。

吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。

だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売った。

 ……自分のことしか考えられないのである。

 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であった。

 当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。

 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。

 晋作は上海にいって衝撃を受ける。

 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。

 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。

 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!

 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。

 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。

 しかし、すぐに捕まって処刑される。

 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うのか……?

 ……俺には回天(革命)の才がある。

 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!

「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」

 高杉晋作は革命の志を抱いた。

 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。


 伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。

 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。

外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。

日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。一八八五年十二月二十二日~一八八八年四月三十日(第一次)。一八九二年八月八日~一八九六年八月三十一日(第二次)。一八九八年一月十二日~一八九八年六月三十日(第三次)。一九○○年十月十九日~一九○一年五月十日(第四次)。

 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。

韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 

天保十二年九月二日(一八四一年十月十六日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。

前職は枢密院議長。明治四十二年十月二十六日(一九○九年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。

 家が貧しかったために十二才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。

 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世から北里柴三郎)…。




        二 維新前夜






 伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。

 伊藤博文は思ったはずだ。

「イマニミテオレ!」と。

 明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。

 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣した(この小説の設定。井上馨は伊藤博文の哈爾浜遭難事件後、病気を抱えながら享年八十歳で死ぬ。死ぬのは伊藤博文の方が先である。死ぬ、というより伊藤は暗殺だが)。

 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。

 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。

 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。

 尊皇攘夷など荒唐無稽である。

 


 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。

 伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。

 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。

 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。

 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。

 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。

 しかし、いくらやっても強くならない。

 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、

「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」

 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。

 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。

 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。

 ……俺は詩人にでもなりたい。

 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。

 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。

 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。

 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。

 晋作には親友がいた。

久坂義助、のちの久坂玄瑞である。

 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。

 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であった。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。

 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だった。

 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。

 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、

「医学など面白いか?」

 と、玄瑞にきいたことがある。

 久坂は、「医学など私は嫌いだ」

 晋作にとっては意外な言葉だった。

「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」

 晋作には是非とも答えがききたかった。

「違うさ」

「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」

 晋作は冗談まじりにいった。

「そうだ」

 久坂は正直にいった。

「なに?!」

 晋作は驚いた。

「私の願望はこの国の回天(革命)だ」

 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。

「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」

「……壤夷?」

 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」

「……尊皇壤夷?」

「そうだ!」

「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」

 晋作は興味をもった。(注・実際には高杉晋作は少年期から松門門下生である。ここでは話の流れの為後述のようにした)

 しかし、松陰は幕府に睨まれている。

「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。

「なにかお持ちですか?」

 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。

「……これを読んでみてください」

 晋作は自信満々で詩集を渡す。

「なんです?」

「詩です。よんでみてください」

 晋作はにやにやしている。

 ……俺の才能を知るがいい。

 吉田松陰は「わかりました」

 といってかなりの時間をかけて読んでいく。

 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。

 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。

 だが、

「……久坂くんのほうが優れている」

 といった。

 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。

 ……審美眼がないのではないか?

 人間とは、自分中心に考えるものだ。

 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか? と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。

 松陰はその気持ちを読んだかのように

「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。

「は?」……松陰は続けた。

「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがいられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち〝ひと知らずして憤らなず〝ですよ」

「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」

 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。

「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。


             

 長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。

 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。

 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。

 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?

 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。

 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだ。だが、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。

 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……

 松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。

「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。

 しかし、感覚と学問は相反するものではない。

 きみには才能がある」

 ……この人は神人か。

 後年、晋作はそう述懐している。


 松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。

 晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。

 わずか一年で学んだものは学問より、天才的な軍略や戦略だろう。

 松陰はいう。

「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。

 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」

 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。


              

 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…


 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。

 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。

 久坂玄瑞も、

「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。

 久坂の妻となった久坂(旧姓・杉)文は苦手な料理や洗濯などかいがいしくこなしていたが、やがて久坂との大事な赤子を死産した。ふたりは号泣した。

この事がきっかけでかはわからないが、文は「子供が産めない体」になるのだ。が、それは後述しない。

 安政五年、晋作は十九歳になった。

 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。

 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。

 松陰は思う。

 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……

 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。だが、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。

 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。

 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられた。

 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。

 松陰は江戸に檻送されてきた。

高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。

 松陰もまた高杉に甘えきった。

 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。

 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。

「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」

 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。

「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」

 晋作は官僚の息子である。

 そういう環境からは革命はできない。

 晋作は、ゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。

 松陰は晋作に期待していなかった。

 松陰は長州藩に疎まれ「幽閉」される身となる。

それでも我儘坊ちゃん高杉晋作の豪遊癖は直らない。久坂義助は玄瑞と号し、長州藩の奥医師の立場から正式な侍・武士になろうと奮起する。

 だが、そうそう自分の思い通りにいく程世の中は甘くない。酒に逃げる久坂を文は叱り、だが励ました。まさに内助の功である。

 松陰が幽閉されたのは長州藩萩の野山獄である。しかし、幕府により松陰は江戸に連行され殺される運命なのである。文やのちの伊藤博文となる伊藤俊輔らは江戸の処刑場までいき「吉田松陰の斬首」を涙を流しながら竹柵にしがみつきながら見届けた。  

 幕府は吉田松陰を処刑した。

 「先生! せ……先生! 松陰先生!」

 「寅次郎にいやーん! にいーやーん!」

 このとき久坂文が号泣したのは当たり前だ。が、あまりに激怒したため幕府の役人を「卑怯者! 身の程をしれ!」と口汚く罵った為に一時期軟禁状態にされ、高杉晋作か誰かが役人に賄賂金を渡して久坂文が釈放された、というのは小説やドラマのフィクションである。

 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。

……吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえた。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。


 晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。

「嫁をもらえ」

 晋作は反発した。

 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………

 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。

 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して〝薩摩の代表づら〝をしていた。

 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。

 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。


坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。

だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。

久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。

「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」

大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。

京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。

大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されたが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。

 


「萩軍艦教授所に入学を命ず」

 そういう藩命が晋作に下った。

 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行け。

 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。

名を丙辰丸。

 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。

「これで世界に出られますか?」

 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。

 松島剛蔵は苦笑して、

「まぁ、運しだいだろう」

 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。

「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」

 松島は帆をかかげて、船を動かした。

 航海中、船は揺れに揺れた。

 晋作は船酔いで吐きつづけた。

 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りる。

 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。

 晋作は青白い顔のまま

「女郎かいでもしましょうか」といった。

 ……俺は船乗りにもなれん。

 晋作の人生は暗澹たるものになった。

 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。

 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。

 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。

 ……疲れているからいい。

 ふたりはふとんにぐったりと横になった。

 ……また藩にもどらねば。

 晋作には快感に酔っている暇はなかった。


           

 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。

 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。

 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。

 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。

 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。


 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。

 ………「黒船来航」である。

 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。

 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。

 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。

 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。

 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。

 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。

 二、海防の軍艦を至急に新造すること。

 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。

 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。

 五、火薬、武器を大量に製造する。

 勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。

 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。

 幕府はオランダから軍艦を献上された。

 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であった。

 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。

 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣った。だがそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。

「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」

 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。

 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。

 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺された。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。

 勝海舟は激昴して

「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。

 役人はいう。

「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」

 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、

「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。

 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。


 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。

 勝海舟は老中より質問を受けた。

「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」

 勝海舟は平然といった。

「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」

「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」

 勝海舟は苦笑いした。だがようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」

 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。

 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。

「この無礼者め!」

 老中の罵声が背後からきこえた。

 勝海舟が、井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、

「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。

 それをきいて呆れた木村摂津守が、

「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」と諫めた。

 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。

 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。

 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。

 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。

 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。

 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあった。

 久坂玄瑞や真木(まき)和泉(いずみ)ら長州藩士・不貞分子ら一大勢力や三条実美ら公家が京の都で、

「天子さま(天皇陛下のこと)を奪還して長州藩に連れ出し政権を握る」という恐るべき計画を立てていた。当然ながら反対勢力も多かった。

 のちの木戸孝允こと桂小五郎も「私は反対だ! 無謀過ぎる!」と反対した。

「畏れ多くも御所に火を放ち鉄砲・弓・矢を向けるなどとんでもないことだ」

 当たり前の判断である。だが、長州藩は追い込まれていた。ほかならぬ薩摩藩・会津藩にである。

 窮鼠猫を噛む、ではないが長州藩危険分子は時代に追い込まれていた。

この頃、久坂文は亡き兄の忘れ形見でもある松下村塾で教える立場のようなものにもなり、久坂玄瑞はたんと嫁自慢をした。

 だが、乱世は近づいていた。文は子供の産めない体になり、文は号泣しながら崩れる夫・久坂玄瑞に泣きながら

「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。それが今生の別れとなるとは、誰も考えられなかったことだろう。

 勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。

 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものである。

 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。

「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。

 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。

 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。

 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。

 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。

 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。

 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。

 諸学術の進歩、その間に非常なものだった。

 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。

 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。

 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。

 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」

 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。


 井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。

 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の〝外遊〝に似ている。

その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行った。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。

彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。

 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。

軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。

「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」

 勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と感心した。

 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、

「なにか申すことがあるであろう? 申せ」

 しかし、何の返答もない。

 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。

「勝麟太郎、どうじゃ?」

 一同の目が勝海舟に集まった。

 〝咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する〝 という噂が広まっていた。

 勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。

「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」

「ははっ!」

 勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。

 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。

「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。

 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。

 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。

 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」

 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。





三 艱難辛苦




 



 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。

 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。

 高杉は思考が明瞭である。

 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。

 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。

 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入した。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買った。

 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。

 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされている。値段も十二万ドルとは手頃である。

「買う」

 即座に手にいれた。

 金などもってはいない。藩の後払いである。

 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。

 高杉の二十三歳の若さがみえる。

 奇妙なのは晋作の革命思想である。

 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…

という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、

 ……壤夷以外になにがあるというのだ!

 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。

 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。

「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」

 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。

 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。


 蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。

 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。

 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。

「江戸へおもむけ」

 藩命は冷ややかなものだった。

 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。

 晋作は、

「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。

 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。

 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、

「くわして話しは江戸でせい」

 といって晋作の話しをとめた。

「は?」

 晋作は唖然とする。

 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。

 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。

 ……長州は口舌だが、実がない!

 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。

 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。

 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。

 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。

 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、

「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。

 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」

 といった。

 だが、続けて、

「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。

 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。

 晋作は江戸についた。

 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。

 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であった。

 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。

 ……壤夷で富国強兵をすべし!

 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!

 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。

 ……この国を回天(革命)させるのだ!

 晋作は血気盛んだった。

 が、藩世子は頷いただけであった。

「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」

 そういっただけだ。

 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、

「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。

「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」

 たしかにその通りだった。

 晋作は早すぎた天才であった。

 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。

「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」

 長州藩の意見はほとんどそのようなものだった。

 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。

 ……わかってない!

 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。

 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通った。

 晋作は女遊びが好きであった。

 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。

 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。

 晋作はよく女を抱いた。

 だが、晋作は急に脱藩を思いたった。

 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。

「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」

 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。

 晋作は走った。

 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。

 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。

「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」

 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。

 ……ちくしょう!

 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。


 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。勝海舟は残念に思った。

「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」

 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。

 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。

 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を勝海舟は思った。勝海舟は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。

 勝海舟は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことにはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。

「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」

 勝海舟は斉昭の欠点を見抜いた。

「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」

 勝海舟は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。

「おしいことでい」勝海舟は悔しい顔で頭を振った。

 赤坂の勝海舟の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。

益田糸という女中がいて、勝海舟の傍らにつきっきりで世話をやく。

勝海舟は当然手をつける。だが当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。

 他にも勝海舟には妾がいた。勝海舟は絶倫である。

 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。


 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。

 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。

 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。

「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」勝海舟はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。

 そんな時、「生麦事件」が起こる。

「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。

横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。

「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」

 勝海舟は幕府の無能さを説く。

「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」

 五日には大阪の宿にもどった勝海舟は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。

 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、勝海舟は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。

「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」

 龍馬はにやりと笑って、

「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」

 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、

「喜んでいきますきに!」といった。

 勝海舟は幕府への不満を打ち明ける。

「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」

「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。

 勝海舟は「そうだ」と深く頷いた。

「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」

「その通りだ」

「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」

「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」

「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。


 京で、勝海舟は長州藩の連中と対談した。

「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」

 桂たちは、勝海舟の意見にことごとく同意した。

 勝海舟はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、勝海舟は出世を辞退している。

「偉くなりたくて活動してるんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。

 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。


「暗殺か…」

 晋作は苦い顔をする。

 壤夷のために行動する晋作であったが、暗殺という陰湿な行為は好きではなかった。

 そのくせ、長井雅楽を暗殺する! といいだしたりしたのも晋作である。

 しかし、計画企画はするが、実行はしていない。

 いつも言い出すのは晋作だったが、暗殺を成功させたことはない。一件も遂行に至っていない。

「よし、俺たちも生麦やろう!」

 大和弥八郎が甲高い声をあげた。

 ……高杉は江戸で豪遊している。

血気盛んな者たちが、集まってくる。寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人……

 計画だけは着々とすすんでいた。

 暗殺目標は米国公使タウンゼント・ハリス、場所は横浜、決行日は十一月十三日と決めた。その日は日曜日で、ハリスはピクニックにいくことになっていた。

「井上、百両用意してくれ。軍資金だ」

「しかし……」

「なんだ?」

 井上聞多は困った顔をして、

「百両などという大金は俺には用意できん。どうすればいいのだ?」

 高杉は渋い顔になり、

「それは俺もわからん」といった。

 だが、その暗殺計画も瓦解した。

 しかし、「外国の公使を殺せば国が滅びる」といわれていた時代に公使暗殺を思いつく晋作は、ずばぬけていたともいえる。

 久坂は晋作が暗殺犯とならないかったのを見てほっとした。

 と、同時に「俺が暗殺する。公使の館を焼き討ちするのだ」と心の中で思った。

 久坂玄瑞は盟約書を作成した。

 長州藩士たちの革命分子をひとつにまとめる規則とリストである。

 その数は二十二人……

 高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義、野村和作、白井小助、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、滝鴻二郎、佐々木次郎四郎、伊藤俊輔(博文)……

 長州藩の中核を担う連中が名をつらねた。

「藩内に三十人の死士が得れば、長州藩を掌握できる。長州藩を握れば天下の事は成る」 晋作の持論だ。

 しかし、晋作の思い通りになるほど世の中は簡単には動かない。

「晋作は何を始める気だ?」

 久坂玄瑞は晋作に疑問をもった。


 吉田松陰が死罪になってから三年がたつ。

 晋作は江戸を発して長州にもどっていった。師の墓に手をあわせ、涙した。

 以後、晋作は死ぬまで江戸の地を踏むことはなかった。


 

弘化二年(一八四五年)吉田松陰は十六歳で、山田亦介(またすけ、羽田清風の甥)について長沼流兵学術を学んだ。亦介は世界情勢に明るく、松陰はこの男によって「本物の世界」を体感した。亦介は「これが地球儀だ。我が国は何処だと思う?」ときく。

松陰は初めて地球儀を見たのだ。わかる訳はない。ちなみに最初に丸い地球儀を見たのは織田信長である。四百年前に信長は

「地球が丸いこと」

「日本はちっぽけな島国なこと」

「世界には強国が有象無象にあること」を理解したのだからさすがは「戦国時代の天才」である。

 吉田松陰はおくらばせながら

「地球が丸いこと」

「日本はちっぽけな島国なこと」

「世界には強国が有象無象にあること」を理解した。

「我が国はこんなに小さいのですねえ。まいりました」

松陰は唖然という。だが、キツネ目の眼光は「世界への興味心」でギラギラ輝いている。この感動がのちの「草莽掘起」「外国船への亡命」へと繋がる。

 弘化三年(一八四六年)十七歳となった松陰は外患に深い感心をもち、海防のことを論究している。

「我が国は海で囲まれている。あのペルリ(ペリー)と申す舶来人が乗る黒船艦隊をやぶるには海防を徹底的に考慮せねば我が国は夷狄により瓦解する」

 吉田松陰が「尊皇攘夷派」というのは間違いだ。「草莽の志士」とやらは「外国の軍事力」を軽く観ていたが、あの松陰が「外国軍と長州藩・薩摩藩・徳川幕府軍との格差」がわからなかった訳はない。吉田松陰が「尊皇思想」というのも嘘だ。

 もしその(尊皇思想)考えがあったにせよ、のちの「官軍」つまり薩長同盟軍が「錦の御旗」や天皇を利用したように「将棋の王将の駒」「天皇という名の道具」としてからの思想だろう。吉田松陰は日本共産党や皇民党ではないのだ。

 嘉永元年(一八四八年)十九歳となった吉田松陰は一月、初めて独立の師範となった。

 そんな松陰だから黒船浦賀来航の報を江戸でえた彼の心は躍った。

「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」(六月四日、瀬能吉次郎宛)

 それと同時に、この黒船を目の前に見た松陰は、来るべき天下の動勢を予見した。

「敦れ天下の瓦解遠からざるべし。方今天下疲弊の余、江戸に大戦始まり、諸候これの役に駆使せられれば必ず命に甚へざらん。且つ又幕府天下の心を失ふこと久し」(七月二十六日、杉梅太郎宛)

 外圧を前にして当面のことを糊塗(こと)しようとする幕府、幕臣の中では「夷狄排除論」的な意見が多い。その中で勝麟太郎(勝海舟)と佐久間象山だけが「世界情勢」を見抜いている。吉田松陰は佐久間象山や勝麟太郎に文をよせるとともに独自の政治思想「草莽掘起(そうもうくっき)」を発案して長州藩を「草莽の志士たち」でまとめようとした。

 だが、

「外国にいきたい! 外国の文化・経済・政治・言語…それらを自分の眼で見たい」という感情、いやもう欲望であり夢であり。それを叶えたいと門人の金子重輔(じゅうすけ)(重之助)と共にとうとう小舟で黒船に近づき、

「プリーズ・オン・ザ・シップ!(黒船にのせてくれ)」と嘆願するに至る。

しかし、外人さんたちの答えは「ノー(駄目だ)!」である。

 なら銭金を見せたが

「そういう問題ではない」という風に外国人たちは首を横にふるばかりだ。かくして吉田松陰の外国への亡命は瓦解した。なら幕府や長州藩にそのことを「秘密」にすればまだ松陰にも「勝機」はあったかもしれない。ジョン万次郎というラッキーな輩もいたのだから。

だが、くそ真面目な松陰はこの「亡命失敗」をカクカクシカジカだ、と江戸の奉行所にいい自首した。こうして彼は囹圄(れいご)の人となった。

 ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂………

 吉田松陰は自己を忠臣蔵の赤穂浪士の已むに已まれぬ魂と重ねた。

「馬鹿なやつ」江戸の侍や町民はかわら版やかぜの噂できき、嘲笑した。

「一体何をしたかったんだ? その馬鹿」 

奉行所で吉田松陰と弟子の金子を取り調べたのは黒川嘉兵衛という「いいひと」であった。黒川はよく「いいひと」「物腰が柔らかい」「聞き上手」といわれる。人間というものは大体にして「自分のこと」は話すが、「他人のこと」には注意を払わないものだ。

 だが、黒川はまず他人の話を粘り強く聴いてから、

「なるほど。だがこういうこともあるんではないかい?」と反駁した。

しかし、吉田松陰はどんなことがあっても

「師匠の佐久間象山に密航をそそのかされた」ことだけは話さない気でいた。

 徳川幕府にとって「攘夷など無理、すみやかに開国して外国の武力、文化、教育を取り入れろ!」という開国派な象山は「目の上のたんこぶ」であり、「俺は日本のナポレオンだ!」と豪語する傲慢チキな佐久間象山は幕臣にとって「恥」でしかない。

「俺にどんどんと腰の強い女をよこせ! 俺の子供は「天才」だろうから俺の子供たちで日本を改革する!」

象山は確かに天才学者だったのだろうが、こんなことばかりゆうひとは幕府にとっては邪魔であり、死んでほしい人物である。

「なんのために外国船にのりこもうとしたのだい?」

「外国にいって外国の文化、教育、軍事力、外交力など学びたかったのです」

「…この英文の紙は佐久間象山の筆跡のようだが」

「いいえ。確かにぼくは先生に書いてもらいましたが密航はぼくのアイデアです」

「アイデアとは何だい?」

「アイデアとは発想です」

「あくまで佐久間象山は関係ないと申すのかい?」

「オフコースであります」

「今度は何だ?」

「オフコースとはその通りという英語であります」

「佐久間象山の関与さえ認めれば罰しない。それでも佐久間象山の関与を認めないのか?」

「オフコース」

 黒川は吉田松陰という男が哀れに思えた。別に密航くらい自首しなければ罰せられない。

なんでこの男は自首したのか?佐久間象山は許せないが、この男は許したい。

弟子の金子重輔という長州の足軽という男も……。

だが、江戸町奉行・井戸対馬守は「死罪」を命じた。

 対馬守の眼は怒りでぎらついていたが、その怒りは吉田松陰や金子にではなかった。

「死罪」は裏で糸を引いているであろう奸物・佐久間象山へのあてつけであった。

 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?

 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。

 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだ。だが、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。

 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……

 松陰は思う。

 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……

 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。だが、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。

 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。

 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられた。

安政元年(一八五四年)、二十五歳になった吉田松陰は上陸した米軍に「投夷書」を渡し、夜、門人・金子重輔とともに小舟で黒船に向かった。

港では、「やめてください、先生!」と止める桂小五郎と友人の坂本龍馬がいた。龍馬は松陰の「異国への熱い思い」を知り、

「吉田松陰先生、わしも黒船に乗りたいがです!」

「馬鹿者!」

 吉田松陰は龍馬の頬を平手打ちした。

「異国に行く道は僕と金子の道だ。君は自分の道をいけ!」

「……じゃきに。わしも世界をば観てみたいががです!」

「そうか。ならあとで来なさい。メリケン(アメリカ)で待っておるぞ」

「……先生! 駄目です! 幕府に見つかれば死罪ですよ!」

 桂小五郎は止めるが、松陰は聞かず沖にでてしまった。だが前述の通り、世界漫遊の夢はもろくも瓦解、松陰は江戸の奉行所に自首した。

四月、江戸伝馬町牢獄に、やがて野山獄に移された。金子重輔は獄中で病死した。

松陰は金子の獄死に号泣した。元々、金子重輔は染物屋の商人だった。それを足軽として「藩士」へと推薦したのが吉田松陰である。

ぼくのせいで金子くんが……ぼくのせいだ。だが、牢獄には高須久子という女と富永有隣らと同囚となった。高須という女は知識に明るく、吉田松陰も驚く程の「博学」で「歌詠み」であった。個人的につまり、女性として懸想(けそう)(ラブ)したかどうかは知らない。

 吉田松陰は男であり、男色(ホモ)ではなく、しかも「絶倫であった」ときくから、懸想くらいはしたのであろう。久子がデブスなら話は別だが。

 歴史記には高須久子は相当「美人」であったとされている。

 そのうえ「博学」「薄幸」であれば惚れない方がどうかしている。吉田松陰は囚人たちの間で「獄内俳句の会」を結成していく。どこまでも「学問」のひとである。

 ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂……

 ……親思ふこころにまさる親ごころけふの育ずれ何ときくらん………


 しかし、松陰は諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑した。

 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。

 ……吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

「何をいうのだ? その吉田松陰とやらは…」

 井伊直弼大老は「草莽掘起論」を長州藩の過激派が主張する「尊皇攘夷論」と勘違いした。

「この国の為にならぬ尊皇攘夷派は一掃(皆殺し)してしまえ」

 井伊大老の「安政の大獄」とは一言で言えばそういうことで、ある。

「何故に私の志がわからぬ! 徳川幕府は開国しかないと知りながら只、今あることに糊塗するだけだ。このまんまではこの国が瓦解して、外国の植民地にされた!」

「黙れ! 何が草莽掘起じゃっ? 攘夷など出来ると思うとるのか、おまはんは!」

 吉田松陰は牢獄で拷問を受け、痣や傷だらけになりながら

「攘夷ではない! 開国だ! 外国の軍備や知識をとりいれ、開国するのが「草莽掘起論」です!」

「せからしか!」

 後ろ手で縄縛りにされ、木刀で殴られた松陰は気絶した。しかし、容赦なく冷水が浴びせられる。「おまはんは危険分子じゃっ! どうせ死罪じゃ!」

 気絶した松陰は悪夢を見た。いや、実際「悪夢」は「現実」であるのだ。今度ばかりは、毛利公も「助け舟」を出せない。奉行所の裁きは、当たり前のように「死罪」であった。

 吉田松陰は白い囚人服のまま、その夜、此の世で最後の夜月をみた。涙が溢れてきた。ああ、この思いをいったいこの広い世界で、誰が、誰が、理解できるだろう。

 ……桂くん、久坂くん、高杉くん、佐久間さん、文、勝さん、殿、天子さま……

 吉田松陰はそのときはじめて「自己の完成」を知った。「成程、ひとしらずして憤らず、とはこういうことか、孔子とはこういうことで語ったのだな?」

 思わず、口元が緩んだ。最期だからこうなったんだ。なるほどな。

  

 安政六年(一八五九年)、三十歳の吉田松陰は牢獄にいた。十月二十七日の朝があけると靄が晴れ、満天の青空になった。虹まで架かっている。

「これは……」吉田の心はもう昇天していた。

 もう何の憂いもない。只、自分なきあとの長州藩、日本国、天子様、いや憂いはある。だが、もうおわりなのだ。「もうおわりなのだ」言葉にすると楽になった。

 だが、松陰は斬首になるときに涙を流した。

 命惜しさからではない。日本の行く末を憂いての涙だった。

 ……草奔掘起を! 桂くん…久坂くん……高杉くん……伊藤くん…文…

 さらばじゃ!

 柵外では涙をいっぱい目にためた伊藤俊輔(博文)と妹の文が、白無垢の松陰を見守っていた。

「せ…先生!」

「にいやーん」

松陰はいった。「至誠にして動かざるもの、いまもってあらざるや」

 首がはねられる。すべてはおわった。少なくとも吉田松陰が生きていたなら、維新はもっと早くに終り、明治政府も円滑に動いたろう。西郷隆盛の内戦もなかったろうし、朝鮮や清国(中国)との軋轢や、露国や米国との関係もかわっていたろう。

 しかし、すべては無能の徳川幕府の罪である。

 歴史は動く。

 少なくとも、死んだ彼の弟子たちは動かさなければと思っていた。

 十月二十九日、桂小五郎らが吉田松陰の遺骸を受け取りに奔走し、小塚原回向院大屋敷・常安寺に葬った。享年・三十歳……それは壮絶な最期で、あった。


 


四 奇策謀策







 伊藤博文と井上聞多が「岩倉使節団(団長・岩倉具視)」に参加したのは阿呆でも知っている。伊藤はアメリカ春蔵ことジョセフ・ヒコとアーネスト・サトウと知り合った。

高杉晋作は天才であり、天才特有の破滅型の高飛車な面もある。自分より偉いと思ったのは結局・師匠・吉田松陰だけだったろう。仲間は兄貴分の桂小五郎と同期の久坂玄瑞だけであったろう。

 西郷吉之助(隆盛)も天才ではあったろう。が、この「鹿児島のおいどん」は、維新後は大コケ、元武士らの神輿にのせられて「西南戦争」など起こしている。訳のわからぬ人物である。     

 長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。

 歩くと疲れるからである。

 しかし、銭がかかる。

 が、銭はたんまりもっている。

 ここらあたりが高杉らしい。

 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。

 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、

「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」

 と叫んで通過しかけた。

 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、

「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わなぬわ!」といって、関所を通過してしまった。

 晋作が京に到着したのは三月九日であった。

 ……学習院御用掛を命ずる。

 晋作のまっていたのはこの藩命だった。

「……なんで俺ばっかなんだ」

 晋作は愚痴った。

 同僚は「何がだ?」ときく。

「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」

「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」

「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」

 同僚は諫めた。

「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。

 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。

 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。 ……将軍に天皇を拝ませる。

 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。

 それを万民に見せようと、行幸が企画された。

 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だった。

 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。

 ……馬鹿らしい。

 晋作は冷ややかだった。

 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。

「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」

「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」

 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。

 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えた。

 久坂は、

「この行幸は無駄ではない」といい張る。

「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」

「動くきっかけにはなる」

 久坂玄瑞は深く頷いた。


 行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。

 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が

「いよっ! 征夷大将軍!」

 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……

 というのは俗説である。

 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。

 もし、野次ったのなら捕りおさえられられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。

 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。

 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいっているが、何の力もない。

 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。

 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田六蔵(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。

 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。

 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。

 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。

 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。

 要するに、手詰まり状態になった。

「誰だ?」

 廊下に人の気配があった。

「晋作です」

「そうか、はいれ」

 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。

「なんだ。その様は?!」

 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。

「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」

「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」

 周布は呆れていった。


「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」

 久坂はいった。

 すると晋作はにやりと笑って、

「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」

「幕府とか?」

「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」

 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。

「しかし……勝てる訳がない」

「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」

「……悪知恵の働くやつだな、お前は」

 久坂は唖然としていった。

「おれは悪人だよ」晋作は笑った。



 大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。

 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着した。

 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。

「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。

機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」

 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。

「図書頭殿は、何の用できたのかい?」

「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」

 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。

「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」

「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」

「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」

「何を考えているんだか」

 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。


 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめた。

 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。

 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。

 幕府でも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。

 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職した。

 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。

 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。

「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。

 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。

 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」

 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。

「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」

「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」

「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」

 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。

 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。


 由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。

 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。

「今夜中に出航してはどうか?」

「いいね。ななめに伊豆に向かおう」

 勝海舟は家茂に言上した。

「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。

 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。

 ……まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………

 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる〝報復〝だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。

 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。

 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。

 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。

 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。

 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。

 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。

その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。

 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。

 ニールは応じなかった。

「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」


 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。

「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」

 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していた。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいた。

 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。

 奈良原は答書を持参していた。

 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。

「あなた方はどのような用件でこられたのか?」

「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」

 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。

「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」

 ひとりがあがり、だが首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」

 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。

 シーボルトは激怒し「なんということをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」

 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。

 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。

「いいでしょう。全員乗りなさい」

 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。

 薩摩藩士らは強くいった。

「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」

 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。

「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」

 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。

 それもどうにも噛み合わない。

 一、加害者は行方不明である。

 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。

 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。


        

 キューパー総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。

 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。

 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。

 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。

 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。

 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。

 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であった。

 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。

 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。

 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だった。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。

 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。

 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。

 イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに

「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。

「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかに接すればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。

 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。

 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわっていねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」


 幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。

 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかった。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。



 山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだった。

 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。

「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」

 毛利(もうり)敬(たか)親(ちか)はそう命じた。

「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」

「お暇はいずれやる。今は非常の時である」

 毛利元(もうりもと)徳(のり)はいう。

「うけたまわりました」

 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。

 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していた。

 ……周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……

 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。


「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。

 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」

 ……小倉白石家をつぶす気か…?

「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。 




         五 禁門の変







 のちに『禁門の変』または『蛤御門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。

妻の久坂(旧姓・杉)文は二十二歳でしかない。

得意の学問で故郷の長州藩萩で「女子・松陰」等とも呼ばれるようにまで成長していた。

若者は成長が早い。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。

 吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。

 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。

「……伊藤くん。文。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」

「先生! せ…先生!」

「にいやーん! にいやーん!」

 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。

鋭い光を放つ刀が天に構えられる。

「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」

「ごめん!」閃光が走った……

 かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえた。

「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」

 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

 文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだった。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。

 しかし、彼は〝尊皇壤夷〝で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。

 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃した。

 久坂玄瑞は奮起した。

 文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。

 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。

「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じゃっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」

 『二心公』といわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放した。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。

 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。

 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。

 元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。

 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。

 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。

 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。

 久坂玄瑞は沈黙した。

 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。

 七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。

「長州の不貞な輩を斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。

 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、

「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。

 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。

 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。

 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。

「文、文、……あいすまぬ! 先に涅槃にいく俺を許してくれ……」

文……! 久坂は鋭い一撃を自分の首に与え、泣きながら自決した。

 享年二十五、火は京中に広がった。だが、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。

 勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返している。

 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。長州の久坂文の元に、生前の夫・久坂玄瑞から手紙が届いた。それは遺書のようでもあり、志を示したような手紙でもあった。その手紙は結局、久坂玄瑞が妻・文におくった最初で最後のたった一通の手紙となる。

 のちに久坂文は未亡人となり、杉家に戻り、長州藩邸宅で女中として働くようになる。文は三十九~四十歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。

 この時期姉の小田村寿こと楫取寿が病死し、文がやがて後妻として楫取素彦と再婚する際に「最初の旦那様・久坂玄瑞の手紙とともに輿入れ」することを条件にしたのは有名な話である。

 楫取素彦は討幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校・明倫館で学んだ。

松陰の死後は久坂文とともに松下村塾で塾生たちを指導し、松陰の意思を受け継ぐ教育者として有名になる。

 のちに楫取素彦は群馬県令(知事)となる。当然、再婚した文は群馬までついていく。子供は出来ないなりに、養子をもらうが思春期となった養女は若い男と「かけおち」しようとしたり、素彦が不倫したりと、楫取文の人生はまるで小説自大だ。 





雲井龍雄は京都で噂になった〝維新回天のさきがけ〝こと清河八郎のことが心配であった。

庄内藩は『庄内勤王党』の党首らを捕縛して、戦犯として裁こうと何人もの捕り者をつかって庄内藩で処分しようと動いていた。

清河八郎は行方不明、いや、恐怖で、京の町を逃げ回っていた。

銭など持ってはいないから残飯をあさったり、風呂にも入れないから薄汚く、髭ぼうぼうで、今でいうホームレスのように新選組らから逃げ回っていた。

お尋ね者、である。

雲井龍雄は米沢藩のことも気がかりだったが、八郎がどうなったか? 不安だった。

「坂本くん、京で清河八郎さんのことを一番よく知っちょるのは誰かのう?」

「ん? 清河八郎って京で評判の〝維新回天のさきがけ〝かえ?」

「んだ………いや、そうだ」雲井はうっかり訛った。

「……そりゃあ、京でそういうことを知っちゅうるのは京都の御庭番・新撰組じゃろうのう…そうか! よし、新選組の屯所に行こう! 清河八郎さんがどこへいるか知りたいがじゃ!」

「まて、やめろ! 新選組は京都守護職・会津藩お抱えの〝人殺し集団〝だ!」

だが、雲井はうかつだった。竜馬の後を追い、屯所まできてしまった。

龍馬は門番ににこにこ笑顔をつくり、知り合いの沖田総司の名を告げた。朝ごはんの時刻だった。

龍雄は……しまった! うっかり屯所の中までついてきちまった。まさか! まさか! 龍馬は新選組に…私まで斬られちまうよ、十九歳で、死にたくない!

だが、坂本は襖を開けた。

ちょうど新選組の一同が朝ご飯を食べているところだった。

雲井は……ウソだろ! 本当に新選組に清河八郎のことを尋ねる気か?! とびびった。

「皆さん、朝御飯の中、すまんちぃや。沖田君、ひとつ聞きたいことがあるがじゃ」

沖田総司は……ありゃあ、坂本さんいくらなんでもやばいですよ、近藤さんや土方さんがいる屯所に直接来るなんて……もう唖然とした。

だが、龍馬は少しもビビらない。

「沖田くん、清河八郎さんを知らんがか? 〝維新回天のさきがけ〝のひとじゃ」

「坂本さん。それは…」

「まさかもう新選組が清河八郎さんを斬ったんじゃなかがですろうのう? 斬っとらんがか?」

「まだ、斬ってはいません」沖田は頷いた。

土方歳三や近藤勇が席を立ち、「おい、坂本とやら表に出ろ!」

「清河八郎さんがいそうな場所を教えてくれたら表に出るがじゃ」

「じゃあ」土方は続けた。

「教えてやるから表に出ろ!」

「ほうかえ? ならええ」

「ん? こいつは?」

「そいつは連れの雲井龍雄くんじゃ」

「おい! お前も表に出ろ!」

龍雄はびびった。

……畜生!ついてくるんじゃなかったぜ、まだ十九歳で、斬られて死ぬのか? この馬鹿坂本! 斬る気だぜ、新選組は…

表に出ると、龍雄と竜馬は周りを大勢で囲まれた。

「刀を抜け! 坂本!」土方が濃口を斬ろうとすると、龍馬が土方の刀の鞘渡りと手首を握り抜刀できないようにして

「土佐藩士や以蔵や清河八郎さんのことを教えてくれ! 頼むきに!」

「離せ! 離せ! …離せ!」

「教えてくれたら離すきに。おしえてくれ! 知っちゅうことを教えてくれ!」

土方にぴたりとついて、離れない坂本龍馬。

「今、土佐や以蔵や清河八郎さんの情報は、新選組が一番くわしいはずじゃ! な! 教えてくれ!」

「…離せ! …土佐勤王党の吉村寅太郎、那須信吾らは、大和の代官所を襲い、天誅組などと名乗ってわずか数十人で倒幕の兵を挙げた。幕府はやつらを討ちに行く。新撰組も命令が下ればいつでも出動する。また土佐勤王党には、土佐藩や幕府から捕縛命令がだされている! 捕縛して土佐に唐丸籠で送り返す。ひと斬り以蔵も、船着き場を新選組が見張っているから土佐には逃さねえ。大和へ逃げるしかねえだろう。

清河八郎は討幕派の手先と判明次第、攘夷派の仕業として江戸で幕臣の手練れが斬る算段じゃ」

「…そうか」 ……江戸で幕臣の手練れに…追い詰められての……暗殺なんだ…

「わかっていることは教えたぞ、離れろ!」

「おう、そうじゃったのう」

 竜馬は離れた。と、同時に土方の抜いた剣先をひらりとかわした。土方は驚いた。

「教えてくれてありがとう。ほいじゃのう、雲井くん行こう」

 新撰組としては唖然とするしかない。

雲井龍雄は逃げるように屯所を後にしようとしたが、あまりの恐怖からか腰を抜かしてしまった。……こ、こ、腰が抜けた…くそう

「どうした? 雲井くん?」

「い、いや、足をくじいちまった。」あ! 雲井は新選組屯所の門前で腰を抜かし、なおかつ失禁していた。…くそう、わたしが新選組がこわくて腰を抜かし、そのうえ失禁するとは…情けない。

「じゃあ、わしがおぶるきに。早く」

……おぶさったら失禁がばれる。ああ、くそう。竜馬は龍雄をおぶった。

…ああ~たのむぜ、バレねえでくれよ~~。

のちの雲井龍雄は、海軍塾ではその龍馬の宮本武蔵ばりの武勇を(自分も活躍したように)塾生たちにオーバーアクションで語った。

武市半平太も岡田以蔵も獄につながれ、やがて土佐藩の手によって殺されるのだが、龍馬は何もできない。

龍馬は自分の無力さを悔しがり、さすがに落ち込んだ様子であった。

参考文献・漫画『おーい!竜馬』作・武田鉄矢・漫画・小山ゆう(小学館文庫)第八巻(改筆)



 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。〝禁門の変〝から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。

 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。

 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。

 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような〝スターリン式恐怖政治〝で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。

 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。

圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる!」

 勝海舟は危機感をもった。

「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。

「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。




 雨戸を叩く音がした。

「誰だ?」

 我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。

「山県であります」  

 奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。

 秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。

 晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十万石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。

しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。

奇兵隊士は晋作を慕っていた。

 ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。


「おそうなってすんません」

 襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」

 京の芸者宿だった。

 お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……

「あら、うちお座敷まちがうたようどす」

 晋作は笑って、

「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」

「……せやけど…」

「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。

 高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかった。

 懸想(恋)というものは、「片思い」が素晴らしいものだ。

 いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。

 そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。

 一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。

 一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。 

 一、山口城を破毀すること。

 どれも重い内容である。

 この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。

 その数は十五万だった。


 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。

「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」

 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していた。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいた。

 幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。

 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。

 しかし、憤慨するものはいなかった。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。



「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」

 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分を問わず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。

高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。

 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。

 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。

「よし! これで侍どもを倒すんだ!」

「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。

「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。

「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」

 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。

 元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入した。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。

 下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。

 だが、作戦を練った。

 ……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!

「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。

 薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」

 晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。

 高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。

「旦那はん、なに弾きましょ?」

「好きなものをひけ」


 ……三千世界の烏を殺し

     お主と一晩寝てみたい…

    

 後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。


 薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、

「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。

 あの巨体の巨眼の男である。

 しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。

 禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。

 消息不明だというと、

 今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。

 晋作は二番手だった。

「高杉さん、大変です!」

「どうした?」

 高杉は酔っていた。

「西郷さんがきてます。会いたいそうです」           

「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」

 高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。

「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」

「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」

 高杉は苦笑して、

「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」

「あいますか? それとも斬り殺しますか?」

「いや」

 高杉は続けた。「西郷の側に〝人斬り半次郎〝(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」

「じゃあ会いますか?」

「いや。あわぬ」

 高杉ははっきりいってやった。

「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」

 一同は笑った。


 そんな中、事件がおこる。

 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。

「このままではわが国は外国の植民地になる!」

 麟太郎は危機感をもった。

「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。

「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。



 幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。

 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。

「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」

 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。

 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 

彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!

 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。

 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。

 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」

 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。

久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。

「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。

だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。

しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。

京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。

大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。

結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されたが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。

 

 龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」

 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」

 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であった。

薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。

 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。

 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、

「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」

「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。

「なんでもええきに。それ次は頬ずりじゃ。抱き合え」

「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。

 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。

 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。

 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。

 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。

 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。


 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。


 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。

重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。

この縁で龍馬とおりょうは結婚する。だが、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。

グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られた。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。

晋作はひと知れず血を吐いて、

「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。

でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、

「留学はやめました」というのみ。

「WHY? 何故です?」グラバーは首を傾げた。

「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。

だが、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。

龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。

この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。

療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、

「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。

 龍馬はブーツにピストルといういでたちであった。







 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。

 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。

桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がとも綱を結び、長州へむけ数発砲いたせし故、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。

 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。

 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、

「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」

 といった。

 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。

 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。

「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」

「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」

 数刻にわたり桂は勝海舟と話して、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。


 十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。

 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸

気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」

 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主の詫び状とともに幕府に返されていた。      

浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。

 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、

「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。

 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。

 さっそく余を供にしていけ」といった。

 勝海舟は暗い顔をして

「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。

「余の供はせぬのか?」

「そうですねぇ。そういうことになり申す」

「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」

 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。

「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」

「いいえ」勝海舟は首をふった。

「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」

「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」

「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」

 勝海舟は答えた。

 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…



 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。

 勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。

「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。

 小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。

 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。

 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。

 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」


 勝海舟は相撲好きである。

 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。

 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。

 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。

 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」

 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。

 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。

 慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していた。

 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。

とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。

 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。

 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。

 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだ。

 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。

 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。

 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。

 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。

「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」

 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」

「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」

「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」

 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのるはずだが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。

 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。

「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。

 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。

 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。

 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。

 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。

 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。

 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」



 三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。

「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。

 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。

「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」

「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。

「アジアの中で日本が褒められるのは国人同しが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人同しが争って駄目になってる。

 確かに、今までは戦国時代からは日本人同しは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」

 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。

 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。

 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。

「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。

 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」

 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。

 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。

「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」

「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」

「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」

「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」

「およそ八、九町にござりまする」

「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」

 家茂は頷いてから続けた。

「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」

 四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。だが、知識人として知られていた。

 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。

「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。

「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」

 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。

 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って、

「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。

「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」

 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。

「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。

 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。




「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」

 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………


 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。

 元治元年(一八六四)六月、新選組は〝長州のクーデター〝の情報をキャッチした。六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。

「トシサン、きいたか?」

 近藤はきいた。土方は、

「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」

「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。

「というと?」

「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」

「なにっ?!」土方はわめいた。

「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」

「江戸の幕府に書状を出した」

 近藤はそういう。と、深い溜め息をもらした。

 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。

「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。

「幕臣に男児なし! このままではいかん!」

 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」

「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」

 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。

 とにかく、近藤勇たちは決断した。


 池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だった。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかった。

 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。

 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。

 桂小五郎は、

「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。

 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。

 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。

 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。

 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にダンダラ染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。

「新選組だ! ご用改めである!」

 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。

「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は、

「すまぬ」といい遁走した。

(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)

 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。

 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。

「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにコテをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。

兜の鉢金をかぶっていたからだ。昏倒した。乱闘になった。

 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。

「手むかうと斬る!」

 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。

 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。

 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。

 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。

 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。

 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。

 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかした。

 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。

 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、さらに増やすように資金まで送ってきた。


「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は

「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。

「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。

「まあ」龍馬は笑った。

「やつらは幕府の犬じゃきに」

「すごい人殺しですわねぇ?」

「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」

「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。

 すると龍馬は

「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。


       


  六 幕臣遁走と清河八郎と雲井龍雄の死





雲井の生涯の最期を作家としてではなくひとりの米沢市民として振り返ってみたい。

慶応二年(一八六六年)、藩命で帰国。藩はこの時に世子・上杉茂憲が兵八百を率いて京都の治安に当っていたが、龍雄は、

「京都駐兵を解き、代わって具眼の人物を上洛させ天下の形勢を探報させることが上策である」

と献言をする。

「それがしいては米沢藩が滅ばないたった一つの道です!」

が、保守的藩風には受け入れられなかった。

しかし形勢急に動き、江戸幕府の長州再征の頓挫や十四代将軍・徳川家茂が急死して徳川慶喜が将軍職に就ぐなど、江戸幕府の実力の失墜は明白であった。

そのため、ようやく上杉藩は幕府追随の不得策を知り、茂(もち)憲(のり)を召還し同時に国老・千坂高雅を京都に派遣、龍雄はその先駆に指名された。

千坂ら一行は清水の成就院を本陣としたが龍雄は別行動をとり一木緑、遠山翠等の変名を用いて探索活動に当った。

そうして前述した坂本竜馬との対面と藩での活動になるのである。

「僕は討幕派なのに………糞食らえだ!」雲井は己の不幸を天に嘆いた。

「僕も坂本竜馬君のような歴史を動かす偉大性が欲しい。妬ましい。糞め、糞め!」

ところが同三年(一八六七年)十月に幕府が大政奉還し、同年十二月に明治新政府から王政復古の大号令が発せられると、龍雄は新政府の貢士(全国各藩から推挙された議政官)に挙げられた。

この貢士就任は門閥の士を差し置いての抜擢であり、その才幹が藩内外を問わず広く知られていたことを示している。

なおこの年に実父・惣右衛門が病死している。

雲井龍雄はこの頃、労咳(肺結核)に侵されていた。ごほごほと咳をし、掌に血を吐いて、自分でも驚いたことだろう。俺はながくは生きられないのか……

雲井は慚愧した。


雲井龍雄は切羽つまっていた。

戊辰戦争で、東北諸藩が連合を作り『奥羽越列藩同盟』の軍をつくったのは歴史通なら誰でも知っていることだ。が、戦ったのは会津藩や庄内藩などや長岡藩などだけである。

米沢藩(上杉)も、仙台藩(伊達)や会津藩(松平)・庄内藩(幕臣)・長岡藩などと共に主要な藩であった。しかし、米沢は早々に負けを認め、恭順した。

越後で戦死した故・色部長門が首謀したことにして薩長の明治新政府軍に降伏した。

雲井は銃弾を浴びながらも、戦場を駆け抜けて、米沢に戻り、驚いた。

いや、呆れた。

もう、降伏である。しかも、死者の家老・色部長門にすべての罪をかぶせて――――

それでも名門の上杉か!

龍雄は地面に唾を吐きかけたくなった。

そういえば、京の土佐藩邸で、親交のある土佐の後藤象二郎に言われた。

「――小島――いや、雲井君。気を付けた方がいいきにな。おんしは薩摩に狙われちょる」

「後藤さん。長・土連合はどうなっちょりまするか? 俺が数か月も奔走したのに……」

「そいは。なんもなっちょらんきに。おんしは長州と土佐を買っちょるようだき。じゃきに、あの討薩の檄はまずかったのう。薩摩人は、とくに大久保利通(一蔵)はカンカンじゃ。雲井―――いや、小島守善を殺せっちぃ。西郷先生が必死に止めちょるそうじゃ」

「長・土同盟が成らんのは後藤さんの怠惰じゃろう?」

「〝怠惰〟ちぃな? そげな呑気な。じゃきに、俺が小島さんを見捨てれば、薩摩の怒りでとんでもないことになるきに! 小島さん。早まるなちぃ。薩摩に頭ば下げるんじゃ。赦しをこうんぜよ」

「――――それは出来ません。薩摩人で評価できるのは西郷吉之助(隆盛)のみ……」

「馬鹿ちんがあ! このべくのかあ(大馬鹿野郎)!」

 後藤は椅子を蹴って、退席した。

 これで、雲井龍雄の人生は終わったも同然であった。



慶応四年(一八六八年)、鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶと、龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促した。

しかし旧幕府勢力は敗れ去ると、米沢にて禁固の身となる。明治二年(一八六九年)に謹慎を解かれると興譲館助教となるが二ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議員議員に任じた。

だが、薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くあるなか、前述の幕末期での薩摩批判や、その一度議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いした。

周囲の忌避に遭いわずかひと月足らずで議員を追われた。

「雲井先生! 今の明治政府は糞だ!」

「明治政府を倒そう! 米沢の東北の底力を薩長に見せよう!」

一方、戊辰戦争で没落したり、削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになる。

龍雄は明治三年(一八七○年)二月、東京・芝の上行、円真両寺門前に

「帰順部曲点検所」、

なる看板を掲げ、特に「脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよ!」と四回にわたり嘆願書を政府に提出した。

これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものだった。

が、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。

これが政府転覆の陰謀とみなされ翌年四月謹慎を命ぜられる。

大久保利通は、

「この雲井龍雄なる男はまるで昔の坂本さあみたいでごわすなあ。だが、もはや明治の世、時代遅れの「反体制の英雄」はいらんでごわす」

木戸は「なれど雲井さんの頭脳はこの明治新政府に必要じゃないかね? 例え反体制の毒でも………大久保さん! いかんち、早まるな!」

というが、木戸孝允は病弱で、頼みの西郷吉之助(隆盛)は参議を辞職して、故郷の鹿児島で隠遁している。大久保は冷徹に、

「泣いて馬謖を斬るちことじゃっどん」

「……雲井君は馬謖かね?」木戸はいうが官僚機構の頂に立つのは大久保だ。

「なんでんよか」

 大久保のこの言葉で、雲井龍雄の死罪は決まった。

「小島! 今のうちに逃げろ! 米沢藩はお前を見捨てる。米沢や江戸、京都では逃げ場がない。駕籠で移動する際中にでも逃げろ!」

「いや。……俺は逃げぬ。と、いうより、労咳で、足腰も弱くなり、まともに歩いたり、走ったりさえ出来ない。もうこうなったらオシマイだべな。おわりだ」

雲井龍雄は米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用された。

同年十二月二十六日(一八七一年二月十五日)に判決が下り、龍雄は判決二ヶ日後に小伝馬町の獄から柵に囲まれた処刑場にて斬首された。

「言い残すことはないでごわすか?」

雲井は「何も………」といい小声で

「ただ、孔子の如く、昇り竜の如く………雲井龍雄は昇り竜の如く天に還るのみ。………朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり、だよ」

「ごめん!」

 雲井の首が飛んだ。

血が噴出し、雲井龍雄の魂は「昇り竜」の如く、蒼天の空に昇天した。

天下の米沢藩の英雄の最期で、あった。

のち小塚原に梟首され、その胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用された。

なお、龍雄を葬った政府は威信を保つためその真蹟をのち覆滅し、龍雄の郷里・米沢でもその名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていた。

墓は山形県米沢市城南五丁目一-二十三、常安寺にある。

戒名は義雄院傑心常英居士。

「雲井会」により命日に合わせ墓前で雲井祭が催され、その遺徳が偲ばれている。


なお以後は逸話である。

勉強棒

友于堂に入学した龍雄はある日、学友の佐藤志郎の訪問を受けた。佐藤が勉強部屋に入ると、一尺程の棒があった。不思議に思って尋ねると龍雄は「これは勉強棒というものだ」と答えた。

さらにその訳を佐藤が尋ねると「僕の頭の瘤を見たまえ。夜勉強していて眠くなると、これで頭を殴るのだ。始めは水で顔を洗ったが駄目なので、薄荷を目蓋に付けてみた。すると目がヒリヒリして仕方がない。唐椒を舐めてみたら辛くて本を読むどころではなかった。この棒で殴るのが一番よい。この間『春秋左氏伝』を読んだときもこれで殴りながら読んだのだよ」と言ったという。

本に化けた毛布代

三計塾にいる頃、龍雄は息軒の命を受けて毛布を購入するため横浜の商館に赴いたがその資金で「万国公法」を買ってしまい、しかも却って息軒からその正しさを激賞されたという。

清水の心

四度にわたる嘆願書も奏功せず米沢藩で謹慎処分となった龍雄は知友・河村徳友宅で謹慎中に筆墨を揮うとき、一回ごとに二階から降りて庭の水を汲んだという。徳友の令孫の祖母が、二階の置き水を使ったらと勧めると龍雄は「筆墨は清らかな心で揮わなければならない。そのためには、きれいな水でなければならない」と言ったという。

後世への影響

雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、自由民権運動の志士たちに好まれた。

若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ、

去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。

と記している。(明治二十四年、山本良吉宛書簡)

幸徳秋水も、死刑執行を目前に控えた獄中で綴った未完の「死刑の前に」という一文の中で、

木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平も赤井景韶も富松正安も、死刑となった。

と記し、自らの運命を受けいれるために思い浮かべる先人の一人として、雲井の名を挙げている。

漢詩が徐々に一般的に読まれなくなった頃から、雲井の記憶は一般的には薄れていったようであるが、戦後においては藤沢周平が『雲奔る・小説雲井龍雄』という雲井龍雄を主人公とした中篇小説を描いている。

辞世

• 「述懐」

死不畏死 死して死を畏(おそ)れず

生不偸生 生きて生を偸(ぬす)まず

男兒大節 男児の大節は

光與日爭 光(かがやき)日と爭(あらそ)う

道之苟直 道 之(これ)苟(いやし)くも直(なお)くんば

不憚鼎烹 鼎烹(ていほう)をも憚(はばか)らず

渺然一身 渺然(びょうぜん)たる一身なれど

萬里長城 万里の長城たらん

龍雄を弔う愛誦吟

• 「吊亡友雲井龍雄」(亡友・雲井龍雄を吊う、作者不詳)

墨田之花可醉 墨田の花醉う可し

蓮湖之月可吟 蓮子の月吟ず可し

想昔連騎豪遊日 想う昔連騎豪遊の日

櫻花爛漫月沈々 櫻花爛漫月沈々

錦城春暗辛未年 錦城春は暗し辛未(しんび)の年(明治四年)

人生浮沈是天然 人生の浮沈これ天然

若有孤心徹亡友 もし孤心の亡友に徹する有らば

感涙為水到九泉 感涙水と為って九泉に到らん

主要な作品

檄文の「討薩の檄」、漢詩の「辞世」は上記参照。 その他の主要な漢詩に、「白梅篇」「北下途上」「息軒先生に呈す」「釋大俊 時事に憤を発し、慨然として済度の志有り、将に其の親を尾州に帰つて省せんとす、之を賦して以て贈る」 「相馬城に人見子勝に別る」 「述懐」「集議院の障壁に題す」 など。


雲井龍雄が薩摩藩への挑戦状のようなものを書いた。以下が全文である。つまり、雲井龍雄の命を奪うことになる檄文なのである。

討薩の檄(全文)

討薩の檄


 初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏(そし)つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。


 皇朝、陵夷極まると雖も、其の制度典章、斐然として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。


 薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。


 伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。


 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。


 井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。


 右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。


 是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。


大意

薩摩は、最初攘夷を主張して、幕府の開国を貶めて批判していたのに、自分が権力を握ると開国を主張し始めた。なんの一貫性もなく、当初攘夷を主張していたのは自分の野望を遂げるためであった。この罪を問わなくてはならない。

日本には、海外からの危機はあるといっても、日本固有の制度や歴史がある。しかるに、薩摩が専制権力を握ってから、あまりにも急激で無理な改革を推し進め、長い歴史の中で積み重ねられてきた制度や慣習を破壊している。その罪をどうして問わずにいられよう。

薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸国の得たいの知れない人々の中で、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。

薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

諸般の、親子兄弟同士のいろんな大名たちを戦争に駆り立てさせている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、これこそ最も残酷な道徳に反することだ。その罪を問わなくてはならない。

上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。

よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。


雲井龍雄は罠にかけられた。

戊辰戦争の後、徳川幕府を倒したのちに何が出来たかというと、薩長が主導する明治新政府が出来ただけであった。いわゆる藩閥政府であり、徳川を追い払った後に、薩摩長州や肥後・土佐などの元・維新の志士のわずか数名が権力を独占し、支配階層に収まった。

西郷や板垣退助や大隈重信らは下野、藩閥政治に対抗しようと自由民権運動を主導した。

だが、藩閥政府の方が一枚も二枚も上手である。

自由民権運動などはすぐに駄目になっていく。

それにしても雲井龍雄は薩摩を怒らせてしまった。

〝討薩の檄〟は過激過ぎた。

西郷隆盛は「冷静」(明治三十三年の徳富蘆花の造語。この時代なら「泰然(『元史』の言葉)」「自若(春秋戦国時代の『国語』の言葉)」)だったが、大久保利通(一蔵)は雲井に激怒し、私怨を募らせた。

西郷隆盛らが政府からいなくなると、大久保は私怨で雲井龍雄を捕らえさせた。

龍雄は檻車の人となった。

大久保は形だけ米沢の面子を立てる為に、檻車のままで、雲井龍雄こと小島守善を米沢まで護送した。米沢は版籍奉還をし、米沢藩庁に、さらに置賜県(廃藩置県で。更に、山形県に吸収された)になっていた。

龍雄の身柄は米沢に着いたが、誰も何もしない。

彼の親友や同僚は、江戸――いや東京では逃げ場がないが、米沢では逃げられるかも知れない。どんな手を使ってでも逃げてくれ。でないと、大久保や薩摩人に殺されるぞ。という。

だが、龍雄は、もう覚悟を決めているようで、はらはらと両目から涙を流すだけである。

「もう仕方がない」

 彼はうなだれた。

 大久庭や薩摩人による私怨で、斬首になるのだ。

雲井の身柄は東京にふたたび護送された。


<棄児行(きじこう)>

斯身飢うれば 斯児育たず

  斯児棄てざれば 斯身飢う

  捨つるが是か 捨てざるが非か

  人間の恩愛 斯心に迷う


 子供心にも、何という悲痛な歌かと、しっかり記憶に刻み込まれた。

 これは「棄児行」という詩であり、作者は幕末の志士、雲井龍雄であると思った。

 雲井は首を刎ねられている。明治政府に反抗して弾圧されたわけだ。大久保利通暗殺は雲井処刑の後の事件だった。

雲井龍雄が戊辰の役のとき、敗北の会津藩から逃れ、九死に一生を得て須賀川村から辰賀川村の遭難から脱出したとき、道端ですすり泣いている一人の少年を拾い上げた。

南会津の倉谷(現在・福島県南部下郷村)でのことだ。

雲井龍雄に子供はいないから、その子供を助けた。

尋ねると、父親は、龍雄も周知の幕臣横井桂二郎であるという。桂二郎は昨年、徳川慶喜の弟、昭(あき)武(たけ)が、将軍慶喜の名代になって、パリ世界博覧会に随行したが、マルセイユで黄熱病におかされ病死していた。そのために一家は離散し、この子・銕四郎(てつしろう)は会津藩士野村氏に養われていた。

有名な「棄児(きじ)行(こう)」の詩が、雲井龍雄の詩と誤伝されるのは、こうした逸話を背景としている。

その主人公がこの銕四郎なのである。「棄児行」は雲井龍雄作ではない。

だからこそ藤沢周平氏著作「雲奔る・小説雲井龍雄」やあらゆる雲井龍雄の伝記やふるい文献に「雲井龍雄の作詩ではない「棄児行」」を載せていないのは当たり前なのである。

さらに「棄児行」の詩を、龍雄の作でないとする説や文献も古くからある。だが龍雄と同じ米沢の藩士で、原正弘の作であるとハッキリ文献に書いてある。

同じ米沢藩士でも原正弘より、雲井龍雄のほうが波瀾万丈の生涯であったために「雲井龍雄」=「棄児行」………「『棄児行』は雲井龍雄の作」と勘違いされてしまった。

多くの読者が、「雲井龍雄の伝記」や「小説」を読むとき必ず「『棄児行』をさがした」のもいってみれば歴史家のデマゴーグに踊らされている、ともいえる。

 とにかく雲井龍雄は「棄児行」の作者ではないし(作者は同じ米沢藩士の原正弘)、前述した「討薩檄」で斬首になり、死ぬのである。

 それは米沢の英雄としての死ではなかった。

米沢人でさえ久しく名前を出すのもタブーとされた「明治政府薩長藩体制」を憂いた元・侍の坂本竜馬の如き、まさに「昇り竜」の如き、人間、革命児、雲井龍雄の殉死で、あった。ああ、雲井龍雄よ、永遠なれ、こういって雲井龍雄にさらば、と言いたい。

 

         清河八郎の暗殺



鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、二百名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。

このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。

暗い夜道である。江戸の麻布十番………

清河八郎は酔っていた。ざあざあと激しい雨が降る。

「ん? ………だれだ? そごさ(そこに)いん(いる)のは誰だ?!」

八郎は濃口を斬ろうとした。

しかし、刺客は商人に化けていた。傘を差し、美濃をかぶっていた。

「お侍さん、あっしらは商人でげすよ」

「…そうが。んだが」八郎は油断した。

すかさず疾風の如く、清河八郎の背後にきた刺客は傘と行灯をばっと落とすと抜刀して、清河八郎は胴体を背後から斬った。…ぐああ! さらに斬られる。

首の傷が致命傷になった。清河八郎は出血性ショックで、血だらけのままのたうった。

「……くそう。馬鹿だれ! …この国の…回天(革命)が…おらが…んだげんじょ…もう駄目んだなあ…頭ばやられだがら…」八郎は息絶えた。死んだ。

文久三年(一八六三年)四月十三日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など六名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られたのだ。

享年三十四歳。

『女士道』(山岡英子 一九○三年)の記述によると首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬ったが後に遺族に渡したという。

墓所は東京文京区の伝通院にある。清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。没後、正四位を贈位された。


 雲井龍雄は晩年、獄中でひとりきりで涙する。さまざまなひとたちの存在を悼んだ。

「おしょうしな(ありがとう)おしょうしな…皆、おしょうしな!」もう涙涙である。

「清河八郎のあの素晴らしい魂はけしてわすれんぞ! んだ! おれもすぐにお前の元にいぐでな、清河八郎!」

明治三年(一八七○年)時代の生き証人で、歴史の傍観者であり続けた雲井龍雄が明治維新と明治政府の藩閥政府の瓦解等を見届けぬうちに、二十七歳の激動の人生に幕を閉じる。

明治政府に斬首されたのだ。だが、歴史はふたたび混沌としていく。

 吉田松陰……だがその意思を受け継いだ高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、木戸孝允、品川弥二郎……だが……すべては時代の新しい扉をこじ開ける為の運命であった。だが雲井龍雄……いや龍雄の昇り竜の如しの生涯はまさに燃えるようにおわった。 

 昭和天皇や伊藤博文やA級戦犯はどう思っているのか……?

 アジアの無辜の民を何百万人も虐殺した罪は誰が謝罪し、賠償するのか…?

 とはいえ、謝罪も賠償もすでに済んではいるのだが―――――

雲井龍雄の墓は東京にあったが、移転された。山形県米沢市に銅像もあるという。彼等彼女らは今、どんな思いで永遠の眠りについていることだろう…?

 近代歴史にひとつの波紋を投げ掛けたことだけは確かでは、ある。

                              おわり


    あとがき


ちなみに私こと長尾景虎の拙書『昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代』は幕末の出来事を頻繁にこれでもか、これでもか、と幕末明治維新の世界観とその時代を、歴史上に埋もれてしまった米沢市(米沢藩)の偉人・雲井龍雄氏、を主人公のひとりにその時代背景とともに描いていくまさに『大河ドラマの原作』のような作品である。

この書で、雲井龍雄が、直江兼続公、上杉謙信公(いずれも著者が小説の主人公として小説作品にものしている)のように有名人になれれば、長尾景虎は『『坂本竜馬』を有名にした作家・司馬遼太郎氏』のように『『清河八郎』『陸奥宗光』『上杉鷹山公』『雲井龍雄』『耶律楚材』『杉原千畝氏』『酒井玄蕃』を有名にした作家・長尾景虎』と呼ばれるかもしれない。そうなれば大河ドラマ化確実だ。

米沢市の為にも粉骨砕身するしかない。

次の大河ドラマは長尾景虎原作『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』

その次々回作大河ドラマは本書長尾景虎原作『昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代』か『燃ゆる落日 雲井龍雄と清河八郎物語とその時代』でお願いしたい。

長尾景虎としてのこの作品の執筆動機は、米沢市の『近代幕末維新時代の歴史上に埋もれた無名の『雲井龍雄』』庄内藩の『清河八郎』を世の中に知らしめる為に物語としての作品を執筆したい、という動機からである。

雲井龍雄は漢詩、詩吟のごく狭い世界で、詩吟の『棄児行』で、ほんの一部のひとに知られているだけである。

これだけの歴史上の偉人が、まるで存在していなかったように思われることの米沢市民としての私の「悔しさ」、は他の都道府県民に理解できるだろうか? 

また、そのような同じ気持ちで拙著『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』もものした。まだまだマイナーな存在である上杉鷹山公を世界中に「知らしめる」目的でものした。

拙著『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』は小説だが、本作は純文学小説ではなく歴史エンターテインメントの類である。ドラマ化劇画化の際には、ちゃんとした脚本家が必要になるだろう。

文学に純も不純もある訳ないが、私は正直『純文学』は大嫌いである。

雲井龍雄も清河八郎も上杉鷹山公も、司馬遼太郎さんや藤沢周平さんらが小説としてものしておられる。清河八郎と雲井龍雄の生涯を『小説』として楽しみたいのならこの私の作品と藤沢周平さん司馬遼太郎さん童門冬二さんの小説がおススメである。

だが、米沢市以外で雲井龍雄や上杉鷹山公はまだまだ無名に近い。

庄内地方での清河八郎も同じである。そこに私は雲井龍雄や清河八郎や鷹山公の大河ドラマ化の新鮮度・歴史的意味の可能性の高さをみる。

 驚くのは東京人とか関西人などに

「上杉鷹山公を知っていますか?」

「雲井龍雄や清河八郎を知っていますか?」と訊くと未だに八割は

「誰ですか? そのひと」と逆質問をされることだ。

さすがに『上杉謙信公』や『直江兼続公』『上杉景勝公』『前田慶次』のことは大河ドラマ『天地人』『天と地と』『かぶき者 慶次』『花の慶次(劇画・漫画)』でご存じの方が多くなった。

けれども鷹山公も雲井龍雄も『誰でも知っている』等とはまだいかず、米沢市で真剣に生きている私(著者・長尾景虎)は下唇を噛むしかない。

やはり『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』『昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代』『燃ゆる落日 雲井龍雄と清河八郎物語とその時代』はテレビドラマ(『上杉鷹山』公に関しては20年くらい前にNHKで単発テレビドラマ化された。

が、大河ドラマ『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』でなければ満足しない)、大河ドラマ、映画化映像化しなければ上杉鷹山公も雲井も清河八郎も浮かばれない。

 また同じように長尾 景虎が前田慶次の小説『絢爛たる慶次 -花の前田慶次郎烈伝―』をものしたのも同じ動機づけからだ。

漫画や劇画の『花の慶次』ドラマ『かぶき者 慶次』は知っていても「米沢市ってどこにあるんですか?」という人が多い以上、自称〝米沢市が生んだ天才・平成・令和の上杉謙信・上杉鷹山〝の長尾景虎が、米沢市繁栄と栄達の為に粉骨砕身するしか道がない。

米沢市の未来や観光産業や震災復興のために私が粉骨砕身する次第しか、他に道がない。

いずれは首長になり、米沢市を建て直す野望の長尾景虎の志、『上杉の城下町・米沢市への愛』が、この作品なのである。

                           おわり


<参考文献>

なお、この物語の参考文献は田宮友亀雄(たみやゆきお・雅号・賢山・監修「国士舘大学文学博士 安藤秀男」)著作『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』(遠藤書店・平成三年)、『回天の門』『雲奔る』藤沢周平著作、『荒ぶる波濤』『叛骨 陸奥宗光』津本陽著作、ウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』、他の複数の歴史文献。漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。参照です。

この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、池波正太郎著作、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、小林よしのり著作、池宮彰一郎著作、津本陽著作、日本テレビドラマ映像資料、NHK映像資料、大河ドラマ」、漫画、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、『雲奔る 小説・雲井龍雄』藤沢周平著作(中央文庫)、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。参照です。

<清河八郎 参考文献一覧>

清河八郎記念館

八郎の出身地である山形県東田川郡庄内町清川に、清河八郎の百年記念事業の一つとして建設された。八郎の書簡など遺品を展示している。

著作

『西遊草』 (若き日の旅日記、小山松勝一郎校注、岩波文庫)

『西遊草 清河八郎旅中記』 (小山松勝一郎編訳、平凡社東洋文庫) 抄訳版

関連文献

山路愛山編『清河八郎遺著』(民友社)1913年

大川周明『清河八郎』(行地社出版部)1927年

関連作品

小説

司馬遼太郎 「奇妙なり八郎」(『幕末』収録) 文藝春秋、1963年

柴田錬三郎 『清河八郎』 光風社、1963年

海音寺潮五郎 「清河八郎」(『幕末動乱の男たち(上)』収録) 新潮社、1968年

藤沢周平 『回天の門』 文藝春秋、1986年

漫画

手塚治虫 『陽だまりの樹』 小学館、1981-86年

小山ゆう 『お〜い!竜馬』 小学館、1986-96年

映像

映画

清川八郎 (1929年、河合映画製作社) 演:葉山純之輔

清川八郎 (1930年、東亜キネマ・京都撮影所) 演:青柳竜太郎

暗殺 (1964年、松竹) 演:丹波哲郎

燃えよ剣 (1966年、松竹) 演:天津敏

テレビドラマ

燃えよ剣 (1966年、東京12チャンネル) 演:城所英夫

燃えよ剣 (1970年、NET) 演:御木本伸介

勝海舟 (1974年、NHK大河ドラマ) 演:中丸忠雄

新選組始末記 (1977年、TBS) 演:中谷一郎

竜馬がゆく (1982年、テレビ東京) 演:橋爪功

必殺スペシャル・新春 大暴れ仕事人! 横浜異人屋敷の決闘 (1990年、ABC) 演:滝田栄

竜馬におまかせ! (1996年、日本テレビ) 演:西村雅彦

新選組! (2004年、NHK大河ドラマ) 演:白井晃

陽だまりの樹 (2012年、NHK) 演:土屋裕一

テレビアニメ

陽だまりの樹 (2002年、日本テレビ) 声:家中宏

関連項目

齋藤磯雄 - 八郎の実妹・辰(八郎の死後齋藤家を継承)の孫。仏文学者、明治大学教授。

柴田錬三郎 - 辰の孫・栄子(磯雄の姉)の夫。直木賞作家。

[雲井龍雄の参考文献]

• 角田恵重「片品村と雲井龍雄」(「片品の民族-群馬県民俗調査報告書」1960年)

• 安藤英男「雲井龍雄全集」1982年

• 安藤英男「雲井龍雄研究」明治書院

• 猪口篤志「日本漢詩新訳漢文大系」同上

• 童門冬二「雲井龍雄」新人物往来社

• 藤沢周平「雲奔る・小説雲井龍雄」文春文庫

• 安藤英男『雲井龍雄詩伝』(明治書院)

• 高島真『雲井龍雄 謀殺された志士 また蒼昊に訴えず』(歴史春秋社)

• 村上一郎「雲井竜雄の詩魂と反骨」(「ドキュメント日本人 第三巻 反逆者」(学芸書林)所収)

• 高木俊輔『それからの志士―もう一つの明治維新』(有斐閣選書)

• 夏堀正元『もう一つの維新』(東邦出版社)

• 吉川英治「明治秋風吟」(吉川英治全集第44巻(講談社)所収)

• 須藤澄夫『幕末残照 雲井龍雄との対話』(新人物往来社)

• 松本健一「遠山みどり伝」(「幕末畸人伝」(文藝春秋)所収)

• 八切止夫『明治奇談・爆裂お玉 雲井龍雄の妻』(昭和シェル出版)

• 田宮友亀雄『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』(遠藤書店)

• 雲井龍雄手抄『王陽明傳習録』(杉原夷山註解)(東京・千代田書房&大阪・杉本梁江堂)

• 有馬卓也「雲井龍雄研究序説 : 慷慨と隠逸をめぐって」(「徳島大学教養部紀要 人文・社会科学」 vol.28)

• 有馬卓也「自由民権運動下の雲井龍雄の一側面:『土陽新聞』記載記事をめぐって」(徳島大学国語国文學 vol.6. vol7)

• 山崎有恒「「公議」抽出機構と崩壊―公議所と集議院」(『幕末維新論集 六巻』(吉川弘文館)所収)

• 黒江一郎『安井息軒』(日向文庫刊行会)

• 鈴木富夫「知られざる英傑 「雲井龍雄」小伝 四幕」 (『戯曲春秋』第22号、2007年)




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小説 登り竜の如く<米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代 長尾龍虎 @garyou999

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